84話から95話 ブルーカラーコンプレックス

 ヨナはエリスに導かれて、崩壊しかけた建物へとたどり着いていた。3つの棟からなる利便性を排した建物は、偶然か、必然か、先ほどヨナがレトと訪れたものだった。


「ヨナ。こっち」


「ああ」


広場を通り抜け、両翼へ緩やかに伸びる階段を上り、レトの書斎を横切った。ヨナの淡い期待に反して、そこにレトの姿は無かった。


「本当にこっちなのか?」


「うん。一度会っているから」


「そうか」


階段が合流するちょうど真ん中あたりに移動すると、壁が二つに割れて四角い空間が現れる。エリスは迷わずそこへ乗り込み、ヨナも続く。

レトが使用しているものよりもずっと広く、絢爛豪華に装飾された空間だった。しばらくして扉が閉じると、空間はゆっくりと上昇を開始した。

完成途中の建物のように斜めになっている天井を抜け出して、空間はゆっくりとゆっくりと上昇を続けた。そこからはクルードのすべてが見えた。

エリスがさめざめと泣いて、目をこする。

恐らくは、彼女がこうするのは二度目なのだ。かつて彼女はたった一人でこうしてクルードを離れ、あの街で生き抜こうともがき、挫折し、あの日、偶然二つの星は出会ったのだ。


「エリス」


「ヨナ。私、悲しいわ。これから、どうすればいいのかしら」


「わからない」


「私、みんなに、もう会えないって覚悟したのに。戻れた時とっても嬉しかった。なのに、ロジカ・・・ほかのみんなだって。こんなのあんまりだわ」


「生き抜こうとする君はとても素敵だ。どんな物語よりもずっと」


エリスは引き続きさめざめと泣いた。

はじめから創造局などというものは、無いのかもしれない。そして、自分たちは既に終着地点にいるのかもしれない。毎晩のようにヨナを絶望させていた不安をするりと通り抜けて、彼からエリスへと何かが贈られた。


「ヨナ。これ」

「・・・」


エリスは、ふいに指にはめられた輪に光をかざして眺めて、何か霊的な者がそうさせるのかとたんに勇敢になった。レトの言っていた呪いとやらの影響かもしれない。


「私。ばかみたい・・・ね」


「俺もそう思う」


ヨナがそう言うと、エリスはまぁと言って見た事があるような、一度も見た事の無い顔をした。


「逃げましょうヨナ。逃げて逃げて、生き延びるの。そうすればきっとまた・・・」


「ああ」


 エレベーターが昇り切り、扉が開く。

押し寄せてきたのは確かにレトが使っていたインクと紙の香りだった。信じがたいことに、部屋の隅に置かれたテーブルの上には大量の紙が山のように積まれていた。あの、インクを利用した。『印刷機』のようなものまでそこに存在していた。もちろん、どちらも局員には所持する事すら許されない代物だ。争った形跡か、それらのいくつかが崩れて床を埋め尽くしていた。


紙の一つには、煽り立てるような激しい書体でこう書かれていた。


『すべての奴隷たちよ立ち上がれ!!情報インテリジェンス!!・解放インデペンデンス!!・報酬インカム!!幸福ハピネス!!』


異常な光景に、エリスはカタカタと体を震わせた。


壁に沿ってずらりと並んでいたのは平和贈呈局員たちだったのだ。奇妙なことに、一人だけが痛めつけられて、床の上に転がっていた。ギラギラと装飾され、伸びた爪はそのいくつかが剝げ落ちてピクリとも動かなかった。

彼等は一斉に声を上げた。


『失礼。この妄想犯罪者について君たちにいくつか聞いてもよろしいかな?』



***



 彼等はエリスの命を奪う事はしないだろう。彼等が行うのは想像もつかないような手法を用いたもっと酷い行為だ。


・・・カチ。


「次の方」


この場所は局員養成施設の中にある思考洗浄を行う設備だ。

白い壁に囲まれた薄暗い部屋の1面にのみが透明なガラス窓になっていて、向こう側には頑丈な椅子に拘束されたブルーカラー達が一人ずつ。とめどなく運び込まれていた。


『・・・!!』


暴れているブルーカラーを無視して、ヨナはスイッチを押し、新たに与えられた仕事を遂行した。


「今、はどこにいますか?」

『リーダー?!そんな奴しらない!』


カチ。


『アアアアアアア!』


「リーダーはどこにいますか?」

『知らない!知らない!!』


カチ。


ヨナがボタンを操作すると、それと連動して、ブルーカラーの右膝が逆に曲がり砕ける音がした。これを、あと数回こなす必要がある。


***


「質問します。リーダーは今どこにいますか?」

『・・・』


・・・カチ。


『次の方』


***


・・・カチ。


『次の方』











・・・カチ。


『次の方』









・・・カチ。


『次の方』




・・・カチ。


『次の方』


・・・カチ。


『次の方』・・・カチ。


『次の方』

・・・カチ。


『次の方』・・・カチ。

・・・カチ。・・・カチ。


『次の方』


『次の方』

『次の方』・・・カチ。


『次の方』・・・カチ。

・・・カチ。・・・カチ。


『次の方』

・・・カチ。

『次の方』『次の方』『次の方』・・・カチ。


『次の方』

・・・カチ。


『次の方』



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・***



 街の影の全て照らして火の手が上がっていた。

日が沈み、夜の帳が全てを覆い隠すを拒否するかのように、さながら地獄の業火によって街は醜悪な実態をさらけ出している。

通りでは親とはぐれた子供のように弱弱しい奴らが、地上の仲間から奪ったプラカードを掲げてしきりに停戦を求め徘徊している。あいつらはついさっきまで洗い立ての柔らかい寝具にくるまれ、明日もまた同じ一日が繰り返されることを疑いもしなかったであろう下っ端の連中だ。声高に、名誉や道徳を説いて来た自称インテリ連中の姿はそこにはない、あのクソ共はきっと今頃夢の世界にこもり、それだけでは飽き足らず、その世界においても狸寝入りを決め込んでいる事だろう。


たとえ、仮初めであったとしてもそんな奴らに、俺たちの運命は渡さない。


 一方で逃げ惑い、一方で追い回す人影の中をソロモンは音もなく進んでいた。彼の行く手にはいつだって闇が広がっていた。それを彼が照らし、その後を仲間たちはついて来た。その先に何があろうとも、彼の魂は常に仲間たちと共にあった。

これから、文明を消滅させる。

彼の計画を知る者は誰も一人としていないはずであった。


「待て。ソロモン」


地区の外れ、一見何の変哲もないこの場所は、街のレイラインが3番目に密集しているポイントで、ほかの場所に比べて最も警備が手薄な場所でもあった。この場所を知る者は少ない。


「話がある。考え直せ」


「もう遅い、石は転がりだした。誰の手にも止めることは出来ない。泣き言をいう暇があるのなら俺に力を貸せヴィンセント」


「勘違いするな。俺は貴様がこれから犯そうとする罪を止めに来たのだ。無論、必要とあらば力ずくでな」


ヴィンセントはそう言って刃を抜いた。

青白く光る刃に街の炎が映し出されていた。そして、自身の姿も。


「反乱分子としてか?仲間としてか?それとも・・・」


「そのどちらとしてもだ。ソロモン!!」


「・・・そうか。だがお前こそ勘違いするな。俺はお前にお願いをしたつもりはない。これは命令だ。従え」


ソロモンはそう言ってエクスプロイターを抜いた。


「お前を撃ちたくない」


トリガーに指が掛けられてゆっくりと傾く。それでも、この距離で、ヴィンセントと対峙するには余りあるほどに不十分であることをソロモンは知っていた。それどころか、既に敗北が決しているといっても過言ではない。

二人はしばらく睨みあい、遠くで響いていた数々の怒号がすぐ近くの建物の角まで迫ると互いに身を引いてすれ違い、別々の道を歩んだ。


「レトに伝えてくれ。あの場所で待っていろと」


「・・・」


殺気も、怒りも、やるせなさも、全てが去った場所にヴィンセントは立っていた。彼はぽつりとつぶやいた。


「レトならもうずっとその場所で待っているよ。友よ」


『ヴィンセントー!ヴィンセントー!!みんな!こっちだ!』

『ヴィンセント!よかった無事で!』

『隠されてた武器庫を見つけたのよ!すごいわ!ぜんぶあなたの言う通り!』


「ああ。今そちらへ行く」


***


 ヨナは新たに配給された一週間時計を悟られないように確認した。

時計の針は業務終了時刻である20時手前を指していた。


食事もとらずに続けた新たな業務にヨナは非常に率先的だった。彼は何かを確かめるように、かたや、駆り立てられるように淀みなく業務を続けて来た。彼の求める答えは未だ見つからない。

時間的に次の対象者がこの日最後になるだろう。


・・・カチ。


『次の方』


「ヨナっ!!!」


銀色の空の椅子が運ばれてくるのと同時に、背後でそんな声がした。

彼はゆっくりと立ち上がり声がした方を向いた。それから、突然部屋を訪れたブルーカラーの娘を腕の中へと迎え入れた。


「・・・」

「ヨナ!もう大丈夫。大丈夫だよ」


それはエリスであった。エリスは泣きじゃくりながらそう言った。


「・・・」

「酷い事されなかった?何処もケガしていない?」


続けて小さな手の平がコートの上を改めて足元を覗いて、それから上の様子を見ていたような気がした。すべてが追憶の向こう側での出来事のような気もした。


「・・・」

「ヨナ?ヨナ?」

「・・・」

「私は平気。なんともない。言って?」

「エリス」

「うん」

「俺は酷い事をした。しかし」

「うん」

「よかった」

「うん」


二人だけが真相を知る血塗られた再会だった。


それから、どれくらい時間がたったか、開放された部屋の扉の方から物音がした。巨大な重量を持つ人間が歩いた時のような音だった。反射的にヨナがそちらを見ると、そこにはいつかの黒い影が立っていた。


「エリス」


「ヨナ大丈夫。この人がスリオ卿」


「スリオ卿?あなたが?」


光沢を放つ黒い布で締め付けられた体は、いたるところが隆起して人間離れてしている。顔も、指先も露わになっている場所は無いし、そもそもあれは人間ではなかったはずだ。ヨナはエリスを一歩越えた。すると、黒い人影の丁度喉にあたる部分が発光した。


『警備が手薄な内にここから去った方がいいだろう。さぁこちらへ』


極端なまでに強調された女の見た目に反し、その声は年老いた男のようだった。二人はその声に従った。それは、スリオ卿の話し方が大変流暢で、扱う言語が巧みであったから。ただ、それだけの理由だった。二人は、人間の言葉が時として、人間の持つ根本原理すら覆してしまうという事実を知っていた。


 小さな部屋を出ると、通路の壁に平和贈呈局員が数名もたれかかるように潰れていた。人間の持つ力では到底できない芸当だ。スリオ卿の喉が再び光り「格闘戦用のソフトウェアは加減というものを知らない」と言った。彼は、潰れた平和贈呈局員らの中央あたりの壁に歩み寄った。すると、メキメキと骨を軋ませるような生物的な音と共に隠された通路が姿を現す。恐らく、この通路から奇襲を行ったのだろう。


「この街はとある樹木の構成情報を組み替えて、建築物として利用している。君たちの多くは、自分たちを除いて『生命』が死滅していると考えているが実際その考えは誤りだ」


半身振り返るスリオ卿の後にヨナが続き、その後に、やはり怪しいといった様子のエリスが続く。


「ようこそ裏側バックヤードへ。信じられないかもしれないがこれは現実だ。さあ、来たまえ」


スリオ卿に続いて二人が隠された通路に足を踏み入れると同時に入り口が消えた。

彼の言う通り、ここは裏側なのだろう、張り巡らされた水路の中を水が流れる音が微かだが聞こえている。


「百聞は一見に如かずという、私のところまで数歩で繫げてしまう事も可能だが、少し歩くとしよう」


通路はそれ自体が白く発光し、緩やかなカーブを描いていた。

スリオ卿の声が跳ね返り様々な方向から聞こえて、現実離れした景色に何か不穏な未来を創造したのか、エリスは怯えているようだった。


「私はともかく、君たちには明確に時間が無い」


スリオ卿がそう言い終えると、進行方向にある通路の一角が鮮烈な赤によって染め上げられた。逃げまどう人影、追う人影、新たに広がる赤、燃え盛る気化レガリアの炎、それは現在の街の様子だった。


「植物が代謝の末に酸素を生み出すようなものだ。小難しい名称が付いてはいるがね。かつては多くの生物がこれを消費することが出来たが、現在それが出来るのは私ただ一人だけだ。とても使いきれない」


スリオ卿の声がまた反射し様々な位置から聞こえていた。二人は黙ったままあとをおう。


 映像が切り替わり、次に映し出されたのは、クルードへ通じる通路や、ラヴィ氏の居た地区、エレベーター、荒れ果てた水飲み広場、半ば埋もれた瓦礫の隙間、そこに蠢く大勢の人影、暗く人気のない場所にひっそりと佇む古い憲章マグナカルタ、新品の蝋燭、金属製の筒だった。光沢のある喉に再び光が灯る。


常緑樹じょうりょくじゅが越冬に備えて葉の一枚一枚をエネルギー貯蔵タンクとして活用するように、この街も時間を掛けてエネルギーを蓄える、いくつかの区画に分かれたそれらを時間を掛けて我々が使う。決して使い切らないように注意して」


「わたしたちは機械じゃないもの。植物でもないわ」


エリスがそう言うと、スリオ卿はピタリと足を止めて振り向いた。思わず彼女が身を隠す。


「私もそう思う」


 映像が切り替わり、今度は役目を終えた物が積まれる場所が映し出された。広大な空間は薄暗く、静かによどんで、絶え間なくどこかで何かが降り注いでいた。


「分解された元素は再構築され適所使用される。服、食器、趣向品・・・人間がそれらしく生きてゆくには思いのほか沢山の物が必要であるとわかった。しかし多すぎてはいけない」


「・・・あれ」


暗い澱みの中でエリスが何かを見つけた。肉舐めだ。


「『永遠の光エターナルグローリー』、半永久的に機能する照明装置だよ。の様々な物質を分解し、光として代謝する。街の衛生を常に保ち、光ある場所に彼等は常に存在する」


「あなた達が創ったの?」


「いかにも」


「あんなものを作るなんてあなた達は馬鹿げてるわ。『お日様』すらも独り占めにしようとするなんて」


スリオ卿は再び振り返り、エリスもまた身を隠す。


「私もそう思う」


 再びスリオ卿が歩を進める。進路上の通路は早くも何か不穏な映像に切り替わり始めていた。いち早くヨナが気が付く。


「エリス」


「なあに?ヨナ」


「君は見ない方がいい」


「なにがあっても平気よ。それに傷跡を見る度にきっとこの時の事を思い出すわ。それは、きっと、とても素敵な事だもの」


「そうか」


数歩の間停滞していた映像が再び歩く速度と同調する。映し出されていたのは、おびただしい数の局員たちの遺体だった。


「あんなに、沢山・・・」


「痛みの少ないものは再構築され、養成所へと運ばれる。そうでない者は、異なる方法で活用される」


ひとりでに流れる通路はやがて枝分かれし、一方は別の施設へと続いていた。もう一方の通路では痛みの多い局員たちが何重にも張り巡らされたローラーの上をのろのろと進んで次第に衣服をはぎ取られて、同時に体に擦り込まれた血や汚れが洗い落とされてゆく、男も女も、平和贈呈局員も、食料分配局員も、統合生活管理局員も、バラバラに砕けた彫刻が弾き合うような凄惨な景色であったが、それも彼等が一つ目の箱を通過するまでだった。

すっかりられた彼等はそのあと板状に延ばされて、一口大に成形され、乾燥され、最後に食欲を減退させる青色に染められた。


エリスは立ち止まって、壁に両手を当ててそれを見ていた。


「エリス」


奇妙なことにヨナは不安に駆られていた。局員たちが漏れなくであるという事実が、お互いの関係を悪化させるのではないかと。

やがて映像が消えて、そこには壁の白さだけが残された。スリオ卿が先に進んだためだ。両肩に触れてヨナがまた名を呼んだ。


「エリス」


「わたし、酷いこと言ったね?」


を・・・)


彼女の言ったその言葉をヨナはきちんと覚えていた。というよりも、彼の記憶にそれはしかと刻まれていたのだ。自分でも忘れていたその傷を今、彼女がそっと指先で撫でたような気がした。それで十分だった。


「いいんだ。あれはもうただの食料だ。君の言った通り、恐怖を和らげる効果も傷の痛みを消す効果もない。・・・行こう」


「うん」


二人は少しペースを上げてスリオ卿の後を追った。丸い光沢を放つ背中に近づくにつれ、正面から映像が流れて来る。大きな頭飾りに、つま先まで隠した漆黒のローブ、銀色の仮面、すっかり定着したお世話達、この街の上層階級の者たちだ。


「社会には階級のピラミッドが必要不可欠だ。永遠の時間を与えられたとしても、相対的な指標を失えばそれは孤独や無に等しく、互いの呼吸の数を数えるだけの存在にすぎない」


あるものは、ローブの裾を汚し平和を唱える板切れを掲げて炎に包まれる街を徘徊していた。また、ある者はお世話の者に掴みかかり泣き喚いていた。また、ある者は愛するお世話の者と対面し、生涯最後の食事を愉しんでいた。そして、その他大勢は、身体を筒状の機械に収めて既に死んでいるかのように固く目を閉じていた。


「あの人たち、寝ているの?」


「『妄想装置もうそうそうち』。彼等が夢見るのは常に一族の長や百戦錬磨の英雄。繁殖に成功した雄や雌、大勢から愛される象徴・偉人。類稀な才能を持って生まれた存在、そして、神」


筒の中に見えるどの顔も、満ち足りて安らかな表情を浮かべていた。施設の隅の方で項垂れる者たちは自分たちの番が永遠に回って来ない事に関して絶望しているようだった。そこに寄り添うのはお世話達だ。


「全てが思い通りに行く世界。彼等は自分の運命をかなぐり捨てて偽りの世界へと逃亡した臆病者達だ」


スリオ卿の語句に僅かだが熱が篭り立ち止まる。まるで何かを待つように、スリオ卿は立ち止ったのだ。


「夢だって・・・」と、エリス。


続けて。


「現実の中の出来事だわ。わたしは悪い事だなんてちっとも思わない」


無音だった。けれど、どこかでスリオ卿は唸ったようだった。


「・・・・・そうか」


映像はそこで終わっていた。かのように見えたが実際はまだ続いていた。映し出される映像が壁と同じ色であったために一瞬そう錯覚しただけである。


「局員の、養成所だ」


 同じ服、同じ机がいくつも並ぶ白い部屋だった。局によって部屋が異なり、それぞれに適したデザインの局員たちがずらりと並べられている。既視感のある部屋の一つでは初歩的な訓練の最中であった。紙で作られた小さなサイコロを転がし、出た目の数を実際に局で使われている入力機械に入力し続ける『基礎業務』の訓練だ。前半5時間、昼食をはさみ6時間。この簡単な作業を正常に行えない者は文字通りこととなる。そう、要求に応えられない者は落とされるのだ。あの場所へ。


「ヨナ?大丈夫?」


「ああ」


「街の中骨を支える彼等は常に模範的でなければならなかった。0.1%にも満たない誤差であっても、長い長い時間が立てばやがて大きな歪みとなる。君は大変模範的な局員だった・・・しかし」


「歪みなんかじゃない!ヨナは歪みなんかじゃないわ!」


「いいんだ。エリス。俺は確かに規則を破った。君と会う前にも、破ったんだ」


映像が切り替わる。全て似ているが全てが違う景色だった。


「食料分配局員の。最終試験だ」

「ヨナ?大丈夫?あなた顔が真っ青だわ」


食料分配局員は、その業務上について知る必要がある。限界を超えた飢えにより訪れる狂気、不安、残虐性、その恐ろしさを理解する必要がある。


 金属の格子で区切られた部屋に二人の養成員が入り、最低限の食事のみを与えられたままどちらかが餓死するか発狂するまで生き延びる。それが出来た者のみが晴れて食料分配局員として養成所を後にすることが出来るのだ。ヨナは当時の事を鮮明に覚えていた。彼は心臓が冷たく脈打つのを感じていた。


「俺は、限界だった。同室だった彼も・・・俺は、配給された食事を、彼へ与えたんだ。そのせいで彼は」

「彼は?どうなってしまったの?ヨナ」


丁度、ヨナが触れていた映像の一つで、その再現が行われようとしていた。ゆっくりと、ゆっくりと床が前方へとスライドし無くなっていく。


「覚えている、俺は中央の格子から乗り出して、彼も格子を掴もうとした。しかし、それに触れた途端指先の水分が蒸発して、俺は放してしまった触れられない程熱くなっていたんだ」


「・・・そう・・・残酷ね。とても残酷」


「彼等はこれから局員になる者に、身勝手な行動が引き起こす危険性を教えたんだ」


スリオ卿が歩き出して、ヨナも後を追う。エリスも。

エリスは記憶の奥底から浮かび上がった一つの疑問をヨナへと投げた。


「けれどあなたはわたしを助けてくれたわ」


「人間は、過ちを繰り返す」


彼女の胸に湧き上がった感情は懐かしさ、そして、愛おしさだった。


***


 映像が消えて、通路の先に広い空間が現れる。

雲を越えた場所にあるその空間は、夕日のように赤い街の炎に照らされていた。スリオ卿の身体が入り口の隅に寄って姿勢を正して停止した。

一面ガラス張りの部屋には、計算されつくした角度で降り注ぐ日光によって咲き乱れる色とりどりの花と、古いコートに身を包んだ痩せた男が一人だけぽつりと佇んで、来訪者に対して目線を向けていた。


「二人ともよくここまで来てくれた。私が『スリオ卿』と呼ばれる人物キャラクターだ」


差し込む光の影響で二人からその顔は良く見えなかった。躊躇った末にヨナが初めに一歩踏み出した。エリスもそれに続く。広い空間に楽器のような靴音だけが響き渡る。

壁一面のガラス窓は外側にせり出すように下から伸びていた。スリオ卿に近ずくにつれて明らかになる全貌は、どこか見慣れていて、同時に非現実的でもあった。

エリスはともかくヨナは彼に会った事があるのかもしれないと感じた。それほどまでにありふれた見た目の人物である。背後に見えている街から新たな火の手が上がり。横顔を照らした。余計なコミュニケーションを極力拒むようなそんな大変見慣れた態度であった。


エリスが一歩踏み出して、横顔が炎に濡れる。


「初めましてスリオ卿。何故わたしたちをここへ連れて来たの?」


スリオ卿の口がドアノブのように動いた。


「街中の防犯カメラを利用したバイナリー信号ではなく。誰かと会って話をしたくなってね」


「あなたは一体いつから?」


「君たちがまだアダムとイブだった時には既に世界の謎の多くを解き明かしていた」


「あなたがわたしたちを創造し作ってくれたの?」


「私はその瞬間を目撃しただけに過ぎない。再現を試みたが、そこへは到達することは無かった」


スリオ卿はそう言って足位置を直し、若干目をそらしたように見えた。その僅かな動作に多くを察したのかエリスがまた口を開く。


「そう、あなたがヨナのお父さんね」

「父親・・・?」


「いいや、それは違う。彼をはじめとする『ニューマン』達は全て『セルチャンバー』から製造される有機元素の集合体だ。親など存在はしない」


「理屈じゃないわ。スリオ卿」


スリオ卿は喉の奥で一度唸って、エリスを見た。その瞳はみずみずしく、映り込む街の灯が彼女の生命力を象徴する形で輝いていた。


「スリオ卿」


ヨナだ。


「あの機械があなただと知っていたら俺は」


ヨナは少しだけ体を逸らしてそう言った。スリオ卿は、入り口の近くで待機している黒い人影を見て唸った。


「あれは、貴族達ブルーブラッドの夢から発掘された『メイドロボ』だよヨナ君。娯楽は時に思いもよらない閃きを与えるのだな。最近配備され始め、現在では20機・・・君が2機壊したから18機が駆動している。時間単位での完全な予約制、ボディの一部パーツにはニューマンと同じ技術が用いられている。血眼になって私の存在を探す勢力への手掛かりになってしまう危険性もあったが、私は君たちに賭ける事にした」


「それは一体どういうこと?」


ドガッ!


爆発音とともに壁の一部が吹き飛んで、一人のブルーカラーが現れる。


「ソロモン!」

「・・・?!エリス!」


エリスが駆けだして、ヨナとスリオ卿は共に微動だにしなかった。二人はただ、指先一つ動かすことすらできずに見つめ合うのみだった。


ソロモンが両手に抱えた武器の数々を下ろしてエリスをそっと懐へと迎え入れる。


「エリス。この街はお終いだ遠くへ行け、街の外へ。生き延びろ」


「わたしは馬鹿だから。あなたのように強くは生きられない」


「必ずしも強いものが生き残るわけじゃない。踏みつけられ傷つき、恥をかいてでも死なない者だけが生き残る。向かい風を受けて飛び上がれ、空高く、そしてはばたけ、たとえ嵐の中でさえ、絶望を知らぬ渡り鳥のように。さぁいけ。お前の進む道に必ず風は吹き荒れる」


「・・・ずっと。こうしていてはダメ?」


エリスがそう言うと、ソロモンは鼻を鳴らし下げていた武器を少しだけ持ち上げた。


「ダメだ」


「はい」


エリスは弾かれるようにソロモンから離れて、今度はスリオ卿に抱き付いた。


「さようなら、優しい人」


「私は優しい人間などでは断じてないよエリス君」


「好奇心で街にやってきた物乞いの少年が飢え死にしなかったのは、きっとあなたが優しかったからだわ。誰も知らない、むかしむかしの物語・・・」


「いつの時代も、子供というものは意地汚く、見ておれない。・・・今、彼の言ったことは全て真実だ。建物を出て通りを挟んだ向こうに車が止めてある」


「はい」


エリスは平らな床を蹴って、ソロモンが開けた壁の穴へと一足先に駆けた。


「ヨナ!」

「すぐに行く」

「待て」


ヨナを止めたのはソロモンだった。

ソロモンはヨナを鋭くにらみつけて携帯した沢山の武器の中から一つ手にして差し出した。彼の明晰な頭脳が導き出したストーリー。この街で人間や食い物以外の者がそう簡単に消えるわけがないのだ。件の代物は平和贈呈局の押収物保管所から『回収』したものだった。


流星刀朝平直清りゅうせいとうあさひらなおきよ・・・」


ヨナは再び重さを確かめるようにそれを受け取った。それから、誰かが促すよりも早くその場を去った。途中、彼はたった一度だけ振り返る。


ありがとう。


***


「・・・」


 眼下の街からいくつもの火の手が上がる。立ち上る爆炎はこの場所まで届きそうな程激しい物もあった。


気に入らん。


隕石から打ち出した刀だと?それも空中で衝突し、融合した物からだと?おとぎ話も体外にしろ。


静寂。


ソロモンはひと時すべてを忘れ、人類の支配者とも呼べる人物(また、神と呼ぶ者もいるに違いない)へと近づいた。


「悪いがこれから、お前ごとこの場所を吹き飛ばす」


スリオ卿は不動のまましばらく窓のオレンジを浴びてから答えた。


「いいだろう。私のラストワードは君に託すとしよう。さ、こちらへ。何か飲むかね?」

「ワインを貰おう。それと帰る時にハンバーガーを用意してくれ」

「ふむ。わかった」


スリオ卿が停止していたメイドロボに目配せするという本来必要のないアクションを行うと彼女は優雅に動いてその場を後にした。

オレンジの光を横切って、スリオ卿が花壇で広く区切られた場所にある小さな白いテーブルへと歩を進める。ソロモンもそれに続く。花の香りの中にスリオ卿が先に体を落ち着かせて、礼儀など知っていたとしても従うものか。と言った様子でソロモンも席に着いた。


 ソロモンはテーブルに乗せた両手で恐らくは星をかたどる輪を作りながら考えを整理している様だった。スリオ卿は老人の如き忍耐強さで続きを待った。やがてソロモンは学徒のような熱心な視線をスリオ卿へと送り「一つ聞きたいことがある。その・・・『大陸移動説』は実在していると思うか?」と言った。


気象学。地質学。民俗学。そして何より古生物学的観点からその疑問に向き合うべきだとスリオ卿は感じた。彼の口元は他者との対話によって得られる思いもよらない知的興奮によって僅かにほころんだ。スリオ卿の無いに等しいリアクションに即座にソロモンが反応し、即座にスリオ卿も彼を逃さないように反応した。やはり、自分は神でも怪物でもなく、ただの人間であったのだ。


「まずは一杯やろう。ソロモン君」


 街の火や、人間の血よりもずっと鮮やかな赤色の液体が、不便そうな容器に注がれる。立ち上がる芳醇な薫りは、彼を子供のように跳ね回りたくさせた。ソロモンはその大地と時の恵みを納得できない様子で睨むと、一口飲んだ。


「・・・ごほっ・・・ごほっ!!・・・なぜこんな不味いものを・・・」


スリオ卿はどこか嬉しそうに容器を持ち上げた。


「この出会いに」


乾杯。



***



 クルードで聞いたメガジュークの音色がぼやぼやとぼやけて鳴り響いていた。街は燃え盛り、路地裏や、小さな側溝でさえ昼間のように照らし出されていた。空調用の吹き出し口からは絶え間なく炎が噴射し、古アパートの壁に人影が躍っていた。なんの変哲もない建物の出口の近くの街灯に、子供が一人昇って、小さな足を揺らしながら夜空に向かって鼻歌を口ずさんでいた。人々は存分に追い立てて殺戮の限りを尽くしていた。


『切り刻んでやる・・・』

『濡れた絨毯みたいに思いきり叩きつけろ』

『もっと燃やせ!もっとだ』


「・・・違う。これは本来の君たちじゃない」


そう思うと同時にヨナが感じていたのはやはり無力感だった。星の導きや運命のうねり前では、個人の力など全く無いに等しいのだ。現に、なんの変哲もない建物の出口から姿を現した自分たちの事など彼等はまるで見えていないようだった。

二人は大勢の運命がなす術無く流される流れの際に立っていた。一歩でも何かを踏み外せば、たちまち自分たちもそれに飲み込まれてしまうだろう。指が数本欠けた手がヨナの手を引いて、通りの、真っすぐな地面に足を乗せた。


「違うわヨナ。これもわたしたちの本来の姿よ」


建物の角から殺気を纏った集団が現れて二人を横切った。エリスは、鼻歌を口ずさみながらヨナの両手を取り、鳴り響く音楽に合わせて体を左右に揺すった。ほかにも様々な種類の人間たちの集団が何度も交錯し、衝突し、二人の横を通過した。エリスの足がさらに一歩通りの真ん中に近づきヨナもその動きに合わせる。


「踊りましょ?ヨナ」

「ここは危険だ。もう・・・」

「この曲は」

「・・・ああ」

「この曲は、ロジカが好きだった曲よ」

「君が望むなら、俺はこの街に残っても構わない」

「今わたしが望むことはあなたと踊ること、それだけよ」

「わかった」


・・・♪・・・♪・・・・・。



***



 この世界は地獄かも知れない。どこに行ってもそれは変わらないのかもしれない。それでも。

通りの外れにメルロックフェイカーは静かに佇んでいた。ヨナが近くに歩み寄ると、その流線形の車体が音も無く空間から浮かび上がって二人の姿を映し出した。定められた儀式のような動きで二人が乗り込む。言葉は交わさない。

局員たちの業務開始を告げる鐘の音が街中に鳴り響き、悲鳴も、メガジュークの音色も爆発も、全てをほんの一瞬だけかき消して日常が顔を出す。門出であり、出棺を告げる鐘の音であった。


ヨナがアクセルペダルを踏み込むと、オレンジ色の灯がゆっくりと左から右へと流れていった。



 ハイウェイへと続く道は既に平和贈呈局員たちによって封鎖されていた。街中で行われている破壊行為に対して、素早く動員するための処置だった。

ヨナは少しのためらいもなくそれを突破し、メルロックフェイカーの車体をハイウェイへと乗せ、ペダルを踏んだ。

おびただしいサイレンと警告灯の光が二人を追ったが、この街で最も交通量の多い301の合流地点に差し掛かった時、それらは下方で大きな渦を巻いていた。


束の間の凪だった。


ハイウェイに設置されている通行禁止を示す標識の光が、規則正しく車内に飛び込んできてエリスの後姿を照らしていた。彼女は、街に響き渡る音楽に合わせて鼻歌を口ずさんでいるようだった。


「エリス・・・」

「ねえヨナ、綺麗だね?」


振り返らず、彼女はそう言った。

いつもは灰色の街が炎に照らされてゆらゆらと揺れているのが見えていた。割れたガラスは光を反射して、まるで星のような煌めきを放っている。目まぐるしく流れていくガードレールはいつも同じ場所だけが白く輝いて歪み一つ見当たらない。


「ああ」


やがて、新たな合流地点へと差し掛かる。偶然にも、そこで鉢合わせした車両には平和贈呈局員が何人か乗っていた。


「伏せろ!」

「!!!」


エクスプロイターの閃光がいくつも瞬いて、エリスの目の前で炸裂した。激しい警報と悲鳴が鳴り響く。


「エリス!無事か!?」

「わたしは大丈夫・・・でも」


エリスがそっと体を翻す、すると、車体のドアに当たる部分に大きな穴が開いていた。長くは持たない。メルロックフェイカーが唸りを上げて、それに伴いエリスも小さな悲鳴を上げる。背後から浴びせられる銃弾の雨が弾けて車内に降り注ぐ、流線型のボディは所々溶かされながらもアーチ状の坂をぐんぐん上っていく。背後からこちらに向かって飛んできていたエクスプロイターの花火が段々と少なくなりそれはやがて無くなった。

安心した刹那、二人はお互いに終焉を感じた。

進行方向上で、眩い警告灯が一列に並んで道を完全に封鎖しているのが見えたのだ。


「・・・!」


ヨナは必死に抜け道を探した。時間は限られている、加えて、スピードを緩めるわけにもいかない。だが、そんなものはどこにも見当たらなかった!


気が付けば、シフトレバーを握る手に小さな手が重ねられていた。温かく、傷だらけで、指が何本か欠損した小さな手だ。その手の持ち主は、まだ無様に生き永らえようとするヨナを優しくたしなめるように首を横に振った。その瞬間、彼の目的は終わりを迎えたのだ。 


 メルロックフェイカーは、右に一度大きく膨らむと、そのままの勢いでハイウェイのガードレールに突っ込み、落下した。


***


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