34b.部屋の中で鍵を
チャイムは鳴らさずに、鍵をガチャリと開けて中に入る。
数える程度しか使っていない鍵を開けた先には見慣れた間取りの部屋があり、リビングに入って家主の姿を見るとどこか懐かしい気分になった。
「伊織じゃない、どうしたの」
テレビに向かってゲームをしていた葵がこちらを見る。
そのままクッションを引っ張ってきて座ると、葵はゲームを中断してこちらに顔を向けた。
「お前には最初に報告しとこうと思ってな」
まあ他に報告する相手がいるわけじゃなんだけど。
「なるほど、その様子だとおめでたい話のようね」
なんて言いつつ、おおよその内容は予想がついてるんだろう。
実際俺の部屋で小海との一連の流れを知ってるんだしな。
「ああ、小海と付き合うことになった」
めでたい、けど少しだけ他の気持ちが混ざっている。
葵相手に恋愛感情があったわけじゃないけど、それでも一年以上の生活に節目がつくと思うと寂しさがあった。
「それじゃあ、はい」
「ん」
差し出された手に葵の部屋の鍵を差し出す。
「はい」
「ん」
代わりに葵から俺の部屋の鍵を受け取った。
これで、お互いの部屋に行き来する生活はおしまい。
実質ほぼ俺の部屋に、だったけど。
「着替えとかはまた今度取りに行くから」
「おう」
流石に彼女ができたのに別の女の下着を部屋に置いておくのはヤバすぎるので。
「それにしても、伊織の方が先に彼女できるなんてねー」
「俺もこんなことになるとは思ってなかったわ」
もちろん、こうなったことに後悔はないけれど、実際予想してなかったんだからしょうがない。
「あたしも彼氏作ろうかしら」
「それもいいんじゃないか」
「んー、……やっぱりやめた」
「どうして」
「だって一人の方が気楽でいいもの」
「俺もこの前まではそう思ってた」
「なに、ノロケ?」
「ちげーよ」
なんなら未だに恋人ができるということに実感がないのだ。
これからどうなるか予想もつかないし。
「まあとにかく、折角恋人ができたんだからお祝いしてあげる。鍵は返してもそれくらいならいいでしょ?」
「そうだな」
ということでキッチンに引っ込んでいった葵がグラスを二つとウイスキーの瓶を持ってくる。
「ってこれオイ」
「どう、凄いでしょ?」
葵がニヤリと笑ってラベルを見せる。
その瓶は1本で1諭吉以上する高級品だ。
普段飲んでる1本で4桁いくかいかないかくらいの物とは文字通り桁が違う。
「どうしたんだよこれ」
「お父さんがね、送ってくれたの」
なんでもお中元で貰ったらしい。
ありがとう、葵のお父さん。
多分今後会うことがない葵のお父さんに心の中で感謝を伝える。
余ったからと言って娘に酒を送る親もどうかと思うなんて感想も目の前の豪華景品にはなんの意味もなかった。
葵がびりっとキャップを剥いで栓をあけ、傾けるとトクトクと良い音がする。
俺の前にひとつ、葵の前にひとつ、グラスに琥珀色の液体が注がれた。
「それじゃ、乾杯」
「乾杯」
グラスを傾けて口の中に広がる味わいは、普段飲んでいるそれよりも上品で優しい印象を受ける。
確かにアルコールなのだがアルコール臭くなく、ちゃんとした『お酒』というのはこういうものかと感心させられた。
普段の度数と容量を掛けて値段で割わった数を基準に選んでる酒とは明らかに別物である。
いつかこれくらいの酒を気軽に味わえるようになりてえなあと思うけど、少なくとも当分はそんな身分にはなれなそうだ。
「でも伊織に彼女ねー。すぐ別れそう」
「否定しづらい」
すぐ別れるというか、すぐ振られた前例があるのだ。
「そうなったら笑ってあげる」
「じゃあ笑われないようにせいぜい頑張るわ」
本当に声を出して笑うだろうからなコイツは。
「じゃあ賭けましょうか、伊織がどれくらいで別れるか」
「なにを賭けるんだよ」
「んー、それじゃあ年内に別れるにこれ一本」
「またデカくでたな……」
さっきも言ったが掛け金にして1諭吉以上である。
「ちなみに、これの飲み残しとかそんなオチじゃないだろうな」
「とーぜん、新品一本仕入れるわよ。まあ伊織が別れなければの話だけどね」
「じゃあ俺は別れない方だな」
賭けの成立的にも気持ち的にもベットするのはそちら側だ。
あと半年、振られないように努力しよう。
「当然だけど嘘はだめよ」
「当たり前だろ」
とはいえ葵だって俺が振られるのを本気で期待している訳じゃないだろう。
そんな賭けは、葵からの早々に別れないようにがんばれというエールだったのかもしれない。
「じゃあ伊織が早く分かれるように工作しないと」
「ヤメロォ!」
やっぱり気のせいだったかも。
「でもちょっと寂しいわね」
「そうだな」
グラスの中身をちびちび減らしながら、そんな風に呟く葵に同意する。
ゲーセン行って、飯を食って、酒を飲みながら夜までゲームして、寝て朝になって解散し大学に行く。
そんな生活が終わってしまうことに柄にもなく寂しさを覚えてしまうくらい楽しかった。
自由でゆるくてくだらない、だけど惜しみたくなるような時間はきっと恋人といる時とは別の楽しさで、人生でもう二度とこんな時間は訪れないかもしれない。
小海に好きだと言ったことは後悔していないし、二人でいる時間は甘くて心地良いとは思っているけれど、それは葵と馬鹿をやってる時間とは別種のものだった。
とはいえ、どちらも両立しないのだから結局無いものねだりなのだけれど。
「美味しい」
「そうだな」
味も口当たりも良い酒はストレートで飲んでも苦にならず喉を通っていく。
アルコールの質もいいのか、それとも気分の問題か、普段よりも気持ちよく酔った感覚が訪れる。
思考が曖昧になり瞼が落ちてくるがそれが不快ではない。
くっともう一度グラスを傾けて、喉を鳴らすと中身が空になった。
「とはいえ流石に量が多いな」
「そうねー」
ウイスキーの700mlの瓶は短時間に空にするにはちょっと量が多い。
急いで飲めば無理ではないけど、わざわざそんなことをする空気でもないし。
とはいえ残して帰るには勿体なさが俺の心に残る。
だってグラス一杯の容量がほぼ1000円札一枚と互換なんだぜ?
「それじゃハイボールにしましょうか」
「それはそれでもったいないだろ」
人によるだろうが高い酒に炭酸水を混ぜてハイボールにするのはもったいないと言われることが多い。
「お酒なんて美味しく飲めればそれでいいのよ」
「それには異論はないが」
「どうせ貰い物だし」
「そっちが本音か」
あはは、と笑った葵が立ち上がり、一瞬ふらっとしてから冷蔵庫の方へ消える。
少し不安になったが流石に追いかけるのは心配しすぎだろうと待っていると、バタンと音をさせてから葵が無事に生還した。
「逆に自分でお金出してたら気軽に試せないわよねー、これ」
「確かに」
逆に言えば貰い物は実験するには最適と言えるかもしれないし言えないかもしれない。
「どっちなのよ」
「わからん」
結局もったいない気がするので一人じゃやらないだろうけど、注いでるのもステアしてるのも俺じゃないので実質無罪だ。
俺は悪くない。
「それじゃーどーぞ」
「さんきゅ」
グラスにたっぷり注がれたそれをグイッと傾ける。
「こっちの方が飲みやすいな」
まあ度数が下がってるから当たり前ではあるが。
「でもやっぱりストレートの方が美味しい気がするわね」
「と言いつつ勢いよく飲んでる葵である」
「うるさい」
100点と95点を比べたら100点の方が美味しいけどそれはそれとしてどっちも美味いという理屈らしい。
わからないでもない。
「んじゃ次はロックにしましょうか」
「同意」
ということで氷を入れたグラスにちびちびと口をつける。
溶けた氷による味の変化を楽しんでいると、自然と口数が減っていた。
もしかしたら思っている以上に酔ってるのかもしれない。
まあでも、こんなふうに落ち着いた雰囲気で飲むのも悪くはないかな。
「それじゃあそろそろ帰るかな」
「洗い物はやっとくからそのままでいいわよ」
自分で使ったグラスくらいは、と思ったけどそう言われるとやることもなくあとは本当に帰るだけ。
グラスを両手に持った葵に見送られて鍵を開けて部屋を出る。
「んじゃな」
振り返って声をかけると、廊下に立った葵に「伊織」と名前を呼ばれた。
「ん?」
「おめでとう」
「ああ」
鍵束を用意しようとして、そこにもうこの部屋の鍵はついていないことを思い出して誤魔化す。
「それじゃあまたな」
「ええ」
こうやって、俺が葵に見送られるのは珍しい。
その逆は数えきれないほど繰り返してきたけれど、これからはその機会もほとんどなくなるだろう。
「おやすみ」
最後に別れの挨拶をして、バタンとドアを閉じた。
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