傷を抱く

 眠れない夜は誰にだってあるだろう。例えばそれはどんな時に訪れるのか。次の日の予定が楽しみで一杯だった時、日頃のストレスが溜まりに溜まった時、なんてことない不安で恐怖が覆いかぶさった時。なんて、それらしい理由を並べてみたけれど、眠れない夜にだって理由が必ずしもあるとは限らない。特に訳もなく眠れない夜だってあるだろう。


 そんな時、眠る為に貴方なら何をする?


 一般論としてリラックスできるBGMを流す、ヨガ、瞑想をしてみる、呼吸を整えるなどが挙げられるだろう。まぁ、友人はブリッジをしながら奇声を上げると言っていたが、アイツは近年稀にみる頭のネジがバグった奴なのでちょっと除外。通常であれば寝入るため、少しでも穏やかな時間を求めるだろう。


 しかし、俺は。


 眠れない時は限って刃物を手にする。誰かを傷つけたり、モノに当たったりする為ではない。ただ、自分の睡眠を得るために。


 眠る前、俺はいろいろなことを考えてしまう。くだらない、些細でどうでもいいことまで。そうこうしているうちに頭の中で声が勝手に響き始めるのだ。不快で不快でたまらない金切り声が。音の発生源が目に見えていたらきっと殴り飛ばしていただろうが、頭の中で勝手に聞こえてくるためそうもできない。


 だからこそ。


 その声を掻き消すように、小さな刃物を自身に突き立てる。手のひらくらいの大きさしかない、量産型の安っぽいセラミック包丁。安っぽいといっても包丁は包丁だ。肉を切れることはしっかりと実証済みだし、もう何度もそうしてきた。


 今日も今日とて。眠れないから、声があまりにもうるさいから。さらけ出した二の腕に包丁を当てる。


 スッ


 そっと肌を滑らせると一瞬ピリッとした痛みが走ったのち、じんわりと赤い線が皮膚に浮かび上がる。深くないその傷にたった一瞬、静電気のような痛みを感じるが、それだけのこと。赤い線からぽつりぽつりと血だまりが浮かぶも、水のように流れることもない。当然か、皮膚の表面を撫でるように切っただけなのだから。


 スッ スッ


 無心でただただ包丁を引く。その度に増える赤い線と浮かび上がる丸い血だまりが、声で荒らされた心臓を宥めてくれて。


「……」


 歪な横線をじっと見つめた。LEDライトの光に照らされ艶やかに煌めく血を。


 美味しそうだ、と思ってしまうのは俺がオカシクなってしまった証拠か。


 こうやって自傷行為に走っていると、今のように血に対して魅力を感じてしまうことが時々ある。別に血液嗜好ヘマトフィリア吸血嗜好ヴァンパイアフィリアという訳ではないのに。どうしてだろう、自分でも自分が分からない。


「……はぁ」


 カツリ、と包丁を置く。深くもない傷はいつのまにか十数個横に並び、バーコードのような模様を作っていた。ちょっと滑稽で笑えてくるが、そのバーコードの色が黒ではなく赤なのが笑えない。


 これだけ数が連なると、一瞬の傷みもやがて持続的なものへと変化し、チリチリとした嫌な刺激を伴って主張してくる。深くもない、たった数ミリぽっちの傷のくせして痛みだけは一丁前。血も大して流れ落ちないくせして立派なもんだなぁ。


 横並びの傷を右手の親指ですぅっと撫でる。思ったよりもベタつきの少ないサラッサラの血が指を汚し、独特な鉄のにおいがフワリと鼻腔を擽る。


「美味しい、のかな。コレ」


 指の腹を濡らす血を見つめて呟く。美味しそうだな、と思ったことは今まで何度もあった。食べてみたい、口に含んでみたい、なんて好奇心に駆られることもあった。しかし、あくまでもそう思うことが『あった』だけで、実際に行動へと移したことは一度もない。そもそも、掬い上げられるほどの流血が伴う自傷行為はあまりしたことがない。普段はもっとちゃんと自制を効かせ、数回包丁を引けばそれで止めるようにしている。今回のように荒れることの方が珍しい。

 なんにせよ。これはまたとないチャンスである。おそらく今日を逃せば、あと半年くらいこの有様にたどり着くことはできないだろう。


 であるならば。


「ちょっとくらい、いいよね」


 ペロリ、と指と指の腹に舌を這わす。赤い雫は瞬く間に口の中へ消え、後に残ったのは少しの唾液と血の残りだけ。


 舌の上に掬った血をゆっくりと喉の奥へ落とし込む。ゆっくり、ゆっくりと。長い年月をかけて大切に成熟されたワインを味わうように、最後にとっておいた大好きなものを楽しみと一緒に喰らうように。


 ゴクリ


 唾液と共に微量の血液を嚥下する。口の中で転がして、舌の上で味わって、もう満足したという頃にようやく飲み込んだ。が。


「うへぇ、何この味……」


 甘そうだ、美味しそうだと思っていたのに裏切られた気分だ。飲み込んだ後も口の中で尾を引く苦みと酸味に顔を顰める。


「あんま美味しくないなぁ」


 放置していた傷と、血を擦り付けていた親指を拭いながら呟く。


 ハジメてだった、血を食べるのは。

 甘くて美味しいという夢を見ていた。だって果実よりもみずみずしく綺麗な色をしていたから。


 けど、夢はやっぱり夢だった。それをいくら『嘘だ』と叫んだところで非情にも現実は変わらない。


 でも、どうしてだろうか。


「また食べたいなぁ」


 どうやら俺はオカシクなってしまったらしい。甘くも美味しくもない、なんの栄養価もない血を欲してしまうなんて。あまつさえ、ソレを口に含みたいだなんて。まぁ、どうかしているという自覚があるだけマシか。自覚もなく手あたり次第に血を欲し出せばいよいよアウトだろうけど。


 包丁の刃にわずかに残る血を拭き取り、いそいそと片づける。それから寝巻や布団を汚さないように傷跡の上にガーゼを乗っけ、テープを貼り付けて、と。


「よし、寝るか」


 捲り上げていた袖を下ろしてゴロリと寝具に寝転がる。組み立て式の比較的簡素な造りのベッドが「もっと丁寧に扱え!」とでも言うようにギィと唸る。いつの間にかあの奇妙で不快な声は聞こえなくなっていた。

 これでようやく眠れそうだ。抱き枕をギュッと抱き込みながら目を閉じる。ピリピリとした痛みも一緒に抱き込みながら。







 自傷行為は悪いこと、恥ずかしいこと。気持ちが悪い、理解できない、世間様の目にどう映り思われるか。どうしてこんなことを、やめなさい、おかしいよ、どうかしている。


「はぁ……」


 大きなため息とともに枕に顔を埋める。ぐりぐりと額を押し付けながら「ゔ~」と唸り声を上げて。思い出すのはこちらを責めるような数々の目。


 別に、良いじゃないか。

 誰かの迷惑になっている訳でもない、自分の生活が滞るほどの傷でもない、後処理もきちんと行っている。なぜ、なぜ、なぜ?


 自分の身体を傷つけることはそんなにも悪いことなのか。


 酒を呑み、人に当たり散らすような奴もいるのに。害しかない煙をふかし、鼻が曲がるような臭いを振りまくような奴もいるのに。自分の感情で世界が回っていると勘違いしている可哀想なオメデタイ奴もいるのに。刃物を振りかざして他人を傷つけるような奴もいるのに。ナイフよりも質の悪い、言葉という凶器をもってして人を刺すクソみたいな奴もいるのに。


 自分を傷つけるだけのことの、どこが悪いんだ。

 寝そべって枕の中に顔を沈めながら二の腕に残る傷をそっと撫でる。浅い浅い傷は、跡にこそなったものの傷跡として皮膚が陥没したり、逆に盛り上がったり、目に見えて目立つようなモノではない。よくよく見ると皮膚の色が少し違っているな、そういうレベルの跡だ。キレイで平らな皮膚をすりすりと往復させる。


 痛いのは俺だけだ、俺だけなのに。


 責めるような目を思い出し、理解できないその叱責にふつふつと怒りを感じる。


 あぁ、まただ。眠れない。 

 心臓が早鐘を打つ、血潮が疾風のように体を駆け巡る、聞くに堪えないあの声が頭の中で響き始める。


 みっともない、みっともない、みっともない!

 この恥さらしが、日陰を歩け! 汚い傷跡を見せてくれるな!

 気持ちの悪い、気狂いめ!


 誰に言われた訳でもないのに、キーンとした甲高い声が頭の中を埋め尽くす。被害妄想甚だしい。自分でもそう思っているのに声は止む気配を見せず、それどころかどんどんと声のボリュームが上がっていく。


「うるさいなぁ」


 ぐしゃりと髪をかき乱し、頭を抱えるようにして耳を塞ぐ。声は頭の『中』で響いているのだから、耳を塞いだところで何の意味もないのに。冷静に考えれば分かることさえ理解できないようになっているのは、きっと俺がそれだけ取り乱している証拠だろう。


 あぁもう、本当に。

 忌々しい声だなぁ。


 ゆっくりと耳から手を離し、その手をベッドについて体を起こす。すぅっと頭が冷えたような気がするも、相変わらず声は頭の中で踊り暴れていて。


 別に死にたい訳じゃない。

 構ってほしいとかそういうのでもなくて。

 

 ただ眠りたいから、ただアノ声を止めたいから。止め方が分からないから、己が体に刃を立てるのであって。死にたい訳じゃない、見てほしいなんて幼稚なモノでもない。安息を求めた結果がコレなだけで。


 ユラリ


 ベッドから立ち上がり手に馴染んだ凶器を探す。安っぽくて、どこにでもあるセラミック包丁。安っぽくても量産型でも、切れ味は鋭く、簡単に人の肌を裂くことのできる凶器。


「あったあった」


 シュッとカバーをスライドさせ、白いプラスチックの刃を見せる包丁。ハジメて血を食べたあの日から何度もお世話になっているが、その切れ味は全く衰えを見せない。今日もまた、この包丁のお世話になろうか。安眠を得るためにも。


 スッ スッ


 2度続けざまに包丁を引く。薄く細い線が現れ、ぷっくりとした赤い雫が露のように赤線を彩る。それからちょっと遅れて鈍い痛みが襲い掛かって来る。


 馴染んだナイフ、懐かしい痛み、緩やかになる不快音。

 それでも。


「足りない」


 まだ、足りない。


 血が見たい、声を消したい、痛みが欲しい。


 ぐっと包丁を握り込み、いつもより力を込めて肌に押し当てる。このまま包丁を引いたらどうなるのだろう。いつもより深く切れるのだろうか、声を掻き消してくれるくらいの傷みを味わえるのだろうか、もっときれいなアカい血を見られるのだろうか。


 好奇心と理性が拮抗しあう。ぐらぐらと揺れる天秤は右に左に、理性と好奇心で秤が入れ替わり続け、そして。


「死にゃせんよね」


 シュッ


 思い切り包丁を引いた。途端、皮膚がパックリと裂け傷を中心に辺りがカッと熱を持ち始める。


「え、ぁ」


 じわじわと込み上げる赤よりも深い色をしたアカ色。とめどなく、とめどなく。いつもの自傷では見ることができない割れた肌とあふれる血。その美しい色にしばらく唖然としてぼんやりと眺めていたが、やがてアカい血が腕を流れ落ちそうになった頃、ハッと正気に戻った。


「ヤバいヤバいヤバいっ」


 止まらない、血が。

 食べたいとかキレイだとか、そんなことを言っている場合じゃない。早くなんとかしないと。


 ガーゼを当てて力を込める。ぐっと押し付けるとガーゼはすぐさま血の色に染まって、ひたりと重くなった。どうしよう、これじゃあ足りない。

 水を含み重たくなってしまったガーゼをゴミ箱に投げ入れ、2枚目のガーゼに手を伸ばす。一枚目と同じようにぐうっと傷に押し当てた。今度はガーゼの白が埋まるほどではなかったものの、半分ほどは色を変えられてしまった。そっとガーゼを皮膚から離し、血を落とすことも無くパックリと大口を開けている傷口を眺める。


「すっげぇな」


 本当にキレイに裂けている。じんわりと染み出す血で彩られた傷は、見たことがない皮膚の下まで見せてくれる。ちょっとグロテスクなような、でも怖いもの見たさというか、好奇心が疼くというか。


 横に2つ並んでいる細い赤線と見比べる。初めに引いた2つのラインは細く頼りない傷をしていて、ぷっくりと小さな赤い露を実らせている。皮膚の表面を滑ったナイフは浅い傷しか残すことができず、傷口はしっかりと塞がっていた。

 その横の深い溝、地割れのように開いた皮膚は一向に塞がる気配を見せず。かと思えば、今までにない、まさしく刺すような痛みが襲い掛かって来た。


「うぐっ⁉」


 思わず呻いて傷に手をやる。ひりひり、じんじん。皮膚の中を抉られてかき回されているようだ。痛い。めちゃくちゃ痛い。


 声は掻き消せた。目を閉じて横になればきっと穏やかな眠りを得られることだろう。しかし、眠れない。痛みが大きすぎる。


 再び溢れてきた血で汚れた手。はじめて食べた血はサラリとしていたのに、どろっとした深い赤が纏わりつく。ガーゼを使うのも面倒だと、塗れた手でそのまま傷をぎゅっと握りこんだ。痛みが脳を叩き起こし、いやな汗がどっと吹き出す。呼吸も浅くなり、口の中で変な味が広がった。あぁ不味い、貧血を起こしかけている。


 眠る為に傷を求めて、好奇心に負けて深い傷を求めて。その様がこれとは。ずいぶんと滑稽な話だ、と思わず薄く笑みを浮かべた。


 フワフワと揺らぐ頭、ぐらりと歪む視界、ぱたぱたと滴り落ちて床を汚す血に意識が朧げになる。それでも、痛みが眠りを許してはくれなくて。

 ふぅと息を吐き肺を空にする。それからゆっくりゆっくりと肺に空気を満たして、異常を訴える体を宥めていく。何度も何度もそうして体に息を入れ込んで。貧血の前兆たる耳鳴りや脱力が失せるまでそうし続けた。


 やがてアノ嫌な前兆はすっかり鳴りを潜め、そのころには傷から流れ落ちる血も緩やかなものになっていた。


「危なかった……」


 床と手のひら、それから腕を汚している血を拭き取りながら呟く。キレイに拭い去った血の後ろには相も変わらずパックリと傷が口を開けていて。じくじくとした痛みも健在だ。


 どうしよう、眠れるだろうか。


 ガーゼで蓋をした傷を撫でながらゴロリとベッドに寝転がる。アノ声はもう聞こえない。でもやっぱり痛い。痛い、痛い――……。







「普通に寝れたわ」


 翌朝、いつも通りの時刻に目を覚まし、起き抜け開口一番そうこぼす。昨日の傷はどうなったのだろうか。ベッドで体を起こし傷のある腕を持ち上げてみる。


 真っ白だったガーゼは半分ほどがどんよりと赤暗く色を変えており、見た目だけは痛々しく映ったが昨日ほどの傷みはない。昨夜、襲い掛かって来た痛みが夢かと疑うほど、何も感じない。

 ペラッとガーゼを剥がす。固定していたテープがあった部分は赤くなり、少し皮膚がただれてしまっていた。が、それ以上に目を引くのは、細い赤線の横で割れた皮膚。痛みがないくせにじんわりと血が滲みだしているのを見て顔を顰める。


「絆創膏……じゃあ足りないか」


 傷の横に並べてみた絆創膏の白いガーゼ部分と見比べてみるも、明らかに傷の方が大きい。これでは服を汚してしまうと思い、昨日の夜と同じようにガーゼを当てて、その上から固定用のテープを貼り付ける。絆創膏よりも緩く安定感のない当て布に少々不安を抱くも致し方ない。今日の大学帰りにでも少し大きめの絆創膏を買おう。


 よいしょっと爺臭い掛け声と共にベッドから降りる。すでにほんのりと赤く色づいているガーゼを見ないフリして。




***




「いつになったら完治するんだよコレ!」


 その後、1か月たってもアノ傷は塞がらず。青年は毎日のように絆創膏を貼り変える羽目になったそうな。

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