第26話『クロノスタシス②-疑問-』

 4月17日、日曜日。

 昨日、家に帰ってきてから、時折思い出すことがあります。

 昨日の帰りの途中。横断歩道で車に轢かれそうになった私を涼我君が抱き寄せて、車から庇ってくれたこと。あのときの涼我君の温もり、匂い、抱きしめる強さ。大丈夫かと訊いたときの優しそうな表情。それらのことを思い出す度にドキドキして、体がちょっと熱くなります。


 ただ、思い出すのはそれだけではありません。


 私を庇ってくれたとき、涼我君の呼吸が激しく乱れ、心臓の鼓動がかなり早くなっていたこと。体の小刻みな震えも感じました。普段、落ち着いていることが多い涼我君からは考えられない状態でした。

 それと、愛実ちゃんについても。私に大丈夫かと訊いたとき、目が見開き、顔には笑みが一切ありませんでした。

 涼我君と私が車に轢かれそうになったんです。2人がああいった反応を示すのは当然なのだと思います。


 でも、それだけではないような気がするんです。


 春休みに涼我君がアルバムを見せてくれたとき、中学2年の5月に涼我君が交通事故に遭い、それまで続けていた陸上を辞めたことを知りました。涼我君がそのことを話してくれたとき、愛実ちゃんはどこか元気がなさそうで。

 3年前に涼我君が遭った交通事故が、昨日の2人の反応に繋がっている気がするんです。3年前の事故で何があったのかが気になります。

 今日は午後に、愛実ちゃんと理沙ちゃんが私の家に来て、一緒に課題をしたり、ゆっくり過ごしたりする約束をしています。

 理沙ちゃんは涼我君と愛実ちゃんとは中学時代からの付き合い。しかも、当時から陸上部のマネージャー。事故について詳しく知っていると思います。

 今日の午後……3人で一緒にいるときに、3年前の交通事故について訊いてみることにしましょう。




「お邪魔します、あおいちゃん」

「お邪魔します」


 午後1時50分。

 愛実ちゃんと理沙ちゃんが家に遊びに来ました。午後2時頃に来る約束でしたが、ちょっと早めに会えて嬉しいです。愛実ちゃんはスラックスにTシャツでカーディガンを羽織り、理沙ちゃんはフレアスカートにカットソーという服装。2人ともよく似合っていて可愛いです。


「2人ともいらっしゃい」


 愛実ちゃんと理沙ちゃんに家に上がってもらいます。これが初めてではありませんが、東京に戻ってきてからできた友達が家に来ると嬉しい気持ちになります。

 理沙ちゃんは私の両親とまだ会ったことがないので、私の部屋に行く前にリビングへ行き、両親に挨拶しました。以前から、お花見したり、遊園地で遊んだりしたことを話していたので、お父さんもお母さんも「これからもあおいと仲良くしてね」と笑顔で言ってくれました。

 理沙ちゃんの挨拶が済んだところで、2人を私の部屋に通します。


「飲み物を持ってきますね。アイスティーでいいですか?」

「うん、いいよ、理沙ちゃん」

「お構いなく」

「では、持ってきますね。2人は適当にくつろいでいてください」


 私はそう言って、一旦部屋を出ます。

 1階のキッチンに降りて、私は3人分のアイスティーを淹れます。料理はそこまでできませんが、アイスティーを淹れることは普通にできますよ。まあ、いつも飲んでいますし、ティーパックですからね。

 3人分のアイスティーを淹れ終わったので、マグカップを乗せたトレーを持って私の部屋に持っていきます。


「お待たせしました」


 部屋に戻ると、2人はローテーブルの周りにあるクッションに座って談笑していました。2人の前と私が座る予定の場所の前にマグカップを置きます。


「みんなで取り組む課題は数学Ⅱとコミュニケーション英語Ⅱでしたね。どちらからやりましょうか?」


 トレーを勉強机に置いたとき、愛実ちゃんと理沙ちゃんにそう問いかけます。この2科目の課題は明日の授業で提出するので、みんなで取り組もうと決めたのです。


「そうね……時間割順で数学Ⅱから始めるのはどうかしら」

「それいいね。あおいちゃんはどう?」

「私もそれでかまいません。では、まずは数学Ⅱの課題からしましょうか」


 数学Ⅱの教科書とノート、課題プリント、筆記用具を持ってローテーブルの周りにあるクッションに座ります。ちなみに、2人が座っている位置は、愛実ちゃんは私の左斜め前、理沙ちゃんは私の正面です。

 愛実ちゃんと理沙ちゃんは私が淹れたアイスティーを一口飲みます。


「冷たくて美味しいね」

「美味しいわね。歩いてきたから冷たいのがとてもいいわ。ほんのり甘味もあるし」

「これから課題をしますからね。糖分があった方が脳にもいいですし、気持ちもリラックスできるかと思いまして。美味しいと思ってもらえて嬉しいです!」

「ありがとう、あおいちゃん」

「ありがとう、あおい」

「いえいえ。では、みんなで課題をやりましょう!」


 私達3人は数学Ⅱの課題を始めました。

 プリントをざっと見た感じでは……終盤の問題がちょっと難しそうですが、教科書やノートを見れば何とかなりそうです。今のところ、数学Ⅱはついていけていますし。ちなみに、数学Bの方はちょっと不安です。ベクトル難しい。

 愛実ちゃんと理沙ちゃんは、数学Ⅱは普通だそうです。ただ、愛実ちゃんは火曜日の授業で出た課題の一部が分からず、涼我君に教えてもらったとのこと。夜に寝間着姿で涼我君の家に行ったそうで、その話を聞いたときはドキドキしちゃいました。

 お二人曰く、涼我君はどの教科も結構成績がいいそうです。去年は学年トップテンに入ったときもあったとか。また、これまで課題や試験勉強ではたくさん教えてもらったみたいです。私はまだ教えてもらった経験はありませんが、これからはそういうことが何度もあるのでしょう。勉強もできて、喫茶店のバイトもちゃんとやって。涼我君はしっかりした人です。

 予想通り、終盤の問題はちょっと難しいです。私と愛実ちゃんは教科書やノートを見て自力で解きました。理沙ちゃんは質問してきたので、愛実ちゃんと一緒に教えました。

 次に、コミュニケーション英語Ⅱの課題プリントを。数学Ⅱに比べるとあまり多くなく、難しい問題は全然なかったのですぐに終わりました。


「これで、明日提出する課題は全部終わりましたね!」

「そうだね!」

「2人ともお疲れ様」


 明日までの課題が終わって気分スッキリです。アイスティーを一口飲むと……これまでよりも美味しく感じられますね。

 さてと。やるべきことは終わりましたし、そろそろ……中学時代の涼我君が遭った事故について訊いてみましょうか。でも、どう切り出せばいいか。ストレートに訊いてしまっていいものなのか。迷います。


「そういえば、昨日……2人は麻丘君と一緒にクリスの劇場版を観に行ったのよね」

「うん! とても面白かったよ。ね、あおいちゃん」

「……え、ええ。面白かったですね。ラブコメ要素が強く面白かったです」

「そうだったの。良かったわね」


 落ち着いた笑顔で理沙ちゃんはそう言いました。

 昨日のお出かけが話題になりました。いいですね。その帰りに私が轢かれそうになったんですから。この話の流れで、3年前の事故について訊いてみましょう。

 その後もクリスの劇場版や、ラーメンを食べたこと、アニメイクやレモンブックスに行ったこと、ゲームコーナーで遊んだことといった昨日のお出かけについて話が盛り上がります。愛実ちゃんは楽しそうに話していて。昨日はとても楽しめていたのだと窺えます。


「ゲームコーナーで遊んで、家に帰ったんだ」

「そうですね」


 ……今だ。今なら、自然と話せそう。緊張するけど……話しましょう。

 マグカップに残っていたアイスティーを全て飲み、長めに息を吐きます。


「……実はその帰りに、私……交差点で車に轢かれそうになったんです。そんな私を涼我君がとっさに抱き寄せて庇ってくれて」

「えっ! だ、大丈夫だったの?」


 驚いた様子の理沙ちゃんは少し大きめの声でそう問いかけます。いつも落ち着いていてクールなので、今の理沙ちゃんの反応は新鮮です。

 横断歩道の一件が話題に出たからか、愛実ちゃんの表情が曇っていきます。


「私はもちろん、涼我君も大丈夫でした。車が涼我君に接触しませんでしたから」

「良かった……」


 理沙ちゃんはほっと胸を撫で下ろし、アイスティーを一口飲みました。

 さあ、本当に訊きたいことを2人に訊きましょう。


「庇ったときの涼我君は私を強く抱きしめました。そのとき、彼の体が震えていました。心臓の激しい鼓動も伝わりました。冷や汗も出ていました。私が無事だと分かると凄く安心していました。愛実ちゃんも……それまでの笑顔が消えて、涼我君と私のことをじっと見ていました。それは私が轢かれそうになって、涼我君が庇ったからだけじゃないと思うんです」

「あ、あおいちゃん……」

「……3年前、涼我君が遭った交通事故が絡んでいると思うんです。私は涼我君が交通事故に遭ったこと。その事故で陸上を辞めたことしか知りません。私は涼我君に何があったのか知りたいです。愛実ちゃんは幼馴染ですし、理沙ちゃんは中学時代から陸上部のマネージャーです。お二人なら知っているかと思いまして。……もしよければ、私に教えてくれませんか? お願いします」


 愛実ちゃんと理沙ちゃんに向かって、深めに頭を下げます。

 もし、話すのが嫌だと言われたら、2人には無理して訊かないようにしましょう。後日、道本君に訊いてみるのがいいでしょうか。


「どうする? 愛実」

「……あのことは同じ中学出身の生徒なら知っている人が多いし、あおいちゃんはリョウ君の幼馴染。私は……話していいと思う」

「麻丘君の幼馴染だし、愛実と一緒にいるから、誰かに話される可能性はありそうだものね。それなら、あたし達から話す方がいいか……」


 小さな声で、愛実ちゃんと理沙ちゃんの会話が聞こえてきます。


「顔上げて、あおいちゃん」


 愛実ちゃんがそう言ってくれたので、私はゆっくりと顔を上げます。

 愛実ちゃんはしんみりとした様子で、理沙ちゃんは口角が僅かに上がっていましたが、真剣な様子で私のことを見ていました。


「……話すよ、あおいちゃん」

「あたしも話す。あたしは3年前の事故を目撃していたから」

「目撃……」


 理沙ちゃんは涼我君の遭った交通事故を目撃していたのですか。

 でも、理沙ちゃんは「あたしは」と言っていました。愛実ちゃんは事故を目撃しなかったのでしょうか。それとも――。


「3年前。リョウ君は猛スピードで走る車に轢かれて、両脚中心に大けがをしたの。横断歩道を渡り始めた私を助けてくれたから」

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