参話
鬼通りを散歩していた義刀は絶風鬼と書かれた緑の看板を掲げる鬼の住処に来ていた。
京の鬼たちの間で火水風土を司る四鬼と呼ばれる一門には業炎鬼、絶風鬼も含まれる。
一門の強さとして信頼と地位を得ているのだが宮廷に勤めるような家には届かない者たちだ。
義刀はまさに四鬼の一角である絶風鬼の次期当主と雑談に興じていた。
「妖魔の被害者が加害者を気に掛ける。まあ良くある話じゃねえか」
緩く崩した緑の浴衣を纏う美丈夫だ。義刀よりも年上、20代になっただろう男は手当たり次第に女に手を出していても違和感の無い軽薄な笑みを絶やさない。
「阿修羅院の一人娘といえば、働き者で誰にでも優しい東街一番の大和撫子で有名だったかな」
「本当に、女には詳しいな」
相も変わらない無表情な義刀だ。
絶風鬼次期党首、槍絃(そうげん)と義刀は全く対照的でありながら気が合うのか2人で話すこと多い。鬼通りでは頻繁に見られる2人組なのだが知らない者が見れば非常に違和感が有る組み合わせだ。
まさに鬼通りの部外者である時雨乃は2人が雑談している姿に非常に違和感を覚えていた。
「もし、義刀様」
時雨乃は自覚している悪癖がある。
不要と分かっていても自分が間違ったと思えば相手の事情に構わず謝罪しなければ気が済まないということだ。今も友人との雑談に割り込むという空気の読めない行動に出ている事を自覚しながら思わず声を掛けていた。
「業炎鬼で俺の名を聞いたか?」
「いえ、憲兵の方に」
「やーやー、こんにちは。君が噂の阿修羅院の巫女娘ちゃんだね。俺は槍絃、義刀の友人だ。よろしくね」
緊張した面持ちの時雨乃、興味が無い義刀。
誰も割り込みたくない非常に険悪な空間で槍絃だけが全く気にせず時雨乃に軟派を始めた。
「君も大変だったね。阿修羅院と母屋、壊れちゃたんでしょ? 憲兵隊が保障してくれるって話だけど昨日今日で直るわけじゃないだろう」
「え、ええ。修復にはまだまだ時間が」
「今は何所に住んでいるんだい? 仮の宿が必要になるだろう?」
「えっと、憲兵様たちが手配してくださった宿で」
「へぇ、憲兵たちも気が利くな。しかし慣れない宿暮らし、苦労する事も有るだろう。困った事があったら来ると良い。俺で良ければ力になるよ」
時雨乃は義刀へ何度も視線を送るのだが全く見向きもされない。代わりに槍絃と名乗った軽薄そうな男がいつの間にか距離を詰めていた。
顔は良い。話す内容も自分を気遣ってくれている。
それでも肩にまで手を回されると恐怖で思考が停止した。
「槍絃、部外者を引き留めるな」
救いの手は思わぬ所から来た。
義刀が槍絃の手を肩から払い間に割って入った。声に感情は感じられず自分を気遣う様子は微塵も無い。
「去れ」
「しかし、」
「去れ」
今度は感情が見えた。
それは煩わしいという苛立ちだ。
「おいおい、そんな怒んなよ、義刀」
「面倒だ。部外者が鬼通りに居るのは良い。しかし俺の周りをうろちょろされるのは目障りだ」
明確な拒否に時雨乃が怯むと義刀はその場を去った。
義刀の苛立ちに当てられた時雨乃固まっていると槍絃が溜息を吐き今度こそ軽薄な笑みを控えて口を開いた。
「此処は君みたいな普通のお嬢さんには居辛い場所だ。さっさと帰った方が良い。それが義刀への最良の恩返しだよ」
今度は時雨乃から少し距離を取り軽薄さなど全く感じさせない薄い笑みで絶風鬼と看板を掲げる建物の中に消えた。
▽▽▽
義刀は阿修羅院を訪れていた。職人たちは母屋の修理は既に始めており本殿は測量の段階だ。断たれた神木は端に寄せられているが内部は肉剣が通った痕で空洞になっている。
罪悪感は有る。
自分にもっと力が有ればせめて境内への被害を減らせたかもしれない。
僧侶一家が慣れない宿暮らしをする必要は無かったかもしれない。
母屋と本殿が直っても神木が無いという憂き目に遭わなかったかもしれない。
全て、かもしれないだ。
鬼の戦いは結果が全て。
忠刀の教えを胸に説いて自分を抑え感情を発生させない。
鬼は誰しも妖魔に変じぬよう感情を操作する訓練を行う。
義刀は無感情に、槍絃は軽薄に徹する事で欲望や憎しみ、魔動駆関に穢れを溜めないよう努めている。
無感情になることで穢れから身を守る義刀は年頃の少年にしては自制して見える。しかし自分が人の目にどう映るかを正確に測れるほどに老成している訳でもない。
自分の無力で荒れた寺院、その土地で暗い表情をして首を振っていればどう見えるか。
一般的に自分の無力を嘆く責任感の強い性格に誤解される。
「此処に居たのですか」
今日は厄日だと確信して義刀は天を仰いだ。感情を発生させないことに集中し過ぎた為に周囲への警戒を怠っていた。
いつの間にか義刀の横に時雨乃が立ち微笑んでいた。
「気に掛けて下さっているとは思いませんでした」
心から嫌そうな顔をした義刀に驚いた時雨乃だがその場を去る事はしなかった。
真摯に侍の事を気に掛ける彼女が義刀は不思議だった。
妖魔の被害者に関わった被害者に共通する加害者になった身内への恋慕や信愛、その逆の憎悪や苦悩は無い。逆に無関係者が持つ野次馬の類の興味や好奇心というには卑しさが無い。
近いものを挙げるならば、治療の為に症例を集め情報を蓄積する医師や研究者のようだ。
「何が目的かは知らないが、俺は妖魔に変じた故を調べる気は無い」
「それは、自分で調べる事にしました」
「なら何用だ」
「純粋にお礼を。危ない所を助けて頂いてありがとうございました」
「魔を滅するは鬼の務め。礼を言われる筋合いは無い」
鬼が礼を言われれば必ず返す定型句を口にし義刀は鬼通りに向かう。
▽▽▽
京の都は昼でも薄暗い場所がいくつかある。
業炎鬼に返っても門下生や両親に何を言われるか分からないので義刀は竹林を通る遠回りの道を歩いていた。
阿修羅院から鬼通りまで大きく東に迂回するこの道はまず人と会わない。義刀や鬼たちにとっては何の感情も発生しなくて済む憩いの場になっている。
同時に鬼が妖魔に変じた際に追い込む為に一般人は入らないよう進入禁止令が出ている場所だ。
この竹林内に踏み込んだ者はどのような末路を迎えても老若男女問わず自己責任。陰鬱な噂に欠かないことから鬼や妖魔以外は全く近づかない。
だから義刀は直ぐに音に気付いた
緊張感に溢れる素振りの音だ。剣の起動が安定しないのか妙に空を切る音が二重に聞こえる。
腰に刀は無い。
魔装は呼べない。
戦う術は無い。
耳を澄ませば音源は進行方向だ。
風も無く、葉の擦れる音もしない竹林で足音を完全に殺すような技術は習得していない。それでも可能な限り足音は立てないように注意を払う。
それでも素振りの主は義刀に気付いたようだ。素振りが一泊遅れ、それでも続く。
義刀は気付かれたことを察して足音を殺すことを止めた。普通に地面の落ち葉を踏み竹林に足音を響かせながら鬼通りへの道を進む。
やがて進行方向より少し左、都から離れる方向に竹の生えていない円形の空間が現れる。数年前に妖魔と化した鬼が討伐された場所で妖魔が垂れ流した瘴気のような毒によりそこだけ植物が生えなくなっている。
その中央で長髪の侍が一心不乱に素振りを行っていた。
義刀には背中しか見えないが汗の量から侍が長い間刀を振るい続けていたことは分かる。
集中は出来ていない。
腕の筋肉の付き方や足運びから本来はもっと綺麗な剣の軌跡を描けることが分かる。それが出来ていない事が侍の気の散漫具合を示している。
義刀は敢えて声は掛けずにその場を後にした。
好き好んで人の事情に割り込むような危険な真似はしたくなかった。
▽▽▽
阿修羅院の騒動から4日、妙に気の抜けた表情で境内を掃除する時雨乃は参拝客が訪れた事に驚いた。
長髪を無造作に頭上で束ねた侍らしき帯刀の男は仮置きされた賽銭箱に袖から出した硬貨を放り投げ参拝を終えると倒れた神木の前で立ち尽くす。
声を掛けるのも躊躇う大きな後悔を感じさせる背中に時雨乃は妖魔になった侍を重ねた。
……何が彼を駆り立てたのでしょう?
時雨乃は討滅された侍を知っていた。彼は神仏に関心は無かったが阿修羅という武の境地に関心を持ち、その像を自分の心に焼き付ける為だけに参拝に訪れていた。道場でも師範代を務めた彼だが決して驕らず他道場も参加する武芸会に参加し、そこでも上位に名を連ねていたはずだ。
それでも彼は満足出来なかったのだろうか。
それ程の強さでは彼には足りなかったのだろうか。
阿修羅を祀る阿修羅院の巫女である時雨乃は京の都の武芸事情にも明るい。武芸会に参加している道場と優秀な門下生ならばほぼ全員を記憶している。
討滅された侍は京の都の西に構える銀閃流、師範代の閃郷斬乃介(せんごう・ざんのすけ)と記憶している。憲兵たちや大工たちからも同じ名前が出ていたのだ、間違いは無いだろう。
だからこそ、分からなかった。
彼は銀閃流の次期継承者とまで噂されていたのだ。銀閃流の当主は血筋ではなくその実力で選ばれる。彼の実力ならば現当主の息子と確実に次期当主の座を争っただろう。
そこに答えが有るのかと時雨乃は思う。
斬乃介と当主の息子の間に何かが有ったのかもしれない。
彼が妖魔に成るほどの憎しみ、嫉妬、激情を得る条件が時雨乃には思いつかない。心当たりは銀閃流の次期当主決めの話題のみ。
斬乃介の墓標とも言える神木を見る男は、しかし銀閃流でも武芸会参加者でも無いように思えた。斬乃介と拮抗する程の腕の持ち主ならば京の都で名を上げていて当然なのだ。
時雨乃は思わず侍らしき男に声を掛けていた。
「もし、貴方様は?」
声を掛けられるとは思っていなかったのか男は驚いたように振り返り始めて時雨乃の存在に気付いた。境内に男が入って来た時にも挨拶をしいているのだが完全に意識の外に置いてしまっていたようだ。
自分がどれだけ周囲を見れていなかったかを自覚し羞恥に顔を赤くしたものの男は良く通る声で自己紹介を始めた。
「某は流浪の者。武の境地、武芸の秘奥を知る為に各地を巡っている途中で京に参上した次第」
「まあ、旅のお侍様でしたか。わたくしは本院の巫女を務めます、時雨乃と申します。それにしても、その倒木に何か思い入れでもお有なのですか?」
「……ここで、友が憑き物として討滅されたと聞いた」
いくつかの情報が時雨乃の中で繋がった。
「銀閃流、閃郷斬乃介様」
「存じていたか」
「あの方は、よく阿修羅像を参拝しくださいましたので」
短い時間だが時雨乃は流浪の男に親近感を感じていた。
知りたい。しかし自分の力では叶わない。
そんな無力感をここ数日味わっている。流浪の男からも似たような何かを感じる。
流浪の男の真意も正体も不明だが、彼が時雨乃と同じように手の届かない何かに焦がれていることは確信出来た。
「お侍様は、斬乃介様が憑き物に堕ちるような理由を抱えているように見えましたか?」
「……心当たりは有るのだが、彼の心に関わる話だ。確信の無いまま言いふらす気は無い」
硬い声で、どこか悔しそうに話した流浪の男はそれ以後は何も話さなかった。
……身を焦がすほどの感情とは、どのような物なのでしょうね。
それほどの、自身でも制御できないほどの感情が自分も欲しい。
歪んだ執着心と、善良で両行な人間関係。
自分が前者に惹かれる理由が分からないまま時雨乃は何の感情も写さない義刀の目を思い出した。
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