第50話 時代が悪かった
全国でも最大の激戦区と言ってもいい神奈川。
それでも二強、あるいは双璧と呼ばれるのは、東名大相模原と、横浜学一が長かった。
しかしそこに古豪の桜印が復活したことで、パワーバランスが崩れた。
桜印の理事、また監督の早乙女は、見事に結果を出している。
甲子園の優勝には、わずかに届いていない。
それでもこの二年、一気にチームは充実し、白富東との対決は続いている。
かつて大阪光陰と白富東が覇権を競っていた時代、白光戦、あるいは光白線などと呼ばれた時代があった。
するとこの数年間は、桜白戦、あるいは白桜戦とでも呼ばれるのだろうか。
千葉県の強豪は、もちろん絶望している。
昇馬だけではなくアルトと真琴で、決勝近くまで勝ち進めるのだ。
ただそれよりも絶望的なのは、神奈川の強豪だろう。
神奈川でベスト8ならば、充分に甲子園レベル、とは言われる。
ただ桜印が強くなったのが、とんでもなく苦しい。
「上杉がとんでもなさすぎるんだよな」
横浜シニアから、横浜学一に進んだ、三船はそう言った。
「あとは夏だけか……」
三船と共に、セットで進学した大沢も、同じ意見である。
横浜シニアのバッテリーは、最終学年になってエースと正捕手になっている。
しかしこれまでの四回の甲子園出場機会を、横浜学一は全て逃している。
全ては桜印の台頭によるものだ。
上杉将典がいなければ、どこかで甲子園には行っていただろう。
横浜シニアの主力は、主に関東の強豪に進学した。
帝都一に進学した者もいて、今年の夏にはベンチに入っていたものだ。
桜印に進学した者もいて、それはスタメンで甲子園でも出ていた。
あとは東名大相模原や、早大付属といったように、甲子園に進んでいるチームがかなり多い。
ハズレを引いてしまった、と言えるのだろう。
ただここまで桜印が強くなるなど、さすがに想定外だったのだ。
将典にしても実力はともかく、シニアでの実績はそこまででもなかった。
より地元に密着しろという、親の希望が通ったということだが。
横浜シニア組はシニアの最後の大会でも、昇馬にコテンパンにされてしまった。
あとは最後の夏に賭けるだけだが、高校野球が終わっても、まだ野球人生が終わるわけではない。
プロ入りを希望している、というのはこの二人に共通しているところである。
実際に甲子園に出ていなくても、プロのスカウトが二人やそれ以外の選手を見に来ることは多い。
それが神奈川の名門というものなのだ。
エースとなった大沢は、入学時の期待通りに、150km/h近くまで球速が伸びた。
もちろん重要なのは、球速だけではないはずだ。
コントロールや変化球、それを含めてのエースである。
三船は大沢を含めて、他の多くの二番手三番手、あるいは春には一年生の球を受けることになる。
キャッチャーというポジションで、プロに行くのは大変に難しい。
プロにはキャッチャーとして入りながらも、外野や内野のファーストなどにコンバートされる例は多い。
キャッチャーと言うポジションの難しさと言えるだろう。
桜印は将典だけで成立しているチームではなく、まずキャッチャーもしっかりと取ってきた。
だからこそ一年の夏から、神奈川を制することが出来たのだ。
そして将典と同期に入ってきた選手が、最後の主力となる春から夏。
正直に言うと横浜学一は、センバツを逃した時点で、甲子園の土を踏める可能性が低くなっている。
何かを間違えてしまったのか。
名門の強豪を選んだという点では、悪くはなかったはずだ。
もっとも単に甲子園を目指すだけなら、他の選択肢の方が良かっただろう。
同じ関東でも栃木県などは、刷新が長く一強状態にある。
それでも千葉に昇馬が現れたように、怪物が出てくる可能性はあったかもしれないが。
現実では刷新は、今度のセンバツにも出場する。
ただ怪物めいたピッチャーやバッターなどが所属しているわけではない。
もちろんプロ注の選手はいるが、それは甲子園に出るようなチームなら、どこでも当たり前のこと。
あるいは東北などに進学しても、甲子園に出ることは出来たかもしれない。
ただプロからの注目という点では、関東や関西が有利なのだ。
同じ横浜シニアからも、桜印に行った選手はいるのだ。
その時はシニアの監督同士のつながりなどで、面倒なことにもなったが。
自分のことだけを考えるのは、悪いことではない。
そういったエゴを失っている選手が、プロに届くはずもない。
時代が悪かった、とは言える。
しかしそれは将典さえも、同じことを考えているのだ。
昇馬との年齢差があれば、桜印は全国制覇を出来た可能性が高い。
ナンバーワンには届かない、絶対的なナンバーツーのようなものだ。
桜印の選手たちは、打倒白石昇馬を目標に掲げている。
全国制覇でもなく、白富東を打倒するのでもなく、昇馬を倒すことが重要であるのだ。
それを果たしたなら、おそらく他の全ては、自動的に手に入る。
そのためにはセンバツは、あくまでも相手の手の内を探る大会、と開き直っていたりする。
将典がそもそも、数年に一人というレベルのピッチャーなのだ。
だが昇馬はもう、日本野球史上屈指の投手であろうことは間違いない。
将典は昇馬と、親同士は親しいので、そちらからも話は入ってくる。
そして昇馬がプロ入りはしないかもと聞かされると、桜印の選手たちはおろか、監督でさえも驚愕するのだ。
大サトールートという言葉があったりする。
それは高卒でも大卒でも社会人でもなく、独立リーグでもないところから、プロに入ってくるルートだ。
将典は父と一緒に、直史とは何度も会っている。
大卒後、四年も無駄に過ごした後で、改めてプロ入りした。
それについてどうしてか、尋ねてみたこともある。
「自信と確率の問題だな」
あの頃はまだ子供だったのに、父と並び称される人間は、子供ではなく同じ人間として話してきた。
「私はプロでやっていく上で、絶対的に体力が足りないと思っていた。甲子園で15回を投げて、次の日も完封したといっても、たった二日だけのことだ」
シーズンを通じて投げる、プロのピッチャーとは違う、ということだ。
そしてもう一つの理由。
「私は東大も狙えるほど成績が良かったため、普通に大学を出て、弁護士になる予定だった。妻とそういう話もしていたし、実際に今はそうしている」
直史が引退して、野球から離れていた頃なので、本気だったのだろう。
「実際に故障で、もう投げられなくなった。野球でピッチャーをやるなんて、どこで壊れてもおかしくない」
だから司法試験を通過して、法曹資格を取ったわけだ。
弁護士は儲からない時代である、と言われるが実際は儲けられる弁護士と、儲けられない弁護士がいるだけだ。
瑞希の父は地元に密着して、顧客を抱えていた。
また企業の法務部に入るなど、色々なアプローチがあるのだ。
プロに入っても30前で引退し、その後をどうするのか。
直史はそれを考えて、プロ入りを選択しなかったのだ。
ほんの少しの故障で、投げられなくなってしまう。
直史は技巧派であったため、まだしも本格派よりは、球速が落ちても関係なかったのだろうに。
それでも実際にプロに入ってみれば、あれだけの活躍をした。
そして父が引退した今も、まだ第一線に立ち続けている。
将典は期待されていた。
長男は生まれつきの方の骨格で、強い球を投げることが出来なかった。
体格からしてバッターならとも思われたが、全く別の道を歩くこととなった。
そしてそれは成功していると言えるだろう。
将典は父の果たせなかった夢、叔父が叶えた夢を、自分で叶えたかった。
甲子園を制覇するということ。
全国制覇自体は、神宮を優勝したので達成している。
しかし甲子園で勝つのは、それとは全く別のことだ。
それが同じ時代に、昇馬がいた。
歴史的に見てもあんな怪物は、他に一人もいないであろう。
甲子園でも既に、複数回のパーフェクトを達成している。
何よりもまだ、自責点による敗北がない。
この道を進むのなら、ずっと比較され続けるかもしれない。
だがプロの世界に、さほど興味はないと言うのか。
確かに昇馬の前に、明確なライバルとしていられる存在など、いないと言ってもいいだろう。
ピッチャーでは競うことなく、バッターは一つ上の司朗のみ。
(俺を視界に入れさせてやる)
将典が思っているよりも、ずっと昇馬は将典を警戒しているのだが。
野球というものに、魂を奪われた人間が、ここにもいる。
だが昇馬がいなければ、そんなことはなかったであろう。
他人の運命までも、変えてしまうほどの影響力。
それを持ちながらも昇馬は、自分自身は静かな存在でいるのだった。
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