麹が死んで、一年後。
あれから夫はいなくなったままで、しばらくした頃離婚届が届いた。郵送で送られてきたそれは、無言のまま私に現実を突きつけているようだった。
麹のことが気がかりで、私は真実を探ろうと試みた。けれど社会への順応能力の低い私ができることなど限られていて、いくら調べようと思っても何も分からなかった。
「ねえ、麹。私は麹のことずっと考えていていいのかな。ダメなような気もするの。勝手に振っておいて、そんなのずるいって思うから。でも、忘れられなくて、私には今のところあなたしかいないみたい。もしかしたらあなたしか見ていないから、そうなってしまうのかも。ごめんね。」
最近の日課は近くの公園でベンチに腰を掛け一人ごちることだった。
恥ずかしい程に独り言を呟いているけれど、誰も聞く人はいない。そんな場所だった。
死んでしまった麹のことを思い浮かべ、一日を潰す。毎日毎日心が濁って死んでいくような感覚を抱く。
とても、苦しいのかもしれないと不安になることがあったが、でもその一瞬あとには全部忘れてしまう。
私はその繰り返しのうちに、狂っていくのだと感じている。
誰かが、答えを教えてくれたら楽なのに。誰に聞けばいいのかも分からない。麹はなぜ死んでしまったのか、教えてくれる人はいない。
絶望、この言葉が今の私の状況を物語っているように感じる。だっていつまでたっても頭の中は冴え渡らなくて、どうしようもない。
どうすればいいのだろう。誰か都合よく、教えてくれないかな。
不毛だと分かっていても、私は毎日そう考えながら手を合わせて祈る。そうしていれば、そうしている間だけは、私は救われているような気持ちになれるから。
寝癖がひどくていつもより数段遅く約束にたどり着いた。
まあ、別にそんなに急ぐことじゃないって分かってるけど、彼が早く来いと急かすから仕方が無い。
「久しぶり。」
ニカッと笑うその男は私の夫だ。
「久しぶり。最近お互い仕事が忙しくて全然会えてなかったね。元気にしてた?」
「何だよそれ。そんな犬に訊ねるような事夫に聞くなって。」
「だってホントに久しぶりだから。」
私たちの会話はいつもこんな感じだった。
つまり、私は夫のことが好きでは無かった。
いつもとぼけたようなセリフで相手を試す。そんなことをしているのだから、一目瞭然なはずなのに、夫は私を手放さない。
「じゃあそこのカフェでも行くか。桐。」
いつも夫婦だっていうのにこの男は外で会うことを望む。家ももちろんあるし、立派だ。私も彼も収入が安定しているし、水準は高いから。
事故で麹との縁も薄れ、というかそもそも私と麹は何でも無かったのだ。ただ、道子に執着していたから、だから麹のことが奪う程欲しくなってしまっただけ。最初は麹目当てで道子と知り合ったけれど、私にとっては道子の方が異次元だと言っていい程、特別だった。特別になってしまった。
だけどその彼女の心を飲む、麹。
嫉妬した。
私は、彼じゃなくて、道子が欲しかったのだ。
けれど、死んでしまった。
自殺だなんて、もしかして私のせい?そんなことをずっと考えていた。その考えは途切れなくて、私を丸っと包み込んでいた。包まれていた私は、もう溶けて無くなってしまいそうになっていた。
この男とは、もうそう遠くない未来に別れるのだろうと思っている。顔を見ただけで、彼もそう思っていることが見て取れる。しかしお互いが自分のことを慮った結果、まだだ、と言っていて、この何の実りもない無駄な生活を続けている。大人になって、良くなかったことって言ったらこれですと、はっきり告げてもいい程無駄に感じたし、心地が悪かった。
「はあ…。」
だから毎日ため息ばかりがこぼれていて、でも夫がいるところではそのような態度はとれないから、タイミングを見計らう。好きでもない人間の機嫌を取るために、家でまったりくつろぐ時間でさえ消耗していくことは、とても辛かった。
体調も悪くなって、ここ最近は便秘がひどくお腹が張って口の中が苦い。どんどん、私は醜くなっているようだった。
麹が死んで一年が経ったけれど、イマイチ実感が湧かない。
あの男が、死んでしまった。それも自殺という結果で、自殺って、そもそもどう断定するのだろう。きっと状況を見てそう判断するに至るのだろう。けれど、信じられない。私はあんなに道子のことを思っている麹が世界を捨てて死んでしまうなんて、思えなかった。
本当の愛、そんなものがあるとするのなら、それを知っているはずのあの人が道子を傷つけるような事はしないのではないかと思えてくる。だってあの状況で死ぬということは、私が伝えなくたっていずれ道子の耳には入るだろうし、彼女が傷つくということは想像に値する。
じゃあ、つまり、だから。きっと麹は自殺なんかしない。そう考えれば、私はすっきりとして眠ることができた。
だから麹が死んでからしばらくして、私の中では彼は他殺だということになっている。そう考えないと私のせいで死んでしまったと思えてならなくて、毎日眠ることすらロクにできない。仕事も手につかなくなって、今は閑職に追いやられている。まだ給料はあまり下がってはいないが、もうその内居場所はなくなってしまうのだろうと感じている。
「あれ?薬、どこだっけ?」
私は毎日服用している薬の場所が分からなかった。眠れなくて、処方されている量を大幅に超えて飲んでいた。だからだろう、ここ最近はいつも意識がもうろうとしている。この前、夫が青ざめた顔で私のほほを叩いていた。始めは何よ、と思ったが、夫の泣きそうな顔を見て気付いた。彼は私のことを心配していて、私は自分の状況がとてもヤバいっていうことに。
それから夫はますます私を避けるようになった。
触れば傷つく、そんな腫れものを触るような手触りで、私を避けた。
だけど、今日は約束がある。
ずっとしていたこと、私はドキドキして眠れない。いつもはモヤモヤと頭の中に霧がかかっているかのような感覚なのに、今はすごく興奮していた。子供の頃のような、嫌では無い感覚。ワクワクっていうのかな。
「久しぶり、桐。」
住宅街の中にポツンと佇んでいるその店に入ってきたのは、
「うん、道子。久しぶり。元気そうだね。」
道子だった。
麹が死んでから、私たちは少しだけ連絡を取り合っていた。道子が電話をよこしてくるから、私はそれに答えていた。
最近彼女は、いつもぐずりながら泣いている。前はもっと大人っぽい感じだったのに、今は私の方が格段年上なような感覚で、いつも道子をなだめている。
情緒不安定という言葉が、多分当てはまるのだと思う。
同じ麹の彼女だったけれど、私と道子とでは別物だったのだと思う。
つまり、麹は道子のことを愛していたのだ。本当は、私は最初から分かっていた。だから私は、その二人の邪魔をしてしまったことを分かっているから、道子と会うたびに胸がえぐれそうに痛むのだが、捨てることができない。
私が、何とかしなくてはいけないことなのだと思う。
「何か、桐大人になったね。」
「そう?出世したからかな。でももう最近は会社でも立場が無くて、嫌なことばっかりなのよ。」
「はは、でも桐は要領が良いから、きっとうまくできるよ。大丈夫。」
この何気ない会話が私にとっては救いになっていた。道子とただ笑い合って話せるということが、私を救う。
寝る前に、私は毎日祈るのだ。何に対してという訳ではない。ただ、手を合わせて思いついたことを唱える、それだけで今日一日の私が救われたような心地になる。
「あのね、聞いて。」
だから私は切り出す。
「麹が死んだのはね、本当はね。」
道子の顔が緊張の面持ちに変わり、場が凍り付く様子をじっとりと感じていた。
私はもっと早く切り出すべきだったのだ。
彼女に伝えるべきだったのだ。
麹の先輩に紫さんという男性がいたらしい。彼は女性にモテるタイプで、おかしくなってしまった奥さんに、そして昔からの知り合いで同僚に当たる女性に、殺されたという。理由はあいまいでわかっていないらしく、ただ女性関係がこじれたせいと断定されたらしい。
だけど噂によると、紫さんは二人を愛していたらしい。愛していた、ということで、私はそれを知って愛しているとは一体どういう状態のことを指すのだろうか知りたくなった。昔はこんな気持ちになることなんてなかったのに、最近はずっとそんなことばかりを頭の中で反芻させている。
「何?桐。言ってよ。私ちゃんと聞くから。」
道子は決心したようだった。多分分かっていたのだろう、そう思う。私が隠していることを、私が伝えないで眠らせればいいと決めつけていたことを、誰も救えるような結末ではないということを、全部。だからすごく怖い顔で、私はじっと見ている。私はだからズルリと床にへたり込んでしまいそうだった。けれど言わなくては、私は麹を殺していない。
麹を殺したのは、
本当は、
「…私?」
私。
そう、私。つまり、あなた。
「道子。道子。」
その瞬間、何が起ったのかは分からない。
私は記憶がもう無い。
怖くて、いやそんなことすら感じる時間は与えられていなかったのかもしれない。
とにかく、私は野田道子に殺されたらしい。
そして、水見桐は死んでしまったのだ。
ペタペタ…。
あの子がいけないんだと思う。私は悪くないはず、だって。麹のことを奪ったのは桐で、私はだから一人ぼっちになってしまって。
ここ最近は感情がうまくまとまらなくてすごく苦しい。頭はしっかりしているはずなのに、どこかが狂っている。それだけは分かる。とにかくおかしいって程グラグラと視界が揺れていて、でも私はまともだった。
「…はあ。疲れた。一日ずっと動いていたから。」
目の前に転がっているのは水見桐の死体だった。殴ったら、死んでしまった。でも私はずっと前から人など簡単に死んでしまうということを理解している。私が何か過ちを犯したというのなら、教えて欲しい。
手を、胸の前で組み伏せる。
「あの子が言っていた。こうやって、祈るのだと。ずっと不安定でおかしかったあの子がこの動作をするだけでずいぶんと神々しく見えていた。だからきっと、何か特別な効果でもあるのかと半信半疑で始めて見たの。私。」
誰に言うでもないんだけど、私には目の前に転がっているこの女にしか話をすることができない。
「私、もういい。もう辞めたい。私、眠りたいの。眠らせてください。眠らせてください。」
気が付けば朝だった。
いつから始めたのかすら全く頭の中には無い。けれど、私はどこかすっきりとしていて、ずっと取れていなかった睡眠を貪ることができたようだった。
「神様、神様?救ってくださってありがとうございます。」
皮肉めいたことを口の中で籠らせる。
もう何もない。
私には、何も残ってなどいなかったのだと気付いた。
彼女は一体…? @rabbit090
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