第25話 スイッチ
ピッチャーにデッドボール。
それはないだろう、と鬼塚は頭にカッと血が昇った。
しかし鶴橋が止めるまでもなく、当たった昇馬自身が腕を振りながらも、ぴょんぴょんとベンチに戻ってくる。
「臨時代走~!」
鶴橋が腹の底から響くような声で、それを告げる。
「聖子に、時間稼げと」
頷いた真琴が素早く走り出し、伝え終わってベンチに戻ってくる。
冷却スプレーをかけられた昇馬は、不快そうな顔をしているが、痛みに耐えられない、というような感じではない。
「あんた、大丈夫?」
「たぶん骨は折れてないと思うんだけどな」
当たった部分をさすっているので、確かにひどい怪我ではないのだろう。
だが場所が場所である。
「真琴、肩を作れよ~」
こういう時でも鶴橋は冷静であろうとしたが、それも無理な話である。
「いや、次私の打席」
だが代わりに誰かをネクストバッターズサークルに置いて、自分は肩を作ろうとする。
しかしベンチ前でのキャッチボールは、昇馬が先に始めた。
左肘には、確かに違和感が残っている。
ひどい後遺症などはないと思うのだが、ちょっとこれでコントロールするのは難しいだろう。
(う~ん、あと3イニングかあ)
投げるとしてもさすがに、ある程度肘を庇いながらになるだろう。
痛みがあったとして、それは出力が出せなくなるのではなく、コントロールが利かなくなるのだ。
二三球投げてみてから肘を回すが、やはりちょっと無理っぽい。
「しゃーないか」
ベンチに戻ってきた昇馬はグラブを置いた。
「無理はするな」
「しないんで、ちょっとグラブ借ります」
鬼塚が不審に思っている間に、昇馬はグラブを取る。
それは右利き用の、つまりは多くの選手が持っている物だ。
ベンチ前で、キャッチボールを始める昇馬。
右投げであっても、そして置きにいくようなボールでも、確かに軽く真琴と同じぐらいの球速は出ている。
キャッチする手の利き腕化、というのは守備練習で少し意識してやっていることだ。
そのために短い距離でのキャッチボールは、利き腕の反対でもそこそこやってはいる。
投球のメカニックを、確かめるように投げる昇馬。
その様子を見て、鬼塚は考える。
(いや、いくらなんでも試合でいきなりは……)
その迷いを察したのか、真琴は口を開いた。
「右でも投げられるよ」
少し難しい顔をしていたが。
「コントロールは微妙だけど、球速自体は変わらないぐらいだし、むしろ打ちにくいかも」
「いや……そういえばあいつは……」
鬼塚は思い出す。
昇馬は大介の息子であるが、同時にあの悪魔の双子の息子でもあるのだ。
高校時代に練習補助員として、あの二人は両手利きで投げていた。
鬼塚自身はあまり見ていなかったが、神宮では明日美だけではなく、あの二人もピッチャーをしていたはずなのだ。
鬼塚は少なくとも、高校入学時点では、あの二人よりも野球は下手くそであった。
あの二人の才能が、異常に万能であったということもあるのだが。
「いいのかよ……」
そう呟く鬼塚であるが、最終決定権は鶴橋にある。
その妖怪爺は、にやりと笑みを浮かべて頷いたのであった。
残り3イニング、そして五回の裏は四番からの打順。
点差は三点もあるが、横浜シニアの打力を考えれば、他のピッチャーからなら充分に逆転は可能。
それが観客席から見つめる、強豪高校のスカウトたちの見方であった。
スカウトとしての立場からすると、あんなデッドボールから、後遺症が残ってもらったら困る。
自分たちの戦力として迎えるなら、そう考えるのが当然である。
しかしベンチの前で、右で投げている昇馬を発見する。
少なくともキャッチボールは、右でもしっかりと出来ている。
「右で投げるのか?」
「確かにプロでも、利き腕とは逆の手で、130km/hぐらいは出すピッチャーもいるが」
「中小レベルのシニアなら、二番手よりも逆の手で投げた方がいいとか?」
「いやいや、さすがに変化球までは投げられないでしょうに」
球速がその程度出たとしても、問題はコントロールと変化球である。
単純な130km/hのストレートなら、横浜シニアなら打っていくであろう。
あるいは上手く、チェンジアップぐらいは投げられるのか。
それがあったとしても、さすがに難しいとは思うのだが。
興味と心配、どちらかというと後者の方が大きい。
ただあの左腕に、大きな故障がないようであるのは、幸いだと言えた。
それにスカウトの立場としては、これ以上どんどん勝ちあがっていってもらうと、より争奪戦が厳しくなる。もう遅いという意見もあるだろうが。
マウンドにまで、そのまま左手にグラブをはめて、登った昇馬。
そこからスムーズな動作で、ボールをリリースする。
ゆったりとした動きからの、瞬間的な爆発。
そのボールはコースこそ悪かったものの、真琴のミットにズドンと入った。
「速いな……」
「一応計測してみるか……」
わずかな投球練習で、コントロールはかなり荒れ気味ではある。
しかしボール自体は速い。
「145km/h……」
「こっちでは148km/h出てるけど……」
「バッティングだけじゃなく、ピッチングまでスイッチ出来るのか?」
「いや、それはさすがに無理だと思うが……」
「コントロールが悪い」
真琴に投げたボールは、ゾーンを外れたものが多い。
ストライクが取れないのでは、いくらスピードがあっても意味はない。
横浜は四番の九鬼からの打順である。
(出来ればちゃんと、まともな形で決着はつけたかったが……)
それはもう、次の機会に期待するしかない。
このピッチャーは、間違いなく上でも、甲子園や関東大会に出てくるレベルだ。
球速はあるが、コントロールはかなりざっくりとしている。
ただそれだけにかえって、狙い球を絞るのは難しいのかもしれないが。
しかしストレート一種類だけだとすれば、150km/hでも打つだけは打てる。
そんな九鬼に対して、昇馬は別に緊張してもいない。
昇馬は統計的に考えている。
単純に荒ぶるストレートだけを投げていても、おそらく三点差はひっくり返せないと思うからだ。
それに問題なのは、コントロールの方ではない。
投げた後のフィールディングだ。
一応はノックも受けているが、基本的に守備は反復練習。
その蓄積があまりない右投げでは、守備の方に課題がある。
送球ミスからのランナーの蓄積が怖い。
だからこそ逆に、三振を奪っていきたいのだ。
(まあこの回をしのげば、次のマウンドまでに、肘の具合も戻ってるかもしれないしな)
アメリカ育ちが長いからというのもあるかもしれないが、昇馬はとことん楽天的である。
最悪でも真琴に交代しても、充分に勝てるだろうとは思うのだ。
相手は先頭が四番打者。
これを三振に取れたら、大きく勢いがつくだろう。
それに打たれて負けても、別に死ぬわけではない。
気楽な昇馬ではあるが、切り札がないわけでもないのであった。
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