おやすみ

幽宮影人

声を被る

 布団にごろんと横になり寝る体勢になる。


 西洋文化が入って来てもう随分と経つのに、頑なに和式の寝具を使用している僕の家は、寝転がるとフワリと畳の香りが鼻腔をくすぐる。以前友人を家に招いた時にその友人は「ばぁちゃん家の匂いだ」と嬉しそうに笑っていたが、僕自身はこの匂いをあまり好んではいない。なぜなら畳にまつわる苦い思い出があるからだ。




 昔、まだ小学校に入る前の話。近所に変なオジサンがいた。近所付き合いも悪くなく人当たりもいい、一見すると普通のオジサンが。

 そのオジサンは大きな日本屋敷に1人で暮らしていて、お嫁さんとか子供とかも特にいなかった。その屋敷は以前まで1人のお爺さんが暮らしていたのだが、オジサンが引っ越してくるちょっと前に亡くなった。後から知ったのだが、そのお爺さんとオジサンは親子だったそうで。屋敷はお爺さんからオジサンに継がれたものらしい。




 ある日、2つ隣の家の男の子が行方不明になった。公園で遊んでいたらいつの間にかいなくなっていたらしい。その3日後、今度は向かいの家の女の子が。さらに2日後、隣の家の女の子が。次の日、少し離れた家の男の子が。次の日も、また次の日も……。家の周囲で次々と子供たちが姿を消すという事件が起きていたのだ。


 ターゲットは齢10にも満たない小さい子。警察や大人たちもいなくなってしまった子たちを必死になって探したし、これ以上被害を増やさないように対処をしていた。


 しかし。


 僕もこの事件の当事者になってしまった。つまるところ、僕も両親の前から姿を消してしまう羽目になったのである。


 その誘拐事件当日、「一人で外へ出てはいけないよ」、「外遊びはしばらく控えてね」という母の警告を破った僕は、持て余す活力を発散するため、親の目を掻い潜って家の外へと、1人で出て行ってしまったのだ。まだ日の入りも遠い夏の日の事だった。

 いつも近所の子供たちと遊んでいた公園に1人で向かった。入れないように目立つ黄色のテープが張り巡らされていたが、子供の体は小さい。隙間から入り込むことなど造作もないことだった。

 誰もいない公園を独り占めできる、と。久しぶりに体を自由に動かすことができる、と。舞い上がっていた僕は気づくことができなかった。背後から近寄って来る人影に。




 それから、気づくとヒンヤリとした暗い場所にいた。動けないように手足が縛られ、声が出せないように口元に布を当てられた状態で。動かせるのは頭だけだったが、周囲の状況を確認しようと見渡すと、たくさんの子供たち暗闇の中で僕と同じように転がされていた。そこにいた子供はいずれも行方不明として捜索されていた子供たちで。


「うぅ……う~」

「ぐすっ……」


 すすり泣く声、紐を解こうと暴れている子、痩せ細って動く気力さえない子。齢5で見るにはなかなかショッキングな光景だった。今でも時々夢に見る。思い出したくもない光景だ。

 呻き声と唸り声に心細さと恐怖が募り、僕自身も涙腺が緩む。じんわりと視界が揺れて涙が溢れそうになった頃、急に光が差し込んだ。何事かと思い光の入ってきた方を見るも逆光で何も見えず、余計に恐怖心が煽られていく。ヒトなのか、オバケなのか。未知のモノに体が震える。


「あぁ、いたいた。さぁおいで」


 ぬっと伸びてきたナニカに掴まれた僕はアレ、と首を傾げた。聞き覚えがあったのだ、聞こえてきたその声に。


 明るい光に目が痛み思わずギュッと目をつむる、と同時に温かいものに包まれて。母親がするように背中を撫でられる。あまりに優しく、こちらに敵意のなかったその動作に子供というものは単純で。こわばっていた体からゆるりと力を抜き、閉ざしていた瞼を開ける。


 僕の目に映ったのは、近所のアノ変わったオジサンだった。




 彼は僕を抱き上げたままどこかへ向かう。たどり着いた先は浴室で。縄をされたまま、口を塞がれたまま、服を剥がされて体を洗われる。オジサンは終始楽しそうな様子で、鼻歌まで歌いながら水を扱っていた。

 お風呂が終わった後はふかふかのタオルで隅々まで拭われ、清潔な下着を着せられたかと思うと、再度抱き上げられる。ちょっと調子の外れた鼻歌は未だ続いている。

 次に向かったのはたくさんの着物が並べられている部屋。オジサンがその部屋の襖を開いた途端、ふわりと畳の匂いが鼻を擽った。


「君にはどんな服が似合うかなぁ」


 ニコニコ、ニコニコ。抱えられた腕から見上げたオジサンは、気味が悪いくらいの満面の笑みをたたえていて。思わず喉の奥が引き攣った。

 今更ながらバタバタと体を暴れさせる。腕も足も動かせないけれど、動かせる頭をブンブンと振り回し、上体を曲げたり、腰ごと足を上下に動かしたり。訳も分からない事態にとにかく暴れ回る。

 が、大の大人に子供、しかも四肢を拘束された子供がかなうはずもなく。小さな羽虫を無邪気に押しつぶす稚児のように、オジサンは僕を押さえつけた。


「こーら、暴れないの」


 先ほどよりも深い笑み。


「悪い子にはお仕置きが必要かな?」


 芋虫のように身動きの取れない僕を置いて、オジサンは襖の向こうへと姿を消す。


 お仕置き……お仕置き?


 ぶるりと体が震える。何をされるのだろうか。痛いこと? 怖いこと? 母や大人たちから聞くお仕置きを一通り思い浮かべる。


 いやだ、いやだ。逃げないと、早くここから!


 ビクともしない細い紐。力を込めて見てもギシリと鳴るが、それだけのこと。切れる様子は全くない。


 逃げないと、逃げないと……!


 そうこうしているうちにギシリギシリと床の軋む音が近づいてきた。男が、オジサンがこの部屋に戻ってきているのだろう。


 早く逃げないと!


 唸りながら手足を開放するため闇雲に体を動かす。が、そんな努力も空しく、スッという軽い音と共に部屋の襖が開かれた。


「悪い子だぁれだ」


 パタリと閉じた襖の前、僕を見下ろすオジサンの手にはキラリと煌めく注射器が。




 火事場のバカ力というものは底知れず。

 魔法よりもステキでとっても頼りになる。




 注射器が目に入った瞬間、僕はあり得ないような力……つまるところ火事場のバカ力というものを発揮して、あの頑強な紐を力任せに引きちぎった。

 ここだけの話、僕は注射が何よりも嫌いだ。それは今でも変わっていないのだが、子供のころは今よりもっと酷くて。男に対する恐怖よりも注射に対する恐怖が勝った僕は、解放された手足をフル稼働して男の前から逃げ出した。もとい注射から逃げ出した。


「あっ、コラ待ちなさい!」


 バタバタとオジサンも後を追ってくる。僕も必死になって足を動かしたが、ほんの数分前まで動きを封じられていた足はなかなか素直に動いてくれず、やがて足をもつれさせた僕は固い床へと倒れ込んだ。

 



 オジサンが僕に近づいてくる。

 注射器を片手に持って。

 オジサンが、注射が。




 極度のストレスというか恐怖にさらされた僕は、何を思ったのかうつ伏せになっていた体をくるっと反転させて仰向けになると、そのまま腕と足に力を入れて立ち上がり、ブリッジをしたのだ。




 もう一度言うよ? ブリッジを、したのだ。

 注射器を持って走り寄って来るオジサンの方に頭を向けたまま。

 そして、それから。




「やぁぁぁだぁぁ〝あぁぁ」


 甲子園のサイレンもかくやというような大声で泣き叫びながらオジサンの方へ突進した。さながら映画『エクソシスト』に登場する少女リーガンのように。


「うわあわぁぁあ⁉」


 オジサンはというと、突然の狂行に驚き僕から逃げるように背を向けて走り出した。 


 僕らは互いに大声で叫びながら屋敷内を駆けまわった。もちろん僕はずぅっとブリッジをしたまま。

 今思えば「途中でオジサン放って逃げればよかったじゃん」と思うが、結局は僕のこの行動が『幼児連続誘拐事件』の解決に繋がったわけだし、結果オーライだったのだけれど。




 この後、僕とオジサンの声を聞きつけた近所の人が駆けつけてくれた。そして行方不明になっていた僕、それからそれ以前に行方が分からなくなっていた子供たちが次々とオジサン宅から発見された。

 オジサンはいわゆる幼児愛好家というか、それ以上にヤベー存在だったそうで、「子供を汚い大人から守らなくては」「僕が幸せにしてあげないと!」という意味の分からない動機の下の犯行だったらしい。はた迷惑すぎるのだが……? 

 誘拐された僕らとしては「テメーの都合でトラウマ植え付けられたこっちの身にもなりやがれ」と殴り飛ばしたくなるが、オジサンはしっかりと法で裁かれた。ということで、僕も怒りは飲み込んで日々を過ごしているのだが、怒りは消化できても恐怖はどうやったって後に残る。




 あのオジサンの屋敷は大きな日本屋敷だった。立派な松の木が門を飾り、澄んだ池にはメデタイ紅白の鯉が悠々と泳ぎ、厳めしい顔をした盆栽が庭を彩っていて。長い廊下は木が交わり、格子のような襖が部屋を隔てていて、部屋の中には香しい畳の匂いが広がっていて。


 ……僕らが閉じ込められていたのは畳の下だった。だからだろう。僕はあの日以降、畳の放つ独特な草の匂いが怖い。また、閉じ込められてしまうのではないか、またあの男が迫って来るのではないか、このまま誰に見つかることも無く死んでしまうのではないか。畳の下にいる訳でもないのに、手足が縛られている訳でもないのに、あのオジサンが近くにいる訳でもないのに、そう思ってしまうのだ。


「眠れない……」


 ゴロリと寝返りを打つ。過去に想いを馳せていたせいか、しっかりと目が冴えてしまい、一向に眠気がやってこない。布団に入ったのは真夜中丁度の12時、それからいつの間にか一時間も経っていたようで、枕もとにある時計を見ると長い針はそのままに、短針が1の部分を指していた。


「どうしよう」


 バサリと布団を頭まで被り丸まると、ギュッと目をつむる。あまりに力を入れ過ぎたせいでチカチカと視界が白く点滅するも、やはり眠れそうにない。それどころかフワリと香る畳の匂いに過去が思い起こされ、体が一気に恐怖へ支配される。


「眠れ、ない」


 ついにカタカタと震えだしてしまった体。丸まっていた体を起こし、自身の心を落ち着かせるように両腕をクロスさせて己の身体をかき抱く。カタカタ、カタカタ。眠気も来なければ震えが収まる様子もない。


 あぁ、もう。明日も朝日は昇るのだから、日中ちゃんと活動するためにも睡眠はしっかりととらなければいけないのに。




 かくなるうえは。




 震える体を叱咤しつつゆっくりと動かす。肩から手を離し、ゆっくりと体を布団に横たえる。視界の先に見えるのは木目の天井、つまり仰向けに寝転がって。

 それから両腕をぐっと伸ばし耳の近くの辺りに手を付くと、そのまま力強く床を押すように力を込めた。もちろん両足にも。

 眠れない時の僕のルーティンその1『ブリッジ』の完成である。寝るためにブリッジとか頭大丈夫? と思うかもしれないは、僕にとっての最善策がこれなのだから仕方がない。緊張している時に『人』の字を飲み込むと良い、なんて迷信があるが、僕にとっての眠れない時のオマジナイがこれなのだ。

 しかしこれだけではまだ足りない。言ったでしょう? その1だ、って。

 その2は。


「わぁぁぁああああ!」


 叫ぶことである。あの日、オジサンと追いかけっこをした時のように。

 あ、ちなみに僕の部屋には防音加工が施されているから、夜中だろうがいくら叫んでも大丈夫。あの日以来、突発的にブリッジして叫び出すようになった僕を見た両親が配慮してくれたのだ。


 ブリッジをしながら叫ぶと、なぜだか恐いという気持ちが和らいでいくのだ。叫べば叫ぶほど、頭に血が上って重たくなればなるほど。スーパースターを取った時のマリオや、薬をキめた時って多分こんな気分なんじゃないだろうか。


 今なら何でもできる気がする、恐怖を通り越してそんな気持ちさえ芽生えてしまうのだ。




***




 翌朝、目覚めた彼は「寝た気がしない……」と、霞む目をゴシゴシと擦っていたそうだ。

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