第31話 凶獣
偉人には、あるいはスーパースターには、その成長過程において、なんらかの逸話があったりする。
真琴の父である直史などは、表舞台に出てくる前、中学時代はピッチャーとして一度も勝てていない、という逸話があったりする。いや、それは逸話になるのかどうか微妙だが。
ただこの、深く屈み込むような時期がなければ、後の飛躍もなかったであろう。
昇馬の場合、未来はまだ何も決まっていない。
野球は好きだが、別に何よりも好きというほどではない。
そんな昇馬がなぜここまでやってきたかというと、スカウトが昇馬が解体を終えるまで話しかけなかったこと、そして東京の西は田舎、という言葉に興味を抱いたからだ。
実際に東京も西の果ては田舎であるのだが、興和高校のあるあたりはまだ、充分に人家が多い。期待はずれである。
普段はバスがあるというが、今日はスカウトの人が迎えにきてくれていた。
車で20分ほどすると、確かにより田舎の光景になってはくる。
ただ昇馬の想像する田舎というのは、アメリカの郊外や千葉の母方の実家の周辺の光景であって、このあたりはただの寂れた町のようだ。
そして到着したのが、私立興和高校。
学校の周辺はまた、少しだけ店が存在していた。
「通うとしたら一人暮らしか」
「いや、野球部は寮があるよ」
「リョウ?」
「アメリカにもあるんじゃない? 親元から離れて暮らす人のための学生用アパートみたもの、かな?」
「へえ、でもそれって野球部辞めたらどうすんの?」
「どうするんですか?」
「あ……うちは野球やるために進学している生徒ばかりだから、学校も辞めちゃうかな」
「ん? 高校って勉強するところなのに、野球部辞めたら学校も辞めるの?」
「日本の場合は、だいたいそうかな……」
昇馬の問いに真琴が答え、そこからさらに出てきた疑問にスカウトが答えたわけだが、考えてみれば微妙なところである。
甲子園に行くために、あるいはプロを目指して、球児たちは野球をする。
だが昇馬からすると、まず勉強ではないのか、と思うのだ。
これはアメリカの場合、大学途中のアーリーエントリーが主流、という常識からなる。
奨学金を得て大学で実績を残し、そこからプロ指名を受けて中退するのだ。
もちろん高卒の時点でドラフトにかかる選手もいるが、その順位が低いと大学に進学、という選手が多い。
根本的な認識の差があるため、昇馬には不思議なことに思えた。
「つまり野球をやる人間ばかり集めてるってことかな? じゃあ俺なんていても仕方ないと思うけど」
「いやいやいや、ちょっと待って」
スカウトが慌てているのが、真琴からは面白かった。
彼女にも女子野球からスカウトは来ていたが、ここまでの話になるまでに断っている。
とりあえずグラウンドを見てもらおうと案内をする。
だがそこに駆け寄ってくる選手が一人。
「コーチ、すみません!」
外部の人間がいるのに気づいたのか、小声での話となる。
そしてスカウトの顔が歪むのが分かった。
「君たち、ちょっとすまないが、あちらのグラウンドの方で待っていてくれないか。日陰のところもあるから」
そして走り去るのだが、何かアクシデントでもあったのか。
顔を見合わせた二人は、とりあえずグラウンドと示された方向に向かう。
「何が起こったんだろね?」
「まあ今のうちに、色々と見せてもらおう」
そう言ってずかずかと、昇馬はグラウンドの方に向かう。
「ちょっと、待ってなくていいの?」
「別にSTAF ONLYとは書いてないだろ? それに自然のままでプレイしているところを見たいわけだし」
「う~ん……」
微妙なところであるが、スカウトもといコーチは、昇馬に見せるつもりであったのだ。
ならば自然のままを見たい、という昇馬の言葉も分かる。
真琴も強豪の練習というのには興味がある。
また問題になっても昇馬は、そもそもこの学校に入るつもりがない。
「ひどいな~」
「時間を使ってやってるだけ、感謝してほしい」
傲慢な昇馬の言い方だが、猟の邪魔をしなかったコーチに対しては、ちゃんと顔を立てたつもりなのだ。
見に来てやったが、チームが気に入らなくて断る。
連れてきたスカウティングの責任ではない。
「で、どこ見るの?」
「あんまり目立たない、手を抜いてそうなところを見ようか」
なんとも断る理由を探す気が満々である。
「こういう建物の場合、裏手でLSDとかやってるのがいると思うんだけど」
「日本の高校生は、さすがに麻薬はしないと思う……」
アメリカのニューヨーク基準の昇馬は、やはり基準がおかしいのである。
ただ、この場合は直感がそれなりに当たった。
クラブハウスらしき場所を裏手に回れば、そこで紫煙をくゆらせている姿を発見したのである。
「なんだマリファナか……いや、ただのタバコか?」
昇馬は暢気に構えているが、真琴としてはまずい場面を見てしまったな、という気がする。
いまどき、部員の喫煙で出場辞退などはないが、少なくとも実際にやっていた部員などは処分されている。
面倒なことになる前に逃げるべきだ、と真琴は思った。
しかしむしろ昇馬は近づいていったのだ。
「何吸ってんの?」
親しげに声までかけたのだ。
昇馬は縦の身長も高いが、その体の厚みもある。
「やっぱり、ただのタバコか」
その威圧感と台詞に、どこか小馬鹿にしたような口調。
過剰に反応してしまう人間はいるのだ。
そこで、少年たちはやってはいけないことをやってしまった。
「なんだてめえ」
「ただの見学だよ。スカウトに呼ばれた」
そうのんびりと答えながらも、昇馬は片方の少年が、金属バットを持って立ち上がったのに注意していた。
「野球部見学なら、ユニフォームが当たり前だろうがよ」
「それが見学しに来てる態度か、ああん!」
なんとも幼稚な威嚇である。
真琴は昇馬の袖を引く。
だが昇馬は動かない。
背中を見せたら襲い掛かってくる。
あるいは撃たれてしまうのが、アメリカという世界であったのだ。
牧歌的な日本社会を経験しても、いまだに昇馬はアメリカ的な人間であった。
そして威嚇のつもりの相手が、金属バットをポンポンと叩いた瞬間、突如として動いた。
手前の少年にタックルをかけて、後ろの金属バットを持つ少年に受け止めさせる。
凶器を手放したところに、手前の少年にローキック。
しばらくは立てなくなる程度のダメージを与えて、残りの一人へ。
顎にパンチを入れると見せて、視界を遮る。
そこから回り込んで、チョークスリーパーを決めた。
鉄板の入ったブーツで足を蹴り、地面にどっさりと座り込む。
足を蹴られて転がるのを注視しながら、絞め技で気絶するのを待った。
「よし」
戦闘不能になった二人。
これで真琴の足でも、充分に逃げられるだろう。
「帰るか」
「どうやって? バスは都合よくやってこないよ」
「駐車場に何台か車があったから、適当にエンジンつなげて……いや、バイクの方がいいか?」
気絶した人間一人と、悶絶している人間が一人。
そもそも追ってくる気力がないかもしれないが。
「いや、さっきのは正当防衛でギリ通るかもしれないけど、窃盗は完全に犯罪でしょ」
真琴はここで、急に冷静になったようである。
持っていたバットを、証拠品として回収する。自分の指紋がつかないように。
「元はタバコなんて吸ってた方が悪いんだし、そんな大きな怪我もさせてないし、向こうに処理はしてもらいましょ」
「まあ、お前がそれでいいなら、俺も構わないけどさ」
ただ、あのローキックの感触からすると、二週間ほどはしっかり立てないと思う。
「そのバット、向こうががたがた言わないように、持って帰るように言わないとな」
「そういうこと」
まったく、野球部の練習を見に来たはずが、厄介なことになった。
そしてこれは、弁護士である母に頼る真琴であったのだった。
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