一月四日 アラウンド・ザ・ワールド
時に、私も手が回らないほど忙しい時間がある。それはいつも意図しないタイミングで訪れる。焦りが募り、失敗しないようにと慎重になりお客様との会話を楽しめなくなってしまう。しかし、この場所に通うお客様は皆優しい。加えてタイミングを見計らうのがお上手で、この空間に入り込もうとする静けさを押し退ける。私はそれだけで天にも昇るような幸せをもらっている。
さて、本日のバースデーカクテルはアラウンド・ザ・ワールド。名前の通り、美しく透き通った緑色は大自然を思わせるような色合い。そんなカクテルに込められた言葉は「人を助けて励ます優しい白馬の王女様」。
三が日が終わり、今日から仕事始めという人がほとんどだろう。開店前に足りない物を買いに、駅前の輸入雑貨店に足を運ぶ。帰り際に仕事上がりの人々の声に耳を傾けると、その大多数はネガティブな言葉が漏れ出ていた。
「もう休み終わりかー、有給取ればよかった」
「正月終わって、やる気出ないー」
「明日から数日残業確定。かったるいわー。どうせなら飲み行こうぜ」
重くのし掛かる責任が目に見えるような、その人たちの背中は少し丸くなっていた。
開店準備が終わり、看板をOPENと書いてある方にひっくり返すと、吾妻さんという方が誰かを待つように店の入り口に立っていた。
「吾妻さんではありませんか。誰かをお待ちになっているんですか?」
「あ、彦田さん、すみません。お邪魔でしたか? それと、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「これはご丁寧に。あけましておめでとうございます。こちらこそよろしくお願い致します。他のお客様の邪魔にならければ、結構ですよ」
新年の挨拶を、深いお辞儀とともに交わす。吾妻さんは一人暮らしをしていて、よくお父様と一緒に来店される。今日もきっとそうなのだろうと思っていた矢先、その人物は走ってこちらに向かってくる。
「
「今夜も一時を過ごして頂けるなんて光栄です。さあ、ご案内しますよ」
私は二人を連れて店内に戻る。テーブル席の奥に案内し、手拭き用のタオルとメニューを置いて、買い出しで仕入れた物を仕舞うために一度カウンターへ戻る。ゆったりと流れるバラード曲は、まだこの時間は早かっただろうか。選曲に悩んでいたところ、吾妻さんがリクエストをしてくれた。
「彦田さん、ビル・エヴァンスの曲はありませんか?」
「レトロなチョイスですね。ありますよ」
お父様は、どこでそんなことを知った? とでも言いたげに目を丸くされていた。
「そういえば美央、今日誕生日だったな。はい、これ」
「気
厚めの白い紙袋を渡すと、吾妻さんはそっと自分の荷物に寄せて置いた。メニューを開いて私と目が合ったことを合図に、テーブル席まで伺った。
「ご注文はお決まりですか?」
「私はボイラー・メーカー。美央はこれか?」
お父様が指差したのは、バースデーカクテルだった。
「うん、それ。彦田さん、明日も仕事なので、度数弱めにすることはできますか?」
「ええ、可能ですよ」
「じゃあそれでお願いします」
メニューと一緒にカウンターへ戻る。気付かないうちに席は半分も埋まっていて、少し嫌な予感がした。
まずはボイラー・メーカーを作るとしよう。といっても、ビールグラスにビールを、ショットグラスにバーボンを注ぐだけ。
他の注文を受けつつ、今度は今日のバースデーカクテル、アラウンド・ザ・ワールドを作っていく。ジンを本来であれば三分の二ほど使うのだが、弱めが良いということで三分の一を使い、その代わりミントリキュールとパイナップルジュースを少々足す。これをシェークしてヘタと種を取り除いたさくらんぼを飾り付ければ完成。
「お待たせ致しました。こちらがボイラー・メーカー、それから本日のバースデーカクテル、アラウンド・ザ・ワールドでございます」
ボイラー・メーカーはグラスが二つあるので小さいおぼんに載せ、アラウンド・ザ・ワールドは専用のコースターに載せる。
「バースデーカクテルは特別なコースターなんですね。『人を助けて励ます優しい白馬の王女様』? これはなんですか?」
「カクテル言葉と言って、簡単に言ってしまえば花言葉みたいなものです」
「へえ……初めて知りました」
「お前は言葉よりも実験オタクだからな」
「もう! お父さんってば!」
お父様に釣られて、私も思わず笑ってしまった。その時知ったのだが、吾妻さんは研究員をされていて、毎日白衣を着るそうだ。なるほど、白馬の王女様にぴったりの言葉だ。
その日は忙しない時間に呆気を取られてしまい、久しぶりに口の中がカラカラになっていた。カウンター裏で水分補給しながら今日も賑わいを踊らせていた。
「彦田さん、今日も素適な時間をありがとうございました。もうお父さんったら! 帰るまではシャキッとしてってば!」
「ぐへへ、今日も美味い酒、ありがとなー。ひっく」
お父様は顔を真っ赤にして、少しふらついていた。帰りは大丈夫だろうかと心配になるほど。
「あはは……。タクシーをお呼びしましょうか」
「先ほど呼びましたので、大丈夫です」
「さすがですね。今日は素適なお誕生日を過ごされたようで、私も嬉しいです」
「はい。ではまた来ますね」
「ありがとうございます。またのご来店、お待ちしております」
階段を上がりきったところに、吾妻さんが予約していたタクシーはすでに待っていた。お父様を押し込むと、続けて吾妻さんも乗って、それぞれの自宅へと帰っていった。
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