14. 告白
ブラッドリーから、白い湯気がもくもくと立ち昇っている。
クネル伯爵の浴場から出てきた彼は真っ白なタオルを体に巻き、自室へ戻っていた。
浴場は広くとても使いやすい。
もし魔王城にこれと同じくらい豪華な浴槽があったらなあ、と彼は叶わぬ夢に思いを馳せる。
ゲストルームにたどり着いた彼はドアを開け、部屋の中に入った。
――――と、そこで室内の不審な人影に気が付く。
「誰だ」
ブラッドリーが身構えると、窓際の人影は憂鬱そうに振り返る。
「――――私よ」
杞憂だったことを知り、ブラッドリーは胸をなでおろす。
「なんだ、リリアか」
そして窓際で黄昏ているリリアの傍で、彼はわしゃわしゃと髪を拭く。
部屋の蝋燭に火を灯していないせいで、真っ暗だ。
とは言っても、窓から差し込む月明りが辛うじて、部屋を青白く照らしていた。
ブラッドリーはベッドに腰を掛けると、ごろんと仰向けに倒れる。
リリアは髪を手櫛で耳にかけ、月を見上げた。
「ねえブラッド」
「ん、なんだ?」
「…………あの村にいた女。あいつ一体何者なの?」
彼女は恐らくシーラの話をしている。
ブラッドリーもそれを分かって、どこまで話していいものか困った。
「さあな」
ぶっきらぼうに答えると、彼はボーっと月明りを眺めていた。
しかし突然リリアが立ちふさがり、月明りを遮る。
「嘘」
「なにが嘘なんだよ」
「知らないって、嘘でしょ。私聞いたから。あのへんな付き添いの男が、あなたのこと“上官”って呼んでたの」
「あ、ああ…………」
確かにあんな人目も
ブラッドリーはしまったと頭を掻いた。
「ねえ、本当のことを話して。なんであの男はあなたを上官って呼んでたの? …………あなたは一体、何者なの?」
「まあ待てよ。そんな
とは言ったものの、何を話していいのか彼は分からない。
自分が魔王軍の元幹部だとバラす?
そんなのダメに決まっている。
しかし、そこから話さないと彼女の疑問に答えられない。
ちく、たく。
時計の秒針が、彼にはいつもよりうるさく聞こえた。
居心地が悪い、ということはない。
逆に落ち着くくらいだというのに、不自然なほど会話が無い。
リリアは答えを待ちあぐねているわけでもなく、ただ月明りを眺めている。
「――――なあ、リリア」
不意にブラッドリーが口を開く。
返事を待ちわびていたリリアは、興奮気味に彼の方を向いた。
「何?」
「俺のこと、信頼してるか?」
リリアは笑う。
「何それ。厄介な女みたいな質問ね」
ブラッドリーはいつになく真面目な顔だった。
それがリリアに何を期待しているのか。
彼女にはうっすらと理解できた。
「ちなみに、信頼してないって言ったらどうなるの?」
「別に。そうなんだ、で終わりだ」
リリアは意地悪な笑みを浮かべると、「冗談よ」と白状する。
「…………もちろん、信頼してるわよ。大ピンチだってのに、あなたを置いていくくらいにはね。それに」
彼女はぽっと頬を赤らめたかと思うと、突然顔を逸らす。
「私も友達も…………助けてもらったし」
ブラッドリーはそれに気が付いたが、いつもと違い茶化そうとしない。
「そうか。そりゃ嬉しいね」
「これで分かった? あなたを信頼してるって事」
「ああ、十分。痛いほど伝わったよ」
「もっと伝えてあげてもいいんだけどね。で、なんでそんな事聞いたの?」
リリアは首を傾げる。
するとブラッドリーは頭をもたげ、彼女の瞳を見据えた。
「いや、なんかそういう気分だっただけだ」
「何それ」
リリアは呆れて窓枠に頬杖を突く。
「ったく、はぐらかしちゃって」
彼女はまんまと煙に巻かれてしまい、肩を落とす。
しかし彼女は負けじと食い下がった。
「あの時あの女と一緒に居た男。あいつは一体何者なの? 明らかにあなたの知り合いみたいだったけど」
ブラッドリーは唇を噛む。
「ああ」
「…………古い友達かなにか?」
「いや、友達というか仕事仲間だ」
地面に転がるヴァレハムの瞳が、くるりとブラッドリーの方を向く。
それはまるで、“仲間殺し”を
彼はその忌々しい記憶を消し去ろうと、ナイトスタンドの水差しを手に取る。
その額には汗が滲んでいた。
「あ、私にも一杯いれて」
リリアはそう言うと、ちょこんとブラッドリーの横に腰掛ける。
彼は二つのグラスに水を注ぐと、一つを彼女に手渡した。
「ありがと」
彼女はグラスから一口飲んだ。
「辛いなら話さなくていいのよ。失礼なのは分かってるし、これは私の好奇心だから」
リリアは真顔でじーっと床の模様を見つめている。
あの場に居なかった彼女とて、血まみれで帰ってきたブラッドリーを見れば、あそこで何があったかは容易に想像できた。
だからこそ、聞いてから少し後悔していたのだ。
「気にすんな。ずいぶん昔の事だし、それにあんまり関わりなかったから」
「ほんと?」
「ああ」
そう言う割に、ブラッドリーの表情は暗い。
それにリリアは気が付いて、そっとブラッドリーに寄り添う。
「…………もう随分前だ、あいつと一緒に働いてたのは。当時は俺が上司的な立ち位置だったから、いつもあいつの面倒を見てやってたんだ」
「彼相当剣術に長けていたみたいだから、前は傭兵とか冒険者とか?」
「そうだな、傭兵が一番近いかもしれない。王や貴族の認可を受けてない、正直グレーな傭兵の集まりだった」
「だからあいつはあなたの事を“上官”って呼んでたのね」
「ああ。そんで、度々戦いに赴いた。奴と一緒に戦った晩は少なくない。とは言っても、プライベートで関わり合いは無かったんだが」
ブラッドリーはそこで言葉を切ると、一息置いてからグラスを傾けた。
「俺がそこを辞めてから…………いや、そこが無くなってから、今日までどこで何をやってるかすら分からなかった」
彼は物憂げに水の入ったグラスを眺める。
「まさかあんなことをしてるなんて、想像もつかなかった。あいつは…………その、」
彼は傍から見て取れるほどに、今度は強く唇を噛む。
リリアも見ていて痛々しいほどにそれが分かった。
「ねえブラッド?」
不意にリリアが割り込む。
彼はハッとして隣を向いた。
「あなた、本当は辛いんじゃないの?」
彼は図星を指され、青ざめる。
「なんでそう思う?」
「話しててすごく…………辛そうだったから」
リリアは心配そうにブラッドリーの顔を見上げる。
「私が聞きたいなんて言ったからね。本当にごめんなさい。配慮が足りなかった」
「…………謝るなよ、リリア」
ブラッドリーはふっと力なく笑う。
「俺はお前を責めちゃいないし、これがお前のせいだと思ってもない。それに、恥ずかしいけどお前の言う通りだよ」
「でも…………」
「俺は、過去を捨てきれてない」
彼は苦々し気に漏らす。
「悪かった、嘘吐いた。あんまり関係ないなんて、真っ赤な嘘だ」
「じゃあ」
「――――あいつは本当に優秀な部下だった」
ブラッドリーは俯く。
「常に冷静沈着で、他の奴らとは違って善意に満ちていた。誰にでも優しく接して、悪いことは悪いと言える奴だった。
俺は奴のそんなところを見込んで、気に入って、自分の部下にしたんだ」
奇妙な間が空いてから、ブラッドリーはその固い口を開く。
「けどお前も見た通り、あいつは変わっちまった。文字通り、別人に」
「…………理由は分からないけど、その原因にあの女が一枚噛んでるのは確かね」
「ああ。だろうな」
「憎くないの? 大事な部下をあんなにされて、あなたはあの女が憎くないの?」
リリアは少し感情的になって聞いていた。
「あなたが落ち込む必要なんて無い。だって、あの女が全部悪いのよ?」
それはヴァレハムへの怒り、というよりは、あの女への怒りからくるものだった。
しかしブラッドは、彼女とは打って変わって冷め切っている。
「俺には分からない」
「一体何が分からないの?」
「…………あの女が彼を取り込み、変えてしまったのか。それとも」
ブラッドリーは一瞬言葉に詰まってから、振り絞るように言った。
「――――あいつが“望んで”変わってしまったのか」
奇妙な静寂が訪れる。
それはさっきのとは違い、とても居心地の悪い、まるで瓶の中のようで息が詰まりそうだった。
リリアはなんと声を掛ければいいのかを、必死に考えていた。
彼に必要なのは慰めなんかじゃない。
“答え”が、必要なんだ。
けど、彼女はそれを知らない。いや、この答えを知っている者はもうこの世にいない。
誰が何と言おうと、それは憶測の域を出られないのだ。
「――――仲間を斬ったのは、今日が初めてだった」
ブラッドリーは打ち明ける。
敵を幾度となく斬り伏せてきた彼でも、今日まで仲間を殺したことはなかった。
それこそ、部下からの信頼が厚い彼はそんな機会訪れるはずも無かったのだ。
「やる時はやれる、いざその時が来たらできるなんて思ってた」
リリアは静かに耳を傾ける。
彼女は彼の心に何とか寄り添いたいと思っていた。
が、心の隅で自分が彼にとって“特別”であってほしいという欲望が疼く。
彼女はその気持ちに気付いて、恥じた。
一体自分は何を考えていたんだろうか。
しかし、彼女にとってブラッドリーはもうただの“恩人”ではないのだ。
特別になりたい。
その気持ちに、嘘は無かった。
「けど、そんなことは無かった。俺は甘えてただけなんだよ」
ブラッドリーは普段から想像もできないくらい、弱々しい声でそう零す。
その声は子犬のように弱々しく、震えていた。
と、不意にリリアが立ち上がる。
「――――甘えてなんかない!」
リリアの語気が強まり、ブラッドは驚いて頭をもたげる。
眼前には月明りを背に立つリリアが。
その表情は真剣だ。
「ブラッド、あなたは甘えてなんかない。あなたは、ちゃんと“決断”したのよ。
過去を捨て、今と向き合うことを。
仲間の罪を咎めることを。
そして、あなたの“正義”を貫く決意を」
突然、窓の留め金が外れ、夜風が部屋に迷い込む。
リリアの美しい黒髪が揺れ、真っ白なカーテンと踊っていた。
美しい。
ブラッドリーはあの鍛錬の夜を思い出し、そして今再び彼女に見惚れていた。
「だから、自分を責めないで。あなたは自分の意思を貫いたの。決して昔の友情に甘えなかった。それはあなたの決断でしょ?」
リリアは捲し立てる。
まるで我が子を諭す母親の如く慈母に満ちた、しかし叱るように語気は強く。
「だから、あなたは知ってるの。自分が何をするべきなのか。…………自分が何をしなきゃいけないのか」
ブラッドは目を見開き、何かをぶつぶつと呟く。
そしてそのまま頭を抱え、自分の世界から閉じこもる。
そんな彼の様子をリリアは不安そうに見つめていた。
果たして自分の言葉が伝わったのだろうか。
彼を傷つけてしまってないだろうか。
嫌な想像ばかり、頭を過ってしまう。
――――と、ブラッドリーが顔を上げる。
「はは、アハハハハハ!」
奇妙な笑い声が部屋に木霊する。
ブラッドリーは片手で顔を覆い、その隙間から笑い声を漏らす。
リリアはそれを不安そうに見ていた。
もしかして、自分の言葉が気に入らなかったのだろうか?
「…………そーだよ。俺が、俺がやる事なんて最初から決まってるじゃねえか」
ふと、片手が顔から退く。
「こんなことで悩んでる場合じゃなかった」
そしてその下から現れたのは、あの時と同じ。
あの“地下室”でリリアが見た彼の表情と同じ。
「ありがとうリリア。俺はやっと決断できた」
彼の表情が月光に照らし出され、薄暗い部屋にぼんやりと浮かぶ。
――――彼は“笑って”いた。
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