51話から63話 ブルーカラーコンプレックス

「では、その・・・。また・・・・」


「ぁあヨナ君。また、来なさい」


「・・・はい」


部屋の灯りが再び灯されて、ヨナは本来の出入り口から外に出た。


ヨナは、出口を出てすぐの場所で鉢合わせした人物に対して、反射的に頭を下げた。出入り口の隣で壁に寄りかかるように待っていたのは、艶のある黒のローブを頭から被り、鏡面金属の仮面で顔を隠した。名誉評議の観客席で嫌という程見た。この街の上流階級と思わしき人物だったのだ。

しかしながら、当のその人物はというとヨナに一切の目もくれず、横を通り過ぎて例の帳を抜け、あっという間に彼の前から姿を消した。


それからすぐに中から声が漏れてくる。


『先生!先生!!ああ、私は・・・私は一体どうすればいいのでしょうか!?』


『やぁ。よく来たねェ。早速、見て見ようかね』


『・・・お願いします!』


『ふん・・・・ソードの5。それと、水で満たされたカップだねェ』


『一体・・・一体それは!?先生!』


『そうだねェ。少し厄介かもしれないねェ。君さ、敵がいるんじゃないの?それも、その敵ってのが実在していないかもしれない敵。誰かと戦ってるみたいだけどいったい君は誰と戦っていて、その戦いは本当に君にとって必要な事なのかな?』


『・・・ッ。確かに。ある人物たちが私の事を陥れようとする気配がある気がするんです・・・それが杞憂だというのでしょうか?!それが私の苦しみの元凶とでも!』


『ふん・・・そうとも言えないね。どうかな?もう一つ弱点を作ってみたら?』


『弱点と・・・申しますと?』


『ちょうど、いい子がいるんだよ・・・・』


『・・・はい』


そのやり取りを最後に、以降の内容はすっかり聞こえてこなくなった。


「ファティマ!ファティマ!久しぶりね!」


「しーしー!お仕事中なんだから!!」


「ああ、何て綺麗なお肌・・・服も、ほらみんな見てとてもいい香りがする」


「素敵だわ!」


「ああ!お肌すべすべね!」


「ちょ・・・!ちょっとぉっ!」


「上はどう?他のみんなは元気なの?ペジーやラランナは元気なの?」


「そのリング!私がマーケットで捌いた物だわ!間違いない!」


・・・!


・・・!!



 ヨナが思っていたよりもずっと、人間たちには希望が有って、世界はこの時も容易く回るのだ。

金色の小さな光に包まれたクルードが見えて、上から操作されたエレベーターでだけたどり着けるこの場所に居るのは殆どが女で、異様に膨らんだ腹をしている者もいた。ヨナは自分が危害を加える存在だと彼女たちに思われてしまう事に強烈な抵抗を感じた。なので、ヨナは足早にその場を離れる事にした。


せめて、誰も居ない場所へ。

「ああー!よかったちょうどいい所にいた」


正面から一人の妊婦がやってきて紙切れが握られた片手をあげてそう言った。ヨナは彼女を無視して、うず高く積まれた衣類や布の山の影に隠れ別の道へ進もうとした。しかし、その先は曲がるまでもなく、行き止まりだったのだ。彼は仕方なく女から距離を取って、隣をすり抜ける事にする。

「っあ!!」

その時、彼を再び陥れたのは歳を重ねたブルーカラー達が持つ特有の狡猾さだった。

ちょっとした段差に足を引っかけ転びそうになり、両手で腹を庇った女の体を彼は思わず支えてしまったのだ。


「ラヴィのとこに行ってたわね?臭いで分かるわ」


女の瞳は深い緑色をしていた。ヨナは彼女がきちんと自立するまで、ずっしりと重いその体を支えた。彼はすぐにでもここを立ち去る事も出来た。しかし、一度背筋に走った知的な電流は彼の好奇心を殆ど完全な形で痺れさせていたのだった。






「レト、その、まただ」


「え?あら本当ね。悪いんだけどヨナ?また、頼まれてくれるかしら?」


「わかった」


ヨナは、座り心地が良さそうで、最も安定していて、尚且つちょうどいい高さを持ったものの上にブルーカラーの妊婦の一人であるレトを座らせた。

レトは、ゆっくりとそこへ腰を下ろして、やはり今度も肌を擦れる布の痛みで表情を僅かに曇らせた。自分の身体が思い通りに制御できないというのはいったいどれほどの苦痛をもたらすのか、ヨナには想像もできないことだった。


 彼女が服に付いた染みを気遣うように肩回りの布を直したので、今更になってヨナは、あえてそれに気が付かないふりをした。体に触れる布の位置が定まるとレトは何事も無かったかのようにほほ笑んだ。まるで太陽のような笑顔だ。


「少し遠くまで来ちゃったけど、さっきの場所にまだ二人くらいいたわよね?」


後ろで束ねたものから滑り落ちたいくつかの髪を耳にかけなおしてレトが言った。この場所は暖かい場所で、彼女は極めて健康そうにしていたが、額に浮かぶ汗は体にかかる眼に見えない負荷が絞り出されて具現化しているかのようだ。

ヨナは彼女に持たされた触り心地の良い小さな布切れで、その汗を拭いた。


言いつけ通り、強く擦らず、押さえつけるように、ゆっくりと拭いた。


「あの場所には、さっき連れてきた者の他に3名いて、そのうち一人はすでに別の者が対処していた」


「そう。じゃああの場所はあとひとりで終わりかしらね?」


「君の仲間の対応にもよるが。時間的にそうかもしれない」


「ヨナ?私たちはね、とっても働き者なのよ?」


「そうだな、誰もいなければ別の場所から連れて来よう」


「お願いね」


「わかった」


たった数十秒にも満たない簡単なやり取りだった。そんな短い間にも、レトの服に発生した染みはみるみるうちに広がっていた。あれは本人の意思を無視して滲み出て来る母乳によるものだ。

ヨナは何度目かにもなるレトの頼みごとをこの時も快諾した。






「すまない。レトの言いつけで来た」


「レトさんのね?まああなた、どうもありがとう。じゃあこの子、まだ足りないみたいだからお願いできる?」


「わかった」


形だけの屋根があって、薄暗いその場所には苦しそうな喘鳴と、生まれたばかりの幼子の鳴き声と、女のうめき声がこの時も聞こえていた。

ヨナが幼子の一人を受け取ると、触り心地の悪いがさつく布の中でそれは、一度縮んで声を上げ、その様子を見守っていた2名が思わず身構えたのをよそに、再び安らかな眠りに付いた。


「じゃあ、よろしくね」


「ああ」


彼がその場を去ろうとした時、暗がりで横たわる一人の女が痛々しうめき声をあげた。すでに数回この場所を訪れていたヨナは、レトから言いつけられる作業におおむね慣れていた。簡単な言いつけならばヨナは彼等と同じに、問題なく遂行できるのだ。


「何か他に必要なことはあるか?」


ヨナは自分の発言が図々しかったり、思いあがった発言などとは微塵も思わなかった。あの暗がりの隅で苦しそうに横たわる者の腹の中には6名の子がいるという、6名だ。幼子とは言え、彼女はあの痩せた細い体で6名分余計に食事をし、水を飲み、呼吸をしなければならないのだ。考えるまでもなくそれは壮絶である。


世話係の女がヨナの視線を気にして「もう十分よありがとう」と言った。


彼女たちが精神的に不安定になりやすいという事を事前にレトから聞いていたヨナは、自分の罪悪感を苦しむ彼女たちへ押し付けて誤魔化すような行為を一切やめて、レトの元へ向かう事にした。




 洗いたての絨毯を、地下の空調装置で乾かした物の上にレトは窮屈そうに片足を持ち上げて座り込んでいた。

偶然にもその場所には金色の光が斜めに射していて、彼女はこの時も、なにが記されているかも知れない小さな紙の束に夢中になっていた。


「次は背もたれのある場所にしよう」


ヨナがそう言うと、彼の胸の中で安らかな眠りについていた幼子が急に目覚めて泣き出した。理不尽で、図々しく、欠片ほどの知性も感じさせない一方的な主張である。

しかし、時としてそのような原始的な手法こそが最も効果的な場合もあるのだ。少なくともこの時はそうだった。


レトが手にした紙束を差し出して、丁度、幼子と交換するような形となる。

彼はヨナの元を離れるとすぐにレトに張り付いて、小さな背中で自らの権利を主張した。


「ああ、ヨシヨシ」


レトが幼子を器用に操って安定させたので、ヨナは彼女の後ろに回ってせめて背もたれの代わりにでもなれば幸いと思っていた。ふと、レトが夢中になっていた紙束に目が行く、古く上質な紙にはびっしりと何かが書き込まれている。


信じがたい事に、それは文字だった。




~かきわけて進む鉄 第9巻17章~

かすれた指が象牙のような純白の山の斜面を順繰りと這い回った。

頂きで待ち望んでいた瞬間が訪れると腰のあたりが働き蜂のようにずくぅうっと忙しなくなり整った巣穴からは蜜があふれ出る。


舐めるようにごつごつとした手がその質を執念深く確かめて、こそぎ取った。


ふと気が付くと、こんこんと溢れ出る蜜のにおいに誘われたのか、一匹の怪物が夜の帳を引き裂いて現れた。たちこめるあまい香りが濃くなるにつれ、鉛のような頭は徐々にその恐ろしさを増していった。


怪物は鼻をひくつかせ、早速泉に顔を沈めて滴る唾液でそれを汚そうとした!




私はとっさに怪物の首を5本の指で絞めた!




されど、この恐るべき怪物は食い込む指を硬く押し返し、内に秘めた怒りを灼熱に変え、それは溶岩となり脳天からあふれ、浮き出た血管の上を伝う。

剝き出しとなった白い牙が糸を引いて持ち上がり、まさにそれは、肉体との決別を無理強いする猛毒が仕込まれた刃である。


このままではいけない!


したたる唾液を浴びながら私は怪物の二つある心臓の一つに食らいついた!


怪物は陸に投げた魚のように苦しみ、のたうち、楽しみ、憎しみで喉元を膨張させた。


もう少しだ!


私は、もう片方の心臓にも手を伸ばし、十四の夜を越えて蓄えられた生命力を絞り上げた!


二つの心臓から押し出された物は行き場を失い、怪物の中を駆け巡った。


怪物の体は膨れ上がり、やがてそれは限界を迎えて、ついに、一度めの死がもたらされたのだ!


ガラス細工の如き首筋には未だに指を押し返すたくましい脈動があった。


私は、天使のように清らかで、馬のように穏やかになった怪物の頭にそっと口づけをした。





ああ。キャスリンどうして?




ロドリゴ、こうでもしないとあなたはすぐにいって・・・・・・・・・




『アアアアアアアアアアアアアァァァァ!!!』




再び理不尽な主張が行われて、ヨナの意識は上質な紙の束から、小さな両手を懸命に駆使して乳房にしがみ付いている幼子へと向けられた。


「こーら!ヨナっ!」


眉を少し釣りあげてレトが言った。見た事の無い形の眉であったが、ヨナはこの眉の事をよく知っているような気がした。


「君は文字が読めたのか?」


「このっ!ほらっ!あなたはっ!返しなさいっ!」


「ああ」


身体を前に向けたままのレトの手が何度か空を切って、その軌道上に偶然現れた紙の束を乱暴に捕まえた。ヨナはその間、彼女が後ろに倒れてしまわないようにさりげなく背中を支えた。触れている場所はとても温かい。


「まったく、子供の前でこんなもの出すんじゃありません」


「すまない」


『・・・アッ・・・!!』


幼子が顔をくしゃくしゃにゆがめて拳を握りしめたので二人は、無意識に身構えた。

しかし、ヨナやレトの心配とは裏腹に、それは『自分はこれから眠る』という身勝手な意思表示だった。彼以外にも殆どの者らが寝静まっているのかクルードはとても静かだった。


「君は文字が読めたのか?」


ヨナにとっては、その事実は比較的どうでも良い事だった。彼にとって重要なのはその先だ。


レトは荒布に眠った幼子をしまって、外れていた肩紐をそっと持ち上げた。ここから先はヨナの仕事になっている。ヨナが元通りに彼女の衣服を直している間に例の紙束は荒布の中に乱雑に放り込まれる。

レトが大きなあくびをして肩の筋を伸ばす。それに伴い、肩の周りの骨がぱきぱきと音を立てた。じんわりとした快感が肩に広がると一呼吸置いて彼女が答える。


「そうよ?わたしこれでも氏族の長の娘だったんだから!お姫様よ?教養だってあるのよ?」


発言の持つ意味がそうさせるのか、レトは気高く、知的にほほ笑んだ。


「君はクジラやトリを見た事があるのか?」


「本物は無いけど・・・本や骨の標本ならあるわよ?」


「それは・・・その。本当に九つのジラがある大きな、人間にとって害を及ぼす者なのか?つまり、どこかにそう記述してあって、それが君のその紙束のように手に取れる状態でラヴィ氏のところに保管されていて、もし特定の人物が望めばそれらの内容をいつでも確かめることが出来る状態であるのかという事を聞きたいんだ」


「まぁ」


『・・・アッ!!!!!アッ!!』


「ぁぁ・・・ヨシヨシ」


今度の主張は、『自分が寝て居る時は誰であろうと静かにしろ』というものであった。

ヨナは今更になって、この地に住まう人々の日常のペースを乱していることを自覚し、肩の紐を結び終えると同時に謝罪した。

それを聞いて満足したのか否か、もはや確かめる術はない、幼子は自らの指を口へと運び音を立てて吸って再び寝息をたてはじめる。レトは薄い唇を一度押し合わせてから落ち着いた様子で答えた。


「あなた、とても変わってるわね?」


「そうなのか?」


「ええ、だって、その。そう!みんなはわたし達のそばに近寄りたがらないもの」


「なぜだ?」


「ううん、何て言うのかしら、わたし達がとても命に近い存在だから?仲間のみんなはとっても怖がりなのよ?かわいいでしょ?」


「可愛い?仲間を遠ざける事が可愛いという事なのか?」


「そうねえ・・・とても難しい概念ね。タダで教える訳にはいかないわ」


レトはそう言って、安定していた尻を一度浮かせてさらに安定させた。


「とりあえず、肩を揉んでもらおうかしら?」


「ああ」









「うんと『オシャレ』をして『ハンバーガー』を食べるの!『観覧車』に乗って打ち上がる花火を見て朝になるまで『ワイン』を飲んで『映画』を見るの!」


前を向いたまま、レトは深い緑色の瞳を輝かせてそう言った。


 オシャレは時代とともに移り変わる人間の衣服・装飾品の好みを自身に反映させることで、ハンバーガーは過去に実在した料理の名称。『ハンバーグステーキ』(肉を粉すり潰した物を焼成した料理)を丸い『パン』(諸説あるが一般的に小麦粉と水を練り合わせた物に酵母菌と呼ばれる物の活動を利用した処理後焼成した料理)に挟んだものだ。観覧車は巨大な車輪の外周にゴンドラを取り付け人を乗せ、ゆっくりと回転させることで高所からの景観を楽しむための乗り物で、ワインと言うのは発酵(前述した酵母菌の活動を利用した調理工程の一つ)させた果実を絞った飲料、映画とは創造された物語を映像化し永遠と保存する技術の事だ。


「それでね、それでね、はぁ、はぁ・・・」


レトは、このヨナと言うよそ者に対して容赦なく、ずっとため込んでいた刺激的な渇望の数々を語った。彼女の目は輝き、時折薬物の中毒症状のような発汗や瞳孔の激しい乱れ、ひきつけを起こしたが決してそれをやめようとはしなかった。


「レト。それ以上は君の体に負担がかかりすぎる」


レトの顔から血の気が引いて、呼吸が荒くなる。ヨナは、この後に彼女がえずく姿を既に何度か目の当たりにしていた。


「え、ええ・・・」


彼女は湧き上がる吐き気を飲み込んで、呼吸を整えた。


「ラヴィのところに来る人たちみたいに『青いブルーカラー』になっちゃうわ。ふふ」


偶然か当てつけか、彼等が互いに同じ名称で呼び合う理由をヨナは知らない。集団を現す呼び名など彼にとってはどうでもいい事だ。

ヨナは疲労しきったレトの肩をさすった。汗ばんでいて温かく荒い手触りであった。


「少し休んだ方がいい」


「そうさせてもらおうかしら」


レトは一度乱れた呼吸をようやく整えて、差し出された両手に幼子を乗せた。すると幼子は目を見開いて泣きわめいた。抱き方が下手なわけでは決してないのだ。

荒布に巻き込まれた紙束を返すと、視線の下の方でレトは勝ち誇ったような微笑みを浮かべている。


「ふふ」


「レト、問題は無い。彼を返してくる。それで泣き止むんだ」


「あなた一人で大丈夫かしら?ヨナ?」


「一人ではない、彼もいる」


「そうね、ああ、その子達が大きくなったら・・・」


レトはそっと囁いて地面に直接横になった。死体のように閉じられた瞼には小さな皺が集まって、ヨナはその一つ一つに刻まれた決して語られる事の無い彼女の過去を見た気がした。



***



 訪れるはずの消灯が訪れないので、エリスはかつてのように眠りにつくことが出来ずにいた。この秘密の場所は天井がなかば崩落し、崩れた瓦礫の隙間からは黄金の光が射していた。

彼女の隣ではタップが静かに寝息を立てている。それは決して、彼だけの事ではなく、仲間たちのほぼ全員が回収と回収後の騒ぎの疲れを癒すためのいわゆる休眠状態にあるのだ。

辺りが明るかろうと真っ暗だろうと、そんな事を気にして眠ることが出来ないような神経質な者は当の昔に肉舐めの餌食になり跡形もなく消えたのだろう。そしてこれからも消えるのだ。


 エリスは、自分の体に掛けられていた小さなジャケットをタップへと返却すると、安らかな眠りについている彼の栗色のくせのある前髪をそっと撫でた。広いおでこが露出し、タップは目を閉じたまま彼女の名を呼んだ。壁に入ったひびから漏れ出る光が止まったままの二人の影を映し出す。


エリスの中に激しい感情が湧き上がって、それが体を動かしていた。

彼女は感情の赴くままにタップの埃だらけの汚れた額に口づけをして軋む体を奮い立たせて立ち上がった。彼女にはどうしても会いたい人物がいたのだ。








「ここにいたのね?」


「・・・」


ここはかつて、先人たちによって平等に分配された最も重要な設備、氏族たちの拠点、その跡地の一つだった。

磨かれた水差し、壁に掛けられた憲章、信頼おける長の為に用意されたであろう柔らかそうな長椅子、替えの蠟燭、その全てが真新しく、それらは影によってこっそりと隠されていた。


この場所には、今現在生き残っている仲間達とは別の氏族が暮らしていた。自分たちを除けば彼等は最後の氏族であり、ほとんどの仲間たちにとってこの場所は、近寄りがたい呪いの地でもあった。


 ここは、地下全体の照明や一部の昇降機やメガジューク、それから水をクルード全体へ行きわたらせるためのポンプの原動力などを司る装置がある場所で、それらの原理は当然、誰一人知らないテクノロジーである。


闇が殆どを飲み込む空間で、足元だけが辛うじて見えている人物は、現れた人物がエリスであることを確信すると、手にした円柱状の金属容器を床に置いた。

二人を除いて他に誰も存在しない空間に、容器の底が床を叩く音が一度響いて、円柱容器は横に倒れて、まるで最初からそう定められていたかのように、同じ形状をした物たちが一か所に集い、まるで、吹き溜まりのようになっている場所へと吸い込まれて、留まった。






「俺たちに、明日はない」





懐かしい、思わず涙が滲むほど懐かしい声だった。

エリスは、意識に反して震える喉を抑えて呼吸を整えた。日食や月食や流星のように気まぐれなこの人物の興味が滅多に個人に向けられないことを彼女は知っていた。彼女は慎重に言葉を選ぶ必要があった。


「それでも、日はまた昇るのよ?それはきっと良い事だわ」


エリスがそう言うと、ぼんやりとした影が振り返りこちらを向いた。


「愛する者たちが暴力によって蹂躙される日になったとしてもか?エリス。同じことが言えるのか?」


「あなたが先に武器を置いてテーブルに着けば、それはきっと防げるわ。ソロモン」


誰も居ない空間に響いた声が残響してびりびりと鳴る。

擦り切れたブーツの底が床を鳴らして闇から現れて、反対側の膝も続いて現れた。

顔は、未だに闇の中にあった。


「俺たちの先祖は、武器を持たない鳥たちを一方的に撃ち殺した。下らない、糞以下の娯楽のためだ。俺たちが生まれ持つ30億個の情報の中に、奴らが再び発生しない保証などどこにも無い。どこにもだ」


「人は一人じゃないわ。その時にはあなたのような人が現れて、きっと止めてくれるはずよ」


「暴力は暴力によってでしか抑制する事はできない」


「生きたいと願う事と、脅かすことは同じことだもの仕方がないわ。程度が違うだけだもの」


「俺たちは薄汚れた生存本能の奴隷だ。惨めに生きながらえて一体何になる」


「醜さを捨てきれない私たちの事をあなたは諦めるべきよ。そこに理解があるわ。怪我をしても、放っておけば傷はいつか直るのよ?瘡蓋かさぶたむしるのはもう止めにして、誰もあなたを責めはしない。わたしも、母さんも!」


「俺には、それが出来ないんだ。エリス」


「ソロモン!!」


エリスはたまらず影の中へと飛び込んだ。誰の予想にも反して、影は彼女を優しく迎え入れた。

耳の裏で心臓の鼓動が聞こえていた。誰のものなのかはわからない。エリスが言う。


「仲間たちはみんなあなたを慕ってる。そんな彼らが死んでいく、毎日」


「俺たちは所詮、血と肉によって形作られた欲望の副産物に過ぎない。生まれてくる命には常に代用が効く。だからこそ命たりうる。お前を見ていると吐き気がする。失せろ」


「もしそれが事実だとしても、あなたの代わりは誰も居ないわ。父さん」


「親の元を離れた子供が、再び戻ることは許されない。決して」


「そんなことないわ。安全な住処が一つ保証されている事を喜ばない生き物なんていないもの」


まるで、全ての生物の代表であるかのような傲慢ごうまんな態度を前に、ソロモンの内のどこかから、可笑おかしさがひょいと現れて消えた。無論、それが誰かによって観測されることは決してない。


「奴の事を聞かせてくれ」


懐かしい匂いがした。ここではない危険な場所の土と空気と、それから仲間たちの血の匂いだ。やはりこれは、血の匂いだったのだ。


「ええ」


エリスは枝分かれする思考の束から一房ひとふさ選び、つづけた。


「冷たい海の中でわたしは何もできずにいたわ。とても暗くて、何処を流されているのかも分からなかった。世界はとても狭い物だと思っていたけれど、それは間違いで、とても広くて恐ろしい物だった。だけど、突然、小さなろうそくの灯が、吹いたら簡単に消えてしまうような小さな火が見えて、わたしはそれを頼りに進んだの。そして、あの人と出会ったわ」


「それからどうした?」


「野ざらしの荒野に冷たい風が吹いて、それはあっという間に嵐に変わった。わたしは、危ないって思ったわ。小さな火が消えてしまうって。でも、渦巻く暴風の中で火はみるみる大きくなってやがて大きな炎の渦になって暗い空を熱く照らしたの。とっても熱く。それを見上げて、私は思ったわ。きっとこれが偶然なんだって」


「・・・そうか」


「そうよ、ソロモン。ゼロサムゲームだっていいじゃない。私好きよ?サメの居る海面を低空で飛び続けるの」


ソロモンはエリスを影から切り離してクルードの黄金の光の中へと帰した。


「雲外蒼天。嵐の中でこそ男の価値が試される」


ソロモンは最後にそう言い残して姿を消した。

クルードの天井からは、マーケットを訪れる人々や、取引に用いられる対価を満載したいくつものコンテナがゆっくりと降りてきているのが見えていた。





 生まれたばかりの6名の子を両手で抱えた女の顔からは完全に血の気が引いていた。

親の元を離れ、自由を手に入れた彼等が泣いているのか、眠っているのか、激怒しているのかはもはや理解が及ばない。すっかり腹が小さくなった女は崩落しかけている建物の壁に寄りかかって、自由奔放に振舞う子供たちのしなやかな頭髪に静かに吐息をかけている。あの者はじきに死んでしまうだろう。

ヨナにはそんな確信があった。

レトから預かった幼子はいつの間にか眠りについていて、小さな体が放つ熱が荒布越しからヨナの両腕に伝わっていた。この状態ならば、どこの、誰に引き渡したとしても面倒ごとにはならないだろう。と、牧歌的な平和が彼の心に訪れた矢先の出来事である。


ヨナは思わず、別の場所を頼るべきだと感じた。幸い、世話係の者の姿は見えないし、焦点の定まらない瞳は子供たちの頭頂部にだけ向けられていた。この場を去るのなら今を置いて他にないのだ。


『アアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!!!!!!!!!』


どきりとする。

絶叫は荒布の中から聞こえた。

ヨナは何か魂を突き刺すような運命的なものを感じざるを得なくなり、この場からいち早く立ち去るよりも彼ときちんと対話する必要があるような気がした。


君はどうしたいというのだ?


「あら」


そうこうしている内に絶叫を聞きつけた世話係の者がどこからか現れて二人を見つけた。仲間の声を聞きつけた荒布の子供は一度膨らみさらなる絶叫をあげる。抱き方が下手な訳では決してないのだ。


「彼をレトの元から連れ戻したのだが」


ヨナはこの世話係が少しでも否定的な態度を示せばすぐに別の者を頼るつもりで、歯切れ悪くそう言った。しかしながら、そのような不安をよそに掛けられた言葉はとても親切なものであった。


世話係の者は、ヨナから荒布を受け取り、口の中で何やら唱えてあっという間に幼子を大人しくさせてしまう。まるで特別な技能を駆使しているかのように。


「・・・その子」


6名を抱えた女が、どこか穏やかに声をあげた。

世話係の者が気が付いて、返却されたばかりの子を彼女に受け渡した。子は、すぐに他の者を押しのけて白い肌に張り付いて、他の子供たちに抗議され、やがてそれらはすぐに和解を迎えた。7名を抱えた女はさらに影を薄くして上の空ぎみに「5人が9人に増えたって変わらないもの」と呟いた。


ヨナは、世話係の者にまた同じ質問をした。世話係の者はヨナの様子にいよいよ観念して、空の水差しを差し出した。




 共有の水汲み場にたどり着いたヨナの足取りはどういうわけか重かった。彼はさっそく、排水部に空の水差しを押し当ててバルブを捻ったが、水は出なかった。複雑な状況が折り重なって発生する調子の下振れなどではなく、もっと単純で大きなトラブルが起きているといった印象である。


ここから曲がりながら伸びている水路の先には水を貯めておくための貯水槽もあり、そこにも水はあることにはあった。しかし、足元よりも低い位置に溜められている水は、地上の吐き捨てられた吐しゃ物が溶けだした水たまりを連想させ。どうしても、不潔な印象を彼へ与えたのだった。出来る事ならば、水道から汲み上げた水が好ましい。


外気に当てられ生暖かくなった水道管を辿り、操作が及びそうな部分を探しては排水部へと戻る。

バルブを操作し、水路を下り、足元より低い位置に溜められた水を凝視してから手ですくい取って飲んで、異常が無い事を確認して、再び排水部へと戻る。


すると、なんの前触れも無く、凄まじい勢いで排水部から水が噴出した。ヨナは急いでバルブを操作して、容器はすぐに水で満たされた。




 とても、寒々とした気分であった。理由はわかりきっている、さっきまで抱えていた熱を元の場所へと返却したせいだ。


ヨナは、彼等がこの場所に近寄りたがらない理由が何となく理解できたような気がしていた。生物としての奇跡とも呼べる現象を巻き起こしておきながら、報われないと思い込んでしまう自分の身勝手な考えと、彼女たちへ対する圧倒的な無力感。次々と誕生する子供たちに待ち受ける過酷な運命。それらが、きっと、彼等に強烈な不快感を与えるのだろう。

あれだけ壮絶に生まれながらも、彼等に必ず訪れる終焉は、あっけなく、あまりにも唐突なのだ。当然、彼等が望んだわけではなく、むしろ、何者かによってそうなるよう仕組まれているかのように・・・。そんな事を考えていると、すっかり癒えた腹の傷に鈍い痛みが走ったような気がした。




ヨナはいつの間にかレトの元へと戻っていた。

レトは、いつかのように乾いた布の山の上に窮屈そうに片足を抱えて座り込んで、その手には上質な紙の束が持たれている。


「レト、身体はもういいのか?」


「あぁヨナ。おかえりなさい」


レトは紙の束を凝視したままそう言って、ページを一枚めくった。


「ええ、おかげさまで、もうだいぶよ・・・・」


次のページに目を通し始める前にレトは一度ヨナの姿を捕える事にした。

何かをしながら、たとえそれが、ページを一枚めくるだけの小さな動作であったとしても、それを行いながら他人と会話するというのは彼女にとって礼節に欠ける行為だったのだ。

彼女の深い緑色をした瞳がページから離れて、消灯していない故郷を横切り、何度見ても飽きないであろう整った顔へと向けられた。


「く成った・・・ってヨナ?あなた?!どうしたのその!!ぷっ!」


次の瞬間。


『・・・・・・・・・・・・!!!!!!!』


彼女は笑った。


その勢いがあまりにもすさまじい物だったので、ヨナはあっけにとられた。と、同時に、レトの体が後ろにのけぞって転がり落ちてしまわないように背中を支えようとも思い、彼女に一歩近寄った。すると、彼のブーツから再び水が絞り出されて足元に広がった。水はまだまだ無限に滴り落ちて来る。


目の前で繰り広げられる事件を目の当たりにしたレトは、もう息をする事すらままならない程笑った。様子が落ち着くのを見計らって、今更になってヨナが質問に答える。


「水を汲んできてくれと頼まれたんだ。それで」


やっとの思いで痙攣が収まって、細い指で涙をこすり落としていたレトは、再び大きく笑った。今のレトにとって、全ての出来事は彼女を笑いへと強制的に導く卑劣な追撃となりうるのだ。傷と同じように、元通りに癒えるには時間が必要だった。ヨナはそんな彼女をいったん見守ることにした。




 幸い、その間レトが後ろに倒れてしまったり、えずいたりすることは無かった。ようやく呼吸を整えた彼女がそれでも顔をゆがめながら言う。


「あなたのような人でもそんな情けない失敗をするのね?」


「失敗はしていない」


「ぷっ!!してるわよ?ああでも、でも!まあいいわ?素敵よ?とても」


独特のハンドサインを交えて、レトはそう言い、すっと立ち上がってヨナのずぶ濡れの上着に手を掛けた。


「レト。君まで濡れてしまう」


「なに言ってるのよ?乾かさないと、それともなあに?あなたは私の他の仲間たちまで濡らしてしまう気なの?」


ヨナは不本意にもその意見に納得して、またしても彼女に従う事にした。





 汎用ハンガーにかけられた衣服が、クルードの空調装置の排気を受けて揺れていた。騒音が近づいては遠のいて、この場所はとても温かい。

あれは、地上のどの住居にも標準装備されているボディドライヤーの規模を大きくした物だろう。何かを思い出した身体はすぐに飛び起きそうになって、それを拒絶したのも同じ身体であった。辛うじて瞼だけが動く。


「まだ大丈夫よ?みんなそろそろ眠ったころかしらね?」


「レト」


「なあに?」


「今は何ページ目だ?」


「59ページよ」


「そうか」


さっき聞いた時、彼女が開いていたページは57ページと58ページだった。

つまり、地上の一晩よりずっと長く感じられた意識混濁と、その後に決まって訪れる脅迫的な目覚めはレトがわずか1ページ読み進める間に起きた出来事という訳だ。ここクルードでは時間の流れが地上よりもずっと緩やかなのかもしれない、刺激的で、ありえない仮説だ。しかし、もしそうであるなら、少ない食糧でも彼等が生き延びられている事の説明が付くような気がした。


「レト」


「なあに?」


「今は何ページ目だ?」


「59ページよ」


「誰かが来るかもしれない」


「誰も来ないわよ」


「そうか」


ヨナはすっかり汚れた普段着を遥か下方から見上げていた。見上げると言っても、ヨナはそれらを正面で捉えることが出来ていた。


クリーニングが施されていない服は皺だらけで、所々に汚れが沁みつき、あれらは乾いても元には戻らないだろう。最後の抵抗むなしく奪い取られた肌着はその薄さゆえ、既に乾いているようだったが、身重のレトが苦労して作動させた『物干し紐』だ。せっかくならば手間は少ない方がきっといい。


「・・・生物は」


唐突に吐き出された声に二人は僅かに驚いた。


レトがページを一枚めくる。ヨナの脳裏に無かったことにしてしまおうというやましい感情がやってきて、再び意識も遠のいた。そう、全て夢なのだ。


「生物は?なあに?ヨナ」


レトが夢からヨナを引き戻す。残酷に、強引なまでに。ヨナは短い間だったが時を旅する感覚を味わった。彼の顔のすぐ隣で、レトの腹がひとりでに蠢いてこちらに手を伸ばしているような気がしたのだ。無論、それらは全て極度の疲労が見せる幻覚であり、レトの腹にそのような変化は見受けられない。彼はすぐに目を覚ました。


「ああ、こうしていたと思うか?」


「ふふ、どうかしら」


レトはそう言って、持っていた紙束を素早く閉じた。それから、ヨナの額に触れて顔を覗き込む。日頃の労働によって荒れた肌がひたいを引っ掻いたが触れているところはとても温かい。


「さぁヨナそろそろ起きなさい」


彼女は大変にひどい人物だ。


「もう少しこうしていたい。それに、服だってまだ乾いていないはずだ」


「ダメよ。もう100ページも読んじゃったんだから」


「まさか?本当なのか?」


「本当よ?でも、そうね、もう少しだけこうしていましょうか?」


彼女に対する認識を改めなければならない。と、彼は思った。



***



 ヨナは上着のポケットにしまったままにしておいた青い合成飼料に触れながら、一見、粗悪に見えるこの場所も地上と地続きの文明であることを実感していた。

一度水を吸い込んだポケットの中の合成飼料は、大型化されたボディドライヤーによって衣服もろとも乾燥させられて、表面が微かに癒着こそしてしまったもののそれを除いてしまえばほかに何の品質低下も見られなかった。


「さぁ、ヨナ。足元に気を付けて」


塊から一つを剝がしたところで、前を向いたままレトが言う。

建物の影から影へと、彼女は躊躇ためらいなく突き進んでいった。この場所は彼女にとって通い慣れた通路のような物で、尚且なおかつ、彼女を除いて誰も訪れる者も居なければ、当然、環境を変化させる者も居ない、いわば彼女だけが知る極小の隔離地なのだろう。


その事を前提として考えれば、割れたタイルの上で跳ねまわっていた子供達のような今の態度にも納得がいく、あれは、肉舐めを恐れる子供たち同様、日常を秤に乗せることによってのみ得られる刺激的なスリルをたのしんでいるのだ。彼等は崩壊を招くかもしれない行為を、または、その瞬間を、わざわざ誰かに見せつけやりたいと願っている。



 レトが地面から斜めに伸びている柱の手前で立ち止まり「ひらけごま」と言った。すると、柱の手前で、丁度、配給カードほどの大きさの空間が発光してそこにはいくつかの記号と文字が整列させられていた。レトがすぐに振り返り、得意げにヨナを見た。


「わたしだけの秘密の通路よ?」


「ラヴィ氏のところでも見たが、その技術は地上ではすでに失われている。地上ではドットを読み取る機械と、専用の穴あけ機で情報を管理している。その装置の使い方は知らない。君の秘密はそのまま保たれる」


「パスワードは『LエルEイーTティOオー』仲間たちがここを見つけても開けられない。だあれも」


レトの指が素早く動くたびに、その指先から小さな音が5回ほど鳴った

恐らく、地上を走る車両が吐き出す形だけのガスや動力部のいななき(動物の鳴き声、特に馬の鳴き声の事)などと同じく、正常に動作していることを知らせるための仕組みだろう。彼女が文字盤の操作をやめると柱はすぐに昇降機エレベーターとして機能する。突如壁を割って現れた空間は、少しも汚れておらず、健全で、また、人工的な素晴らしい直線をいくつも持っていた。彼女はずっとこのことをただ一人知っていたのだ。


「さぁヨナ。もう少しよがんばりなさい」


「頑張る?」


「さ、ほら」


「ああ」


二人が乗り込むと扉はすぐに閉じられた。


「ああわたし、これが好きなの」


レトがそう言って間もなく、ヨナの足元から重さが無くなり、はらわたが持ち上がる感覚に見舞われた。それはこの閉ざされた空間が沈黙したまま下へと向かっている事を物語っていた。

時間の経過と共に体の組織が段々と壊れていくようにゆっくりと、まるでゆっくりと、ゆっくりと時間を掛けて死んでいく毎日を過ごすかのように。沢山の人間の死ぬ瞬間を想起させるげんなりとした感覚だった。


人は落ちる事しかできない。



「うっふっふぁ~っ!!」



ヨナがそんな事を考えていると、筒状の空間に激しく反響する奇声と共にレトの体がふわりと宙に浮く。ヨナは思わず彼女の名を怒鳴り調子で呼んで糸くずのように軽くなった体を捕まえた。


「君はいったい何をしている?」


「この子と一緒に星の支配から解き放たれたのよッ?」


冷たく止まりかけていた心臓が激しく伸縮した。勘違いもいい所だ。

ヨナは何とかして床に足を付けて、浮かぶレトの体を安定させようと試みた。しかし、その意思に反して、靴底で床を捕まえようとすればするほど彼の体から自由が失われていった。加えて、彼女はこの環境に慣れていたのだ。少なくともヨナ以上に。


遂には、辛うじて触れていたつま先が床から完全に浮き上がって、ポケットに入れてあった青い合成飼料たちのいくつかまでもが彼の支配から逃れ宙を舞った。安らかとは程遠い感覚だ。


「・・・ッ!!・・・ッ!!!」


宙を舞う合成飼料を発見したレトは目の色を変えてをそれらを捕食した。紛れもなく、彼女もまた、生きている。はらわたが持ち上がる不快感の中でヨナはそう感じた。



 レトも、彼女の腹の子供達も、ヨナの体も、星の支配とやらの支配下に再び置かれるようになってから久しい時間が立とうとしていた。そのような感覚は、無論勘違いであって、そもそも、星の支配から解き放たれたのではなく、むしろその逆、であり、落下に合わせて周りの装置が移動していただけに過ぎないのだ。地上の一晩や、業務よりもとても長く感じた時間についても同じく、単なる勘違いなのだ。しかし、星、そして、時を旅するという事のほんの片鱗へんりんを、ヨナはあの狭い空間で彼女に見せつけられたような気がした。


 エレベーターがゆるやかに動作を停止して、狭い空間に鐘の音が一度だけ響いた。繋目の消えた壁が発光して扉の縁取りが現れたかと思えば、僅かな隙間が出来る。そこから雪崩込むのは、地上の名誉評議において、代理の評議者(決闘者)双方が膝をつき、もう一度初めから名誉評議が行われる事が確定した時のような、そんな、人間の放つとても生物的な熱気であった。

ヨナが辿り着いた場所は、クルードのどこか人気のない場所で、主を失った人の道具たちがどこか寂し気に佇む整理された場所でもあった。にもかかわらず見えない場所から凄まじい人間の熱が伝わっている。


レトは慣れた様子で先陣を切ってテーブルの上の灰を払って、手にしていた紙束を置いた。他にもテーブルには丁寧に丸めて束ねた紙の筒が差し込まれたガラス容器もあった。


「今日はみんな早起きみたい。消灯が無かったからかしら?」


空間の天井は思いのほか高く、開放されたままの日窓からはクルードの黄金の光と共に埃と灰と人の放つ躍動感やくどうかんのような物が静かに流れ込んでいた。ヨナがエレベーターから一歩外に出ると、それは壁のレリーフと一体化して瞬く間にその姿を隠ぺいした。


「レト、君はここに来るべきだったのか?そんな状態で」


ヨナの質問にレトは嬉しそうに喉の奥を鳴らした。レトはそれ以上に具体的な返答はせず、テーブルのガラス容器に差し込まれた紙の筒をゆっくり開いて、差し込む光を当てた。

ヨナは近くにあった椅子を手にして、レトに勧め、彼女はそれに従った。その場所は座っていてもちょうど光が射しこむ場所であった。


「ふんふん。ヨナ?悪いけどそこのペンを取ってくれるかしら?」


「ペン?そんなものどこにも無い」


レトの示す場所には、小さな収納棚と沢山の紙の筒が差し込まれた容器が綺麗に並べられていた。他にはガラスの小瓶、衣服の装飾に使用される小物、使いかけの黄褐色の蝋燭、ペンのような物は見当たらない。


「あら、あるじゃない?それよ?それと瓶」


「これの事か?」


「そう、それ、『インク』と『羽ペン』よ」


ヨナは棚の上のインクと羽ペンを持ち上げた。すると、少し傾けただけでインクがこぼれて床に落ちた。飛び散る飛沫の中には例の紙の筒に付着したものもあった。


「・・・レトッ!・・・レト!」


思わずヨナがレトを呼ぶ、彼女は、呼吸すら忘れているヨナを視線で落ち着かせた。


「大丈夫、大丈夫、大したことじゃないんだから」


「しかし、元に戻せるのか?」


「それを見るたびにあなたをきっと思い出すわ。とても素敵じゃない」


テーブルにインク瓶と羽ペンが置かれた。どちらも慎重に置かれて、レトはその両方を慣れた様子で上質な紙の上で滑らせた。やはりそれは文字だった。

決して、上手とも言えないそれは、自分でない誰かに向けられたものだ。


「なんと書いている?」


「見ればいいじゃない?」


レトはそう言って、椅子に乗せた尻を持ち上げて座りなおして体を少し開いた。丈夫なのだろう、椅子も床もびくともしない。

少し遅れて彼女の髪が埃や灰と同じ速度で落ちて来る。これは彼の中の仮説であったが、降り積もる灰は肉舐めによって毎日綺麗に掃除されていたのかもしれない。でなければ、ここはすぐに灰と埃に埋もれてしまうはずだ。あるいは。


 レトは淀みなく羽ペンを走らせていた。一見無駄に思える『羽』の部分は降り積もる灰や埃を払い落とすのにこの上なくちょうどいい物だ。ヨナは、あれを読むべき人物の名誉の為に、彼女の提案を断ることにした。




 『レトの書斎』から続く大階段を慎重に下り、外に出る。ヨナは再びこの地の独特の匂いをかいだ。ぼんやりとぼやけて見えている壁との距離から察するにここはどちらかと言えば外周に近く、人気もない場所だった。遠くでは捻じれた灰色の柱が揺れながらいくつも立ち上っていた。文明がかかげる狼煙のろしは、クルードの中心部に近づくにつれて密度を増している。それらは天井付近まで上昇すると、その殆どが浄化装置によって跡形もなく消え去ったが、浄化しきれないものは目に見えない気流を可視化しながらクルード全域へと降り注いでいた。先ほどの、場所に降り注いでいたものも言わずもがな一度は地上を離れた灰のどれかであることはもはや疑いの余地はない。


***


「あっ!ああ!レトさん!きょうはこっちに来てるんですね。これはうちの新作です!。ボトルの中に細筆でメイリーンシャン(人物名)を書いたんです。それを固めてカットしました。ああ・・・なんてきれいなんだ惚れ惚れする」


「ふん・・・ん?ちょっとこれここに気泡があるじゃないの?包装だっていい加減!こんなのをあの人たちに売りつけるつもりなの?!交換レートを不利にする口実を作りたいの?」


「え!?ほっほんとうだ。すっすぐに仕立て直します!」


「まったく、気を付けてよね?ああ!そこ!斜めになってるわ!」


「・・・・!!!」

「返事ィっ!!!!」

「っは!はい!」

「ごめんなさい!!だっては・・・始まりが随分早まったから!!!」

「消灯が無かったからか・・・?!」

「今日に限って!こら!売り物になんてこと!を見てろ!!久しぶりのマーケットだってのに!」

「みっ『水時計』(水分の蒸発によって時間経過を測る大型の装置)だって!次の補充まで随分あるぜっ!!」


「弱音を吐くな!!ほらほら!ゴンドラが降り始めたわよ!!早くはやく!!」


 大量の物と、人でひしめき合う場所だった。額に不健康な汗を浮かべながら動き回る彼等を脅かしたのはレト本人だったのか、彼女の腹の子の存在だったのか、それとも全く別の何かだったのかは分からない。レトは腹で人込みを切り裂く様に進んで、その餌食となる仲間が一人生まれるたび、他の者たちはひと時のなぎの中にその身を置くことを許され、彼女が再び動き出すとシャワー室の隅の方にへばりついた汚れのようにどこかにへばりつき、矮小わいしょうになり体を強張らせた。彼女はまるでだ。


驚くべくは、ここに住むブルーカラーたちの多様性だ。誰一人として同じ動きを行うものが居ないのだ。ヨナは、始めこそ偶然目に留まった彼らをひとりひとり観察したが、水路で水をくんでいた女の手前で男が口をゆすぎ、吐き出した水をくむことに腹を立てた女が男と口論になり、女が持っていた水盆が流されて、それに気づいた子供が近くの男に声をかけた、男はちょうど真っ赤に熱せられた金属をこれから加工する手前でそれどころではなかったが、反対側の手に持った道具を打ち下ろすと同時にそばにいる仲間にその旨を伝える、仲間がすぐに駆けだしてその時ちょうど金属を加熱させるための装置に体がぶつかり熱の放出口からエクスプロイター程とは言えないが予定外のエネルギーの放出が行われそれらの内のほんのひとかけらが近くにいた者の衣服の隙間に入り込み瞬く間に白い煙を上げる、仲間が水盆に追いついたころそれを追いこすように飛び出した人影は水路に飛び込み水しぶきを上げた。そのそばで粉の入った小箱を棚並べていた女は激怒し、水路に飛び込んだ人物を引っ張り上げると自分の持ち場の前へ連れて来て怒鳴った。すぐに箱を仕上げた者と中身の粉を仕上げたものが招集されて、それぞれがその場から撤去され空いたスペースには、別の場所で縦に伸びるように並べられていた複雑な装飾をされた履物、銀色の金属プレートが付いた入れ歯、身体能力を高めるための機器がそれぞれ並べられることになった。騒ぎの中で、肩掛け式の運搬装置を付けた者がひしめく人ごみのわずかな隙間を縫って動き回っていた。ヨナとレトの前にもそれは現れて、小さな容器に入った液体をそれぞれ手渡すとすぐに別の者の元へと向かった。容器は紙のような粗末な質感で、液体を保持するためにはあまりにも頼りないものだった。微かに湯気を放つそれにレトが息を吹きかけて飲み干したのでヨナも同じようにそれを飲む、するとそれは間違いなくあの青い合成飼料を薄く希釈したもののようだった。誰かが何かを口にするよりも先に、今日の為に積み上げられた品物がまたどこかで崩落し、形だけの屋根やブルーカラー達を飲み込んだ。連鎖的に次々と新たな事件が起こる。レトはその中を突き進んで、ヨナはそれ以上の観測をやめた。




 一番目のゴンドラの到着と時を同じくして、レトがその場へ辿り着いたのはもはや偶然ではあるまい。そんな確信ともう一つ、大量の物資と共にゴンドラから現れる人影、どの姿かたちをとっても見慣れていて、遠い過去からずっと死んだままの肉体を引きずる亡霊のような人々、しばらくして隣に降りたゴンドラからも、遠くに見えているゴンドラからも、その見慣れた姿がヨナの目に留まった。隅々までクリーニングされた上着に、飢えるという事をまるで知らないふりをしている容赦の無い顔、彼等は、ヨナと同じ食料分配局の局員たちだ。



 実際の用途とおよそ不釣り合いな絢爛豪華けんらんごうかなゴンドラから痩せたブルーカラーたちの手によって次々と荷物が運び出されて、それらはすぐに折り重なり、小高い山を形成する。

レトが見晴らしの良い場所から両方の手をそれぞれ腰に当てて眺めていた。彼女の背後でヨナも散々としていく人々の様子を眺めていた。


積み荷の運搬は、あっという間に終了し、その間、やはり食料分配局員たちはピクリとも動かなかった。中にはヨナの視線に気づいた者もいただろうが、どちらもお互いをいつものように扱う事とした。管理上の都合で多くが廃棄される手はずになっている食料の事は食料分配局員同士の秘密であり、それがこうして、クルードへ密かに運び込まれている事もまた同じく、局員同士の秘密の一部にすぎないのだ。



 どこからかブルーカラーが現れて二人がかりで人間一人分ほどもある袋を互いの間に釣って持ってくる。余程重いのか、二人はおぼつかない足取りを補うように段々と小走りになって、上下の激しい揺れにさらされたその袋からは緑色に変色した小さな貨幣が何枚か飛び出し割れたタイルや瓦礫を鳴らした。あれはトークンと呼ばれるブルーカラーたちが用いる粗悪な貨幣だ。

辛くも二人がゴンドラまでたどり着く、満載された貨幣がずっしりとした音を平らな床に響かせると、ほとんど偽造された粗悪な物だともいわれるそれらを特に検める様子もなく、食料分配局員は踵を返し制御装置へと移動をはじめて鼻を鳴らした。支払われる対価の半分を担っていたブルーカラーが呼び止める。


「待ってくれよ!まだ足りねえだろ?落ちた分もみんな拾ってくるからもうちょっと待ってくれよ!」


局員は半身振り返り、まるで関心なさそうに言い捨てた。


「早くしろ」


局員の向ける視線、小さな所作、例えば、間違ってでも指先一つとして相手に向けたくないというような冷徹さ、汚れていたり、曲がっていたり、間違っている場所を無意識に見つけては、それを決して相手に悟られないように思考に秘めるような陰湿さ、ヨナはやはり、局員たちにシンパシーを感じた。それは初めて感じる心のざわめきでもあった。



 地面に落ちた貨幣が何枚か回収されところでゴンドラは上昇を開始する。すっかり慣れているのか、男も女も、また名前の無い子供たちに至るまで、拾った貨幣はゴンドラに投げ込まれ、長四角ながしかくの人工物は見る見るうちに小さくなった。

取引された食糧の荷ほどき、分配、運搬、まるでそれしか知らない細胞の単純な活動のように正確に、ブルーカラー達は動き回って、クルードの天井からはまだまだいくつもの宙づりになったゴンドラがゆっくりと降りてきていた。


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