九月 前にすすむ

 水しぶきが上がる。


 開けた空間のはずがその中の声はあちこちに反響して海音の鼓膜を震わせる。


 たった数週間水泳から離れていただけで水面に反射する太陽の光が海音には目を突き刺すように感じられた。


 体から水が滴り、帽子とゴーグルをおでこにつけたまま、海音は、飛び込み台に膝を抱えて座り、ぼんやりとプールを見ていた。


 熱中症になってから数週間経ち、体の調子が戻ってきたため海音はようやく部活の練習に参加することができた。


 最初は久しぶりに感じる水の感覚が心地よく感じられたが、練習が続いてゆくと、次第に体がおもだるくなり周回に間に合わないほどに遅くなっていった。


 体力も落ちたのか息切れも起こしており、海音は練習の途中でプールから出て息を整えようとした。


 数分ほど深呼吸などをしたが息は落ち着かず、そのまま飛び込み台に座り、練習を続ける他の仲間の姿を見ていた。


 すると突然肩をたたかれ、海音はビクッと反応する。


 勢いよく後ろを振り返り、飛び込み台からずり落ちそうになるすんでのところで踏みとどまった。


 後ろには驚いたように目を見開いて固まっている弥生が水着姿で立っていた。体からは水が滴っていた。


「びっっくりしたなあ、もう。そんな急に振り返らないでよ」

「ああ、ごめん。ちょっとぼおっとしてた。いつの間にプールからあがったの?」

「たった今だよ。プールの中から声かけたのに何も反応しないんだもん本当に気づかなかった?」


 海音が周りに目を向けると他の部員たちもプールから上がっていた。


 これから飛び込みからスタートする練習に気が付かぬ間に変わっていたようだ。


 海音はすぐに飛び込み台から降りると、練習のメニューが書かれたホワイトボードに目を向けた。


 ついさっきまでやっている途中だと思っていた練習はとうに終わっており、今日最後の練習以外がボード上から消されている。


「大丈夫? もうすぐそれ始めるけど」


 ボードを見る海音の横から彩智さちが声をかけてきた。息切れはすでに収まり、体のおもだるさもましに感じられた。


 海音は彩智に向って頷くと彩智は海音の正面から顔をあわせた。


「本当に大丈夫? これで今日最後の練習だけどかなりきついだろうしタイムも測るけど……」

「だっ、大丈夫だって。もう息切れとかしてないし。さっきのはいきなり体動かしたからだよ。だからもう、いけるから。やるよ」


 彩智はため息をつきながらも「無理はしないでよ」と言うと、ボードに書かれたメニューを消し、タイムを書き込むために枠と名前を書いていった。


 それぞれの名前が書き終わると彩智はストップウォッチを持って笛を一回吹く。タイム計測の合図がプールに響いた。


 普段であればすぐに台へとあがる海音だったがその前に水筒から水を飲んだ。一口、二口ではなくゴクゴクと軽快に飲んでいた。


 その様子を左隣のレーンですでに飛び込む準備をしていた弥生は見ていた。


 海音は水筒を床に置くふと上から向けられる視線に気づき弥生を見ると弥生は笑いをこらえるように体を震わせた。


「なんだよ。何かおかしいかよ」

「ふふっ。い、いや。すごいおいしそうに水飲んでるなあって思っただけだよ。ふふ」

「水ってマジでうまいんだぞ? 弥生も熱中症になれば分かるよ」

「分かったから。そんな事より早く準備したほうがいいよ。マネさんの目が怖くなってきてる」


 見れば彩智は腕を組んでこちら側をじっと見ている。


 海音は急いでゴーグルをつけると飛び込み台に乗った。相変わらず隣の弥生は海音をニヤニヤとしながら見ていた。


 海音は台の上から彩智の方を見ると呆れたような顔をしてから彩智は手を挙げた。


「準備できた?」の合図だ。海音と弥生がそろって手をあげる。


 すると弥生は振り返り「行ける?」と聞いてきた。


 海音は答えなかったが弥生に向って親指を空に向けてたてた。彩智は笛を三回吹いた。


「よーい……ピッ!」


 彩智の吹いた笛の音で皆一斉に飛び込んだ。


 海音は一心不乱に泳ぎだす。手が水の抵抗に負けそうになるもそれを押しのけ力の限り腕を回し、水をかく。


 足も今まで以上に強く、そして早く、動かし続けた。


 そのままの勢いで壁でターンをする。ターンの速さもいつも以上に早く回る。


 隣にはまだ弥生がいることにここで海音は気が付いた。


 いつもであれば飛び込みから離されていしまうはずがターンをしてもまだ弥生がいたのだ。


 ターン後は疲れが出始め体が動かしづらくなる。だがしかし、海音は最後まであきらめずに泳ぎ、壁にタッチした。


 水から顔をあげて上にいた彩智にタイムを聞く。


 ほとんど弥生と同じタイミングで壁にタッチしたため、今回のタイムは自己ベストが出た可能性があったからだ。


「え、あれ? このタイムって……」

「はあ、はあ。どうだった?」


 彩智は持っていたストップウォッチを海音に向って見せるとそこに映し出されたタイムを見た海音は拳を握りしめた。


 それは夏休みの間は一度も見ることはなかった自己ベストを超えたタイムであった。


 顔が熱くなるのを感じ、海音は水にザブッと水に沈んだ。海音が水から顔をあげると横で驚いた様子の弥生が、彩智と話をしていた。


「自己ベスト? すごいじゃん海音!」


 弥生はコースロープを乗り越えて海音に向って手を挙げた。


 つられるように海音を手をあげ流れるようにハイタッチをした。心地の良い音がプールに鳴り響いた。


 そして、海音達がプールからあがり、続けて後に残った他のメンバーもタイム計測を行い、その日の練習が終わるころには海音は体のおもだるさは感じられなくなっていた。


 更衣室に戻り、着替えを終えると、海音は崩れるようにその場の床に座り込んだ。


 そばにいた弥生が心配そうに海音を見るとその隣に同じように膝を抱えて座った。


「どうした? 大丈夫?」

「いや、ちょっと疲れたみたい。あれだ。アドレナリンが切れたって感じ」

「そんなハイになってたの? それにしても良かったじゃんタイム落ちてなくて」

「でも結局、弥生よりは遅かったからなあ」

「まだ抜かさせないよ。さすがに。まあ、この感じだったら月末の大会までには調子戻るかもね。夏の分、取り返せるかも」


 その一言に無意識に更衣室に貼られた部活の日程の紙が目に入った。


 その下の方に赤いペンで枠に囲まれた日にちに「新人戦」と書かれている。


 それは今期最後の大会であり、海音が高校二年生で参加する最後の大会であった。


「疲れたから帰ろ」


 弥生がそう言って立ち上がると自分の荷物の置いてある場所へと離れていった。


 海音はその場で伸びをすると床に無造作に置かれた水着や帽子を袋につめこみカバンにしまうとゆっくりと立ち上がった。


 二人は荷物を持って更衣室を出るとすでにそれがオレンジ色に染まっていた。


「大会でも自己ベスト出ると良いね」

「……みんなね」


 弥生の問いかけに海音は自信はなくもそう答えた。


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