羽を折る
カツン カツン
ところどころ崩れて錆びついた廃ビルの階段を上る。肌寒いなんて通り越して凍えそうな寒さの中、暗い足元を慎重に、慎重に。
カツン カツン
1階、2階、3階——……と。足が悲鳴を上げ、冷たい空気を一杯に満たした肺が軋む。フッと息を吐くたび目の前に白い靄が広がり、サラサラとした冬の音を耳に届けてくれた。
階段を上る前、もっと言えばこの廃ビルの敷地内に入る前。見上げたビルはおおよそ10階ほどの高さを有していた。今僕がいるのは半分ほどの高さ、5階くらいだろうか。さっさと最上階まで行って眠りにつこう。
カツン カツン
6階。
カツン カツン
7階。
カツン カツン
8階。
黙々と階段を上がるのにも限界がやって来た。壁に手をやりガクリと膝を折る。座り込むような体勢になると、早鐘を打つ胸に手を当ててギュッと握りこんだ。
そもそも僕は運動が苦手なタイプで、ここまでノンストップで駆け上がれたことさえ奇跡に等しいのに。残りの階段を上り切れるだろうか。
いや、上り切れるかそうでないかは重要ではない。上り切るんだ、絶対に。なにがなんでも。
かじかむ手で披露しきった足をさすりながら立ち上がる。ゆっくり、ゆっくりと。ビルに足を踏み入れた時より何倍も遅い速度で足を動かし始めた。
カツン カツン
足に重しが括り付けられているようだ。動かすのも辛い。
9階。
カツン カツン
あといくつ階段を上れば。最上階はまだ?
10階。
カツン カツン
建物の外に見える街が小さい。地面もずいぶんと遠い。高いところはキライだけど、今だけはこの高さが愛おしい。
11階。
カツン カツン
上り切ったそこは広く場所が開けていて、その先には錆びついたノブをした扉が悠然とあった。
「はぁ……はぁ……やっと、ここまで」
上がる息。トットッと命を主張する心臓を宥めるように胸へと手をやる。
ようやく、ようやくだ。ようやくここまでたどり着いた。今にも崩れてバラバラになりそうな、人の営みから遠く取り残された、悲しい哀しい廃ビルの屋上。
赤茶色の錆が広がる扉にゆっくりと手を伸ばす。普段であればこんな不潔なモノ絶対に触りたくもないが、今はそんなことどうでもいい。
眠りたい。
その一心だけが僕の原動力となり、僕を突き動かしていた。
ギィィ
鈍く耳障りな音を立ててノブが回り、扉が開く。その向こうには風雨にさらされ続けて、見るも無残な姿になった屋上が広がっていて。
「着いたぁ……」
ぽっかりと間抜けな顔をしたお月様がこちらを覗き込む。「夜は君の時間じゃないよ」とでも言うように星がギラリと瞬いた。ハラリハラリと淡い雪が落ちてくるも、一瞬のうちに姿を消す。白く清楚な雪は汚い屋上を濡らすも、冷えた風が何事もなかったかのように雫を払い、頬に落ちた雪も肌の温度に焼かれて消えた。
羽虫のように宙を跳ねまわる雪を、自らの手に収めるために手を伸ばしてみる。しかしながら羽虫……いや雪は、大人しく手に収まることはなくて。指と指の間をすり抜けて落ちていく雪もいれば、皮膚に触れた瞬間にパッと姿を消すモノもいて。
……羨ましい。
雪のように何も残すことなくこの世をされたらどれだけ嬉しいか。人間は死んでも体が残る。ある程度の『存在した』という証拠も残る。
うざったらしいったらこの上ない。
けど、まぁ。
「そんなこと、もうどうでもいっか」
広い屋上を歩き出す。びゅうびゅうと体を打つ風が少し痛いが、それでも足を進めた。慣れない運動で悲鳴を上げていた心臓はいつの間にか平穏を取り戻していたが、どうしてだろう。
やけに、心臓がうるさい。
*
「俺達はずっと一緒だからな!」
「……うん!」
懐かしい、幼いころの約束と思い出。男同士のくせに将来を誓い合う夫婦のように小指を絡めて。厳かなチャペルでもなければ神父もいない、どこにでもあるような、近所の公園にある砂場での一幕だが今でもずっと記憶に残っている。
『ずっと一緒』。あの時の俺は軽い気持ちでそう言ったのかもしれないが、今でも俺はアイツと『ずっと一緒にいたい』と思っている。
そう、それこそ死の瞬間さえも。
カンッ カンッ カンッ
鋭い音を立てる階段に顔を顰めつつも、1段飛ばしで駆け上がる。思い出すのは数刻前に届いた友人からのラインと、そこに書き記されていたとある場所の住所。もう何10年も前に稼働停止したビルで、もちろん立ち入りは禁止されているのだが、友人はどうやらそこで俺に用があるらしく。崩れた壁、落ちた床、割れた窓ガラス。嫌な胸騒ぎがするのは場の雰囲気のせいか、それとも……。
はやる心臓に引っ張られるように足を速める。
カンッ カンッ カンッ
いつの間にか1段ではなく2段飛ばしで階段を駆け上がっていた。つんのめって転げそうになるも、日頃の部活で鍛えられた体幹でなんとか踏みとどまる。
カンッ カンッ カンッ
どれぐらいの階層を越えただろう。アイツは、廃ビルの住所の後ろに『屋上』という言葉も続けて送ってきていた。おそらく友人は屋上にいる。急がなければ。
カンッ カンッ カンッ
荒れた壁越しに見える街並みが遠くなってきた。そろそろ屋上だろうかと思いつつ足に力を入れると、やがて開けた空間が見えてきた。その先には赤茶色のノブと扉が。
ゆっくりと近づき耳を澄ますと、ゴウゴウと空を揺らす風の音がする。
「
そっと友人の名を呟きながら錆びついた扉を開ける。
*
「自殺ってさ、最高の最期だと思うんだよね」
開いた扉の向こう、廃ビルの端っこの方にいる友人はびゅうびゅう吹く風の中で頼りなく佇みながらそう小さく叫ぶ。友人と俺との間の距離は決して近いとは言えないが、それでも声が届くのは冬の夜だからだろうか。風が吹くたびに友人の首元に巻き付いたマフラーがふわりふわりと空を泳ぐ。年がら年中巻いているそのマフラーに「もう体の一部みたいなもんだな」と笑い合った日が懐かしい。
「蝶路」
扉から遠く離れた廃墟の隅に向けて声をかける。
友人の背を通り越した向こう側には、ミニチュアみたいに現実味のない街並みが見えた。彼が1歩でも足を踏み出せば、きっとその箱庭の中に吸い込まれてしまうだろう。
そうしてひしゃげて転がり、人形みたく力を無くして横たわってしまうだろう。
だから。
「どうしてそう思うんだ?」
早鐘を打つ心臓を押さえつけながら、ゆっくりと友人の方に歩みを進めつつなんてことないように言葉を紡ぐ。焦っていることを悟られないように、アイツを刺激しないように。
引き金を引かないように、引導を渡さないように。なんとしても繋ぎとめたくて、いつも通りを装った。
「だってさ、訳の分からない病に体を食い殺される訳でもなく、殺意もない事故に巻き込まれて突発的に息絶える訳でもなく、自然という脅威に呑まれてパタッと死ぬ訳でもなく。しっかりと自分の意思で、覚悟を胸に死ねるんだよ? これ以上の幸せってある?」
こちらに背を向けているため顔こそ見えないが、声だけでもアイツが今どんな表情をしているかくらい手に取るようにわかる。とても楽しそうな声音、弾む語尾。
きっと今のアイツは『幸せ』なんだろう。
けれど。
「ある、あるさ。それ以上の幸せなんてそこら中に転がってる」
俺は認めない、蝶路の幸せを認めない。
いや……違うな。俺だけは認めてはいけないんだ。
だって認めてしまったら蝶路はきっと、喜んで先へと進んでしまうから。
それは、それだけは嫌だ。
蝶路がいなくなるのだけは嫌なんだ。
避けなければならない、なんとしても。
蝶路の為にも、いや俺の為にも。
「へぇ。じゃあ例えば?」
「た、とえば」
そこまで口にしても続く言葉が思いつかない。
啖呵を切ったのは俺のくせに、なにも思いつかない。きょろきょろと視線を彷徨わせながら、餌を求める鯉のように意味もなく口を開いたり閉じたりする。蝶路の方へと進んでいた足も、彼の唐突な問いかけで歩みを止めた。あと少しで届く距離なのに。
「ね、
くるりと振り返る蝶路。こちらを向いた彼は、見たことも無いような満面の笑みを浮かべていて場違いのようなその表情に背筋が冷える。冬の寒さのせいではないその冷えに、見たことのない表情に、肉食動物を前にした小動物のようにビクリと体が跳ねた。
「あるんでしょ? 『幸せ』がそこら中に。ねぇ僕にも教えてよ、蓮の『幸せ』」
聖母のように慈愛に満ちた表情、けれど尋ねかけられている俺にとってソレは閻魔様の前で行われる裁きのようにしか聞こえず。
必死に頭を動かす。どう答えるのが正解なのか、どうすれば間違いなのか。
「俺にとっての『幸せ』は……」
「うん」
蝶路から顔を逸らしながら、くすんだ地面に目をやりながら必死に答えを探す。いたずらをした子供に対して優しく耳を傾ける母親のように、ふんわり頷く蝶路に罪悪感で胸が苦しくなる。
「腹いっぱいの飯」
あぁ、ダメだ。こんな答えじゃきっとコイツは満足しない。
考えろ、考えるんだ!
「それから、スポーツ」
違う、違う! コレじゃない!
「それから、それ、から……」
ぐるぐると目の前が回る。どうしよう、どうしよう!
このままじゃダメだ、ダメなのに!
呼吸が浅くなってくる、脈打つ心臓がうるさい、風の音も何も聞こえない。どうすれば。
「ふふっ、もういいよ」
突然の宣告。
「は……?」
俯けていた頭を上げて、蝶路をしっかりと視界にとらえる。
「君は、ちゃんと毎日が『幸せ』だったんだ」
さっきのような背筋の凍るような笑顔ではなく、いつも見る、俺のよく知る蝶路の笑顔。その声があまりにも嬉しそうで。
「ならそれでいいよ。連は、そのままでいてね」
そしてまたしても突然。
蝶路が俺の視界から消えた。『そのままでいてね』という言葉が、彼の最期の言葉だった。
「ちょうじ……?」
地上から遠く離れたビルの最上階、聞こえるはずもないのに蝶路の身体のひしゃげた音が、グチャリと粘着質な音が耳に届いたような気がする。あらぬ方向に向いた手足、広がる赤い血の絨毯、虚ろに空を見るなにも映さない目。見たわけでもないのにその情景が眼前に広がる。
「なにも、なにもできなかった……」
ビルの端、蝶路のいたはずの空間を目の前にその場にふらりと座り込んだ。静かだった夜に音が戻って来る。風が俺を責めるように吹き遊ぶ。
「動けなかった、間に合わなかった。俺は、どうして……」
ぽたりぽたり、と雫が地面を打つ音がする。
おかしいな、真っ暗な空には満点の星が煌めいているというのに。真ん丸なお月様が見える、綿菓子みたいな雲はどこにも見えない。雨の予報なんてなかったはずなのにな。
不思議に思いつつも、何故だかしっとりと雨に濡れた頬に手を伸ばす。
「あぁ、そっか。泣いてるのは、俺か」
指先に拾った雫を見てようやく理解する。その小さな雫は冷たい風に攫われて、瞬く間に消えて行ってしまった。
風前に揺らぐ灯のようにあっけなく、なんてことないかのようにふわりと風に乗って。
その様子が、間に合わなかった友人の最期とどうしてか重なって。泣いているという自覚をしたとたんにとめどなく溢れる涙が水量を増して頬を濡らした。
「助けたかった。自己満足でも、アイツが嫌だって言っても。緒に生きようって、手を……」
震える声で言い訳を探すも友人はもうどこにもいなくて、やるせない喪失感だけが胸に穴を開ける。
「どうしようもない地獄でも、2人いれば大丈夫だって。助けたかったんだ……」
ぐすぐすと鼻を鳴らしては手で目元を覆う。その間も雫はとめどなく溢れては地面に消えていった。ぽとりぽとり、と絶え間なく。水たまりができそうなくらいに。
あぁ、でもそうだ。まだ、なんとかなる。
ゆらりと立ち上がる。
座り込んだまましばらくいたため、すぐには直立できなかった。ゆれる足で立った後は、そのまま足を進める。酒を飲んだわけでもないのに覚束ない足は、ふらふらと左右を行き来して。
あぁ、そういえば。一緒に酒を呑もうって約束をしてたのに。
ふらり
お互いに子供が出来たら一緒に遠出しようって、言ってたのに。
ゆらり
結婚式のスピーチを互いにしようって。
ぐらり
爺になってからも一緒に囲碁を打とうって、約束していたのに。
トンッ
まぁ、今となってはそんな約束どうでもいいか。
右に左に揺れながらも真っ直ぐ進むと、建物の端で足を止めた。先ほどまで蝶路がいた場所。蝶路の最期の場所。
びゅうびゅう吹く風が身体を叩きつける。
眼下で大口を開けていつも通りを過ごす町は、恨めしいほどにいつも通りで。暗闇に浮かぶ街灯も、淡く町を照らす家々の蛍のような光も。夜は我がものと町を駆ける野生動物たちも、ゆるやかに流れる川も、さわさわと揺れる草木も、変わらない。本当に。
あぁ、知ってたさ。
たった1人の命が消えても世界になんの影響もないことなんて。
知ってたさ、知っていたとも。
だったら。
「なぁ、いいよな。俺も、そっちにいって」
もう1人くらい消えたって構わないだろう。どうせ明日も、なんてことない顔して日は昇るし、月もまた夜を照らす。
人々は『あらかわいそう』なんて思ってもないこと口にして、上っ面だけの憐憫を振りまくのだから。そうして可哀想な人を憐れむ自分に酔って、次の日にはそんなことさえも忘れてしまうのだろうから。
だから、もう、いいだろう。
それに。
「ずっと、一緒だって。約束したもんな」
そして俺はそこから1歩、足を踏み出した。
落ちていく、落ちていく。
風を切って暗い夜の中、温かな光に向かってまっしぐら。
明るい町へ、懐かしい箱庭へ落ちていく。
変わらない、変わりようのない箱庭がそっと俺を飲み込んだ。
意識の切れる直前、遥か彼方で揺蕩うお月様から天使のように手を伸ばす蝶路が見えたような気がした。
でも彼の顔はなぜだかとても悲しそうで。
「そんな顔を、させたかった訳じゃないのになぁ」
――……グチャリ
***
〇月〇日、×市の廃ビル敷地内で、20歳の男子大学生2名が倒れているのが見つかりました。
男性2名は発見後、病院に搬送されましたが、その後、死亡が確認されました。
警察は飛び降り自殺とみて捜査を進めています。
おやすみ 幽宮影人 @nki
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