楔を打つ

 友人が見舞いに来てくれた。余命いくばくかの俺にその友人が言ってきたこと。それは「早く死にたい」だった。流石にここまで直接的な表現ではなかったのだけれど、俺にはそう聞えた。


「生きたところでなんになるの。なんにもないじゃん。それならもういいよ。楽しいままで終わりたい」


 『楽しいままで終わりたい』と、そう言ったのだ。人生百年を謳われる現代において半分も満たない歳月、それどころかたった20年ぽっちしか生きていないのにも関わらず。


 俺とアイツは世間一般で言うところの幼馴染である。小さいころから、もっと言えば生まれたころからずっとアイツと共にいた。一緒にいない時間の方がもしかすると少なかったかもしれない。多分、お互いのことは親よりもよく知っていると思う。


 知っている、つもりだった。あの日までは。


「奨学金だけ返済し終わったら追いかけてもいい?」


 初めて聞く温度の声、初めて聞いた言葉。


賢人けんとがいない世界なんて1秒だっていたくない」


 知らない願い、知らなかった恐ろしい望み。


 この時、即座に「やめてくれ、追いかけてくるな」と俺は言えなかった。ただただ話題を変えることしか出来なくて。結局は「死ぬまでに何がやりたい?」なんてくだらない話を2人で続けたのだ。


 俺の余命はあと1年らしい。医者にそう言われた。


 俺は死がとても恐ろしい。

 病に侵された体が軋んで悲鳴を上げる度、目の前が白黒に明滅を繰り返す度、子供のように泣き叫びそうになる。




 恐い、死ぬことは恐い。

 誰の記憶からも消えてしまうことが、怖い。

 俺が『いた』という事実さえ消えてなくなってしまいそうで。

 怖い、怖い……。


 けど。一人じゃないのなら。もし友人——……幸平が一緒にいてくれるのなら。




 アイツが『死にたい、もう今を捨てたい』と言った時、俺は情けないことにそう思ってしまったのだ。幸平も一緒に死んでくれるのなら、一年後にやって来る死も、悪くはないのかもしれない、と。


 情けない。人として最低だ。自分の命の終わりが見えているという事情があるにせよ、友人の死を願ってしまったのだから。


「はぁ……」


 ベッドで横になりながら、白くなんの汚れもない天井を眺める。

 別に、アイツに死んでほしいわけではない。むしろ長生きしてほしいと思っている。




 でも。




 俺だってまだニ十歳になったばかりなのだ。人生これからだっていう時の突然の余命宣告。ナーバスにならない方がおかしいだろう。


 ぐっと右手を伸ばし、うっとうしいくらいに光を放つ人工灯に手のひらをかざす。握りこんだところで掴める訳もないのに、空気を掴むように握りこぶしを作ると、次いでゆるりと開く。指の隙間をすり抜ける日光が目に痛い。


「……はぁ」


 今日だけで何度ため息をついただろうか。伸ばしていた腕を下ろして閉ざした瞼の上に重ねる。

 何も見たくない、世界から逃げてしまいたい、その一心で視界に蓋をした。







「ね、奨学金返して、やりたいことだけやり終わったら後を追いかけようと思うんだけど、どう思う?」


 ベッドの上で上体を起こし、窓の向こうに目を細めている青年に尋ねかける。

 物騒なことを尋ねた青年はというと、ベッド横の丸椅子で足をプラプラと遊ばせながら、への字に口元を結んでいた。


「どうって、お前さぁ……」


 ベッドの青年は窓から視線を外すと、隣に座り込んでいる青年に目をやった。心底呆れたという風に肩を落としながら。


「なぁんで俺にそんなこと聞くんだ?」

「なんでって、目の前にいたのが賢人だから、かな?」

「その賢人君は、ちょっと前に余命宣告をされたばっかりで、もう1年しか時間がないってのに?」

「……だって」


 椅子の青年は拗ねた子供のように口をとがらせてそっぽを向く。子供よりも子供っぽしぐさは庇護欲を刺激されるものかもしれないが、あいにくと目の前の青年、溝口みぞぐち賢人にはなんの効力も発揮されていないようだ。


「だって、つまんないんだもん」

「つまらない?」

「そ、つまらない。そう思わない?」

「残念ながら全く」


 子供のダダのように口をすぼめて言う。ソレに対し溝口は肩をすくめて真っ向から否定の意を示した。


「生きたところでなんにもないじゃん。給料が出る訳でも、ご褒美がある訳でもないし。そのくせ死んだらなにもかも無くなって、生きてたことさえ消えちゃって。記憶も感情もどこにもなくて」


 子供にしてはなんと悲惨なことを口ずさむのか。

 もう子供の面影もない青年は、端正な顔を歪めてあまりにも悲しい事実を並べ立てる。


「……ところで、やりたいことってなんなんだ?」


 病床の青年は、何か言いたげな顔をしたが、ソレを飲み込んで言葉を紡ぐ。 


「えっと、でっかいバケツプリン食べたい」

「ふぅ~ん。他には?」

「んぇ? 他、他かぁ」


 こてん、と首を傾げたままの三波幸平みわこうへいは、やがて姿勢を正すと次の案を考え始めた。


「じゃあ『親孝行』」

「1番の親孝行は長生きじゃないのか?」

「旅行とか。これも立派な親孝行でしょ?」

「まぁ、そうだな」

「あとは、う~ん……」

「スカイダイビングとかは? 『人生で1度はやりたいこと』で1番聞くのはやっぱこれだろ」

「えぇ? 高いところ嫌ぁい」

「じゃあバンジージャンプ」

「一緒じゃんかぁ」

「ホエールウォッチングとかは?」

「う~ん、実は海も怖いんだよね」

「じゃあ海外旅行」

「ちょ、賢人。僕の英語の成績知ってるでしょ?」

「国内旅行」

「日本あんまり好きじゃないんだよね~」

「好き嫌い多すぎだろ」

「えへへ~」

「なにが『えへへ』だこの野郎」

「その代わり、食べ物の好き嫌いはほとんどないよ!」

「ほとんどだろ? 知ってるぞ、お前『土の味するから』って根野菜を嫌いなこと」

「まぁまぁまぁ。それは置いといて」


……――……


「……思いつかないもんだな、案外」

「でしょ?」

「ところで何年くらいかかる予定なんだ?」

「5年もかからないよ、多分」

「ふーん」


 それからも2人は他愛もない会話で盛り上がった。


 数分前まで繰り広げられていた『死ぬまでにやりたいこと』の話などなかったかのように、2人の会話は広がっていった。

 クラスの恋愛事情だとか、サークルの話だとか。教授のくだらない笑い話だとか、講義でどんなことを学んでいるのだとか。バイトの愚痴だとか、1人暮らしのアレソレだとか。


 時間を忘れるくらい、離れていた時間を埋めるように2人は言葉を繋いでいった。



 やがて、空が橙に色付いてきたころ。耳を劈く烏の鳴き声に気づいた三波が、病院の外にそびえ立つ時計を遠目に口を開いた。


「あ、もうこんな時間じゃん」

「電車の時間大丈夫か?」

「いやー、ヤバいかも」

「おうおう、じゃあとっとと帰りやがれ」

「酷い、僕の事嫌いだったの?」

「いや、単純に帰れなくなるぞ」

「むぅ」

「ほら帰った帰った」


 犬を追い払うようにしっしっと手を振る溝口は、しかし嫌そうな顔をしている訳ではなく。単純に友人の帰路を心配しているだけなのだろう。


「また、来るから」

「おう、待ってる」

「……うん、待ってて」


 名残惜しそうに退出する三波を見送る溝口も、彼の姿が見えなくなるまでゆるりと手を振り続けていた。







 ゆっくりと目を開く。どうやらあのまま眠ってしまっていたらしい。額の上に腕を置いた姿勢のまま長時間いたせいか、肩が凝っているし腕もビリビリとした熱を帯びている。


「いててて」


 上体を起こして体を伸ばした。バキバキッという嫌な音がそこかしこから聞こえてくる。ちゃんとした体勢で眠ればよかった……。

 など思いながら、眠っていた間に見た夢に想いを馳せる。寝入る前にあんなことを考えていたせいか、あの日の、幸平が見舞いに来て「死にたい」と言った日の夢を見てしまった。


「……どうしたものか」


 起き上がり、寝具の上で上体を起こしたまま考え込む。


 アイツの目は本気だった。今のままアイツを放っておけば、俺が死んで、それからやることだけさっさと終わらせたら、俺の後を追ってくるだろう。アイツは、幸平は、きっともう生きることに対しての執着を持っていないから。


 少し羨ましいと思ってしまった。だって俺はまだ『死』が恐ろしいから。簡単に『死』という選択肢を人生の中に入れてしまえるアイツが不思議でならない。


 いつの日か幸平が言っていた言葉をふと思い出す。「死ぬなら自殺が良いなぁ。1番楽しい終わり方じゃん」と。昔からアイツはそう言っていた。訳アリ家庭という訳でもなければ、イジメに遭っていたとか、暗い経験がある訳でもないのに。俺と同じように毎日を過ごしていたはずなのに。


「なんでだろうなぁ」


 細く、青白い色に変ってしまった己の手をじっと見る。モノを掴むことさえままならない、筋力の落ち切って役立たずに成り下がってしまった己の手を。

 何ができるだろう。着実に死への歩みを進む俺と友人に、何をすることができるだろうか。ぐるぐる、ぐるぐる。ない頭を必死に働かせて考える。何か、何かできること。こんな俺にでもできること。1つくらいあるだろう。考えろ、考えろ……!


 ――……


「何も、思いつかない」


 ボフリと布団に身体を投げ出し、枕に顔を埋める。

 何かないものかと必死に考えた。頭痛に眩暈、その他もろもろの不調に襲い掛かられても、諦めずに考え続けた。

 

 でも、ダメだった。ダメだったんだ。俺の死は医者から宣告されたものだからどうしようもないとしても、幸平の死はどうにかできるはずなのに。




 これじゃあまるで。




「アイツの死を、望んでるみたいじゃないか」


 渇いた笑いがフカフカの枕に吸い込まれる。


「あ~ぁ、どうしたらアイツは生きてくれるのかな」


 『自殺は楽しい終わり方』というアイツの言葉が頭の中をぐるぐると泳ぐ。ぎゅっと抱き着いた枕のせいでうまく酸素が入ってこない。



 もしもこのまま窒息死でもしたら。楽しい、のかな。




 さらに力を入れて枕を抱きしめる。


 俺がいなくなったらどれくらいの人が悲しんでくれるのだろうか。家族と、あと幸平。それから他には? 大学に行けなくなってからもう随分と経った。俺のことを覚えている奴の方が少ないだろう。小中高の友人は? 大学に進学してから疎遠になってしまっているため、大学の奴らよりも望み薄だ。きっと、誰も、俺の死を悼んでくれない。死んだことにさえ気づかない。


「……」


 途端に押し寄せる恐怖。津波のように襲い掛かり、あっという間に俺を飲み込んだソレに、バッと枕を放り投げて仰向けに転がり直す。


「やっぱ俺には無理だよ、幸平」


 足りない酸素と恐怖で引き攣る呼吸の中、届きもしないくせに友人に向けてそう呟く。逸る心臓は不規則な音を刻み、一層息苦しさを手助けした。


「はぁ……」


 引き留めるには、アイツを生に縛り付ける為には。何をすればいいのだろう。何を、すれば……。


 サァァ――……


 窓の外に茂る木の葉が揺れる。風が、吹き抜け。そして。


「あぁ、そっか」


 ゆらゆら、さわさわと踊る葉を見ながら呟く。


「俺がアイツの首輪になればいいんだ」




***




 その後、青年は二十数年の短い生を終えた。

 後追いをしようとしていた友人はというと、先に亡くなった友人からの『手紙』を握りしめながら残りの長い長い人生を謳歌したようだ。自身を置いて逝った友人と一緒に。

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