九月 脈絡もない別れ

 それは突然の出来事であった。どのような巡り会わせでこのようなことが起こるのだろうか。


 その衝撃は間違いなく、彼女、鈴原海音の中にあるなにかを大きく変えた出来事であった。


 この日、今期最後の大会があり、それは海音にとって夏の練習の成果を発揮できる唯一の場所であった。


 だがしかし、その大会でどんな記録が出ようと、どれほど感動的な場面に立ち会っていたとしてもその後に起こる出来事を超えるものはなかった。


 大会が終わり、仲間と別れた後から海音の、物語のような出来事が始まる。


 最後の大会だったこともあり、終わった後海音を含むそのほかの仲間たちも浮かれていた。


「写真を撮ろう」という誰かの言葉に皆口々に同意するとポーズを変えながら写真をとった。何枚も、何度も時間など気にせずに。


 写真を撮るごとに、確認するごとに笑ったり、話したり、小さなことでさえ大笑いしていた。


 それが一段落するとそこからは早かった。自分たちの荷物を持ち、「写真あとで送っておくから」「よろしく!」と聞こえたかと思えば、


「じゃあ、また明日」


 そう言って手を振って各々別れていった。海音も同様に別れると迎えに 来ているはずの家族の車を探し、見つけるとドアを開け車に乗り込んだ。


 ここで海音はいつもと違う雰囲気をまとう両親に違和感を感じていた。


 その違和感の正体は車が動き出し、しばらくして母の口から一言でわかることとなる。


「海音。……あのねさっき連絡があって、お爺ちゃんが死んじゃった……だって」


 海音一瞬理解ができなかった。母方の祖父が亡くなったのだと母は続けた。


 よく見れば母の目が赤らんでいる。突然の事に海音は声が出せなかった。海音の母は鼻をすすりながら続けて言った。


「だから、今から、じいじのところ行くから、準備しといて」


 海音は小さい声で「うん」、としか言うことができなかった。


 まだ頭が追い付いていない。車の中では沈黙で満ちていた。


 突然の訃報、母から直接「死んだ」という言葉が出たことでそれを疑う余地はあるはずがなかった。


 それなのに海音はそれが嘘のように思えた。嘘で言ってはいけないが、嘘であってほしいと心の底から思っていた。


 窓の外で流れる景色に一つも焦点が合わず、ぼんやりと海音は車に揺られながら外を眺めていた。


 何か別の事を考えようとしても、あらぬ考えがあふれ出す。とめどなく、止まることなく上書きされる。


 そんな海音をさらに眠気が襲い始めた。大会の疲れがここにきて来たのだ。


 そして、海音は眠りについていた。夢など見ることない程に、海音は深い眠りに沈んでいった。


 それがせめてもの救いだろうか。今見る夢など、すべて悪夢としか言えないものであっただろう。


 突如車が止まり、それによって海音は目を覚ました。


 シートベルトを外し、体を起こして窓から外を見ると何度か見たことのあるサービスエリアに車は止まっていた。


 祖父のもとに行く前に夕食をとるのだという。眠い目をこすりながら海音は車から降りると大きく伸びをした。


 体はぎしぎしと音を立てるように固まっていたが全身にまといつくような疲労感は感じられなかった。


しかし、寝起きであるからなのかまだ海音はぼんやりとあたりを見回していた。


 ぼうっとしている海音を母親が呼んだ。気づけば両親は道路を渡り、建物のある側の歩道に立っている。海音は急いで両親のいるほうへと駆けていった。


 合流した海音は両親に挟まれるように連れられて建物の中へと入っていった。


 建物の中はサービスエリアらしくお土産屋が入り口のすぐ前にあり、食事処はその隣にあった。


 海音はまだ眠そうに目をこすりながら両親の後をついてゆき食事処の入り口で立ち止まった。


 食堂のような開けた入り口からはテーブルなどが見える。騒がしい雰囲気は感じられず、ほとんど人はいないようだ。


 食券で注文をし、自分たちで受け取る形らしく、店員さえも見えるところにはいなかった。


 横を見ると両親は入り口の隣にあったショーウィンドウを見ていた。二人はここで選んだあとで中へと入るつもりらしい。


 海音もショーウィンドウに近づき、並んでいるサンプルに目を向けると、一番上にあった海鮮丼を指さし、「私これにする」と言った。


 海音はこの時、あまり食欲が感じられず、ましてや吐き気までも感じ始めていた。だからか、すぐに目に入ったものを選んだのであった。


 両親は突然と決めた海音に驚いたようであったがすぐに自分たちも決めると、食券を買い注文すると窓に近い席へと座り、ブザーが鳴るまで待っていた。


 ブザーが鳴り、カウンターへと向かいを受け取った料理を見ると、海音は自分がよく見ずに決めたことを後悔した。


 盛られている海鮮はどれも、回転寿司でも頼まない、食べたことのないものでばかりであった。


 席へと戻り、両親をそろうと海音は小さく、いただきますを言うと意を決し海鮮丼を食べ始めた。


 一口食べて箸が止まる。それは思っていたように特別おいしいとは思えないものであった。


 それと同時に胸の内からこみあげてくるものを海音は感じた。


 海音はそれごと飲み込むように、再び箸を動かす。そして、一緒に飲み込んむ。


 胸をあふれる感情から、食べることに意識を向けられた。口に合わないそれは海音の感情を上書きされる。


 止まることなく食べ続けると最後に水を飲み、そのすべてを飲み込むと、湧き出るような負の感情は収まったように感じられた。


 コップを置き、両親の顔を海音は見た。食事をはさみ、海音と同じように落ち着いたのか、微笑む程度になっていたように見えた。


 食器を戻し、三人はそろって車に戻った。車はそのまま祖父のもとへと走り出す。


 車内での会話はほとんどない。だが、三人とも何か覚悟が決まったのか重苦しいような空気を感じず海音は驚いた。


 辺りは暗く、車通りはほとんどなくなったころに海音達は祖父の遺体が

 安置された場所へと向かった。


 車を降り、三人揃って建物へと向かう。


 自動ドアが開くと、海音はその瞬間、頭が真っ白になり、それ以上前に進めなかった


 建物に立ち込める線香の匂いは本物の意味を持って海音を襲った。


 飲み込んだ思いがとめどなくあふれ出す。ただひたすら、無視できない現実がそこに感じられた。


 祖母と叔母がカウンターで受け付けらしき人と何かを打合せしていた。彼女たちがドアが開き、すぐにこちら側に気づく。


 二人はすぐに立ち上がると、入り口で止まっている三人の方に向ってきた。


 祖母は海音達に丁寧にあいさつをし、礼儀正しく頭を下げた。


 海音も両親とともに頭を下げる。普段はやらないそのやりとりはますます海音に現実を実感させた。


 挨拶が済むと、祖母の後ろにいた叔母が三人を連れ、廊下の先の一つの部屋に入った。


 建物の入り口で嗅いだ匂いとは比べ物にならないあの匂いが立ち込めるその部屋は狭く、白い布で包まれたものが部屋の半分を占めていた。


 それまで人の死に立ち会ったことや、葬式に出た経験もなかった海音であったが、部屋に入り目に映るそれがなにであるかは察しがついた。


 叔母が先に入り、白い布を少しめくるとその下に顔が見えた。叔母は説明を始めた。


 口を水でぬらすらしい。海音は言われた通りに渡された筆を水につけ、祖父の口を軽く濡らそうと、祖父のそばへと近づいた。


 祖父の顔がはっきりと見える。その顔は海音の記憶にあった顔よりもだいぶ痩せて骨が浮き出てはいたが、今にも目を開けそうな表情をしていた。


 その後、線香を供えると、「こうやって触れてみて」と祖父の頭を撫でた。海音は眠ったように見える祖父に恐る恐る触れた。


 指先にひんやりとした感覚が伝わる。海音が亡くなった人に触れるのはこれが初めてであった。


 冷たくなるとは知っていたが、直接触れると、冷たいの意味が変わる。


 生き物ではなくなったという現実が手のひらに伝わってくる。自分の熱が奪われてゆくほどに冷たく感じた。


 母親の咽び泣く声が部屋に満ちる。海音は祖父の顔をじっと見ながら祖父のおでこに触れていた。


 時間の感覚が薄れるほど海音はずっと、祖父のそばに立っていた。


 確かに生気を感じず、息もしていないその姿であるはずが、それがどうしても現実に感じられなかった。


 辺りを見渡せば、すでに両親は部屋を出ていた。むせ返るような線香の匂いが立ち込める部屋を出た。


 廊下を渡り、入り口に戻ると、叔母が両親に向って何かを説明しているように見えた。


 海音がその場に近づく頃にはなし終わったのか三人とも、海音の方を向いていた。


「大丈夫?」と母親が海音に聞いた。海音にはそれがどんな意味で聞かれたのか分からなかったが、こくんと頷く。


 叔母は海音を見ると、何かを察したのか、「今日はもうやることないし帰ってもいいよ?」と両親に向って言った。


 気が付けば海音は車に戻っていた。瞼が重く感じ、脱力感を全身に感じた。


 一日中ストレスのかかる状態であったためか、この時間になり海音はを睡魔が襲った。


 意識は朦朧とし、車に乗った時の記憶がはっきりとしていなかった。意識が微睡む中、両親が話す声が耳に入る。


「それじゃあ明後日には、お通夜になるのよね」

「そう言ってたな。喪服を出しておかんとな」

「海音はどうするの。制服でいいのかしら」

「それしかないじゃなかったか? 学校の制服だって正装にだろ」


 海音の意識はここで眠りへと落ちていった。頭にさっきまで触れていた感覚が鮮明に浮かび上がる。


 死に触れたのは初めてであった。

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