第14話 父として

 真琴に取って今、家は居心地のいい場所ではない。

 上の弟は病状が悪化し、入退院を繰り返している。

 母はそれと、まだ物心もつかない下の弟の世話で、傷つきやすい年頃の真琴の相談相手にはなりにくい。

 両親の祖父母はそれぞれ、真琴を甘やかしてくれる。

 なので変にぐれたりもしないのだが、それでも真琴が両親の愛情を諦めてしまうには、彼女にはまだ人生経験が足りない。


 正直なところ、弟の病状については、詳しくは聞いていないのだ。

 ただおとなしそうに見えて気丈な母が泣いていたことから、あまり楽観的になれないのだとは分かっている。

 それでも父は冷静に、母のメンタルをケアしつつ、仕事もしっかりとこなしていた。

 だがやはり、真琴への世話は、祖父母などに任せることが多かった。


 どうしようもないことなのだ。

 かつては自分も同じように、両親や祖父母から、ずっと心配をされていたのだとは聞く。

 手術代を稼ぐために、父は一度弁護士を休業し、プロ野球の世界に入っていたのだとか。

 ただどう考えても父のプロ時代に稼いだ年俸は、真琴の手術代よりもはるかに巨額だとは思う。

 きっかけはそうであっても、しばらくプロを続けたのは、やはり父も野球を好きだったからなのだ。


 そんな父が朝、早くからトレーニングウェアに着替えて、ランニングを始めようとしていた真琴と並んだ。

「あれ? お父さん、走るの?」

「ああ、最近は少し走ってるんだ」

 母が弟に付きっ切りになっている分、父は事務所の仕事をこなしているはずなのだが。

 日本に帰ってきて、弁護士として働き出した直史。

 ユニフォームよりもスーツの方が、やはり似合っているなと思う。

 現役時代から直史は、コスプレユニフォームなどと呼ばれたものだ。

 基本的にホワイトカラーの人間であり、体もほっそりとしていたからだ。


 アメリカにいた頃の父のことを、真琴ははっきりと憶えている。

 謹厳実直な父は、あのエンターテイメントの世界においても、へらへらと媚を売るような顔はしなかった、と思う。

 実際に今でも、母が時々見ている昔の父の映像には、笑みを浮かべたものはあまりない。

 ただ子供の頃の真琴は、父が普通に笑顔で接していたと、ちゃんと記憶にあるのだが。


 そんな記憶をたどっていたので、少し反応が遅れた。

「どれぐらい走ってるんだ?」

「え、あ、5kmぐらい」

「走り方もちゃんと教わっているのか?」

「コーチがトレーナーにそれぞれ分析してもらってたから」

「鬼塚か」

 そこから少し、親子でのランニングが開始される。


 真琴にとって両親は、少し遠い存在である。

 もちろん虐待を受けていたり、ネグレクトというほどの深刻さはない。

 ただ下に二人も弟がいれば、そちらの世話にかかりきりになるのも仕方のないことだ。

 母方の祖父母が近くに住んでいるので、本当に忙しいときはそちらに世話になることもある。

 下を見ればきりがないのだろうが、それでも真琴の慰めにはならない。


 無言で走っている時間は、さほど長くもないだろう。

 父がどこまでついてくるのか、と真琴が思っているうちに、直史は話し始めた。

「真琴、少し覚悟して聞いてほしい」

 息が乱れない程度の、丁度いいペース。

 あまり笑顔を見せない父であるが、真琴の見た横顔は、さらに厳しいものであった。

「明史は、手術をしないといけない」

 弟の話題に真琴は拒否反応を示しかけたが、その内容の重要度に会話を拒絶するタイミングはなかった。

「今のままだと90%ぐらいの確率で、明史は20歳まで生きられない」

 それは、とても衝撃的なことであった。

 こんなところで話すのか、と思う内容でもあった。


 明史の心臓が悪いのは、真琴もよく知っていることである。

 両親がそんな弟を気にかけるのは、確かに仕方のないことだと、納得出来る部分もあったのだ。

 しかし父が口にしたのは、真琴の想像よりもずっと重たいものであった。

「手術を……すれば?」

「少なくとももっと長生きできるのは間違いない。ただ、手術の成功率は70%ぐらいなんだ」

 それは、単純に確率としては、悪くはないものだろう。

 だがかかっているのが命であれば、三割の確率で死ぬのか。

 命がかかっているのだとしたら、それはとてもリスクの高いことだ。少なくとも安易に勝負出来ない。


 七割打てるバッターだとしても、自分がアウトになれば試合が終わる。

 そう考えると明史の状態を、楽観視できるはずもなかった。

「明史は、手術を受けたくないと言っている。もちろん冷静に考えれば、手術しかないのは当然だ。……お前の手術の時も、似たようなものだったしな」

 真琴にはもちろん記憶のない、幼児期の手術。

 本当に生きるか死ぬかのものであったのだと、今でも親戚の集まりなどでは話に上がる。


 だから、だったのか。

 それが分かったから、もう一人子供を生んだのだろうか。

「明史に対して、お父さんも出来ることはしてやりたいし、手術を受ける勇気をあげたい」

 話はまだ終わっていなかった。

「だから早ければ今年の夏から、遅ければ来年の二月から、しばらく家のほうは留守にすると思う」

 それだけ忙しく仕事を入れるのか、それとも他に何か理由があるのか。


 明史に対して、勇気を与える。

 それはとても、父らしい言葉に思えた。

「お父さんもお母さんも、お前が同じ病気だったら、同じことをしていたと思う。だから厳しいことをお願いしてしまう」

 その父の声は、ほんの少しだけ苦悩するかのようで。

「悪いが、もう大人になってほしい」

 父のその言葉の真意を知るのは、ほんの少しだけ後になってのことであった。




 70%の確率で病気は治癒するが、残りの確率で術中死か手術中断となる。

 手術中断となればそれだけ、明史の体力ももたなくなってしまうだろう。

 90%と医者は言っていたが、実際のところはまず大人になるまでは生きられない。

 これが自分のことなら、即座に受けたであろう直史である。


 時間が経過すればするほど、手術の成功率は減っていく。

 だがまだ何者にもなっていない明史の、死への恐怖というのは、どうにか想像できなくもないのだ。

 無理に説得することも、出来なくはないのかもしれない。

 しかし本人にその気持ちがなければ、手術は成功しないように思う。

 気持ちとは、勇気である。


 明史に対して、自分が見せられる勇気はなんだろうか。

 そう考えていた直史は、今日も仕事を素早く片付け、千葉のSBCへとやってきていた。

 さすがに鈍っていた体を鍛え直すには、直史でも時間がかかる。

 だが人間の、父親としての力を見せることは、明史にとって勇気には見えないだろうか。


 体幹から体軸、そして下半身と柔軟。

 直史は順番に、体を鍛え直している。

 もう全盛期のあの頃には、さすがに戻らないとは思う。

 だが力はなくなったとしても、技術はまた別だ。

 その技術さえも、今はさび付いているのだが。


「なあ、あの人、佐藤直史だろ?」

「そうだよな、俺も昔見たよ」

「すっげえ負荷かけてるけど、あんなのプロのプレイヤーがやってることじゃないのか?」

「いや、でも引退したの、もう六年か七年も前だろ」

「ひょっとして復帰とか?」

「そんな、確かもう40歳ぐらいだろ? MLBで稼ぎまくったはずだし、今さら?」


 人の目は、あまり気にしない。

 気にしなければいけないのは、プロの目に自分の力が、どう映るかだ。

 そしてあのマウンドに立って、自分が投げられるかどうか。

 投げる自分の姿が、本当に息子にとって勇気を与えることが出来るのかどうか。


 友人たちに加え、家族にも大きな負担をかけている。

 だが自分が出来る、勇気を与える表現というのは、本当にこれぐらいしか思いつかない。

(必ず、間に合わせる)

 そうでなければ、瑞希や真琴にも、迷惑をかけている意味がない。


 かつて大サトーと呼ばれ、大魔王とも呼ばれた。

 しかし最も、野球の神技に近いと呼ばれた男。

 彼の挑戦は、人生の半ばを迎えてもなお、終わってはいないのである。

 誰かのために、今度は投げる。

 その誰かが今回は明確に、愛する子供たちである。

 明史だけではなく、真琴に対しても。また他の家族に対しても。

 それでもやはり明史のために、直史は舞台への帰還を目指す。


 ただ自分の覚悟を話したことで、大介がNPBに戻ってきたのは誤算ではあった。

 もうずっとMLBの最高年俸をもらっている大介が、NPBに戻ってきた理由。

 それは決して、現役最後のシーズンを、NPBで過ごすためではない。

 一方的にやられたわけではないが、かなり直史に偏った、二人の対戦成績。

 ずっと現役を続けてきた、あの小さな怪物に、逃げずに挑んでいかなければいけないのか。


 まったく馬鹿なことをしている。

 自分も馬鹿だし、大介も馬鹿だ。

 結局二人とも野球馬鹿であるのだ。

 トレーニングで呼吸を乱しながらも、直史は今度こそ本当の、己の限界を目指すのであった。



×××



 次話「神技の継承者」

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