麹の訃報
眠れない。
いくら睡眠をとっても全く、眠った気がしていない。
その言葉は突然伝えられた。
私は新婚旅行に行っている最中で、でもなぜだか全く楽しくなくて、旦那の方も飽きているのか二日目にして完全別行動を決め込んだ。
きっと私たちはこれからもうまくいかないのだろう、そう思った。じゃあなぜ、私たちはそうでもなぜ、夫婦を続けようとするのか、最早理由は無く全てはどうでもいいことのように思えた。
一度入ってしまえば地獄、それはまさに今の私の状況を表してるような気がする。
「じゃあ、私ちょっと出るから。」
夫はゴロゴロとベッドの上でまどろんでいる。私は昨日彼と一緒に寝た。いや本当は結婚する前もずっと一緒に寝ていたのだけど、昨日はとにかく乱暴な扱いを受けた。これがコイツの本性かと思わせる様な暴力、そうだ、暴力。この言葉が全てを言い表していて、私はとにかく逃げ出したかった。
どこへ、そうか。
麹のいるところ。
新婦のくせに元カレのことばかり考えている私は、悪い人間なのだろう。しかしそれが私で、それも私なのだから、私は。
哲学のような問答をたまに繰り返してしまう。けれどいつも答えは見つからない。ただ手ごろな納得点にそれを持って行って、私はなぜだか満足できる。
何だろう、夫は一体何なのだろう。
この人は愛情とか、本気の恋みたいな物を経験したことが無いのかもしれない、もしくは手に入れることができなかったのかもしれない。じゃなかったら、多分はっきりと好きだとすら言えないような私と結婚することは無かったのだろう。つまり、私たちは絶望的に私たちでは無くて、ただただ不幸なのだと思う。
哀れで、どうしようもない。
だから結婚してしまったのだ。私たちは。
来たのは国内の温泉地で、やたら空いていた。
夫によると友達から今の時期はここが閑散期だからと言われて選んだらしい。空いている方が楽しめる、と豪語していたはずなのに、私も彼も全くと言っていい程楽しんでなどいなかった。
何か、楽しいことは無いのだろうか。そんなことを思いながら近くの牧場でアイスを食べている。私はただただ贅沢でなぜだかそんな自分がとても許せなかった。
もっと汚れてしまえばいい、もっと汚されて、ぐちゃぐちゃになってしまえばきっと楽なのに、と思っていた。
なぜだかは分からない、ただ私はいつも昔からそう思っていた。
「はあ…。」
ため息が漏れてしまった。
隣のカップルが嫌そうな視線を投げる。だけどもうどうでも良かった。なのに私はいそいそと場所を移動することに決めた。嫌がられるくらいなら、いなくなる。
これも私が昔から…
プルルル。
着信音が鳴り響く。わずらわしい程鳴りやまない。何だろう?少し不信すぎるくらい鳴りやまないその音に私は恐怖を感じ始めていた。
だけど、出なくては。そう思ってボタンを押す。
「はい、野田です。」
結婚したけれど、私はまだ旧姓のまま応答した。だって実感なんて湧かないし、とにかく夫の方も変えろと言ってこないし。
「あ、野田道子さんでいらっしゃいますか?」
若い女の声だった。接客が得意といった様子で、ハキハキとした喋り方をする女だなと感じた。
「実は水見さんから聞きまして、白井麹さんといった方とお知り合いだということで…。」
言葉を尻ごませて、彼女は言う。
「そうですが、何か?」
不安が胸を過り、言葉が揺れる。
私は今とても不安定なのだと、その時分かった。
「実は、その方が亡くなりまして。知らせる様にと伺ったんです。」
音が、止んだ。
一瞬、世界が止まった様な気がした。
気が付いたら、私は震えていた。
全身がぶるぶると、音を立てて震えていた。
どういうこと?
麹が?何で?
何で?
だから私は、私。どうすればいいんだっけ?
とにかく全身からじわりと染み出てくる冷たい汗をどうにかしなくてはいけないのだと思っていた。けれど一向に止まる気配はなく、気分がどんどん重くなっていく様を感じていた。そして気が付いたら私は卒倒していたのか、どこだか分からない部屋に寝かされていた。起きた瞬間は一体何なのだったっけ?と思っていたけれど、どんどん現実味を取り戻し始めていた。
麹が、そうだ。死んだのだ。
急いで携帯を探した。しかし私が起き上がったことに気付いたのか牧場の係りの者だと名乗る男性が心配そうに言葉をかけてくれた。
しかし私はもう大丈夫だと彼を振り切りその場を離れ走った。
夫のことが少し気がかりだったけれど、汗を流して走っている内に次第にどうでもよくなり始めていた。走って、走って、息を切らせても体の芯がムズムズとして気持ちが悪かった。
麹のことが気になって仕方が無かった。
電話があった大きい病院までは電車で一時間だった。タクシーを呼ぼうかと思ったが、電車の方が近い距離だったのでそちらを使うことにした。
「はあ、はあ…。」
駅からすぐ近くのその病院は、桐が入院していた場所だという。
私から麹を奪った桐は交通事故に遭い入院を余儀なくされたということを聞いた。
正直、胸は痛んだが私はいつまでたっても桐のことを綺麗に解釈することができない。もっと自由に彼女を受け入れられたらいいのに、できないのだ。
「道子。」
「桐。」
一見して弱っていることが見て取れた。元気そうにも見えるが、少し前の生意気さのようなものは消え失せていた。
私は少し、心が痛んだ。
「大丈夫?事故に遭ったって言ってたよね。ここまで出てきて平気?」
だからやっぱり優しい気づかいの言葉を私はこの女にかけてあげるのだ。
なぜだか可哀そうで仕方が無くて、母親のような気分になっているようだった。
「うん、平気。あの、麹のことだけど。」
「麹。どうしたの?」
「死んだの。ちょっと前にね、この病院に運ばれてきたの。あのね、あのね。驚かないで欲しいんだけど、自殺だったんだって。」
「…え?」
家に帰って自分のベッドの上に横になった。正確には夫婦のベッドだったのだが、夫は一緒に寝るのが煩わしいと早々に自分用の寝床を確保していた。
それは、近くのホテルだったのだけれど。
私は何も言えなかった。私に何かを言う理由がなぜだか見つからなくて、正直悲しくも悔しくなかった。どうでも良かった。
桐によると、麹は自宅で亡くなっていたらしい。睡眠薬を多量に飲み、その上酒をガバリと飲み干し素っ裸で寝ていたという。
死因は凍死だったが、結局はその状態になる様に自ら仕掛けた、自殺ということで話がまとまったということだ。
麹が自殺するなんて、思わなかった。そういう発想を実行するような風にはあまり見えなかった。けれど抱えているものがあることは分かっていて、それに押しつぶされたのなら、と考えるとどこかつじつまが合うような気もした。
自殺。自殺って何だろう。私は少し前に麹のことを手痛く振ったのだ。振ったというか、もう連絡しないでと言わんばかりに拒絶したのだった。自殺、自殺してしまった。なぜ?私が麹を振ったからかな。麹は私を見た途端に目の色がうるうるとしていた。分かっていた。好きな人を見つめる時に人間がする仕草、あのどぎまぎとした視線ははっきりとそれだった。
ごめん。
「ごめん麹…。」
はあ、はあ。息が、苦しい。何で?麹が死んじゃったなんて、おかしいじゃない。
私は、私が悪いのだろうか。そう考えると全てが私のせいであるように感じられていて、ああ、もういいや。
何か、何で私がこんなに苦しまなくてはいけないのだろう。でも、一番苦しかったのは自殺してしまった麹で、だから。
まとまらない考えが頭の中の主導権を握っていた。だから私はそのまま睡眠薬を飲み眠ろうと試みた。だって、眠れないから。
なぜかすごく疲れているはずなのに、目が冴える。
気が付くと涙が溢れていて、え?
「…お前、何してんだよ。」
あ、私。痛い。何があったんだっけ?
でも目の前にいるのは夫で、すごく怒っているようだった。
「何でいるの?ごめん、私が旅行中に抜け出したから?でもまだ一日もたってないよね。え?」
疑問だけが頭をかすめる。しかし夫の顔は収まらない。いつもの柔和な表情は最早そこにもう見受けられない。
この人は、だから誰なんだろう。
そんなことを思っていた。
つまり、私は麹の死を知って、ベッドの上で横になっていたら夫に頬を何度もはたかれたのだ。腫れあがっていて、今も引かない。痛くて、痛い。心も体もボロボロになった気分だった。すごく惨めで、嫌だった。
汚されてもいいと思っていたけれど、どうやら違ったのかもしれないと思い始めていた。私は、愛されたかったのだ。
夫はだから私を愛しているのだろうか。だって麹の元へと駆けて行った私をつなぎとめようとして怒っているのだろうから、そう考えれば夫は私のことを愛していて…。でも。
私はだから。
「痛い…。」
叩かれた場所が痛くて痛くて、恥ずかしくて、みじめで、私は私であることを許されていないのかもしれないのではないかと考えていた。
私は、夫を愛しているのだろうか。
夫は私を愛しているのだろうか、でも、こんな状況でそんなことがいえるのだろうか、もう全部、分からなかった。
グチャグチャになった日常は戻らなかった。私達夫婦はもう一緒にはいられないのだろう。夫は荷物をまとめてどこかへと去って行った。その時フッと強い香水の香りがしたから、女性の元へと向かうのかもしれないと思った。
でも、私はそんなことどうでも良かった。
今は、麹のことが先決で、それしか頭になかったのだから。
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