96話から100話 ブルーカラーコンプレックス
【…‼‼ザ…sょう撃を感知。】
【アブソーブ起動。新たな端末を検出。新たに2.25ZBのデータを検出。】
【 データをダウンロードしますか?】
【Y/N】
***
・・・ナっ!
・・・ヨナっ!
「ヨナっ!!!」
ヨナはてっきり自分が肉の塊になってしまったものかと思い込んでいた。名を呼ぶ声に彼は呼吸の仕方を思い出し、瞼の動かし方を思い出し、指先の動かし方を思い出し、会話の仕方を思い出した。
「・・・エリス」
しかし、おかしい。あのスピードで無事な筈がない。それとも偶然どこかに引っ掛かったのか?いや、ありえない。
「エリス。大丈夫か?」
ぼやけた視界のままヨナがそう言うとエリスは彼に馬乗りになったまま見た事も無い顔で笑った。笑ったのだ。
「ヨナっ!ヨナっ!見て!すごいよ!」
止まりかけていた心臓が再び動き出して自律神経系もそれに伴って動作する。異常な熱さは、運転席側に無理やり乗り込んでいるエリスのせいだ。ヨナはゆっくりと窓の外を見た。すると。
「・・・どうなっている?」
そう呟くと、目と鼻の先でエリスの喉がキュウと鳴る。
「わたしたち。飛んでるみたい!!」
「在り得ない・・・在り得ない・・・人は」
「飛べるんだよ!ヨナ!」
そこからは街の全てが見えていた。燃え上がり、所々破壊されている事を除けば間違いなく彼のよく知る街であった。彼は無意識に平和贈呈局員たちを探した。
すると、ハイウェイのガードレールが酷く歪んで薙ぎ倒されたところに彼等は茫然と立ち尽くしていた。ヨナの視線に気づいた一人がエクスプロイターを構えようとして、隣の者に止められた。
「動かし方も少しわかったのほら!」
エリスがハンドルを僅かに回すと二人は集結した平和贈呈局員たちの頭上を大きく旋回した。空いた穴から懐かしい臭いが流れ込んで、ヨナはハンドルに手を乗せた。
「もういいエリス。行こう」
「え?うん。・・・そうだね」
エリスは素直にその提案に従った。彼女が隣のシートに体を移すと、纏っていた子供らしさが失せ、ヨナからは過ぎるほどの熱が失せた。彼はもう一度、街に残された平和贈呈局員たちを見おろした。彼等は皆、口元を引き締め、踵をそろえ、制服の帽子のつばの影からこちらを見上げていた。
「・・・ヨナ?あなた泣いているの?」
「ああ、なぜだろう」
「簡単よ。あなたはあの街を愛していたんだわ」
ボロボロになったメルロックフェイカーは正常そのものであることを証明するように滑らかな円を描いて街の外へと消えていった。それからしばらくして街のあった方角から2度、太陽をかき消す程の閃光が上がった。
***
メルロックフェイカーはひとりでに飛び続けて、その下には色あせた黄金色の大地が永遠と広がっていた。食料は少なく、行くあてもない。けれど二人はあの街に戻る気は全くなかった。
ヨナは、割れた窓枠に片肘を置いて置物のようにじっと外の景色を眺めていた。これには、固定部が壊れて何かの拍子で勝手に開いてしまうようになったドアを抑えておく目的もあった。そうしているうちにやがて、太陽は頭上へと登り、傾き、遠くの大地とぶつかり溶け始めた。ゆらゆらと歪む赤色は暖かく、穏やかで、クルードの景色を連想させるものだった。あの街の創造者はこの景色を知っていたのかもしれない。そう思った。
「ねえ。ヨナ?」
ヨナはエリスの方に軽く体を向けた。
夕日に染まった彼女はいつもより顔色が良く質感が異なっているように見えた。これは、彼の知らぬ間にドーランを施した影響であったが当然彼はこのことを知らない。ヨナはポケットに手を入れて人工飼料を一つつまんだ。
「まだ少しある」
「違うの」
「どうした?」
エリスの視点は、ヨナの瞳に映るオレンジ色に染まった大地と、ちょこまか点滅を繰り返している機械を何度も往復した。自分が声を掛けなければ、ヨナの横顔と機械、永遠に飽きることなく眺めていられたかもしれなかったのに、つい声を掛けてしまったのだ。
「ううん。なんでもない」
「そうか」
エリスはまた機械と横顔を往復する作業に戻ったが、その間隔はやはりというべきか非常に短くなっていた。
「ねえ。ヨナ?」
「なんだ」
「そっちにいってもいい?」
そう尋ねると、ヨナは大変不思議そうな顔をした。差し込む夕日や、居場所が異なるからでは決してない。確かにそれは今まで一度も見た事のない顔である。エリスはすぐに耐えられなくなった。
「ゃ・・・やっぱりなんでもなぃ・・・んだから」
エリスは割れた窓枠に肘をついてヨナとまるで同じ格好をした。そう、自分はずっとずっと半日も空腹と、故郷と友人と家族をいっぺんに失った悲しさに耐えてこうしていたのだ。おまけに食料も水もなく、そう遠くないうちに自分たちは飢え死にしてしまうのだ!
鼻筋につんとした痛みが走り、眩しい夕日から目を逸らすと地平線の向こうから闇が広がり始めるのが見えた。
「エリス」
「・・・なあに?ヨナ」
「こちらへ来てほしいんだ」
エリスは少し考えてから、かさかさと動いてその言葉に従った。まるで面倒であったがどうしてもと言うのなら仕方がない。彼女は今になって、仲間たちがどんな気持ちで毎日を過ごしていたのかが理解できたような気がした。体を落ち着かせると壊れたドアから落ちないようにヨナの腕が体を固定した。細長く開いた隙間の向こうには不自然に隆起した地面が広がっている。その雄大さ、恐ろしさ、無慈悲さたるや、エリスは体内ではらわたがキュウと潰れるのを感じて少しだけ身をよじらせた。
「重力に、逆らっているわ」
「ああ」
「・・・わたし、これからどうなってしまうの?」
「わからない」
***
身体に染みついた習慣がこの時もヨナを目覚めさせていた。纏わり付いていた疲労はどこかへ消えさり、目前に広がる景色は彼に新たなページを捲ったという事を実感させた。
「エリス」
エリスがまるで死んでしまったかのようにぐったりと動かなかったので、ヨナはもう一度名を呼んでそっと肩を揺らした。すると彼女は短くうめいて、観測できない位置でその小さな舌を動かしてまた眠りについたようだった。ひとまず彼女の生存を確認したヨナは一旦目的を切り替えて、運転席上部にある収納スーペースに手を伸ばし、そこから取り出した物に朝日を当てた。数日前から続く騒動の中、常に感じていた小さな不安が安心へと変わる。
「ヨナ?なあにそれは?」
彼女はきっと、何か食料を隠し持っていたのを期待したのかもしれない。目を輝かせてそう言った。しかし、残念ながらこれは食料ではない。
「君に見せたいものがる」
「それがそう?食べ物?」
「ちがう」
「そう・・・とっても残念」
エリスは酷く残念そうにそう言うともそもそと動いて、布で包まれた物体を両手で受け取った。
「開けてもいい?」
「ああ」
丁寧に巻かれた布の角を指で摘まんでゆっくりと静かに捲る。中から現れたのはなんと一冊の本であった。もちろん、あの街において局員が紙や書物と言った記録媒体を所有することは例外なく厳禁である。エリスはにわかにほほ笑んだ。
「わたしの思った通り。あなたはとても優秀な局員だったのね?ヨナ」
エリスは愛おしそうに本の表紙を撫でて、ひっくり返し、印刷された紙の束が放つ独特の薫りを鼻腔の奥で楽しんだ後、仰々しく「なんの本かしら?」と言った。
「俺にも良くわからないのだが。その本に書かれている内容からして『辞書』という書物が一番近いのかもしれない」
「じしょ?」
「ああ」
ヨナはそう言って、書物のページを捲った。
「辞書。言葉を一定の順に配列して解説した書物」
「ハイレツ?カイセツ?」
「そうだ。沢山の言葉を並べて、その意味がここには書いてある」
「そう・・・だからあなたはとても物知りだったのね」
エリスはとても興味なさそうにそう言った。ヨナは何故か急に不安になって急かされるようにページを捲った。しかしこれはエリスの戦略である。
「クジラもここに載っているんだ。しかし、君の描いたクジラと少し違うような気がする」
「それはそうよ。あの絵はわたしの想像だもの」
「では、君は本当に」
「見た事無いわクジラなんて」
「そうか・・・ではこれはどう思う?『恋』、特定の人物に強く惹かれる事。君への感情だ」
「え?恋?」
ヨナが予想もしていないような戯言をいきなり口にしたのでエリスは思わずくすくすと笑った。
「ふふ。馬鹿ねあなたはヨナ」
「それは局員ならば誰もが当てはまる事だ。どう思う?」
「そうね・・・」
二人はそのようにして互いに辞書を覗き込んで、時折思い出したかのような気まぐれを起こし自分の持つ情報を交換し合った。
しかしそれも、二人の頭上を太陽が数回通過するまでのほんのわずかな間だけであった。
***
食料はすぐに底をついた。
痛みを伴うような酷い空腹が二人を襲っていた。けれど、ヨナも、また、エリスもどちらもが気丈にふるまって決してお互いを責めることはしなかった。その事がむしろ二人をつらくした。やがて、エリスが先に話すことさえままならなくなり、一日中、まるで眠り続けているかのように一切動かなくなってしまった。
ヨナは、乾いた喉で必死に息をして、車内に何か、自分たちを救済するための何かが隠されていないものかと、座り心地の悪いシートを引き裂き、僅かな内装部品を力任せに剝ぎ取ってみた。すると、露わになった金属製のフレームに刻印が記されているのを発見した。一部解読できない文字であったが、そこには何かの番号と特に存在を誇張するための立派な細工が施されている。
『ティリア・グランシード・チャレンジャー号
偉大な仲間たちと共に偉業へ❕』
まったくもって、偶然による発見であった。ヨナは激しい空腹を一時忘れて何かに取り憑かれたように新たなストーリーを求めた。そしてそれは、フレームとフレームの繋目の、歪んで、表面が不自然に泡立ったようになっている隙間に差し込まれていた。僅かに見えている部分を傷めないように集中して、静かに引き抜く。
それは『写真』だった。
似たような恰好をした男女数名からなる集団が高さの異なる3か所に集合し。彼等の上からは鮮やかな四角い花びらのような物が降り注いでいる。それぞれの背後には、車が停めてあり、最も高い位置で両手をあげて歓喜?している集団と一緒に映っているのはこのティリア・グランシード・チャレンジャー号だったのだ。
この、新たな発見は、ヨナの理解の
「エリス、エリス・・・エリス・・・」
知らぬ間に昇っていた太陽がちょうど頭上へと移動した頃合いであった。エリスはピクリとも動かない。ヨナは見つけた写真を丸めて投げ捨ててしまいたくなる気持ちを抑えて、静かに辞書を取り出し隙間に挟んで元通りにしまった。
こんなもの何の役にも立たない。
「ヨナ」
消えかけのそれは確かにエリスの声だった。ヨナはすぐに彼女の元へと駆け付ける。
「・・・し・・」
「ここだ、エリス」
ヨナは邪魔な呼吸の一切を止めて、乾いた唇に耳を近づけた。
「ヨナ、わたしをたべて」
ヨナは一旦顔を遠ざけてまじまじとエリスの顔を見た。すると、彼女は苦しそうに息をして、車体後部へ視線を投げた。その先には、汚れた荒布で包まれた流星刀朝平直清が横たわっていた。
「あなたに、生きていて欲しいの」
エリスは崩壊の
***
その日、ヨナは体に染みついた習慣ではなく、別のなにかによって目を覚ました。
…チチチチ…チチ……チチチチ‥!
ヨナは奇妙なその音と、瞼の向こうで光を遮る激しい動きに目を覚まし、忘れかけていた瞼の開け方を思い出した。
‥チチチ‥‥!
やはり朝日が眩しくて良く見えない、だが、何かがいる。そう直感した時、彼の全身の細胞が大きく一度呼吸した。段々と、段々と、青い空が見えて来る、光が目の奥に突き刺さり酷く痛む、吹いている風が眼球を乾かして再び閉じさせようとする。そんななか、彼は見つけた。
チーチチチチ‥‥!チチ!
「『鳥』だ」
ヨナの心臓は力強く鼓動した。窓枠に停まったその鳥はふっくらと柔らかそうな胸部を張って美しく何度か鳴いて、気が済むと今度は風に震える翼を持ち上げて僅かに乱れた
ヨナは震える指先を何度もポケットの入り口に空振りさせながら、頼むから飛び立たないでくれと心の中で哀願した。彼の願いが天に通じたのか、鳥は飛び立つどころかその場所で何度も何度も美しく羽を広げて、自らの妙技を披露するかのように鳴き続けた。
ヨナはポケットの底にほんの少しだけ残っていた青い合成飼料の屑を摘まみだして。手の平に乗せ、ゆっくりと差し出した。
鳥は驚くほど軽い身のこなしで見えていないはずの背後へと一度跳ねて頭を何度か回した。ヨナはたとえ死ぬまででも待つ覚悟が出来ていた。そんな大げさな覚悟を嘲笑うかのように鳥はすぐにヨナの手に乗り込んで餌を
ヨナはその姿を永遠と眺めている事が出来る気がした。この星に生命は確かに存在していたのだ。彼が再び死にかけていた時、彼の手から鳥が飛び立った。なんという事は無い、全ての餌を食べ終えたのだ。
「待ってくれ!」
ヨナは
鳥の持つ機動性に驚嘆させられながら辛くも後を追うと、一帯が不自然に緑色に染まっている場所が見えて、鳥は真っ直ぐにそちらへと向かって急降下を始めた。ヨナもそれを追う。
地面に近づくとチャレンジャー号はひとりでに減速し、彼のよく知るメルロックフェイカーへと変化した。ヨナはエリスを背負い、緑色の大地を踏みしめた。
すると、驚くほどにそれは柔らかい。まるで、幼子の頭髪のようだ。
『草』、そして、『木』だ。
「エリス。エリス?」
「・・・」
彼は真っ直ぐに、鳥が放つ呼び声に従った。
何度も転びそうになりながらたどり着いたその場所には、空から何本もの光の柱が差し込む幻想的な場所だった。その内の一本の中にあの鳥の姿を見つけて、ヨナはそのすぐ真下にエリスを下ろし、自分も隣に腰を落ち着かせた。
風が通り抜けて『森』がさらさらと音を立てる。
ヨナはそっとエリスを膝の上へ乗せ頭を撫でた。
「エリス。見てごらん。鳥だよ」
そう口にした時、彼の魂を何者かが打ちのめした。それは、無数の棘のような、
言葉ひとつ、話し方ひとつ変えるだけで、たったそれだけの事で、人間の心はこれほどまでに愛情に溢れ、救われることが出来るのだ。もちろん、そんな事がわかったとして、彼の空っぽの腹は満たされたりしないし、エリスをよみがえらせる事も出来はしない。しかし、その神すらも敢えて説かない様な当然の事象こそが、現在の彼を生かしていたのだ。
ヨナは再びエリスの頭を撫でて木に寄りかかり、頭上で鳴き続ける鳥を眺めていた。彼はずっとずっと眺めていた。やがて、指先の感覚がぐったりと薄らいで心地の良い風と微睡みに身をゆだねた。
そうして、目と閉じて、やがて、撫でる手が止める寸前のところで彼等の近くに何かが落ちてきて微かに音を立てた。鋭利な棒状の飛び道具で体を貫かれたあの鳥だった。
自然にヨナの背筋が伸びて、視力が限界を超えて鋭くなる。少し離れた『林』の中にそれは居た。
真新しいバスケットを携えた少女の姿がそこにはあった。
ヨナは片手を持ち上げて彼女を呼ぼうとしたがどうにも声が出なかった。少女は丸い目を更に丸くして、ヨナの元へ駆け付けようとした。しかし、ああ、何て素敵な光景なのだろう。林の中から今度は少年が一人飛び出して、少女を必死に林へ隠そうとしたのだ。その手には、クロスボウ、ベルトには沢山の道具と得物が吊るされていた。
ヨナは内から溢れ出る感情に操られて、さらに手を伸ばした。が、限界である。
彼の体は座っている状態だというのにバランスを崩して折れ曲がった。しかし、幸いにもそれが引き金になったのだ。しなやかな四肢をみなぎらせて少女が駆けてくる、少年も怒りながらそれに付いてくる。
二人はヨナとエリスの前までくると、口を半分開けたままヨナの様子を伺った。
「・・・!」
ヨナは何かを告げようとした。しかし、声は出なかった。
彼が苦しそうに喉を鳴らすと、少女が心配そうな表情をしてバスケットの中から銀色の筒を取り出してヨナへと手渡した。ヨナはそれを手に取った。中には液体が入っているようだったがヨナはその使い方が分からなかった。少年が見かねて、銀色の筒を奪い取り、容器の蓋を開け、蓋だった場所に中身を注いで差し出した。ヨナはそれを受け取りまずエリスの口へそっと流し込み、それから自分も飲んだ。すると、みるみる生気が蘇る。
少女がヨナの横顔を覗き込んで、少年がすぐに辞めさせた。その逆もまた発生した。
「ありがとう、ありがとう」
ヨナは二人に『水筒』を返還して真っ直ぐ体を向けた。
二人の瞳は、吸い込まれそうなほど大きく綺麗で生命力に満ちていた。二人は続く言葉を待っているようだった。この幼い二人を待たせるのは、きっと、良い事ではない。彼等はすぐに大人になる。ヨナは思わず目をつむり、記憶の糸を手繰り、紡いだ。
「俺はヨナ。君たちに、伝えたい
星を撫でる風がひゅうと吹いて、どこかでメルロックフェイカーのオーディオが偶然起動した。そこでは失われた文明のシティーポップが人知れず流れていた。
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