道子との再会

 「道子。」

 会えた。

 ずっと会いたかった彼女に、俺は出会えた。

 しかし、

 「ああ、麹。久しぶり。」

 帰ってきたのは想像をはるかに下回るそっけないセリフで、訳が分からなかった。


 数時間前、電話をもらった。

 桐からだった。

 内容は、ただ俺に謝って、だから道子に会いに行けということだった。何のことだかさっぱり分からなかったが、でも桐の言っていることは正しいことであるような気がして、俺は分かったと返事をする。

 桐はただ、ただ、泣いていた。

 しかしでも、いつものしとしとという様な暗さは無くどこかさっぱりと吹っ切れている様だった。

 なのに、やった会えた道子から出てきた言葉は、とても聞き入れられる様なものでは無かった。いや、本当はちゃんと分っているつもりだった。でも現実として受け入れるとなってしまうと、それはただただ難しいことだったのだ。


 「私ね、結婚したの。」

 冷たい顔をしてそう言い放つ。その顔はどこか余裕を持っていて、でもなぜだか浮かび上がる暗さと卑しさがあった。多分きっと、自分をささいなことで捨て去った俺に対して仕返しのような気持ちがあったのだろう。だからその言葉はひどく汚らしいような感じになっていた。

 「そうなんだ。」

 それしか言えなかった。けど、その時道子の顔はびくりと動き、そして俺から視線を逸らした。

 「そうなの、だからもう会えない。ごめんね。さよなら。」

 定型文のような別れのセリフを述べ、道子はその結婚したという相手の元へと帰って行ったようだった。

 というか、そもそもはずっとごたついていた会社でのいざこざがきれいさっぱり片付いてしまっていたから、そうして扉が開けた様に俺は道子への鍵を桐から手渡された。

 なぜだかは分からないが、物事というのは全てがつながっているのではないか、そう錯覚させてしまう様な感覚に陥っていた。

 そんな訳ないとは分かっているけれど、今の状況は正しくそれだったから。桐との関係が終わって、きれいさっぱり無くなってしまって道子との再会を果たせた。

 つまり、この再開は偶然では無く必然だということなのだろう。

 桐は、道子のことを知っていた。

 そして、道子は桐のことを知っていて、その上で俺との関係を終らせたということになる。じゃあ、俺はそれを知らないでただ浮かれて美人な桐にうつつを抜かして道子を捨てたということになってしまうから、そう思うと…。

 思考はぐるぐると悪い方向へとめぐって行った。しかし為す術は無くて、ただ現実を受け入れることしかできなかった。


 静かな足取りで部屋の中に入る。

 誰にも気づかれないようにこっそりと、息を殺す。

 シャアッ。

 カーテンをめくる音を響かせる。

 ここで、コイツに分からせないと、いけないから。俺が来たってこと、俺がどうしてきたのかってこと、お前がしでかしたことは何だって言い募ってやりたいこと、全部。

 「なあ、桐。教えてくれよ。どうして俺と道子の関係を知っているんだ?道子はもう俺とは違う人を見つけているってさ。なあ、どうして?なあ。」

 自分では思っているよりも重くドスの利いた声が広がっていて、少し怖かった。けれど、桐はその声にも震えもせず、驚きもせず、ただ見据えていた。

 うろたえて狼狽している俺とは対照的に、全てを分かったといったような澄ました顔で、俺を見つめていた。

 「急に入ってきてびっくりした。」

 態度とは裏腹な言葉が口からするりと現れる。しかし、

 「そう。それなら仕方ないよね。でも一応謝っておくわ、ごめんね。」

 そう言っていた。あまりにもとがっている冷たさで、そして内容の意味がいまいち掴めなかった。

 つまり、何が仕方無かったというのだろう。この女は、俺に何が仕方が無くて諦めろという様な事を言っているのか、おかしくて、だから分からなかったのだ。

 「…お前、最低だな。」

 出てきた言葉は強烈だった。

 他人に対してこれ程尖った物を突き刺したことは無く、どぎまぎとしていた。

 なのに、

 「だから、分かってるって。」

 全てを理解したような顔をしてさらりと躱していた。

 話は平行線のままで、一向に桐はなぜ道子のことを知っているのかということを教えてはくれなかった。

 ひとつ気になる点があるとするのなら、それはずっと目をあまり合わさないようにする桐の目が俺をじとりとした目で見つめていることだった。

 その目は恐ろしく、何かを捉えて離さないようにと意地を張る子供のようだった。

 「お前、何なんだよ。俺のことが好きだからって言ってただろ?道子と別れたタイミングで出会うなんておかしかったんだ。今思えば、お前は全部がおかしかった。理由もなくなぜか俺に付き合ってくれということも変だったし、そもそもお前は俺のことを嫌って当然なはず、なのに。」

 言葉はうまく形を保つことができず、うつろだった。

 だけど、

 「だから、そういうことだよ。私は仕組んだの。道子とあなたが別れることを、私とあなたが付き合うように仕向けたことも、全てね。」

 何も罪はないといった様子で彼女はそう言った。

 つい先ほどまで電話口で泣いていた桐はどこへ行ったのだろう。本当に、一体どこへ行ってしまったのだろうか。

 それ程、彼女は冷静だった。

 恐ろしい程に。


 「だから、白井君に全てを話すから。」

 数時間前桐はそう言った。

 私では手の施しようもなかった現実を、戻そうと提案していた。


 だけど、私にはもうすでに恋人がいた。そして、結婚している。麹のことを忘れようと必死だった。毎日必死に新しいことに挑戦して、充実を積み重ねてきた。そうしていれば私は麹のことを考えなくて済んだのだし、これからの何かが開けていくような感覚を抱いていた。

 そして、

 二か月前のことだった。

 同じ会社の男性に食事に誘われた。

 派遣社員だから正社員のその人とはあまりかかわりが無かったのだけれど、その人はあまりそういうしがらみをよく理解していないようだった。

 というか、介入しないように目をそらしていたように感じる。

 だから私はそういう人が嫌いで、都合よく見たくないものから目を背けるような人が嫌いで、でも私は彼のことが好きになってしまった。

 麹と別れてから初めてのことだった。

 はっきりと人を好きになるという感覚は、心地が良かった。私は、だからその瞬間だけは麹のことを考えずに済んだ。

 「道子さん、結婚してください。」

 さも当然といった雰囲気で彼はそう言った。

 まだ付き合って二か月だけど、私たちはもう結婚してもいいと思える程、深い仲だった。

 

 だけど。

 鉛のように沈殿する、一つの考え。

 夜眠る前にぼんやりと浮かぶ、麹との時間。

 幻のような幸福にめまいがしていた。

 一生の中であれ程幸せな時間はもうないように思える。だから、私はこのまま何となく好きなこの人と結婚していいのかどうか、分からなかったのだ。

 そう思っていたら、彼が抱きしめてくれた。

 いつもぼんやりと震えている私を力強く抱きしめてくれる彼が、だから私にはもうそれだけで良くて、それ以外は必要無かったのだった。

 私は、大好きなはずだった。出会った頃はあまり好感を持っていなかったが、だんだんと日増しに彼のことを考えるようになり、それが好きということなのだろうと断定し始めていた。しかし、私はずっと抱きしめられたかっただけなのかもしれない、とも思う。

 麹と一緒にいる時は触らなくても良かった、触れなくても良かった、ただいるだけでうれしかった。

 なのに、この人とは一緒に居る時も一人で過ごす時間も、ずっと抱きしめられることしか頭の中に残らなかった。だから、私の中でただ一つの本物だと思っていた麹との関係とあまりにもかけ離れているから、信用できない。

 この恋は、本物なのだろうか。

 

 「何思いつめてんの?」

 明るい声で彼が言う。もともとすごく能天気なのか神経質な私と違ってささいなことがあまり気にならないようだった。

 「ううん。」

 この前の返事、どう?と少し照れた顔で彼は言う。こういう所が胸に刺さった。飾り気のない言葉で私の心をスルっと通過してくる素直さ。どうしても、心地よかった。

 「あのさ、結婚の事ね。俺はすごく本気だから、すごく道子のことが好きだ。道子があまりいい家庭で育ったわけじゃなくて、すごく苦労してきたってこと、俺は分かってるから。だから、ずっと一人きりだった道子を救いたい、初めてそう思ったんだよ。」

 ドラマの中のセリフのようだった。

 彼は完全に酔っていた。

 しかし私はまだ没入することができない。彼と同じ温度で深みにはまっていくことを私の中の麹が許してくれないのだった。

 どうしよう。それだけが頭の中にこびりついて離れなかった。


 「結局結婚したのね。道子。」

 「………。」

 「黙ってないで答えてよ。わざわざ電話したのに、冷たい。」

 その声は甘えていた。いつもこの女は私に媚を売り甘えを押し付けてくる。だから、

 「冗談じゃないわ。私はあなたと話す必要なんかないの。なのになんで私の番号を知っているの?変えたのよ。」

 そう伝えた。この女はいつもストーカーのような手法を使い私へと迫ってくる。その執着がどこから湧き出てくるのか、本当に分からない。

 「はは。ひどいわね。でもそうね、道子に嫌われて当然だもの。私達、嫌い合っているけど、惹かれ合っているってことでもあるのだと思う。違う?」

 何も言い返せなかったけれど、当たっていると思った。私はどうしても、桐から抜け出すことができなかった。

 「それは、私はあなたのこと友達だと思ってた。普段とは違ってとても親しい関係になれていると思っていた。でも、あなたが全部壊したから、そうでしょ?」

 心の中からポロリとこぼれた本音は、少しだけ桐の何かを動かしたのだろうか。

 彼女は、「…そう。」と力無く言い残し電話を切った。

 私はなぜ彼女のことを甘く見てしまうのだろうか。それは、だから母親に似ているとは思っていた。私の母親はいつもどこか情緒不安定で、でもとても可憐な女だった。きっと男の心をくすぐるような甘いだみ声を出していたのだと思う。記憶はおぼろげであいまいだけど、桐と一緒に居るとビカリと昔のことが頭に浮かんだ。本当に昔の事なのに、私がまだ物心が定かでは無い頃の話なのに、不思議だった。

 そんなことをいつも考えさせられる。だから私はやっぱり桐のことが嫌いなのだと思う。

 そう、思い込んでいるのかもしれない。


 この前のプロポーズ、私は受け入れることにした。

 というかもうすでに私が答えを出す前に、彼の同僚も上司もみなそのことを知っていた。私は一瞬鳥肌が立って、でも彼の無邪気な笑顔を向けられるとそれもスルリと失せてしまった。

 消え失せてしまった、その警戒心と共に私は私の中に残る根強い不安を全て捨て去ってしまおうとぼんやり決意した。

 ぼんやりと、そのまま。


 「道子、ありがとう。」

 彼はそう言った。

 その夜私は、なぜだか風呂場で号泣していた。しかし、涙は塵のように消え去り、そのまま排水溝へと向かって行く。泣いていたことさえ誰にも知られず、私は嫁に行くのだ。

 たった一人で、家族という味方を携えることもできず、だから一人で。

 慣れているつもりだったけれど、やっぱり怖かった。

 一人は怖い、恐ろしい。泣きたい程、そう強く思っていた。

 風呂から上がった私を彼は抱きしめる。

 抱きしめていい?

 もはやそんなことを聞く必要など感じていないようだった。私と彼との距離感はもう無く、いや無理に取り払ったといってもいいのだろうか、私はいつもは安心しきっていた彼のハグを汚らわしいと初めて思ってしまった。

 その感情はなぜだかきっとこの先も消えることは無く残り続けるのだろうと予感させていた。何が私にそうさせるのかは分からなかったが、私はその彼の腕の中でただ。

 「麹、助けて。」

 と口を動かしていた。声には出さず、出せず。どうしてもそうなってしまうのだから辛かった。


 だから、私は麹と再会することになって戸惑った。けれどもう迷うことはできない。結婚という道を選んでしまって麹を傷付けたのだろうから、私は逃げられない。逃げ出したい全ての事柄から、手を引くことは許されないような気がしていた。

 「………。」

 帰り道、声が上手く出せなかった。というかなぜだか息が詰まってすごく苦しかったから泣くふりをしてそれを解消しようと試みた。

 しかし出てくるのは嗚咽だけで、なぜかまだ呼吸はうまくできていない。

 そして帰ってからやっと平静に戻れたと思っていたのに、今度は一睡もできなくなってしまった。すごく疲れていて眠りたいはずなのに、目だけが冴えて眠れなくなってしまった。

 私は麹のことを頭に浮かべ、また消す。

 恋愛初期のようなその状態を今更になって引きずり出されているようだった。とてもつらくて、耐え難い。

 私はただ眠りたかったのに、ただ眠りたいだけなのに。そう思いながらまた朝を迎えてしまった。

 朝になりとりあえず牛乳だけ飲んでおいて、そのまま出勤することにした。何も食べずにいると口の中が粘ついて気持ち悪いから私はそういう習慣を持っている。

 でも、今日はそれすらも飲むことができず、苦しい。

 苦しい、苦しい。助けて。何に対して、誰に対して、そう思っているのかは分からなかった。けれど、私はずっとその言葉を胸の内で呟き続けていた。

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