16. 急転直下
真夜中、ブラッドリーは自分の部屋を後にする。
夜も更け、メイドも皆寝静まった夜。
彼はメインホールの階段を独り降りていく。
カーペットを踏む自分の足音さえ煩わしい。それほどに、屋敷は昼間とは打って変わって静寂に包まれている。
彼はルーイに会うつもりだった。
ルーイに、例の“イヴリン”について聞こうと思っていたのだ。
以前魔王軍の諜報員として活動していた彼なら、何か知っているかもしれない。
そろりそろりと、階段を降りた彼は足音をたてぬよう玄関に忍び寄る。
ふと、鞄を置いてきたような気がして、彼は腰に視線を落として。
「――――あら、こんな時間にお出かけ?」
ブラッドリーは反射的に振り返り、剣の柄に手をかける。
心臓が飛び跳ね、体中の血液が凍り付く。
彼はその声に聞き覚えがあった。
イヴリンだ。
「い、イヴリンさん?」
彼女はニコニコと、顔に笑顔を張りつけながら彼を見つめていた。
「てっきりもう帰ったのかと」
「帰ろうと思ったんだけどね、ちょっと気になることがあって戻ってきたの」
口ぶりからして、どうやらクネル伯爵の承諾は得て無さそうだ。
ブラッドリーは呆れて言葉を失う。
「気になることがあるからって、勝手に屋敷に入ったらまずいだろ」
「うーん、そうね。けど、そんな些細なこと気にならなくなると思うよー?」
不意に、彼女の笑みがにいっと不気味に歪む。
――――シュッ!
何かが空を切る音。
そして二つの小さな“影”が、ブラッドリーの視界に飛び込んでくる。
それは見る見るうちに大きくなっていく。
いや、大きくなっているのではない。
――――“飛んできている”のだ。
彼はそれにいち早く気が付き、身構えた。
そして、魔術を発動させる。
…………彼は何とか、すんでのところでその飛び来る影を空間に縫い留めた。
彼の目と鼻の先には、絵画の如く微動だにしない二本の“ナイフ”が。
それは宙でゆらゆらと揺れながら、シャンデリアの光を受けて輝いていた。
その奥。
二本のナイフの奥で、イヴリンは満足げな笑みを浮かべていた。
「あはは、ほーらね。私の思った通り」
彼女は蕩けるような声で、そして興奮のあまり熱っぽい吐息を抑えきれていない。
ブラッドリーはその一言で、自分が見事彼女の術中に嵌ったことを悟った。
「…………まさかナイフで正体がバレるとはな」
その証拠に、ナイフから細い糸がイヴリンに向かって伸びている。
結局彼が魔法を使わなくとも、ナイフは最初から彼に届かなかったのだ。
彼女は彼の能力を“知って”いる。
そうでもなければ、こんなトラップは仕掛けられない。
「最初から俺を知ってたのか?」
イヴリンは微笑んだ。
「ええ。――――“刃物を自在に操る魔術を用いる”、そう報告書に書いてあるわよ?」
彼女はさらに付け加える。
「合ってるでしょ? …………魔王軍参謀、“ブラッドリー・ミュラー”さん?」
ブラッドリーは今度こそ、剣の柄に手をかけた。
そして悟られないよう、注意を逸らしながら互いの間合いを測る。
「じゃあ自己紹介はいらねえな。…………しっかし俺の情報を掴んでるなんて、とんだストーカー野郎だ」
「摂理委員会はそこらの密偵とは訳が違うのよ?」
イヴリンは胸ポケットから、すらりと細身の短剣を引き抜いた。
「我々委員会に知り得ない事は無いのよ? …………“戦場の奇術師”さん?」
「そーかよ。じゃあ、もちろん書いてあったよな?」
ブラッドリーが不敵な笑みを浮かべる。
「――――“最強”だって」
彼の飄々とした態度を前にしても、イヴリンは決してその笑みを崩さない。
「そうね、大軍相手でも負けなしって書いてあったわ。けど」
――――イヴリンが突如、カーペットを駆ける。
獲物を狙い地面を這う“ヘビ”のように。
彼女は一瞬の隙をも見せない。
「それも今日でお終いッ!」
彼女は見事ブラッドリーの懐に潜り込む。
慌てて視線を落とす彼と、イヴリンの視線が交錯する。
そして彼女は、右手の短剣をブラッドリー目掛けて…………振り下ろす!
「――――おおっと、そうはいかねーよ!」
彼がその寸前で引き抜いた“奇妙な”剣と、イヴリンの短剣が交差する。
剣はぎりぎりと音を立てながら、互いの相貌は睨み合う。
隙を見て、ブラッドリーは後ろに飛びのく。
ドアノブに磁力を付与し、剣を使って、まるで自由落下のように。
彼は、イヴリンとの間を大きく離すことに成功した。
まんまとしてやられた彼女は、不機嫌そうに舌打をちする。
「その“訳の分からない術”。…………報告書もまだ不完全!」
彼女はさっきよりも苛立っていた。
悠々と、その右手に握られたナイフを弄ぶ。
「私たちの知らない情報は、あとそれだけ」
「だったら調べてみろよ。得意なんだろ? ストーカー野郎」
「ええ、もちろん!」
イヴリンの顔が再び蕩ける。
「他の人たちみたいに、徹底的に痛めつけて、悲鳴をあげさせて、泣かせて、苦しませて。
そして、暴いてあげる」
ブラッドリーは笑う。
「さあ、苦しむのはどっちかな?」
双方が睨みあう中、突然玄関ホールに放たれた神の一声に、二人はピタリと動きを止めた。
そしてその声の持ち主が、どたどたと足音をたてながら二人の傍にやって来た。
「――――何事だ! なんの騒ぎだ!」
メイドを引き連れ慌てて寝間着を着なおしながらやって来たのは、クネル伯爵。
不意に、イヴリンと彼の目が合う。
「イヴリン殿? なぜここに」
「これはこれは、クネル伯爵。すみません夜分遅くに。少々、やらなければならないことがありまして」
「しかし、だとしてもこんな時間だ。礼を欠くとは思いませんかな?」
流石のクネル伯爵も、彼女の夜間の訪問に眉をひそめる。
すると、しばらくしてギエナとリリアもホールに現れた。
「――――どうかしたの? お父様?」
「――――お館様! 如何されましたか!」
やって来た二人はブラッドリーとイヴリンを見るや否や、何かもめ事が起こっていると理解する。
すると、ギエナがイヴリンを見て驚く。
「イ、イヴリン! お前どうしてここに!」
「あら、ギエナ。こんばんは」
イヴリンはくるりと彼女に振り返る。
「丁度あなたが言ってた“怪しい男”の正体を暴いたところなのよ?」
彼女は嬉しそうにほほ笑む。
ブラッドリーは驚きもせず視線をギエナに向ける。
ずっとギエナとのやり取りを不安に思っていた彼は、今更驚かなかった。
第一、最初に通報と聞いて彼は彼女の顔を思い浮かべたのだから。
「暴いたって…………どういうことだよ」
「あ、気になるでしょギエナ? それに、ここに居る皆さんも」
イヴリンはそう言うと、まるで同意を煽る指導者のように、ぐるりとホールを見回した。
ギエナ、クネル伯爵そしてリリアも、みな口をつぐむ。
皆、彼女の次の言葉を待ちわびていた。
ただ一人を除いて…………。
イヴリンは大きく息を吸った。
「彼の正体は――――」
「俺こそが、元魔王軍参謀。“ブラッドリー・ミュラー”だ」
自らの出番を掻っ攫われ、イヴリンは驚く。
しばらくして、それがよほど可笑しかったのか彼女は笑いだす。
「…………ほんと往生際が悪いわねぇ。バレるんだったら、いっそ自分でバラそうと思ったのかしら?」
しかしブラッドリーはその軽口に狼狽えることも無く、事も無げに鼻で笑って見せた。
「そうだよ。だって、ここで名乗っておかねえと」
彼もイヴリンのように、にやりと不敵な笑みを浮かべた。
「お前に勝った男の名前を、誰も覚えないだろ?」
「ほんと、口の減らない男ね」
イヴリンは少し苛立っているのか、ぎりりと歯ぎしりをしている。
ぽかんと口を開けていたリリアとギエナの傍で、クネル伯爵だけは、一人難しい顔をしていた。
いつもの優しそうな目つきは何処にやら。
リリアとギエナでさえ見たことの無い、冷たく鋭い目つきをしていた。
しばらくすると、クネル伯爵はその重い口を開く。
「君は…………君は本当に、あの“魔王軍”の参謀なのか」
それはブラッドリーへの問いかけだった。
「ああ、そうだ」
彼は頷く。
クネル伯爵は険しい表情でそれを見ていた。
それから彼は、大きなため息を吐くと。
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