彼女は一体…?

@rabbit090

麹と道子

 照明が落とされた。

 今日このコンビニは閉店後に棚卸しをするらしい。だからいつもは24時間営業なのに、俺のメシを買いに来る貴重な場所なのに、何でだよ。

 困ったな。

 それがまず第一に思いつく言葉だった。

 現実の理不尽に苛立ちを覚えてもそれはすぐに消えてしまって、最早何事もなかったかのように俺は平静を取り戻し、絶望に浸っている。

 そうだ、常に俺が感じていることは、絶望なのかもしれない。

 そうだ、そうなのかもしれない。

 帰り道、アルバイトの帰り道にやたら高いテンションで歩いている俺を、横を通り過ぎるOLが奇妙な目で見つめ、去って行った。

 俺と目が合うと、その足はさらに速くなっていった。


 ドサッ。

 仕方が無いから遠回りをして違うコンビニへと寄った。あそこのコンビニは味がいまいちなのに、そう思いながらも俺は昼間引っ越し作業で疲れた肉体をいたわるように飯をほおばった。

 この瞬間だけが、今の俺にとっては救いなのだった。


 「麹。あんた、何してるの?それ、何が起こってるか、分かってる?」

 何か恐ろしいものを見たという顔で、俺を見つめている。

 彼女は、同級生の水見みずみさんだった。

 やたらと男子と仲が良いという性格の子で、俺にもそのままやたらと話しかけてきていた。

 俺は、何も思っていなかった。

 だけど、

 「俺、別に裸で川入ってるだけだけど…。ダメ?」

 「ダメに決まってるでしょ?何してるの?もう、キャー!」

 そう叫んで普段は男口調で語りかけてきていた彼女は完全に女子になっていた。

 俺は、何がいけないのか正直理解することができなかったのだが、あれだけの反応をされるということは自制しなくてはいけないことなのだと感じた。

 中学生だった俺は、何も分かっていなかった。

 だって俺の世界の中では裸で歩き回ることなど当たり前なのだったし、むしろ何かを恥ずかしいと思うことが全くできなかった。俺は、どんなに恥をかかされるというような出来事に遭遇しても、自分の心が痛むということが一切なかったのだ。

 だから、俺は誰からも相手にされなくなったのだと思う。

 そうやって周りの人間の輪の中かからはじき出されて行って、俺は一人になった。

 もちろん、家族はいたが、家族は、普通では無かったのだと今は思う。俺の両親は平凡なサラリーマンだ。しかし、飼ったペットの世話すらロクにせず、殺した。放っておいて、自然に死んでいった。だけど、彼らが捕まることなど無いのだったし、善人の顔を貼り付けながら社会の中で立ち働いているということを俺は知っている。

 だから、俺に対してもずっとそのような接し方をしてきていたのだし、だから俺は普通とは程遠い何かになってしまったのだと思う。

 高校を卒業し、大学生になり、俺は完全に孤独になった。人付き合いというものが、一切できなかったのだ。

 誰かに話しかけようと思っても、俺の中の厄介な自意識が激しく動き回って、うまく発音することができなかった。

 俺は、初めて深い絶望を味わったような気がした。

 「そんなこと、あるの?」

 この話を聞いた道子はそう言った。

 だから、「いや、本当だから。嘘なんてついてない。だいたい、嘘つく必要なんて俺には無いから、さ。」

 そう言ってやった。道子は、いつも好戦的な話し方をしてくるのだが、俺はそこが好きだった。

 「ふぅん。でも、そうだよね。麹、どっかちょっとぶっ飛んでるところあるもんね。」

 俺はその言葉に否定も肯定もしなかった。

 道子の言うはもっともで、俺は自分のことが得体が知れなさ過ぎて、恐ろしかった。

 でも、

 「だけどさ、道子だって変だろ?道子、25歳で清掃の仕事してて、何でそんなに若いのにってよく言われるんだろ?」

 道子は少し目を伏せ答えた。

 「まあね。でも、私はこの仕事しか続かないから。頑張ったけど、結局煙たがられるから女性に囲まれて働くことは出来ないの。迷惑だもん。」

 「迷惑って、そんな言い方するなよ。」

 「………。」

 道子は黙りこくっていた。

 だが、道子はそうなのだ。女性とうまくかかわることができない。俺はそんな職場の中で、道子と出会ったのだから。



 「野田さん。今日仕事終わったら一緒に酒飲まない?」

 だらしない髪の毛をしている男がそう言った。道子は、何も感じていないような顔で、ぼんやりとしている。

 「え、私…?何で?」

 その男は返答に困りまごついていた。

 そして、「いや、野田さん綺麗だから。大人しくてかわいいって、男性に人気だよ。知らなかった?」

 そう褒められているのに、彼女はすごく困った顔をしていた。

 「それって、冗談?」

 心のこもっていない空っぽな笑いのまま道子は下を向いていた。

 男は何だか対応に困ってしまったのか、どこかへと去って行った。

 そして、次の日には野田道子に対する評判がおそろしく鋭い悪意に包まれるようになった。

 それからしばらくして、彼女は仕事へ来なくなった。

 俺は、この会社でアルバイトとして働いていた。肉体労働しかこなせない俺は、営業の雑用係として配属されていた。実は、正社員になることができるという話で、俺ももう23歳で、後が無いのだから何かしなくてはと思い、この仕事を始めた。

 だけど、なぜ採用されたのか、入ってみて分かった。そこは分かりやすいブラック企業で、取引先へと重たい商材を運ばなくてはいけないのだが、ひょろりとした男ではとても持てない代物なのだ。だから、都合よく扱える人間を正社員登用という餌で釣ったのだと思う。

 俺の机は陸の孤島で、小学校の教室に置かれている個々人の机の方が豪華なのではないかと疑いたくなる程、粗末なものだった。

 つまり、俺は、俺も、だんだんその環境に耐えられなくなっていたのだ。

 何だか人権なんてたいそうな言葉じゃないけど、そういうものを体感として侵害されていると感じたのだから、きっとそれは生易なまやさしいものでは無いのだと思う。

 だってそれ以来俺はずっと落ち込み続けていて、自分が濁り切っていくことがはっきりと分かっていたから。

 

 そんな時、出会った。

 道子は退職願を提出しにきていた。

 俺はその現場に偶然居合わせていた。二人とも用件があるのは部長で、退職の意思を示しに行かなくてはならなかったから。

 「あれ、野田さん?」

 「あ、お久しぶりです。あの、私その…。」

 すごく言い淀んでいたけれど、俺には分かっていた。

 だから、「俺、退職願出すんです。あの、多分野田さんもですよね。」

 そうきっぱりと言っていた。俺はそれほど、高揚していた。毎日の落ち込みの中から出てきた、唯一の希望だったから。

 「え、まあ、そうなんです。分かっちゃってますよね。仕方ないですよ。私、何かよく人から嫌われるんです。特に女の子から、何コイツ?って目で見られるし、疲れちゃった。」

 そうすうっと話す野田さんからは自分と同じ匂いがした。何かを抱えている者の匂い。何かを抱えている、得体のしれないものを抱えざるを負えない、そんな苦しさの匂い。

 「じゃあ、ちゃちゃっと会社辞めて、この後お茶しない?」

 ずいぶん軽いセリフを口にしたものだと思う。だけど俺の心の中はそれ程キテいた。その高揚のまま、野田さんも何だか特に頭も働かせず分かったと告げた。


 「私達、大人だよ?」

 「でも、働いてないけどね。」

 「そうだけど、そうじゃないよ。働くつもりはあるけど、働けないだけだもん。」

 「まさしく、俺たちのことだ。」

 「馬鹿でしょ、白井さん!」

 だいぶ会話のテンポが噛み合いまくっている。

 俺たちは幼いころから姉弟であったかのように、打ち解けていた。

 そこから二人が恋人になるまでには、時間はかからなかった。


 「結婚しよう。道子。」

 付き合って月日が経ち、俺たちは25歳を迎えていた。同い年で仲が良かったから、それに道子の幼い雰囲気と俺の武骨な感じのせいでよく兄弟だと勘違いをされている。だけど訂正はせず、俺たちはただ笑っていた。

 はずなのに、「ごめん、無理。結婚したら麹に迷惑かけるの分かってるから。私は、悪い人間だから。無理、ごめん。ごめん。」

 思っていた現実とはかけ離れた事実に、俺は打ちのめされていた。

 告白、プロポーズをしたら抱きつかれて泣いてしまうのではないかと思っていたのに、あるのはただただ不穏なこの現実で、取り返しがつくのだろうかと妙に焦り始めていた。

 はあ、こんなことなら告白というか、まあプロポーズなんだけど、そんなことしない方が良かったのではないかと思えてくる。それ程、俺は動揺してしまっていた。

 確信を持っていたのだ。

 好きだと、大好きだ、と。

 今までに感じたことのない感情で、持て余すほど大きいものだった。だから、早く早くと急いで、道子にプロポーズをしてしまったのだ。

 出会ってから、ここまで来るのにたいした問題も、時間もかからなかった。だって、俺たちはただ吸い寄せられているかのようだったから。

 はずなのに、はずなのに、一体、道子はなぜこの提案を断るというのだろう。

 なぜ?

 「ごめんね。私、ずっと悪いなって思っていたけど、隠してることある。ていうか、言ってないことがあるの。だから、結婚は出来ない。」

 辛辣な言葉が、その場を締めくくり俺と道子は同棲を解消し、疎遠になった。

 「でも…、一緒にいたいって言うのは本当だから。麹がそれで別れるっていうなら、分かった。…ばいばい。」

 それが道子の最後の一言だった。

 俺には、ひどく重い言葉になっていて、今思えば、なぜ結婚できないのだからって、別れたのだろう。そんな疑問が毎日ぽっかりとした狭間はざまに浮かぶのだった。


 偶然とは歪なものだ。

 時折そんなことを思う。特に今日は、26歳になった俺は、相変わらず引っ越し業者のアルバイトとして勤務を続けていた。道子と住んでいた部屋は、もちろん解約している。

 というか、なぜだか思い出のようなものなのだろうか、そんなものが詰まっているような気がして、眠れなかったのだ。

 だから手間はかかるけど、思い切って引っ越しへと踏み切った。

 「久しぶり。覚えてる?」

 そう話しかけるのは、中学生の同級生。絶対に忘れられる訳がない。

 彼女は、水見桐みずみきりだ。

 俺の衝撃的な姿に、仰天していた女の子。すごく、女の子らしい女の子、とその当時に感じていたが、今の姿を見てなおさら思った。

 明るく染めた髪に、いい匂いのする全身、そして整ったルックス。

 だが、俺はこれだけ魅力的、だと思われるこの女に一切の感情も動かされなかった。

 なのに、「無言?アタシ、この会社に事務で入ったの。まさか白井君がいるなんて、驚いた。」と言い、笑っていた。

 俺は、だから、「いや、覚えてる。けど、だって水見さん。俺のこと嫌ってるんじゃないの?そんなにラフな感じで話しかけてくるから、逆に驚いたんだけど。」

 そう言って取り繕うしかなかった。

 とりわけ変だった俺の中学生時代を露骨に覚えているはずの女が急に現れ取り乱したということも大いにあったのだが、かなり多弁になっていたと思う。

 「うん…覚えてるけど。あの後、白井君はぶられてたし、ちょっと悪かったかなって思ってるから。驚いたけど、悪気はないようだったし、アタシその時白井君のこと好きだったし。」

 意外な告白に、文字通り目が丸くなっていた。

 そして、「白井君、ってよんでた?何か麹って呼び捨てにされてたような…。」そう言うと、彼女は黙ってうなずいた。

 「恥ずかしいじゃない、距離感も分からないし、だから苗字に君付けで呼んでるの。ていうか、あのさ、何で裸だったの?アタシがあの時白井君が行くって言ってた川についてったのがなんかダメだったのかなって思うんだけど、やっぱり、どうして?」

 水見さんの目は少し震えていた。

 彼女も、入社した会社にこのような変質者がいることに心を痛めているのかも知れない。だったら、申し訳ないなあ、なんて他人事のように思っている。俺は、悪い奴だ。

 「言っても理解されないと思うけど、俺の中ではいけないことじゃなかったんだ。俺が育ってきた家ではそんな恰好が当たり前で、悪いことだという認識が無かったし、そもそも服なんてロクに持っていなかった。父も母も、だって家にいることはほとんどなかったから。俺は、服を着ないことを変だとも思わず、ただ生きてた。今は…さすがに分かるけど。」

 言葉にしてみると、なかなかに理解不能だなと笑えてくる。

 だけど、俺にとってはそれが現実で、その中で毎日死に物狂いで生きていたことを同時に思い出す。

 「そう…なの?」

 彼女の瞳は、冷たかった。


 ああ、やらかした。

 もう、バイト先変えようかな。だってあの人とこれからも顔を合わせるなんて、耐えられない。きっと、あの人も耐えられないはず。

 だけど、保証人もいない俺にとってはこの職場から離れることはとても不安定な選択なのだった。だから、とても迷っていた。

 俺は、もう道子とも別れているし、新しい恋愛というものに進める気がしなかったのだ。別れて、すごくつらい日々が続いて、でもそれは俺が道子を拒絶したからであって、そうやって考えると、なぜ俺は道子を拒絶したのか、分からなかった。なぜ、道子を受け入れてやらなかったのだろう、なぜ受け入れることができなかったのだろう、そんな疑問が頭の中をかすめていた。

 覚えているのは、道子がプロポーズを断って、俺はショックを受けて、なら止めようと決意したことだけで、俺にとっては道子を結婚という形で独占できないのであったら、もういい、という判断なのだったと思う。

 だけど、今考えれば、なぜ俺はずっと一緒にいたいと思っていた道子に対してそのような感情を抱けたのか、分からない。

 分からないのに、俺はその意思を曲げなかった。曲げることができなかった。

 そうやって失ったものの代償がどれほど大きいもので、尊いものであったか、分かっているのにできなかった。

 だから、後悔しか残っておらず、それがまたさらに自分を苦しくさせていることがとてもつらかった。

 「いらしゃいませ。」

 「120円でございます。はい、頂戴致しました。ありがとうございます。」

 近所に最近、俺の行きつけのコンビニでは無く、弁当屋が一軒オープンした。そこは品ぞろえが良くて、うまいから。弁当は高いし、おにぎりだけ一つ毎日購入し、夜ご飯としている。

 26歳になって、話せる友はいないし、それがさらに俺を鬱屈させていた。だが、そんな毎日の中で、最近見つけたものがある。

 それは、自転車に乗ることだった。

 少し値が張るスポーツタイプのもので、とにかく速度が出るから常に車道を走っている。とても爽快で、気持ちが良かった。

 何もない俺でも、この瞬間だけは許されているような、そんなことを感じさせてくれる唯一の逃げ場だった。

 自転車って、楽しい。車の免許すら持っていなかった俺にとって、車道を走ることはこの上なく素晴らしいことのように感じられた。はっきり言って、大人になって良かったなと感じることができたのは、このことだけなのかもしれない。いや、恥ずかしいけれど。そんなことを薄っすら思っていた。

 そして、相変わらず友もおらず、ぼんやりと一人での生活をつないでいっていたのだが、道子のことも本当は毎日頭に浮かんできてしまうくらい執着してしまっていたのだが、すっかりと忘れてしまえる出来事があった。


 「白井君、付き合ってくれない?」

 突然の告白だった。

 相手は、まさか、あの水見桐。

 何で?俺のこと変態だって思っていただろう?なのに、なぜ?

 「は、何で?ごめん、理解できない。だって、水見さんって、俺のこと嫌っていただろう?ていうか、こんな裸になってたアホな男、冗談でしょ…?」

 俺の口から出てきた言葉はつっけんどんで、でもそれが真実を捉えているように思う。

 何で、おかしいだろう。

 「…私は、昔から白井君のことは好きだった。だからあの時のことは、白井君の裸を見てしまった時のことは正直トラウマだけど、元々悪い印象を持っていたわけじゃなかったから、驚いただけで、話が広がりすぎてしまっただけで、それで。」

 「それで?」

 俺は、続きが聞きたい。

 「それで…だから私、今知っている人の中で、白井君に一番好感を持っているから、お付き合いしてくれない?まじめな所が、好きなの。」

 俺は、言葉が紡げなかった。

 これ以上、何か言うべきことが思い当たらなかった。

 「ごめん、無理なら無理って言って。私、一人暮らしで、親とも疎遠だから、誰かと一緒に居たくて…それだけなの。」

 その言葉は、意外だった。ギャル然とした派手な水見さんが、そんな孤独を抱えていたなんて。それは、俺が抱えている類の物と、同じじゃないか。そう思ったから、

 「俺でいいなら、俺も水見さんのこと嫌いではないから。」

 はっきりと伝えてしまった。

 彼女は、少し安堵した顔を見せ、お互いよろしくお願いしますと顔を見合わせた。



 空には雲が広がっている。

 道子は、今どうしているのだろうか。

 頭に浮かぶのはそんなことだけだったのに、俺の横にはいつも桐がいた。 

 「何考えてるの?いつもぼうっとしてるよね。」

 桐は鋭い。人が何を考えているのか、言い当てることができる。これは想像とか、何となくなどでは無く、俺は毎回心の中を見透かされているのだから。

 「うん、ちょっとね。てか、こうやってベランダで寝るのは良いよな。」

 俺たちは今どきの覇気のないカップルだった。

 ベランダにベッドを置き、二人で休日にぼんやりと寝転がる。

 それだけで満足してしまえる、地味すぎる生活を続けていた。

 しかし、俺の中に眠るアクティブへの欲求は、自転車で他県まで飛ばすという行動で、誤魔化していた。

 桐は外に出ることを嫌がり、面倒くさがり、ずっと家に籠っていることをよしとしているから。

 今になって思うけど、この女は何かを抱えているような気がする。

 それは一体何だろう。こんなに長く一緒に居るのに、彼女はそれを微塵も表へとは出していない。ひたすらに、存在すら感じさせないように、潜り込ませているようだった。


 すごくクサい。

 この匂いが俺は嫌いだ。独特な、汚らしい汚臭。桐にそのことを伝えてみたら、別に?ラブホってこんなものでしょ、とあっけらかんだった。

 もしかしたら桐はラブホへよく通っているのかもしれない。だって俺はラブホ初体験が桐だったけれど、妙にこなれていたから。

 なんでコイツはこんなにも卓越しているんだ、それが初めて桐とベッドを共にした時の感想だった。

 「てかさ、気にしなくていいから。」

 「あ、うん。そうだな。」

 これは、最近桐が昇進したことを言っているのだろう。しかも、男性社会のこの会社で、まさかの課長代理だ。社史の中で、多分初。桐は会社の中でも一目置かれた存在で、とても感じの良い派手なルックスも幸いしているのだと思う。

 そして、俺は相変わらずのアルバイトで、一向に正社員などにはなれない。なぜだ、いや、分かってる。俺には正社員になる力量が無いってことは、きちんと分かってる。

 だから、なぜ桐は、俺を見捨てないのだろう。見限ってくれたら、俺は手放せるのに。ずっとそう思っていた。だって桐は会社に在籍する期間が長くなるごとに、男からの好意をざらっと浴びまくっていたのだから。

 だけど彼女はそれをサラッと流して俺の元へと帰ってくる。

 俺たちの間には強い感情は無かったし、それは愛情が多分無いというのと同じで、繋ぎ止める物の希薄さを象徴しているように思う。

 つまり、俺たちはいつでもすぐに離れてしまえるのだと俺は感じている。

 桐は、だから変な女だ。

 だけど、俺は彼女から言われない限り、ただただ傍にいる存在を、本能的に求めてしまうのだと思う。

 道子のことを思い出しながら、桐と付き合う。まあ、ロクでもないことなのに、続けてしまうから。

 

 引っ越しの仕事は、結構楽しくもある。

 時間が動いているだけで過ぎて行って、退屈だと思う暇がない。それはそれで、俺の性に合っていた。

 「おい、白井。」

 現場のリーダーの声だ。彼は正社員で、むらさきさんという。厳しい性格で、何人もの若手を辞めさせてきたが、なぜだか俺は嫌われず、むしろ好かれているとさえ感じている。

 「紫さん、何ですか?」

 現場の中で皆紫さんと関わり合いたくないから俺に全てのコミュニケーションを任せてしまっている。

 俺としては上司と関係が上手くいっているということはとてもありがたいことなのだが、紫さんはみんなから避けられていることを自覚しているはずだ。それなのに、全く気にする様子が無い。普通だったら居心地が悪くて苦しいはずなのに、平気なのだろうか?

 たまに俺は紫さんを見ながらこんなことを思う。

 「いやな、僕ちょっと出るから。今忙しい所で悪いけど、みんなにも伝えてくれないか?会社にはきちんと許可、取ってあるから。」

 なんだ突然、と疑問に思ったが、俺はその感想を飲みこんで早く終わらせなくてはいけない作業を急ピッチで進めていった。

 忙しくて、それ以上考えることは、無かった。


 「ねぇ、白井君。」

 「ごめんね、今日は一緒にいられない…仕事だから、ごめん。」

 最近桐はずっとこの調子だ。

 具体的に言うと、セックスレス。夫婦でもないただの恋人関係なのに、こんな言葉は変かもしれない。

 でも、「今度の週末、また遊べないの?」俺は桐に問いかけた。いくら何でも、3ヶ月もすれ違いまくっていたから、つい感情がこぼれてしまった。

 しかし、桐はこう言った。

 「ごめん、ごめん。すごく忙しいの、休めなくて…。」

 桐の顔は青ざめ、目の下にはクマができている。とてもじゃないが、俺のわがままなど伝えられない程だった。

 だから、「分かった。疲れてるんだろ?ゆっくり休めよ。」と言って電話を切った。

 俺達は、だから3ヶ月、直接会うことは無かったのだ。


 「え?紫さん、辞めたの?」

 朝いつも通り出勤すると、突然の報せが舞い込んだ。

 なぜ、そう思っていたら、「違うよ。あの人、クビになったらしいよ。この前早く仕事切り上げてたじゃない、怪しい、何かあると思ってたんだよ。」熟練のパート、田中さんがそう言っていた。

 俺はその言葉から、ああ、この人紫さんのこと嫌っていたんだな、と的外れなことに焦点を当てていた。

 昔からそうだった。いつも考えていることが現実の問題から逸れてしまうのだ。

 「ふーん…。」

 だからそんな気の抜けた言葉しか口から出てこなかった。

 

 それから職場の中の立ち位置が、目まぐるしく変遷していた。

 今まで紫さんからキツく当たられていた、例えば田中さんなんかはいつにも増して、強気な発言を繰り返していた。

 今までの理不尽な抑圧に対抗するように彼らは自らに優位になるようなポジションを獲得することに奔走しているようだった。

 彼等は紫さんに立ち向かえなかったからって、いなくなったらまた同じように誰かが強いという状況を作り出そうとしている。

 俺からしてみたら、やっぱりみんな身勝手だって、ただ思っている。

 同僚が解雇されたら、誰でもいいから連絡を取ればいいのに、そんなことに構う暇は無いようだった。

 今日は色々なことがあってやけに体が重たくて、苦しかった。

 誰かを失うということは、自分にとって身を引きちぎられる経験のはずなのに、俺は簡単に流せない。みんなは、どうなんだ?

 疑問になってずっと残り続ける重しとなった。


 「麹。お前、これから一人でやってくしかないんだ。俺が面倒を見てやれるのはこれまでで、だって俺は、もう死ぬのだから。」

 「嫌だ。俺、初めて知ったんだ。俺はおかしくないって、俺は悪くないって、君田きみたさんが教えてくれたんじゃないか。」

 小学生の頃だった。

 母の友人だという君田さんと出会ったのはその頃だった。ほとんど世話などされていない俺を抱きしめ、連れ出し、大事にしてくれる唯一の人だった。

 君田さんは、言った。

 「母さんのこと、恨むなよ。その分、俺が可愛がってやるから。」と。

 俺が両親から放置されている事を知って、君田さんは泣いていた。

 そして、「ホント、お前の母さんに似てるんだ。そっくりすぎるんだ。」と言いながら苦しそうに顔を歪めていた。

 たまに、思い出してしまう。

 人生の中で初めて愛されたのであろう、日々のことを。

 そしてその終わりの切なさと、苦しんでも苦しんでも消化できない思いの強さを、忘れることができないで今に至るから。

 

 朝から電話がしつこく鳴り響く。

 何だ?そう思いながら鳴り止まない電話へと足を運ぶ。

 「はい、白井です。」

 「…え?桐が?倒れたって?……。はい、すぐ伺います。」

 え、と思って、ずっとぼんやりとしていたのだと思う。

 病院の待合室で肩を揺すぶられながら俺はようやく現実に戻ってきたようだった。

 桐は、意識が無い。

 帰り道に事故に遭い、全身を強く打ち生死の境を彷徨うという程、負傷していた。

 俺は桐のことを大事に思っていたのだ。

 だってこんなにも取り乱しているのだから、俺は頭の中が上手くまとまらなかった。

 桐は、桐は。桐。

 俺は、その日はそのまま家へと向かって、眠り込んだ。眠り込んだはずなのに、体中は疲れ切っていて、やけに頭が重たく苦しい翌日を迎えていた。

 そして、桐はそのまま意識不明となり、ほとんど植物状態のような体で、生かされていた。顔からは、それが辛いのかどうなのか、全く把握することができなかったので、余計に病室へと足を運ぶことがためらわれた。

 だからもうここへは来ないことにしようと思い、俺は逃げた。


 しばらくして桐の母親から連絡がきた。

 あなたは、桐の何なんですかって。俺はその問いにあいまいに笑って答えるしかできなくて、もどかしい思いをした。だって、問われたって俺は桐と名前のある関係を結んではいなかったように思うから。

 恋人だと言い切るには恋愛感情がほとんど無く、友達というには関係が濃すぎたから。

 桐の母親は何かを言いたげな顔をしながら、言葉を噛み殺していた。悔しくて、たまらないといったその表情が俺を糾弾しているようでいたたまれなかった。

 だけどこの母親の様子から察するに、どこか不満げな感情を抱いている様子だった桐には、きちんと大事に思ってくれる人がいたのだな、ということがとても意外だった。桐は俺と同類で、誰かから深く愛されたことが無く、歪に拒絶された経験ばかりをため込んでいるのだと思っていたから。

 桐の不満げな目はそれを語っているように見えたのだった。

 じゃあ、桐は一体何が不満で、こんなどうしようもない好きでもない俺と一緒に居たのだろう、それが疑問として残って俺の中でうずくまり続けていた。


 もう忘れよう、そう思って桐の病院へは桐の母親がいないタイミングを見計らって行き、とんでもなく薄情な男だと烙印を押されていた。

 俺はそのモヤモヤとした思いをぶつけたくて、いや、消し去ってしまいたくて、仕事に没頭していた。

 仕事に没頭していると、体中が疲れているし、余計なことを考えなくて済んだから、それが良かった。

 しかし、ある日、これは何だ、と思う現実と巡り会ってしまった。

 「聞いてくれ。実は、うちの会社が紫さんに訴えられている。だから証拠を集めるために、会社に有利になるような証言を持っている奴がいたら協力してくれ。」

 そんな話だった。

 紫さんが会社を訴えている?紫さんはそうだ、何か不祥事があってクビになったのではないか、しかし現実はうろたえた顔で社内を徘徊する幹部たちの姿を見ているだけだった。きっと、何か会社にとってやましい事実があるのだろう、つまり。紫さんは勝っているということだ。会社を辞めさせられたのではなくて、何か、会社の悪い部分を社会へと訴えかけることのできた、そんな正義の人として生きているということなのだろう。

 紫さんが会社からいなくなって、高飛車になっていた田中さんなんかは、ずいぶんうろたえた顔で、紫さんと連絡を取ろうと何度も試みていた。しかし、紫さんは誰一人として連絡を取り合うということをせず、拒絶しているようだった。

 翌日、俺は新聞の記事を買い漁って、事態をなるべく把握しようと努めた。しかし、新聞よりも週刊誌の方がより黒々しい情報のオンパレードであったので、そちらを買うことに決めた。

 ああ、週刊誌ってこんなにも薄汚いのだな、と思った。誰かが誰かを当たり前の顔をして、責め立てている。だけど、この記事を書いた人間は、それを悪いことだと思っていないようだった。文章からはそう読み取れる。これだけ人を無責任にこき下ろしておいて、どうやって自分を正しい人間だと思い込めるのだろう、それだけが俺にとっては強く残る印象だった。

 「聞いたか?会社に勧告が出たんだ。違法な労働と理不尽な業務内容、残業代の無支給。うちの会社のことだ。みんな分かっていると思うが、これから業績は悪くなる。顧客は他社へと流れていくし、人を雇い続ける余裕もない。覚悟してくれ。」

 その後会社に行って、買った週刊誌をパラパラとめくっている内に、会社の幹部からそのような話があった。

 非常にせっぱづまった様子で、多分彼も責任を追及されて辞職などへと追い込まれるのだと思う。だけど、その前に俺たちに警告に来てくれたのか、それはありがたいことなのかどうかさえ、この状況の中では判断がつかなかった。

 世界は理不尽で、平等など一つもない。そんな分かり切ったことを、このような時には、いつも痛くなる程痛切に思ってしまうから。俺は弱い人間なのだとそれで再確認をする。


 はあ、疲れた。

 いつもの何倍も、仕事もあまりなかったのに、すごく疲れた。

 退社する時刻になって、仕事もないのだから当たり前のように早く帰宅することができそうだ。

 しかし、

 「なあ、白井。久しぶり。今時間あるか?」

 見知った声が降ってきた。上から響くこの声、紫さんだ。紫さんは身長が高くて、傍から見れば多分イケメンで、俺はすぐに顔を上へと向けた。

 「紫さん…。」

 口から出た言葉はそれだけで、それ以上の言葉を紡ぐことがとても難しく感じられた。

 「うん、悪いな。知ってると思うけど、俺今会社のこと訴えてる。だからきっとお前にも迷惑をかけていると思うし、ちょっと話したいことがあって、いいか?」

 良いも悪いも、俺には時間が有り余っていたし、でもどうすればいいのかは分からなかったから、とりあえず頷いてしまった。

 ああ、見られていなければいいな。もう会社からはだいぶ距離があるから大丈夫だろうか、だって見られたら俺は紫さんと連絡を取り合っている裏切り者になってしまうではないか、そんな、どうしようもないことが頭の中では渦巻いていて、そのおおもとである紫さんのことを少し睨みつけた。 

 しかし紫さんは目が合ったと思ったのか、いつも以上に爽やかな笑顔で笑いかけてきた。

 憔悴したようにほんのちょっと前より痩せているのに、なぜか表情は柔らかかった。それがすごく疑問で、俺は紫さんのあとについて一緒に公園へと向かった。

 この公園はいつも人通りが少なくて、だけどとても広く薄暗かった。住宅街の最中にあるのに、あまり良い印象が無いのか、家族連れの親子などはほとんど見かけなかった。しかし逆にそれを好むようなカップルが公然では見とがめられるようないちゃつきぶりを展開していることだってあったし、住む場所に困っているような人が誰にも見られないようにひっそりと隠れている場面を目撃したこともある。

 だから来たのはほとんど初めてで、中までしっかりと入ったのは初めてだった。

 「紫さん、紫さんがおっしゃるような場所ってここしか浮かばなくて、ごめんなさい。人がいなくて誰にも出くわさない場所なんて、ここしか浮かびませんでした。」

 俺は申し訳ないそぶりを繕いながら紫さんにそう言い、同時に顔色を窺った。

 この人は一体、今どういう心境で俺に会いたいと思っているのか、本当に計りかねていたから。

 そうしたらため息を一つついて、本当にわざとらしくついたというよりは、仕方なく出てしまったという体裁で、ふうと短く息を漏らした。

 紫さんは、「ああ、いやいいんだ。すごく落ち着いた。最近ずっと忙しくて眠れなかったんだ。僕は気が小さくて、嫌になるよ。それなのにこんなことしでかして、馬鹿らしいとしか思えないんだけどさ。」

 と言っていて、笑った。

 俺は、じゃあどうして、どうしてこんなことをするのかと問い詰めてやりたくなった。だって、俺に話があるということは、何か、思っていることがあって、それを俺に伝えたいってことなのじゃないか、と感じているから。

 言ってくれよ、そう思った。

 そしてそれが顔と態度で表現されていたのか、黙ったままの俺に彼は言った。

 「悪いとは思っている。ごめん。」

 そう言った顔は、すごく小さく、卑屈に笑っていた。それは紫さんの本性を表しているようだと、俺は思った。

 「あのな、僕がこんなことをしたのは、会社をクビになりかけたからなんだ。」

 「え?」

 「うん、そうなんだ。僕、パワハラで訴えられかけていて、それが女の子で、もうセクハラなのかパワハラなのかごちゃごちゃで、混乱していた。だからもうすごく焦って、今まで後輩にきつく当たってきたのは事実だけど、それは会社からの理不尽なノルマを達成させるためで、仕方なかったんだ。そう思っていたのに、セクハラなんてしていないのに、僕はすごく嫌われていたんだなあとその時初めて気づいた。なあ、白井も知っているだろう?でも僕は、気付かなかった。そんな単純なことに気付くことができない程、僕はおかしかった。だからそれが家族にばれる前に、僕は何かをしなくてはいけなかった。それで、そもそもの原因だと、会社を訴えることにしたんだ。そう決意したら味方になってくれる人の多さに唖然とした。こんなちっぽけな僕に、こんなに多くの人が関わって、助けてくれるだなんて、それは、本当にふざけていると思ったんだけどさ。ネタになるような話題にばかり人は群がって、本当に小さく苦しんでいる人の元へは誰も駆けつけない。だから逆に吹っ切れてしまって、どうでもいいっていう投げやりさが今の僕なんだと思う。それを、白井にだけは何か知って欲しかったんだ。何でだろう?」

 「……。」

 俺は、何も言えなかった。

 紫さんもそんな俺をもどかしいと思うことも無かったようだ。

 俺たちは、そのままそこで解散した。

 残ったのは消化不良の思いと、世間に対する薄ら寒さと、ただ誰かに温めて欲しいという根源的な欲求だけだった。


 紫さんと別れて、しばらくぼうっと街中を徘徊していた。

 普段は人ごみの中にいるとすごく苦しい気持ちになってしまうのに、今はただこの混雑の中に入れることが幸せだと感じられる。

 この雑踏の中で個性も何も無い、漠然とした人間というカテゴリーの中の一員として存在していられることが、俺をひどく安心させていた。

 「そんなこと言われたって…。」

 紫さんとの話し合いが終わってから、初めて言葉が口をついた。

 黙ったまま会釈だけをして解散して、俺は歩き出した。紫さんも薄ら笑いだけを浮かべて小さく手を振り、静かに去って行った。

 でも俺たちは、何だか波長が合っていたのかもしれないと今は思う。紫さんと一緒に居ると、些細なことも全く気にならない。彼が俺に対しては穏やかで、親しみやすい人だったからなのだと思っていたが、きっと逆なのだ。

 俺と紫さんはどうしようもなく波長が合ってしまうから、俺にだけは厳しい態度をとることができなかったのだと思う。そう考えると、なんだか今までの全てのことが馬鹿らしく思えてきた。

 人間は大きい問題を抱えているような気持ちになっていても、実際はほんの少しのことで解決してしまうようなことはたくさんあって、でもそれは簡単なはずなのに、とても難しいことなのだと思う。

 「道子。」

 ハッとした。

 ふとした瞬間に、道子のことを思い出すことは、幾度もあった。けれど、こんな街中で声に出してしまう程、あいつのことを自然に思い出してしまうことなどこれまでに一度も無かったのだから。

 一体、どこで何をしているのだろうか。

 あいつは、何を抱えていたのだろうか。

 それはずっと反芻してきた、道子に対する疑問だった。

 俺たちは、愛し合っていた。なのに、なぜ別れなくてはいけないのか、そんなどうしようもないことを、反芻しているのだった。

 結婚、結婚。

 そうだ、結婚だ。

 俺は、あいつのことを愛していた。なのに、俺の中で確固としてあった結婚という最大の愛情表現を拒絶されてしまった。

 それが、俺の中でくすぶっていて、消化できなくて、もどかしいことで、それで。

 頭の中は混乱していて、思考がうまくまとまらなかった。

 そのまま俺は、逃げるように家へと帰り、風呂にも入らず寝た。

 全てを、思い出してしまわないように、そう願っていた。


 「報告がある。」

 重々しい空気が会社全体を包んでいた。

 社内に響き渡るスピーカーを通して、その事実は伝えられた。

 「紫健吾君が、死んだ。昨日の夜、自殺を図ったらしい。」

 アルバイトの俺も、社員に交じってその放送を聞かされていた。とても大事なことだから、誰一人として聞き逃さないように、と伝えられていたからだった。

 ざわざわ。

 社内を妙なざわめきが包んでいる。

 しかし、仕事があるので俺たち実働部隊は即座に作業へと取り掛かる。

 誰一人、口をきくことは無かった。

 荷物をトラックに積みながら、俺は考えた。

 紫さんはなぜ、死んでしまったのか、そんなことを。

 ほんの数日前、俺と話していた人は本物だったのだろうか、そんなとんちんかんなことに俺の思考は逸れていた。逸れて、何かから逃れているように、どんどん別の方向へと進み始めていた。

 少しぼんやりとして、そんな時間は無かったんだけど、本当はもっと馬車馬のように働かなければノルマなどこなせるはずもなかったのだけれど、俺は手を止めて涙を流した。

 体が打ち震えて、自然とそのような格好になってしまった。

 悲しかったのだと気づく。俺は、俺を可愛がってくれた強そうで、でもはっきりと弱いあの人のことがすごく愛おしく感じられた。

 できることならもう一度、話がしたい、そう思った。


 あんなに波風が立ちまくっていた社内は、その出来事にリンクするように静まり返っていた。何ていうか、昔からの静寂を取り戻したというか、元々、平穏だった、と言わんばかりの顔をしながら皆懸命に働き詰めていた。

 少し変わったところがあるというのなら、とても口数が少なくなって、些細な雑談でさえ悪だと感じられる様な雰囲気が出来上がっていた。

 その雰囲気は、なぜだか薄ら寒く、でもとても息苦しいもののようだと、俺は感じていた。

 そして、「紫さん。」という名前は誰一人として口にすることは無くなっていた。

 その名前を口にすることは悪で、やってはいけないからしない、その様なルールを誰も何も口にしないでいるのに共有し、理解しているようだった。

 正しく、これが共通認識というやつなのか、なんてくだらないことを休憩中の俺はサイダーを飲みながらぼんやりデスクワークに励む同い年の男たちを眺めながら思った。

 「白井さん。」

 そして、変わったことと言えば、最近社内に知り合いができた。というか少し時間が合ったら飲みに行くような気楽な友達、そんなようなものなのだと思う。

 彼は、関谷という。

 関谷は30歳で、俺より少し年上に当たる、既婚者だ。もちろん社員で、だからこそ家庭を養えるのだけれども。

 しかし既婚者にしては派手で、いつも遊んでいるような風貌で、その調子のまま俺に飲み行かない?と語りかけてきて、それでそのまま思ったより馬が合ったのか俺たちはかなり親しくなっていた。

 「てか、関谷さん帰らなくていいの?奥さん、待ってない?怒ってるかもよ?」

 「そんな心配いらないから。てか何なら女房も飲み歩いてるはずだから、俺たちはそういう関係なの。」

 今日は一緒に居酒屋で飲んでいた。

 関谷さんはすぐに酔ってしまうから俺は結局彼を介抱しながらタクシーへと押し込む役目も担っている。

 「ごめん白井、気持ち悪い。」

 案の定今日もゲロゲロに酔っていて、俺がタクシーへと彼を乗せてそれでお開きとなった。

 そしてそんな夜にふと思い出すのは、いつも道子のことだった。

 会社ではとにかく忙しいから何も考える暇なんてないんだけど、ふっとした隙間に、いつも道子が現れる。そしてこんな苦しい出来事があった夜には、ぼうっと彼女の存在が浮かび上がってくるのだった。

 道子、俺は道子のことが忘れられない。

 きっとこの先もずっと、一生、どんな形であれ、残り続けることは確かなことなのだと感じている。


 そんな矢先だった。

 とても寝覚めの悪い朝だなと、布団の中でもぞもぞとしていたらその連絡は来た。

 「ああ、白井君?久しぶりです。あのね、桐が目覚めたの。ほとんど、奇跡よ。意識を取り戻したの、でね。あなたに会いたいって、言ってるの。」

 桐の母親からだった。俺を薄情者だと罵っていた時の強い怒りではなく、困惑と動揺が目いっぱいに広がり切った弱い、弱い声で俺に懇願した。

 「来てください。」

 もちろん、俺は病院へと向かった。

 桐が俺を呼んでいるというのなら、もちろん駆けつける。でも、桐はきっと俺が見舞いにもロクに来ず、ほったらかしていたことを分かっているはずだ。桐の母親は多分その様な人で、俺のことを敵だとみなし執拗に桐に別れろ、離れろ、と言っているはずだと思っている。いや、確信している。

 やっと、この病院の前までやって来れた。息を切らしながらずっと避けていたこの場所に、俺は呼ばれていた。少し鼓動が高鳴っているけれど、俺は最近の落ち込みようからあまりそのような感情の変化に敏感ではなくなっていた。

 「あの、水見さん病室はどこでしょうか。」

 受付の女性にそう尋ねる。俺の武骨で焦った様子を見て不審に思ったのか少し顔を歪めていたが、「白井です。」と後から名乗ると顔が綻んだ。きっと桐の母親が何か事前に俺が尋ねることを伝えていたのだと思う。

 「ああ、白井さんですね。聞いてますよ。病室は3階です。そこのエレベーターで上がられると早く到着しますので。」

 と言い、その場所を手で示した。

 「ありがとうございます。」

 何だか居心地が悪くて俺はすぐにその場を離れようと走った。病室に急いで向かうふりをして、俺はただいたたまれない状況から逃げ出しているようだった。

 

 「入ります。」

 静かに部屋をノックし、俺は中へと入った。少し前に見た桐の様子は、とても痛々しかった。体にはあまり傷が残らなかったようだが、それでも前身は包帯で包まれていて、苦しそうだった。

 あれから、どうなったのだろう。しばらく時間が経って、桐は少しでも元に戻れるようになったのだろうか。

 「ああ、入って。」

 桐の母親の声がする。少し、怒っているようだった。

 怖い。

 そう思いながら俺はかすかに手が震えている様子を感じながら扉へと手をかけた。静かに閉まるその様子が、とてもゆっくりとしているようだった。

 「久しぶり。」

 声がした。

 しかし、ずいぶん覇気が無く、しわがれているようだった。

 でも、これは。

 「桐。」

 「うん、元気だった?」

 意識が無かったと言う割には、はっきりとした言葉で話している。もしかしたら、もうずいぶん前に意識を取り戻していたのかもしれない、そう思った。俺は桐から逃れようとしていたから、実は本当は桐がどんな病状だったのかなど、知らなかったのだ。

 「元気。だけど、桐こそすごく元気になったよな。良かった。」

 「そう見える?私はまだ全身が痛いし、本当に毎日辛いんだけど。」

 にかっと笑って俺を見た。

 その目は、どこか鋭く強く、痛かった。

 そして、

 「あれ?こんなはずじゃなかったんだけど。」

 そう言って、桐は泣いてしまった。

 あまりにも泣き止まなくて、興奮していたため、母親からいったん帰ってくれないか、と丁重にお願いされた。

 でも、またこの日に尋ねてきてくれと、明確な約束を交わし、俺は病院を後にした。

 帰り道、俺は、道子のことばかり考えていた。

 申し訳ない程、俺は桐ではなく、道子のことで頭をいっぱいにして、余白を残さないようにしていて、それがすごく最低なことだと感じていた。


 仕事はいつもより早い時間から始まっていて、俺はここ最近の寝不足もあって上手く体が動かせなかった。だから仕方が無いからと休憩を取らせてもらって、控室でごろりと寝ころんでいた。

 そんな時、彼女はやってきた。

 「白井さん、いらっしゃいます?」

 はっきりとした口調でそう告げた女性は、俺と目が合うと笑いかけてくれた。

 「あなたね。良かった、一人で来て心細かったの。受付の女性がちょっと嫌そうにしてたけど、案内してくれたから。うん。思ったより良い人そう。私、まじめで武骨な人って、信頼できるって思ってるから。」

 「あの、あなたは?」

 心当たりがない。こんな風に気さくに話しかけてくるこの女性が誰なのか、全く見当がつかなかった。ただ、見た目はいかにも温厚そうな雰囲気で、美人ではないけれどモテるようなタイプなのかもしれないと思っていたから。

 そうしたら、彼女は告げた。

 「ああ、ごめんなさい。言ってなかったわね。」

 「私、紫健吾の妻なの。よろしくね。」

 あ、と思った。

 ああ、この人が紫さんの妻なのか、そう思った。

 紫さんは割とかなりのイケメンで、女性社員からは評判が良かった。(もちろん男性社員からは嫌われていたけれど。)だから紫さんが会社を告訴したという情報が出回った時には、彼女らの落胆した様子が見て取れた。

 この人は、一体なぜ俺を尋ねてきたのだろうか。

 表情からは、悲しんでいるのかどうなのか、一向に読み取れなかった。

 だが、ただ笑顔を作り、それを一生懸命俺に見せつけ、崩れることも無く話し続けていて、それが少し怖かったのだけれども。

 「あの、ご用件は…?伺ってもよろしいでしょうか。」

 会社の中なので、しかも初対面の女性を前にしているので、俺は出来るだけ強めの敬語を使うように努めた。

 「ああ、あのね。」

 彼女はそう切り出すと、

 「私ね。紫が死んで、健吾が死んじゃって、思ったの。この会社は良くないわ。必ず訴えてやるって。」

 端的に情報だけを伝えているといったような口調で、俺をその笑顔のまま見据えた。ぶるりと背筋が凍るようで、しばらく固まって動けなかった。

 「それって、どういうことですか?」

 やっと口にできた言葉はこれで、彼女はそれを聞いて、目を光らせた。

 「あなたに話したかったの。あなたは紫と親しかったらしいのね。だったら、協力してくれない?」

 「協力って、俺なんて何も無いロクでもない人間ですよ。だから…。」

 そう言い淀んだら、遮られた。

 「いいの。主人から聞いてるの。白井さんは自尊心が低いだけで、とてもいい奴で、まじめでしっかりした奴だってこと。」

 いきなりそう言われたから、正直少し照れていた。

 いや、そんなこと、何だか初めて言われた気がして、困る。そう思っていると、

 「だからね。お願い。この会社の不正を暴いて。」

 それが、彼女からのお願いだった。

 夫に先立たれて、きっとものすごく心細いだろう。それで、そんな発想になったのだろうか。

 「考えておいて、また聞きに来るから。よろしくお願いします。」

 彼女はそう言って、引き上げて行った。

 俺は決意を、意思を上手く示せないまま口ごもっていた。


 休日の朝、電話があった。

 「あ、私桐の母です。あのね、桐があなたと会う約束、してたと思うんだけど、今日にしてくれない?確か休みって言ってたわよね。」

 唐突だったけれど、俺は日程を早めて桐の元へと向かった。

 休みで暇だったし、やっぱり桐の様子も気になるし、そんな理由だったけれど、行ってみたら驚いた。

 桐は、すでに立ち上がることができるまでに回復していた。

 「え、もう立てるの。だってこの前までずっと寝てたじゃない。」

 そう言ったら、桐は、「うん。リハビリ頑張ったら、まだ痛いけど、平気みたい。平気になれたの。」そう言って笑った。

 はずなのに、また、次第に、

 「ごめん。なんだか最近、急に泣いちゃうの。ごめん。」

 と言って狼狽し始め、また桐の母親に帰ってくれと言われ、次に来る日にちを確約させられた。

 桐は、すごく様子がおかしい。

 そもそも事故に遭ったのだって、ぼうっと横断歩道が赤なのに、渡ってしまったからだという。桐は溌溂としていて、頭のいい女だから、あり得ないと思うような原因だと思った。

 だけど、その頃の桐はすごく忙しいと言い、俺の誘いをよく断っていたことを思い出す。どれ程、忙しかったのか。

 桐の母親は何も話そうとはしないし、痛ましい姿をしている彼女に、それを聞くことは出来ない。

 どうすれば、そう思った。


 紫さんの妻が駅前のカフェに現れた。

 すごく子気味のいい格好をしていて、清潔な印象を周りに与えていた。だから俺のようなモサい若造とこんな場所で話していて大丈夫なのだろうかと、少し心配してしまった。

 「あの、すみません。俺余り服持ってなくて、いつも作業着みたいなジャージしか着ていないんです。」

 申し訳なさが頂点に達し、つい口が滑った。

 「平気平気。気にしないで。私だってあまりお洒落じゃないのよ?地味だし。」

 彼女はそう言っていたずらっ子のような顔をして笑っていた。

 紫さんが妻子を大事にしているということは知っていたが、確かに。こんな素敵な女性なら、俺もきっと大事にするはず、そんなことを考えていた。

 「それで話っていうのはね。この前のお願いなんだけど、どう?」

 この前のお願いとは、紫さんの無念を晴らすために会社を訴えるということだろうか、それに俺も加担しろということだろうか、そう思った。

 「俺…会社は辞められないんです。人付き合いが苦手で、再就職も難しいから。」

 年上のこの人に、少し甘えたようなセリフを口にしていた。しかしそれは真実で、俺にとっては切実な問題だったのだ。

 「そう。でも…。」

 彼女はそう言いかけ、言い直した。

 「それは、大丈夫。私が、私友達多いの。だから探せば見つかると思うの、新しい職場。あなたはとてもまじめそうだもの。」

 「…はあ。」

 上手く相槌が打てなかったが、彼女は相変わらずの笑顔を崩していなかった。

 「紫はね。」

 突然、言った。

 「私は初恋の人で、最愛の人なの。だから、自殺だなんて、受け入れられない。私は、健吾を愛しているの。」

 それは、強い感情にまみれた本音のようだった。

 だけど俺は、愛しているという感情に、自信が無い。愛し合っているはずなのに、なぜ俺は道子と決別してしまったのだろう。分からなかった。

 会いたいと願うのは、いや、会えるかもしれないと信じて、その感情を捨てきれないのは、道子だけだった。

 今、どうしているのだろう。また何度も考えた問いを頭に浮かべてぼんやりと前を見つめていた。

 「じゃあね。」

 さっぱりとした言葉で彼女は言い切った。

 あれ程情念のこもった様な話をしていたのに、やっぱりこの人は大人で、切り替えが早くて、そう思った。

 「はい。あの、はっきりとは言えないんですが、俺も紫さんの、健吾さんの死因は何なのか、分からないから、少し会社の中で事情を知ってそうな人に話を聞いてみます。」

 そう言って、彼女とはその場で別れた。

 確かに、紫さんの死はあまりにも突然で、ショックが大きかったのだ。会社の中でも体調を崩して早退する奴もいたし、女子社員は泣いている子も見かけた。紫さんは会社に嫌われていて、でも好かれていた人でもあるのだなと、そう思った。

 そういう人はきっと、敵を作りやすいのだと思う。人からの視線を集め、人からの感情を吸い寄せてしまう。それは、辛いのかもしれない。

 俺とは対極なのではと思う紫さんの人生について考えるだけで、自分が何か惨めな存在になったような気分になっていた。

 

 なぜだかうまく起きれなくて、出費はかかるけど朝食にカフェでモーニングを食べることにした。

 カフェなんて行くような風貌ではないが、実はあの落ち着いた雰囲気が好きでよく通っていた。

 こうして気分のふさいでいる時にはだからカフェに行くことにしていた。

 「ご注文は何になさいます?」

 「えっと…モーニング。コーヒーはアイスで、お願いします。」

 店員は笑顔で俺の注文を受け取ってくれた。

 こういう接客というものは、ひどく大変なのではないかと、たまに思う。

 「お待たせいたしました。」

 そう言って彼女が運んできたものは、トーストとアイスコーヒーだった。

 「ありがとうございます。」

 「ごゆっくりどうぞ。」

 はあ、本当に癒される。

 この空間が俺は好きだった。

 「プルルルル…。」

 内線がかかってきた。

 俺はその瞬間、体が少し硬直することを、感じていた。

 朝食を食べすぐに会社へと向かった。

 そしてある人を呼び出してもらった。

 彼女は、紫さんの同期で、本社事務を務める総合職の女性だった。

 「ああ、えのきなら今いますから、変わりますね。」

 初老の男性が応対し、低い声の女性が交代して話し始めた。

 「ああ、あの。あなたが白井さんね。どうも。私、紫とは同期なの。てかどうして知ってるの?もしかしたら紫の奥さんに聞いたんでしょ。まあそうよね。分かった。少しだけ待って。お昼のランチでもご一緒させて。」

 そう言って、彼女は電話を切った。


 「どうも。」

 「よろしくお願いします。」

 俺たちは顔を見合わせ、ほほ笑んだ。あまりにも親しくなかったから、ただ微笑むことしかできなかった。

 しかし、

 「お時間割いていただいてありがとうございます。」

 「うん。白井さんって、ずいぶん若いのね。紫があなたのこと可愛がっていたって聞いたけど、分かるわ。あなた、紫が好きそうな雰囲気してるもの。あの人、私の後輩なんだけどね、でも同期入社で、でもね。私は世渡りが上手だったからすぐ昇進してしまったの。だけど、彼は。」

 彼は、紫さんはどうだというのだろう。続きが気になって、俺は榎さんという女性の顔を不躾にも睨みつけた。

 「はは、目つきキツイわよ。大丈夫、ちゃんと話すから。私もこの会社はおかしいって思ってるの。だから紫の奥さんには協力しようと思っているのよ。」

 「はい…。でも、だから。なぜ紫さんは死んでしまったのでしょうか。同期だったなら、立場のある人であるのなら、紫さんが会社からどのような圧力を受けていたのか、分かりますよね。」

 「………。」

 彼女は急に目を見据え、黙り込んだ。

 「…言うわ。」

 「私よ。私が追い込んだの、紫を死に追いやったのは、きっと私なのかもしれない。」

 「え…?」

 今日はもう帰ってもいいかと聞かれたので、俺はまだ話の続きを聞かなくてはいけないと思っていたけれど、一旦引き上げることにした。

 だって、彼女は泣いていたから。はっきりと泣いていたわけじゃない、ぼんやりと涙を目に浮かべているように見えた。

 

 その日の帰り、携帯に桐から電話があった。

 最近は桐の母親からしか受信しないから何だろうと訝しんでいたけれど、そこには昔のままの溌溂とした桐の声で留守電が入っていた。

 「明日、私もう歩けるから。いつもの場所で、待ち合わせしよう。時間はあなたの会社が終わった頃が良いと思うの。何かあったら連絡して。」

 ドキリとした。

 桐は、何かを抱えている。

 これは確実な事実だと思う。しかし桐の怪我はとてもじゃないが、数日で歩けるようになるものでは無かったように記憶している。

 つまり、桐は無理をしてでも、俺と二人きりになり話したいことがあるということだ。それは何だろう、それは何だろう。何度考えてもピンとくるものは一つも思い当たらなかった。


 「野田さん、もっと早くしてくれない?」

 ぴりついた声で誰かを責めている。

 いつもこの声を聞くと体が自然と硬直し、涙が出てきてしまうのだ。誰にもバレてはいけないから、私はそういう時、下を向いてうつむくのだった。

 「すみません。今日作業が多くて、でもやらなきゃいけないことばっかりだったから、終わりませんでした。」

 正直に話せば皆理解してくれる。しかしそれは無理な話だ。私と、他人は違う。他人と私はもちろん違っているのだから、きっとずっと分かり合えない。

 分かり合う必要はないのだと思う。ただ、でも。

 「それ、言い訳でしょ?あなた、仕事遅いのよ。やることとやらないこと、きちんと頭で考えて、区別しなさい。」

 知ったような言葉を吐くな、と感じた。どこかで聞いたセリフ、ありきたりでつまらない。そんなこと。 

 私は、今とても幸せじゃない。

 昔好きだった麹という男と別れてから、感情が安定しない。依存していたのだと思う。私には自分を支えられるものが他人しかいなくて、他人から与えられる愛情しか無くて、だからきっと何事も上手くいかないのかもしれない。

 昔から、不安だった。

 私はどこかがおかしくて、誰とも上手に関係を築くことができないのだと、思い込んでいた。

 しかし、麹と別れてから私は不安定な自分を立て直すために一念発起して再就職を試みた。それまで清掃のバイトでだらりとつないでいたけれど、そうだ、まだ若いのだから事務の仕事でもやってみようか、そう思った。

 そうしたら案外物事は私の予想をはるかに超えてトントン拍子で進んでいき、正社員ではないが派遣社員として大きな会社の事務を任されることになった。

 割と派遣社員にしては責任の重い仕事を任されていて、働きも良いからとしばらくしたら正社員にならないかという話を頂いている。

 どうしよう、ずっとそればかりが頭を過っていた。

 私の根本的な自尊心の低さが、いつまでこう上手く物事が運んでいくのかと疑い始めていて、素直に受け取ることなどできなかった。

 そんなときいつも頭の中に浮かび上がるのは、麹のことだった。

 会いたい、いや、会いたくはない、けれど、忘れられない。

 この気持ちは一体何なのだろう、私にはいまいち理解することができなかった。


 近くのスーパーで卵と米を買う。

 これさえあれば、私は死なない。

 今日一日あったことを思い出す。

 今までうまくいっていたのに、同じ派遣社員で先輩の女性にひどく叱られていた。

 彼女はもうすぐ派遣切りに合うという。

 そんな現実が混在する今の職場はとても歪だった。

 その女性はもちろん仕事ができないというわけではない。ただ、性格がきつくて(直属の上司がそう思っていて)切られるという噂を聞いた。

 そんなの、そんなの。おかしい。

 だから私はただ黙って何も言えずに彼女の説教を聞くことしかできなかった。それが仕事を教えてくれた彼女に対する最大限の礼儀だと思ったから。

 麹と別れたのは、理由があるのだ。

 それは、桐という女の子のせい。

 私は彼女のことを甘やかすことしかできないし、優しくしてあげることしか選択できない。私と桐の関係は絶対的にそのようなものだったのだから。

 「別に、もういい。道子がそんなこと言うんだったら、もう知らないから。」

 桐の怒った声、私の体の奥深くにいつも眠っている。消そうとしても、決して消えてはくれないのだった。それは、とても苦しいことなのに、どうして。

 

 桐と知り合ったのは麹と付き合っている頃だった。

 ある日、声をかけられた。

 「もしかして、あの人の彼女?」

 目を丸々とさせてどぎまぎとした笑顔で見つめてくる彼女はとても幼く見えた。しかし年齢は私とそう変わらないだろう、そう思わせる雰囲気がきちんと備わっていた。

 「そう…ですけど。あの人のことご存知なんですか?」

 不審に思ったけれど、とても自然な様子で話しかけられたからとりあえずそう答えてしまった。

 しかし、

 「一応、知り合いなんです。中学生の頃の同級生で、彼は私のこと覚えてないかもしれないけど。」

 そんな昔の知り合いなのかと唖然とした。

 そもそもそんな昔で親しいわけでもなかったようなのに、25歳になった麹を見分けることがなぜできたのかと当然思った。

 のに、「変でしょ?」彼女はそう言った。

 その時に笑っている顔が、母と重なった。

 母は、私の母親は私の世話をほとんどすべて放棄していた。だから私もそういう感じで特に何も欲しがらず何も欲張らず、欲があるということにすら気付かないように、生きていた。

 母はとても魅力的な人で、笑った顔が美しかった。花が咲いたような優しい、そして少し困ったような感じのほほ笑み、それがとても良くて、だから男性を寄せ付けた。

 男性はとにかく母を甘やかしていた。

 わがままな母を、どんどん堕落へと導いていったのだった。

 

 そして、気が付けばある日。母は帰ってこなかった。

 「お母さん。」

 父親のいない私が7歳の時、そんなに好きでもなかった母親だったけれど、私は一日中号泣しながら意識を失ってしまった。

 それからの記憶はあいまいで、気付けば施設で育つことになっていた。

 小学校から高校まで、私は順調に誰とも上手く関われずに生きてしまった。そのせいでロクに仕事も見つからず、いつも絶望していた。

 自分を絶望から救ってくれる存在など、意識したことすらなかった。

 のに、麹が私を救ってくれた。

 何に対しても何も思うことのできなかった私に、感情をくれたのだと思う。

 それからの私は自分のやってみたいことというものを人生で初めて認識し、未来が開けていく感覚を瑞々しく痛感していた。

 

 でも、麹に振られた。

 私は麹が好きだった、はずなのに。麹も私のことが好きだった、はずなのに。

 ある日、桐が言った。

 「ごめんね。私、麹と付き合うことになったから。連絡はもうしない方が良いよね。だって元カノじゃない、道子は。だから気まずいでしょ?」

 この状況をどうにか打開したかった。けれど、私にはただただどうすればいいのか分からない沼のような重みが体中にのしかかってくるだけだった。

 そうだ、分からないのならば眠ってしまえばいい。

 そう考えてお酒をグイグイと飲み干した。

 麹と付き合っている頃までは全く飲めなかったのに、今は毎日ウイスキーを氷で割って飲み干す。

 喉はじりじりと痛み胃はギリギリと震えている。

 私は、気が付けば眠ってしまっていた。

 良かった、そう思って。

 

 今日はついに派遣先の先輩轟とどろきさんの契約終了の日だ。もう年齢が30代後半にさしかかる彼女は次の派遣先に困っているらしい、その様な噂を正社員の噂好きな女性から聞かされた。

 笑って愛想を打てばよかったのだが、同じ派遣社員である私がそれを飲み干すために轟さんをあざ笑うことは、出来なかった。

 だから少し、その人に嫌な顔をされ、ああ、悪口が社内に広まっていなければいいな。広まっていたらきっと、私の派遣契約ももろく崩れ去ってしまうだろう、そう思っていた。

 「皆さん、ありがとうございました。」

 轟さんが終わりのあいさつをする。

 私をずっといびってきた轟さん、でも私はあまり恨んではいない。だって私には誰かに侵害されない場所があるから。自分だけが見れる場所で、自分だけが満足できる場所。他人の介在を決して許さない。そのような場所を、作った。

 社会は、その位私のような人間には苦しく耐え難いものだったから。

 「あの、ありがとうございました。仕事を一杯教えてもらったし、怒られたこともあるけれど、感謝してます。すごく。」

 本音だった。社員が轟さんのあいさつを白々しい顔をして聞いているのを横目に、私は轟さんに話しかけた。

 精一杯、労いたかった。

 同じ派遣社員として、同じ苦しみを持つものとして、どうしても伝えたかったのだ。

 それが通じたのか、

 「うん、ありがとう。本当はね、いつもあなたのこといびってたんだけど、私はあなたのこと嫌いじゃなかった。だから、ごめんね。それだけは言いたくて、聞いてくれてありがとう。」

 社員はほとんどもう自分の仕事へと戻っていた。誰の関心も轟さんへと向かないまま、彼女は涙を流していた。

 私はだから、一緒に少しだけ泣いてしまった。

 寂しい、そして悔しい。

 社会は、いつも理不尽に満ち溢れていて、でもそれを作り出しているのは善良な私たち自身なのだから、きっと、どうしようもないはず。でも、

 「また、何かあったら連絡してください。最後だけど、もし良かったら連絡先教えてください。今度飲みにでも行きましょうよ。」

 弾みでぽろぽろと自分には似つかわしくないセリフが口をついて出ていた。

 そうしたら、彼女はうん、と笑って微笑みかけてくれた。

 ああ、この人は本当はこんなにも素敵で優しい人なのかと、胸があったかくなることを感じた。

 そして、私は、私たちはお互いの幸せを存分に祈り合って、別れた。

 笑って別れることができるのは、とても幸せなことだ。

 私の中でずっとくすぶっていた思いは、麹との別れだったのだから。あの時の何とも言えない苦しさ、麹の告白にすら答えることのできなかった浅はかさ、そして桐に奪われたであろう幸せ。

 思い返してみればどれも、どれも取り返しがつかないことばかりだった。けれどきっと私はやり直しても、また同じ道をたどってしまうのだろうと分かっている。


 「道子。」

 ぴょこんと後ろに現れた。彼女は最近親しくしている女の子だ。というか、彼女がすごくマメに遊ぼうと言ってくるから、そして彼女が私の母親に似ているから、つい関心が向かってしまう。血のつながりというものは、やっぱりあるのだと痛く感じ取っていた。

 しかし桐は血は繋がっていない。のになぜか、私は放っておくことができない。

 甘えられたら甘やかしてあげなくてはいけないと思うし、救ってあげなくてはいけないと感じてしまう。

 だから少し、友達に思うには卑しいことだけど、私は彼女が苦手だった。

 「道子、って呼んでいい?私のことは桐でいいよ。」

 「え?もう呼んでなかった?この前も呼んでって言ってたよ?」

 「あれそうだっけ?ごめん、私忘れっぽくて。」

 桐は不思議な子だ。

 とても魅力的なはずなのに、どこかとても抜けきっている何かを感じる。それが透明感のようなものになって、男性を引き付けているように感じる。

 「それでね、また会社の人に居酒屋誘われたりして、嫌なんだよね。私、男の人が苦手なの。」

 桐はそう言った。

 しかし、

 「うん。でも大変だよね。だって桐、男性にモテるじゃん。多分、桐が魅力的だからなんだろうけど。」

 率直にそう思っていた。

 桐は男性を恐いと思い、しかし異性は桐を放ってはおかなかった。

 だから、「でもそんなに恐いなら、嫌なときは私を呼んでよ。適当に帰れるように手伝うからさ。」

 私はそう言って、桐を慰めた。

 桐は、初めての親友だった。大人になってから、私は人と上手く関わることができなかった。そもそも関わる機会があまり無くて、でもどうすればいいのか分からなくて、苦しかった。

 そんな私だから、なぜか突然できた友人の存在が実は疑わしかったのだけど、でも一緒に居るとそんなことを全て蹴散らしてしまえる程、桐はおかしな女だった。

 だから、分かってた。

 何か目的があるってことくらい。


 私から麹を奪い取ることが目的だったことくらい、そんなのはっきりと分かり切っていた。

 「あ、白井君だ。」

 あ、私もそう思った。

 桐は白井君とは会いたくないとはっきりと告げた。理由は?と当然尋ねた。しかし桐は何も言わずただ下を向いていた。

 その様子はもちろん不自然だったし、じゃあ何でその白井君の彼女である私に話しかけてきたのか、ということもおかしかったし、でも私は桐から、桐のその刺すような甘やかさを持った視線から逃れることができなかった。

 「行ってきなよ。私はもう帰るから。」

 ただ、そう言っていた。彼女である私が麹に話しかけていくのは当然のことなのに、なぜかそう言っていた。

 私は、逃れられないのに桐がとても嫌いだった。

 次の日、桐が私の家の前に現れた。

 「え、何で家知ってるの?」

 私は彼女に自分の住所を教えたつもりはない。はずなのに、なぜ。

 「ごめんこの前帰り道重なってたからついてきちゃった。その時に知ったの、ごめんね。」

 悪気のない様子でぽっかりとそう言いのけた。

 その潔さに私は何も反論することができなかった。

 「じゃあ、分かった。今日は寒いし、上がって。どうぞ。」

 もう訳が分からなかったけれど、とにかく家へと入らせてこの玄関で起こった事を忘れたかった。凍り付いた空気を、少しでも溶かしたかったのだ。

 飲もうと思っていたコーヒーをミルクと砂糖で薄め桐に出した。そしたらお腹が空いた猫のように一生懸命に飲んでいた。

 「桐、猫舌なの?」

 とても熱そうな様子で飲んでいたからついそう聞いてしまった。

 「うん…微妙。もしかしたらそうかも。熱いのすぐに飲めなくて、やけどしちゃうから。」

 「じゃあ、多分猫舌だね。」

 他愛ない話だ。

 私はこんな他愛ない話しかすることができない。核心に触れることができない。真実に迫ることが、とても恐ろしかった。

 失いたくない、大人になって初めてできた親友。そして私の母親ととてもよく似ている女の子。桐はそんな子だから、私のにとってはとても特別だったのだ。

 だから、

 「私、白井君と付き合うことになった。」

 そう言った桐の横顔はただただ女の子だなあと思いながら私は眺めていた。とんちんかんなことを考えていることは分かっている。でも、麹と別れたばかりの私が冷静を保てるはずがない、あるはずがない。のに、桐は言いのけてしまった。

 「分かれたばっかりなのにごめんね。でも、そういうことだから。」

 麹は私と桐の関係を全く知らない。

 言うことも、出来なかった。

 私の中に眠る複雑すぎる理論が、それを許さなかった。

 きっと麹に分かってもらうことはできない。いや、誰一人として理解してくれる人なんかいないだろう、そういう類の思い。

 解消させたい、けれどできない。なのに私はなぜか足を引っ張られ、いつもうずくまって動くことができない。誰かが助けてくれないかと、ただただじっとしている。そんなどうしようもない状況で、やっぱり麹は救いだったんだよ。麹は、手放せない。そう強く望んでいたはずなのに、桐と一緒に居る時間が長くなる程、私は苦しくなった。だから、逃げ出したのだ。

 「麹、ごめん。」

 弱弱しいセリフだ。馬鹿らしい、私はなんて馬鹿なんだろう。

 しかし目の前にいる桐はいつものあの少し困ったかのような笑顔で私を見つめている。いや、今は見下ろしている。欲しいものを手に入れた動物のような顔をして、何の不満もなさそうだ。

 この人は、私の友達などでは無かった。

 私の周りにいる人は、いつも私の友達などでは無かったのだと思う。何をもって友達と定義すればいいのか分からないけれど、私の中ではどんどん堕落していくどうしようもない私を不要だと見捨てていく存在なのだと思っている。

 そのような経験しか、したことが無い、私は。

 「何か言った?声、小さくて聞こえない。まあ、じゃあもう帰るね。これからは会わないと思うから、いままでありがとう。」

 そう言い残して彼女は消えた。

 正確には、麹の元へと行ってしまった。

 

 「どうしよう…。」

 どうしようもできないことは分かっている。

 だけど私には現実に起こる様々なことが耐え難くて、なぜみんなそんなに強いのか、分からなかった。そして、案の定いつもの弱さが露呈して、麹を拒絶してしまった。

 麹は悪くないはずなのに、私は桐を恐がって、その関係性を怖れて、だから逃げた。

 傷ついたよね、きっと傷ついたはず。

 麹はとても繊細な性格をしている。だから私たちは知り合ってすぐ仲良くなれたのだと思う。

 似た者同士、きっとそう。

 それなのに、ごめんね。

 私はただ、空しかった。


 会社はいつものように回っていた。

 轟さんがこなしていた仕事はすべて私に降りかかってきた。

 そして、当然ながら業務に慣れていた彼女とは明らかに経験年数の違う私は、その処理にひどく戸惑っていた。量もかなりのもので、今までやってきたものに加えてということだから、本当に倒れそうになる程、無茶苦茶だと思っていた。

 しかし、周りを見回すと正社員の彼女彼らはお茶を飲みながら歓談している。私の二倍以上の給料をもらっているはずなのに、ふざけているように感じた。一日をその様に怠慢に過ごして金をもらえるなど、甚だおかしいように感じられた。

 けれど、それが、現実なのだった。

 難しい仕事なのかもしれない。私はただずっと轟さんの下でできる仕事を回されていたということを悟ってしまった。つまり、轟さんは私の技量をきちんと測り、その上で仕事を振っていたのだ。何という素晴らしい人だったのだろう、いまさらながらそう思う。

 「野田さん。仕事はかどってる?」

 コイツは、そんなことが無いとはっきり分かっている。

 上司として本当はもっと適切に仕事を配分するべきなのに、何もしていない。ぐちゃぐちゃに混乱した多くの仕事を、全て私のような派遣社員へと押し付けるのだ。

 だから社員たちは何の不満も抱かず、今日も世界は平和なのだった。

 「まあまあ、でも轟さんが辞めてしまったから、ちょっと厳しいです。」

 「轟さん?ああ、この前辞めた子ね。子っていうか、もうおばさんだけど。」

 精一杯嫌味を込めて言った私のセリフに予想外な程とんちんかんな理屈で返してきた。

 コイツは、この人は、やっぱりどこかがおかしいのかもしれない。

 会社勤めをしているとああ、この人おかしいなと思う人が何人かいる。特に派遣社員として色々な職場を変遷すると、高確率で見つかってしまう。

 そいつがいる職場はたいていうまく機能していなくて、だから派遣社員で補うのだ。

 そもそも社員の仕事に対する処理能力が著しく低く、またそれを改善させるために何か啓発のようなものを行うことも無い。

 そういう、そういう、理不尽。

 「轟さん忘れないでくださいよ。この部署の仕事、ほとんど彼女がこなしてましたよ?すごい人だったんです。」

 もうやけくそだと、相手の反応を伺わず言葉を放つ。

 しかし、

 「フッ。」

 笑った。

 「所詮派遣さんだろ?深い仕事はしてないはずだし、そういう単純なことだけ早くこなされてもお金にはならないんだよ。君、分かってる?」

 どこかで聞いたような理屈を、本当にこねくり回してきた。これが、リアルだ。そう思った。

 私はなんかもうどうでも良くなって、逃げ出すように帰宅した。

 その上司は別に何も思っていないといったような顔を作り、またコーヒーを飲み始めた。

 

 「麹…。」

 つい辛いことがあると思い出してしまう。

 私はそういう自分が嫌いだった。

 誰かに救いを求めて、依存してしまう自分が、とても嫌いだった。

 今日は少し贅沢をしよう。そう思って近くの定食屋へ来た。私は和食が好きで、とくにセットでみそ汁とか全てついている物が好みだった。

 「ありがとうございます。」

 そして、食べた。

 美味い、超美味い。

 何だか溜まっていた疲労が全て取れていくような感覚を味わう。そのために、来たのだから。

 たまには何かが必要だと思っている。誰にでも、救われる瞬間が確実に必要で、それが無いと本当に生きられない。生きられなくて死んでいく人を私は知っている。私も、本当はずっとそうだった。でも今は心の中に麹がいて、辛い時にはその記憶が私を救ってくれる。とても、ありがたいと感じた。

 だって私は生きたいのだから、そう気づいたのだから。



 「誰がいるの?」

 物騒な女の声が鳴り響く。ガンガンと下から突き上げるような甲高い声だった。

 しかし冷静さを欠いたような感じではなく、ただシンプルに言葉を短く切り伝えていた。

 上手くいかないことばかりが最近はずっと続いていたのだけれど、私は平気だった。

 私には、麹がいるから。

 「白井君、今日仕事終わり会わない?」

 いつも心の中では麹と呼び捨てにしている。けれど、そんな馴れ馴れしいセリフを口にする程、私はまだ彼に自分を見せるつもりはなかった。

 友人から奪い取った男。

 でもどうしようもなかった。好きだから、仕方が無い。私は自分が自分で嫌になる。そんなことがよくあって、だから誰からも愛されることは無いのだと思う。


 「お母さん。」

 「ああ、来たの。」

 お母さんはずっと病気で臥せっている。見に来るたびになぜだか心が痛くなる。話をするたびに自分が傷つくだけだと思っていたのに、今はこの弱弱しい母を見ると泣きたくなる。

 けど、もう泣きだすことはできない。

 「桐、アナタ。ねえ、何してんの?」

 最近のお母さんはもう頭の中で考えたことをまともに形にすることすら難しい。だからもう、もう。

 「痛。」

 激痛が走る。

 私の手首からは血が流れる。

 いつも母と会話をすると、死にたくなる。その衝動をそのままに、死んでしまおうと試みる。けれどやっぱり死ねない。そういう時に思い出すのはいつも、白井君だった。人生の中で唯一、私は人を好きになった。

 近くに誰かが来ると泣きたい程震えてしまうのに、彼がいれば平気だった。

 そして、ごめん。

 私は道子が好きだった。

 最初は白井君目当てで近づいたんだけど、一緒に居るとすごく楽しかった。女の子と一緒に居て、楽しいと思えることがあるのだと、とても驚いた。

 だから失いたくなかった、けれど。

 私はもう生きる上で白井君を、麹を手放すことなどできるはずが無くて、またひどいことを繰り返してしまった。

 だから、ごめんね。道子。


 「水見ちゃん。今日夜空いてる?この前彼氏いないって言ってたよね。じゃあ、俺と飲みに行かない?」

 決まり切ったセリフで隣の部署のイケメンと言われている男性社員が話しかけてきた。

 麹が彼氏だということは、誰も知らない。

 私は一応正社員で、麹はアルバイトだ。噂が立てばきっとお互いが居辛くなるだけだし、それは良くないことだと分かっていたから。でも、本当は言いふらしたかった。私はそういう女だから。昔から誰かに私を知って欲しかった。誰でもいいから誰かに、私の存在をきちんと見て欲しかったのだ。

 「ごめんなさい。忙しくて…。」

 ナヨナヨとした顔で笑えば、彼らは許してくれる。

 いや、むしろ喜んで去っていく。私は、それをきちんと理解している。


 「ねえ聞いた?」

 「水見さんがね、吉滝よしたき君と付き合ってるんだって。」

 「そうなの?でも、吉滝君って…この前告白されて前園さんのこと振ったんだよね。」

 「そう、だからヤバいよね。何で前園さんのこと振って、水見さんなんかと付き合ってるんだろ?あの子、最近おかしいじゃない。昔は活発だったらしいけど、ずっと下を向いて誰とも口をきこうとしないらしいの。」

 「えー、怖い…。」

 「ね。」

 

 耳が、ギリギリと痛む。

 胸がざわざわと痒い。

 

 私の足元にあったはずの足場が、スッとどこかへと去って行ってしまった。


 怖い。


 中学生の頃、私は孤独だった。

 学校では誰とも馴染めなくなっていて、家では母親といがみ合っていた。母親と言葉を交わすだけで、私は感情を抑えることができなくなっていた。どうしてだかは分からない。だけど、普通じゃないということは分かっている。

 だけど、私にとってはそれが仕方が無いことのように感じられる。

 私はどの道をたどっても、母親に対して毎日抑えようのない感情を抱き、苦しむ。

 それは私にとってただまともな理屈にのっとって自然発生的に怒っていることのようにしか感じられなかった。

 言葉にするのは難しいのだが、ただ思い出せるのは私の母親はひどく母親では無かったということだけだった。洗濯などしないし、食事も与えず、金だけがそこにあった。金さえあればきっと虐待には当てはまらないのだろう。しかし、私は近隣の主婦の目を盗んで、友達の母親など知り合いに合わないように、近くのスーパーへと総菜を買いに行っていた。

 そんなもの、辛くて、もちろん長くは続かなくて。

 

 やせ細った私をみんなはどこか奇異な目で見つめるようになった。

 それが私にはただ辛かった。


 だから、私にとって、そんな仕打ちを受けてきていた私にとって、母親に対して殺意のような扱い切れない感情を抱くことは当然のことのように思える。

 ただ殺さないだけで、持て余して爆発している。

 そんなの、どうしようもないのに、その度に私は自分が壊れていくことを感じ取っていた。

 毎日、その殺意のような感情を爆発させるたびに、私は自分がボロボロになり崩れていくことを感じてしまっていた。

 助けて欲しい、それは漠然とずっと抱いていた欲求だったのだと思う。消そうとしても浮かんできて、本当に些細なことで麹のことを妄想するようになってしまった。辛い最中でも、その瞬間だけは確実に救われていて、私はそれが病みつきになり止められなかったのだ。


 だから、見てしまったから。

 心の中だけで止めていたはずの麹の姿が、そこにはあった。

 その顔は何かに怯えているようで、その姿が昔の私の知っている麹と重なった。

 何かに怯えているような、それは麹のことでもあったのだし、それは、正しく私自身のことでもあったのだから。

 「白井君。」

 声を、掛けた。

 はずだった。

 しかし、すぐに向かいから、満面の笑みとはいいがたいようなほくそ笑んだようなはにかんだような、歪んだ笑顔を作る女が現れた。

 麹の顔はやっぱりどこか歪んでいたけれど、その二人が一緒に居ると妙にしっくりときてしまっていた。

 二人だけで、やっと完成する世界。

 切なくて、もどかしくて、なぜだか苦しかった。

 でも、私は。

 その女が麹の彼女だということは分かり切っていたけれど、可能性を捨て去ることができなかった。声をかけることはできなかったけれど、溝を埋めていくように、接近する。

 私はとても陰湿で、でもその陰湿さに安心していた。

 私はそもそもそう言う人間なのだと、勝手に肯定することができたから。

 否定し続けてきた自分を、初めて肯定していた。

 

 そして、私はここまでおかしくなってしまったのだろうか。


 出会った時の麹は異常だった。

 裸で歩き回ることをおかしなことだと認識することができていなかった。

 だからとても怖いと思ったし、けれど彼は何もわかっていないのだと思うと可哀そうな気がして、それが甘美な感情にすり替わっていっていて、気が付けば私は麹に好意のようなものを抱き始めていた。

 しかし出会いが出会いだったのだし、そのことがきっかけで麹は周囲から孤立していたのだし、私は何もすることができなかった。

 私にとっては学校は薄い氷の上をズリズリと歩いているような感覚と一緒で、いつもうまく呼吸ができなかった。

 体が震えないように全身に力を込めて、立ちすくんでいるしかなかった。

 だから、言い訳だけど、私は麹との接触を断った。


 目でいつも追いかけていた。

 それは私の醜い一端のような気がして、中々受け入れられなかった。

 止めたい、そう思っていた。


 「白井君、私は白井君のことが好きなのかな。」

 まどろんでいる最中に、麹がどこか冷たい顔をしていたからつい聞いてしまった。

 そうしたら、

 「それは、でも俺は、桐のことが好きかどうかは分からなくて、ごめん。」

 と言われてしまった。

 私は、思った。

 それを言われたら終わりじゃん、って。

 女は分かっている。恋愛感情は激しいもので、自覚が無いというはずがないことを知ってしまっている。

 そう思ったら、つい泣いてしまった。

 そして、私は事故に遭い、全てを失った。


 取り戻さないと、いけない気がした。


 

 紫さんの妻が尋ねてきてからしばらく時間が過ぎていた。

 榎さんと会って話を聞いて、俺はある確信を抱いていた。それは、紫さんは何か人に知られてはいけない事情を抱えていて、俺はその事実を確かめたいと思っている、そのことに。

 そもそもおかしかった。

 なぜ榎さんは紫さんが死んだことに対して罪悪感を抱いているのか、不思議だった。けれど、その理由を語ることは無く口を閉ざしていた。

 「紫は、健吾は自殺なんてしない。」

 俺は紫さんの妻の、奥さんの言葉を思い出す。

 自殺なんてしない、確かに。

 紫さんは、自ら死ぬ訳がない、そういうことには強い人だったように感じているから。どれだけ自分を圧迫しようと、死に至るまで自らのみを追い込むような人徳は無かった。その証拠に同僚や部下をしごきまくっていたのだから。

 じゃあ?

 一体どういうことなのだろうか。

 だから、また紫さんの奥さんと会うことにした。

 「久しぶり。」

 「お久しぶりです。」

 お互い少し人見知りをしたような顔をして、笑った。

 だって何だか照れ恥ずかしいというのだろうか、よく知らない人に何度も会うのなんて、珍しかったから。

 「この前、榎さんと会いました。」

 「そう。」

 「そしたら俺が榎さんに会うということを、事前に察知されていたんですね?榎さんが言っていました。」

 「…そうねえ。」

 わざとらしい作り笑いを浮かべながら力のこもっていない顔で俺を見つめている。その顔は、幽霊のようですごく怖い。

 この人は、何かがおかしい。

 紫さんはいつも追い詰められていた。会社からも、多分その他の何かからも。だからその余裕のなさが彼を追い詰めてしまっているように感じられた。

 そして、確信は事実へと変わっていく。

 裏切られないように、そうっと呟いてみる。

 「あなたですよね。紫さんを追い込んだのは、いや。榎さんをそそのかして彼を追い詰めたのは、あなただ。」

 「………。」

 彼女は訳が分からないといったような作り笑い浮かべ、しかし俺はその無責任な白々しさに憤りを感じている。

 

 紫さんを殺したのは、この人だ。

 まず間違いが無い。

 はっきりと、俺は断言する。


 「榎さん、来ていただいてありがとうございます。やっぱりこの前動揺されていたから、気になって。紫さんとのこと、何があったのか教えていただけませんか?」

 ゆっくりと歩みを進め個室の居酒屋へとやってきたのは先日ランチを一緒にした紫さんの同期、榎さんだった。

 「うん…。」

 言い淀んだその声は、枯れていた。


 佳代。

 佳代と俺は出会ってからロクなことが無かったように記憶している。佳代はいつも怒っていて、俺はいつも笑っていた。余裕を持った微笑みが魅力だったのに、俺の前ではもう見せることさえなかった。

 

 一体、どうしたというのだろう。

 思い返してみても、きっかけなど掴めない。

 佳代は息をするように、その様な気軽さで壊れて行った。


 「健吾君。宿題終わった?終わらないと遊べないって言ってたよね。」

 クラスの中で孤立している同級生からそう声をかけられた。でも俺はそいつと遊ぶ約束などした覚えがない。しかし意地でも俺のことを誘ってしまおうと思っているようだった。

 迷惑だ。

 こういう状況で迷惑という言葉を使うことはきっと悪いことなのだろう。しかし、やっぱり俺にとってはただ困惑する、それ以外の何物でもなかったのだから。


 「ねえ、アナタ。」

 え?こなれた声で誰かがしゃべりかけてくる。誰だ?

 「てか、アンタ。何ぶっきら棒な言い方してるの?遊ぶことくらい、しろよ。小学生だろ?」

 訳の分からない理屈で誰かのことを罵っている。もしかして、俺か?

 そう思いチラリと視線を動かすと、

 合ってしまった。彼女は、言った。

 「別に大したこと無いでしょ?アンタはだってずっと一人で暇なんだから、いつも話しかけてるのにそっけない態度をとって、みっともないよ。」

 クルリと光を反射する、その瞳が俺に語りかけてきていた。

 「いや、だって俺…。」

 何を言えばこの場にふさわしいのか全く見当がつかず、まごついていた。まごつきながら、動揺した。そして、

 「もういいです…。」

 そう言って何日もしつこく俺に会話を仕掛けてきていたその男の子はどこかへと立ち去ってしまっていた。


 「くだらないやつ。」

 最後にごみを見るような目で彼女は俺を罵りその場から消えた。

 一瞬の出来事で、俺はただただむず痒く、自尊心を傷つけられていた。自尊心、俺の汚い、心。

 

 その後佳代とは何度か顔を合わせるようになり、顔見知り程度の知り合いになった。

 そして、事件は起こった。

 「聞いた?神田さん、お母さん死んじゃったんだって。」

 「え、神田佳代?私あの子と小学校から一緒だけど、気が強くてさ、すごく扱いにくいんだよね。優しいとかそう言うんじゃなく、気性が激しいのよ。」

 お母さん、死んじゃった。

 それを聞いて俺は無意識のうちに神田の姿を探していた。その話をしていた女子二人は、それを奇妙そうな目で見つめていた。

 数日後、神田は転校してしまった。

 家庭の都合により、もうこの学校へは来られないということだった。

 佳代の事を、見つめていた。

 無意識のうちに目が追いかけていた。それはどうしてなのだかは分からなかったし、恋愛感情のようなものでは無くきっかけと関心があったから続いているのだと思っていた。

 決してそんなはずはないと思っていたのに、いなくなってみて初めて俺は佳代の事が好きだったのだと気付いてしまった。

 「健吾、何してるの?」

 いつも一人でいるしかない俺に佳代は微妙な顔をしながら質問をした。俺はうまく答えられなくて、動揺していた。なぜだかは分からない、ただ小学生から中学生になり感情が上手にコントロールできなくなっていることを感じ取っていた。

 そうやってもぞもぞと考え込んでいると佳代はそのまま去って行った。

 

 あの子は、一体どこへ行っていたのだろうか。

 あの子も、行く当てはなかったはずだ。

 行く当てなど、無かったはずなのに、学校という世界の中で俺にだけ関心を抱き語りかけていた。なぜだろう。


 「健吾、じゃあね。」

 舌ったらずな言葉しか使えないあの子が、最後に残してくれたのはこの言葉だった。机の引き出しの中に誰にも見られないように包装してあって、不器用そうに見えて実は器用な子だったのだなと感心した。それ程、よく包まれていた。

 何を思えばいいのだろう。

 何を思えば俺は満足するのだろうか、いや。

 何をすればいいのか、そうなんだけど分からなかった。

 再会したのは大人になってからだった。成人式の時、たまたま出会った。俺は高校の友達と連れ立ってきたけれど、彼女は一人きりだった。

 一人きりで振袖では無くスーツを着、ぼんやりと立ちすくんでいた。

 そこにいたのは強気な女の子では無くて、何だか儚げな、でも幽霊みたいな弱弱しい女の子だったのだ。

 「久しぶり。」

 もう二十歳を超えていたからだろうか、自然と声をかけることができた。あの頃とは逆で、俺は少しばかりの余裕を身につけられていた。しかし、彼女は身を固め泣きそうに顔を歪めながら、言った。

 「誰?」

 俺は、その言葉に、言葉を失わされてしまった。

 多分初恋の人だったのに、ちょっと運命的でさえあると思っていたのに、なぜか彼女は何も覚えていないようだった。

 だから、

 「ごめん、急に。俺は紫健吾。同級生だったんだ。結構話したこともあると思うし、この後お茶でもしない?」

 そう言った。

 彼女は怪訝そうだったけれど、まあいいかといった感覚で承諾してくれた。


 でも、彼女はやっぱり様子がおかしかった。

 たった一人きりで成人式の席にいることも不自然だったし、そもそも雰囲気が違い過ぎていてどうも記憶もあまり確かでは無いみたいで、誰かから話しかけられてもあいまいに笑うだけで誰のことも覚えていないようだった。


 守りたい、なぜだかそう思った。

 それはとても甘美な心地で、俺を興奮させていた。


 佳代とはだから、結婚を前提に付き合うことになった。

 不思議なことだった。佳代は何も覚えていないようだったけれど、自然と惹かれ合っていた。それだけで俺は良かったのだし、佳代も何だかそうだったみたいだ。


 それなのに、俺たちはどんどん壊れて行った。

 取り返そうと思っても、取り返せなくて。彼女はいつも壊れていた。

 「佳代…。どうしたんだよ。」

 そう聞かれた佳代は、ただ顔面をぐちゃぐちゃにして泣き、立ちすくんでいた。俺が佳代を、泣かせてしまったのだと思う。だけど、そのスイッチというか、原因がいつも上手く掴めなくて、佳代はよく些細なことで泣いていた。

 そういう生活が続くと、俺たちは辟易してしまっていて、いや正確には俺がただ疲れているのだと思っていたけれど、違った。

 一番苦しんでいたのは佳代で、佳代はそうやって壊れてしまったみたいだった。

 触れても、もう空しいだけの感触しか返ってこなかったのだから。

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