第15話 神技の継承者
まだ誰も、それを知らない。
超絶技巧の持ち主が、復帰の可能性があるのだと。
佐藤直史はその日も、仕事を終えるとトランクにトレーニング用のバッグを放り込む。
ユニフォームなどはないが、ウェアにボールにグラブの一式。
野球をやるための道具を見て、軽く溜息をつく。
そして駐車場を出るべく車に乗り込もうとした時、その姿を発見した。
「昇馬か」
「こんにちは。……仕事終わり? 早いよね?」
「ああ、用事があるからな。私に何か用だったのかな?」
「うん、だけど忙しかったら改めるけど」
直史は首を傾げる。
昇馬からの用事というのは、あまり心当たりがない。
それはそれとして思うのは、昇馬も連絡先を知っているのだから、確認してから来ればいいだろうに、ということだ。
どうもこの甥っ子は、現代社会の中でぷらぷらと、文明の利器もあまり使わず、その場の空気に合わせて生きているような気がする。
ただ、父などは言っていたものだ。
自分たちが子供の頃、まだ連絡手段も発達していなかった頃は、あんな感じで田舎で遊んでいたのだと。
携帯電話は人間の自由時間を奪った、などという話を直史は聞いている。
しかし自分たちの世代としては、生まれた時から既にあったものだ。
昇馬の場合は、アメリカのあの大地において、トランシーバーはともかく携帯電話も通じない、という場所を訪れていたらしいが。
直史としても、わずかに触れたアメリカの広大さを思えば、昇馬が予定に縛られずに動き回るというのが、なんとなく納得できなくもない。
「何を聞きたいんだ?」
「ピッチングのアドバイスなんだけど」
「……なら、一緒に来るか?」
「どこ行くの?」
「SBC千葉っていうトレーニング施設だ。ピッチングを見るなら丁度いい」
「じゃ、お願い」
「自転車はそこに停めておきなさい。帰りにまた……いや、帰りは家まで送っていった方がいいのか?」
「自転車で帰れるけど」
「いや、夜も遅くなるからな。自転車はまた取りに来ればいい」
よく見ればこの自転車は、普通のシティサイクルとは違う。
ギアチェンジなどの機能もついているが、しかし荷物を運ぶための荷台なども存在する。
長距離を移動するが、しかしロードバイクとはまた違った、充分な頑丈さを持った代物。
おそらく大介が与えたのだろうが、昇馬には合っているのだろう。
荷物をトランクに入れた昇馬は、そこにもバッグがあるのを見つけた。
だが特に意識はせず、そのまま助手席に乗り込む。
車を発車させ、直史は問いかけた。
「それで、ピッチングが何か?」
「見てもらったら早いと思うんだけど、もっとコンビネーションを増やしたいんだよね」
「今の球種はどれだけあるんだ?」
「チェンジアップとツーシーム」
「少ない……わけでもないのか」
自分の中学時代と一緒にしてはいけない。
さほどの距離もなく、車はSBC千葉に到着する。
そして直史は会員証を使って、昇馬は初回お試しを使って施設に入る。
一応は総合スポーツ施設で、ジムとはなっている。
だが特に力を入れているのは、野球に関するものである。
室内練習場に入る前に、トレーニングルームの一画で、念入りにストレッチと柔軟を行う。
直史の体の柔らかさには、昇馬も驚いた。
現役を引退してからもう、何年が経過しているのだろう。
あの最後の試合のピッチングも、昇馬ははっきりと記憶している。
そもそも昇馬がバッティングではなく、アメリカでは花形とは言えないピッチャーに力を入れたのは、直史の影響が大きい。
父である大介が、とんでもないバッターであるのは、現在進行形で知っている。
だがその父に、ほとんどの対決で勝ってしまっているのが、直史なのだ。
バッターは三割打てば一流、という理屈の上でも、明らかに直史が上に見えた。
それにしても、この準備は徹底している。
「伯父さん、すごい体柔らかいよね」
「ああ、そうだな」
直史は少しだけ笑った。
「現役時代は、自分には才能なんてないと思ってたけど、怪我をしにくい体質というのは、確かに才能だったと今なら思う」
才能の壁を乗り越えるために、無茶な練習やトレーニングをした。
しかしその限界を超えるだけの負荷に耐える肉体を持つというのは、確かに肉体的素質の一つではあるだろう。
アップが済んだ直史は、投げ込みを開始する。
センターに所属するキャッチャーが、そのボールを受ける。
球速などを計測する機会も設置してあり、昇馬はそれを見ていた。
「144マイル!? ……いやいや、ないない、日本はkm/h表示だ」
一瞬驚いたが、自分の勘違いに気づく昇馬である。
マイル換算だとどうなるのか、昇馬はその知識がなかった。
だがおそらく、自分の方がスピードはあるんじゃないかな、とは判断できた。
ただボールのスピンなどは、かなり高い。
スピードはそれほどではなくても、キレのある球、というやつだ。
昇馬はしばらく見ていたが、本当に驚くのはそのコントロールだ。
キャッチャーの構えたミットに対して、その位置を違わずボールを投げ込んでいる。
それもただのストレートだけなら、それなりに昇馬も自信はある。
だがカーブやスライダーなど、大きな変化を伴うボールが、そのままミットに入るのだ。
これは昇馬には出来ない。そもそも変化球とは、あまりコントロール出来なくて当然、という認識が昇馬の中にはある。
やはり母の言葉は間違っていなかった。
パーフェクト・コントロール。
伯父の投げるボールは、単純にコースのコマンドに投げ込むだけではない。
変化量までも計算して、ボールを投げ込んでいるのだ。
完全に同じフォームで、全てのボールを投げることは出来ない。
直史はそう言ったが、昇馬としては首を傾げるばかりである。
だが投げてる本人がそう言っているのだから、ほんのわずかには変化があるのだろう。
ミリ単位であっても、それがボールの届く先のミットとなれば、大きな違いが出てくる。
なのでピッチャーには、修正力が必要なのだ。
己の体軸をしっかりと認識し、またそれを調整する体幹の強さ。
直史に見てもらいながら、昇馬もピッチングを続ける。
「俺も中学時代は、毎日300球ぐらい投げていたなあ」
自分の呼称が「俺」に変わってるなと気づいた昇馬であったが、言葉の内容の方に驚いた。
「300も投げてたら壊れなかったの?」
「俺は壊れなかった。それぐらいやってようやく、この」
とんとんと、指で頭を叩く。
「脳がちゃんと、体の動きを制御できるようになる。このあたりは桜や椿の方が詳しいと思うんだが」
「バレエ、俺はやりたくなかったから……」
「他のダンスがどうかは知らないが、バレエの身体操作は、ちゃんとスポーツ全般に役立つぞ」
「アメリカだとバレエなんてやってたら、馬鹿にされることが多いんだよなあ」
「そういうものか」
もちろん場所による。
直史の教示は続く。
「完全に脳で肉体をコントロールするなら、感覚の一つを遮ってみてもいいんだ」
「どういうこと?」
「そうだな」
直史はバッグの中からタオルを取り出す。
別に何もおかしなところはない、吸収力に優れたタオルだ。
だがマウンドに戻ってきた直史は、それで目隠しをした。
五感の一つである視覚を遮断して、そこからプレートに触れてセットポジションとなり、足を上げたのだ。
人間の肉体は、視覚による情報がもっとも多く獲得されていると言われる。
その一つを封じた上で、ピッチングをする。
ちゃんとゾーンに入るどころか、足元が危険ですらあるのではないか。
だが直史の投げたボールは、キャッチャーのミットに吸い込まれた。
「ちゃんと入ったか」
「……いや、人間業じゃないだろ」
当然ながら直史も、目隠しをしたままキャッチャーからの返球を受けることは出来ない。
なので昇馬がボールを受けて、それを直史に渡すことになる。
ストレートの次は、変化球を投げた。
スライダーがキャッチャーの構えた位置に、しっかりと入ってしまう。
本当に見えていないのか、当然ながら昇馬も疑う。
ただ見せてもらったタオルには、本当に何も仕掛けはなかったが。
これが神技か。
昇馬は驚愕と言うよりは、むしろ呆然としてしまった。
「これが出来るようになったら、俺もさらにいいピッチャーになれるのかな?」
「それは分からん」
直史は率直である。
「そもそもピッチャーの仕事というのは、点を取られないことだからな。こんな曲芸じみたことが出来ても、直接その能力が上がるわけじゃない」
確かに言われてみれば、その通りではある。
「だからやるなら、シャドーピッチングを目を閉じて始めてみればどうかな? 視覚がない分、はっきりと体軸を意識できると思うぞ」
それぐらいなら、確かに出来るかもしれない。
それにしても、本当に人間の出来ることなのだ。
なるほどあの父に、圧倒的に勝ち越しが出来るわけである。
「うちの親父がライバル視するわけだ」
「そうは言っても、敬遠した場面もあったんだぞ」
だが本当に試合を左右する場面では、ずっと対決していったのだが。
直史としては、この若い才能に、逆に驚かされることが多い。
中学生時代の上杉よりも、球速などはあるのではないか。
ただ上杉の場合は、高校からプロへと、どんどんとその能力を伸ばしていった。
今の段階では、確かに昇馬も怪物であるとは言える。
だが早熟であるだけで、伸び代がない可能性だって、考えられなくはない。
順当に昇馬が高卒でプロ入りすれば、大介の引退までに間に合うかもしれない。
史上最強のバッターに、引導を渡す役。
直史は自分がそれをするかもしれないと、そのつもりで準備はしている。
だが、人間は必ず衰える。
それは大介であっても無縁ではなく、ホームランの数も減ってきているのだ。
新しいスーパースターが輝くための、あるいは踏み台になるのか。
ずっとその世界で、最も強く輝いていた才能。
いつかは負けるかもしれないと思って、勝ち逃げしてしまったのが直史であるが。
(俺は大介に勝つために投げるわけじゃないしな)
真正面から力と力の勝負を挑んで、勝てるピッチャーになるのではないか。
世代は移り行く。
人間の世界の星は、夜空に瞬く星のようには、永遠の輝きを放ってはいないのだ。
×××
質問です。
もしも直史が衰えてしまって、かつてのような圧倒的なピッチングは出来ず、それでもチームを勝たせるために泥臭く投げる。
そんな彼を見たいと思いますか?
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