43話から50話 ブルーカラーコンプレックス
濃い人間のにおいに満ちた臭い場所だった。
たとえ、住む場所をどこへ移そうとも彼等ブルーカラー達の性質は何ら変わらない。
地上でエリスと交わした数多の意味の無い言葉の交換よりもずっと情報量の多いまるで業務のような質疑応答の末、気が済んだ彼等から投げつけられる役に立たない身の上話、彼等は決まって、自らが日頃から積み重ねる労働について熱の篭った解説をしたかと思えば、視界に入り込んだ新たな関心を求めて一人また一人とヨナの元を去っていき最後には意思疎通もままならないような幼いブルーカラーたちを置き去りにて忽然とその姿を消してしまった。
「これからどうすればいい?君たちはエリスやロジカやジーナがどこにいるのか知らないか?」
ヨナの周りをぐるぐると不規則軌道を描いて動き回る幼く、柔らかい、みずみずしいブルーカラー達の個体識別は困難を極めていた。なので、ヨナはこの時も意図的に個ではなく集団に対して、何度めかにもなる質問をした。
しらなーい。
あ!見て!
ヨナ!ヨナ!
(笑い声)
(叫び声)
『かくれんぼ』!『追いかけっこ』!
ヨナ!ヨナ!
(笑い声)
(叫び声)
彼等の返答はいつも決まった数パターンの言語かまたはその組み合わせだった。
今現在ヨナがいる場所は住居が半分ほど崩落し滑り落ちて坂になり、そのようなものが二つ重なった間に出来た隙間のような場所だった。折り重なった瓦礫から漏れる様々な形状の光を頼りに、もう少しで開けた場所へ出ようかというところで、ヨナは進行方向上にあるものを見つけた。
それは、崩れた建材の隙間からはみ出している人間の遺体だった。それは恐らくまだ新しいのだろう、遺体から抜け出た中身は水分を多く含んでいるように見える。
視点の関係上、彼等があれを見つけるのはもう少し先に進み、斜めになった建材の山を越えたあたりになるだろう。
特に理由もなく彼は幼いブルーカラー達に対して興味が湧いて「君たち名はなんという?」と尋ねた。
エリスやほかの大人たちの話にまるで関心の無かった子供たちは、初めて自分たちへと投げかけられた質問に目と耳を傾けた。何かのスイッチでも押したかのように彼らが一斉に話し出したので、ヨナは騒音から逃げるように枝分かれしてしている狭い道へと歩を進めた。すると、子供たちは彼の思惑通りに後を付いてきた。その場で最も背の高い娘が重ねて言う。
「わたしたちになまえはまだないよヨナ」
小さなジャケットを着た男児が続けて言う。
「手伝いをするようになったら名前がもらえんだ」
鼻から体液を垂れ流す男児が言う。
「俺・・・ヴィンセントって名前がいいな・・・」
数名が一斉に言う。
『ダメだよ!!』
反射的に大きくなった声は不意を突く攻撃に近く、子供たちは思わず身体をびくつかせて一斉に押し黙ってしまった。会話に参加していた子供たちの間には、しまった。というような自分たちの行いの失敗を認識する態度が見えていた。
ヨナは、足元に向かって伸びていた鋭利な建材をブーツで外側へと曲げて、先へと進んで、後に続く者が彼の想定したルートを辿るのを見守ると口を開いた。
「彼の名前は特別なのか?」
すると、子供たちの数名が肯定を示す態度を見せた。
「みんなトクベツ」
一人の罪の意識が前方から差し込む黄金の光で清められると、続いて他の子供たちもまるで何事も無かったかのように快活になる。
随分と遠回りしてしてしまったがようやく開けた場所に出て、そこからはクルードの天井や、そこから延びる柱や、不安定な高所の足場の上に立っている大人達の姿も見えた。彼等はそろいもそろって何かを待っているようだったが、今のヨナにとってそれはどうでもいい事だ。
「全員、いるのか?」
ヨナが振り返ってそう尋ねる、通ってきた道は中々に狭く、彼等のような薄着では体が傷つく恐れもあった。ヨナの懸念とは裏腹に、子供たちに目だった外傷は一切ないように見えた。しかしながら、ヨナの見た光景はいささか奇妙なものだった。子供たちはそろいもそろって何かに操られているように立ち尽くしていたのだ。
束の間、浮かんだ疑問は消え去り。ヨナはすぐに、その原因がわかったような気がした。
埃にまみれた地面を伝わって一定の間隔で響いている音と光量の落ちたクルードのいたるところから放たれるプリズム反射とその閃光。あれほど熱心によそ者の面倒を買って出ていた子供たちは一斉にヨナを追い抜いて跳ねた。
遥か過去に失われた文明のシティーポップが響いていた。恐らくは人類の歴史の中で文化的な風習が最も栄華を極めて、すべての人間たちの渇望が満たされ幸福が世界を覆いつくしていた時代の名残りに違いない。さしずめこの場所は失われた歴史をほんの一匙封じ込めた
クルードは目まぐるしく回転する煌びやかな人工的な光と、地面や、崩れた建物の支柱や、人々の靴底から奏でられる音楽によって全体の印象を大きく変貌させていた。
ヨナ!ヨナ!
子供たちが割れたタイルの上で何度も跳ねてヨナの手を強引に引いた。彼はされるがまま崩落した住居跡から進んで、近くにあった水飲み広場がもっと良く見える場所までたどり着く。耳に心地よい歌声が見えない場所にいくつも備え付けられたスピーカーから鳴り響いて、光の点滅は彼等ブルーカラー達の心臓の鼓動そのもののようだ。子供たちが遠くに見えている大人達の影を真似て自由気ままに体を左右に振って跳ねまわってなんとも言えない叫び声をあげたのでヨナは自分から子供たちの関心が失せたという事にしてその場にそっと腰を下ろした。地面は固く、僅かに振動していて暖かかった。
肉舐めが来るぞ!
肉舐めが来るぞ!
スリルの中で子供たちがそう叫んでけらけらと笑った。
クルードの光の点滅に合わせて闇から浮かび上がるブルーカラー達のシルエットはハイウェイの標識にどこか似ているような気がした。ヨナにとって見慣れているはずのそれらの風景が、この時彼の存在を確かに圧倒していたのだった。
あらかじめ意味を持って生み出されて、与えられた使命をこなすだけのハイウェイの標識と、誰からも見られる事無く、競い合うわけでもなく、利益になるわけでもなく、誰かに利用されているわけでもなく、また、言いつけられた訳でもない、蓄えられた貴重なエネルギーを消費するだけの大いなる無駄に情熱を注ぐ彼等とでは見た目こそ似ていたとしてもその性質は根底から異なっているのだ。
目の前で跳ねる子供たちを見ていて思う、彼等は自由であり、人間であり、この星に生き残った最後の生物なのかもしれない。
なんとも下らない考えだ。
ヨナはこもった熱を静かに吐き出して身体の力を抜き背中を僅かに丸めた。
体にじんわりとした疲労感が行きわたって、それを追いかけるように休息の快感が全身の筋肉を駆け抜けた。
ヨナ!ヨナ!ヨナ!
大人達のように上手く体を動かす事の出来ない子供たちは自分たちの羞恥を薄める目的でヨナを利用しようと企てているようだったが事実はまるで異なるかもしれない。彼は座ったまま子供たちに視線だけを投げて否定を意味する態度を示した。
赤色と黄色の光の線がクルードの空に現れて、どこか見覚えのある文字となり消えた。子供たちはそれを見るなりヨナに飽きてしまう。響いてくる曲調が変わったのだ。子供たちは再び見よう見まねでからだを揺すって、上手く行かない時間がしばらく続くとまたもやヨナを呼んだ。
どうやら彼等は、自分たちだけが観察されていることに不平等さを感じているようだった。子供たちがあまりにも強硬な様子を示したのでヨナは仕方なく立ち上がり彼等の後に続いた。足元に気を付けて広場の近くまでたどり着く、子供たちがまた体を揺らし始めたのでヨナは彼等が見える場所に再び腰を下ろした。
広場には数十名のブルーカラー達が集まって、地上のどこよりも慌ただしい時間が流れている。
彼等の見事な動作は驚くほどに多様で、痩せ細ったその体に秘めた妙技を余すことなく順番にヨナへと披露しているかのようだった。彼等だけではない、このクルード全体が当の昔に失われてしまった華やかな夜を夢見るように、空中に描き出された鮮烈な光のサインは様々な
この街を創造した者は恐らく世界で一番優れた創造者に違いない。そして、いずれ彼女も。
まるで、たわけた考えだ。
体を揺らす大勢の中で一際彼の関心を引く者がいた。煌めく深い青色の透き通った大きな瞳、どこか常識から外れて細く波打つ豊かなブラウンの髪に浮かべられた銀色の輝く髪飾り、汗で張り付いた薄着に引き立てられた見栄えのする身体、偶然にもそれはロジカであった。
血の通った指先が伸びていた。光の粒が弾け飛んで、彼等は紫色の夜明けの前にいた。あの影は確かにロジカのはずだというのに、ヨナの内にある確証は昼と夜の点滅や、響き渡る鼓動によってあっけなく覆されてしまうような頼りない物であった。
思えば彼はロジカの磨いたガラスのような青い瞳や、細い髪や、部分的に飛び出た体や屈託のない話し方、それから
気を許せば疲労を主張する自分の体とは対照的に、ブルーカラー達は響き渡る音に操られているかのようにまるで疲れていないどころか、より一層自らの存在を鼓舞しているかのように見えた。ロジカも同じく。彼女は見事な肩の周りや弾力のある四肢を柔軟に揺らして凄まじい存在感と引力をあたりに放ちながらも仲間達の動作の一切の邪魔をしなかった。そのような、ある種の洗練された技術とも呼ぶべきものが彼女をそうさせるのか、うつろな青い瞳に映る世界は気品と自信に満ちていた。
・・・ナっ!
・・・よな!
ヨナったら!!
飽きてしまったのか、または、一方的に監視されることに嫌気がさしてしまったのか子供たちの集団の中で最も背の高い娘の一人がヨナの視界を遮り、それでも飽き足らず体を硬直させて思いきり足元を鳴らした。
「どうした?」
ヨナの虹彩が広がって、ブルーカラーの少女がそこに映し出される。幼い娘はあれだけ必死にヨナの事を呼んでおいて、いざ彼の関心が自分へと移り変わると、さっきまで費やした努力の全てを隠ぺいした。
それから薄汚れた衣服をちいさな指先で撫でるように整えてその終点を目で追った。
ヨナ!ヨナ!
みてっ!みて!
かくれんぼしなきゃ!
(笑い声)
(叫び声)
この頃になると、ヨナは子供たちの要求をある程度無視しても問題がないことを知っていた。名前の無いブルーカラーの娘がその場に立ったままひっそりと影に潜んで、その背後では子供たちが跳ねまわっていた。
「こっち!」
曲調が変わり、子供たちの関心がまた散漫になるとブルーカラーの娘はまるで何かを盗み出すかのようにヨナの手を引いた。
「まて、走ると危険だ」
ヨナの懸念をよそに娘は実に見事な足取りで割れたタイルや風化したブロックの上を駆けて、人気のない場所へとヨナを攫さらうと彼等共通の誇りでもある腹部のへこみを一瞬見せつけて乱暴にヨナに抱き着いた。
娘の呼吸は乱れていて、動きを止めた体からは激しい臓器の鳴動が聞こえていた。
娘が一瞬見せた顔は、以前エリスがしていたのと同じものだった。
あの時、彼女が何かを告げた時のようにこの娘もまた何か自分にとって重要な事を告げようとしているのだろう。
2曲分、または3曲分も、あるいは、もっと、ヨナはクルードの空に広がる光の線を眺めていた。時間をかけて情報を記憶して観察しているとあの線と響き渡る音には規則的な関係があるように見える。音の種類とそれに伴い持ち上がる光の線をひとつづつ検証していると次第に乱れた呼吸や、小さな体の中で暴れまわる臓器の活動が落ち着いてくる。
「ヨナ」
ようやく、自分の中で何かが整ったのか娘は震える声で名を呼んだ。
「なんだ?」
ヨナがそう尋ねると、小さな指からは想像もできない力が籠められる。彼女は続けた。
「ヨナは明日もここにいる?」
娘は自分の存在の全てをその質問に乗せていた。理由はわからなくとも彼は直感的にその事がわかったのだ。
ヨナは途中どこから飛んできたのかもわからない塵の一つを彼女の髪から落として、もう一つついていた偶然髪飾りのようになっている塵を無視した。それから、いついかなる時も人間へと忍び寄り破滅させようとする不安や疑いに決して隙を見せる事無く肯定を示す態度を見せた。
それを聞いた彼女は一度跳ねてすっかり憑き物でも落ちたかのように以前の子供らしい性質を取り戻して駆けた。
「待て、そんなに急ぐ必要がどこにある?」
名前の無いブルーカラーの娘はくるりと回転させた体で投げつけられた声を浴びるだけで、その一切の要求を無視していた。彼女は軽やかに地面をけって、時々彼女が最も得意とする彼ら特有の技の内一つを披露して、決まって申し訳なさそうにヨナの姿を捕えた。
瓦礫の向こうに見えているクルードは停止させた車の動力のように段々と冷たくなりはじめていた。娘の後を追って水飲み広場まで難なくたどり着く。
元居た場所には少し前と変わらないブルーカラー達の営みが繰り広げられていた。子供の一人がヨナと娘の存在に気が付いて駆け寄ると他の者らもそれに気づいて寄ってくる。彼らは口々に言った。
ヨナ!ヨナ!
行こ行こ!
ねえ速く!
始まっちゃう!
(叫び声)
(笑い声)
ヨナは子供たちを親切だと思った。彼は自分の体が常に受けている自然的な抵抗を限りなくゼロに近づけて、漂うからだを子供たちの好きにさせた。
この期に及んで子供たちは定められている権利を行使するように堂々と大人たちの群れを割って進んで、水飲み広場を囲むような崩落した巨大な門の元へとヨナを連れて来た。広場にいた他のブルーカラー達も段々とそこへ集結し、その中にはロジカの姿もあった。彼女への猜疑が未だに晴れていないヨナはその姿をじっと観察した。偶然にも、ロジカの青い瞳がヨナへと向けられる
ロジカはヨナの姿を捕えると体の動きを止めて両手をあげた。それから、軽やかに人の波をすり抜けるとあっという間に彼の元へと駆け付ける。その動作があまりにも機敏たったため、彼の中の猜疑心は深まるばかりであった。
「ヨナっ!ヨナっ!!」
「君は、本当にロジカだったのか?」
「え?」
ヨナがロジカの顔を上から覗き込んで、彼女もまたヨナの顔をのぞき込む。
ロジカは自分を中心にして目の前の人物の心が天秤のように揺れているという事実に早くも勘付いて、たまらず知的興奮を由来とする屈託のない笑顔を見せた。彼女の心はたちまち自信に満たされて、さながら自分が暁の女神の娘であるアストライアにでもなってしまったかのような気持ちであった。
「ふふ、へんなんだヨナ」
「余計な事を言ってしまったか?」
「ぜーんぜん!」
加えられる圧力にヨナは困惑した。
「ロジカ。狭いぞ」
「もっと狭くなるよ!ヨナ!」
空中に漂い、肌に張り付く音楽はしっとりと濡れていているようだった。
ブルーカラー達から歓声が上がって、集まる人々の頭上に黄金に輝く粒が降り注いだ。太陽のような温もりの中でブルーカラー達が歓声を上げる。
ジーナ!
ジーナアア!
「ジーナちゃん!!」
「ジーナ?なぜあんなところに?」
『ほーらお前ら!!くらいな!!』
しゃわあああああああ・・・・・・!!!
門の上から陽光の温もりと共に光の粒が降り注いで、ヨナもブルーカラー達もそれを浴びた。するとブルーカラー達は大人も子供もそろって今日一番の喜びの声をあげた。彼等の風習はまるで理解ができない。
ヨナが茫然とその場に立ち尽くしている間に、広場の熱はすっかり冷めて、子供たちは近くにいた大人たちに別れの抱擁をすると各々の寝床へと向かいはじめた。鳴り響いていた音楽が止み、冷たい暗闇が彼等を覆いつくそうとしている。思考が整理されて、気がかりだった疑問が一つぽつりと浮かび上がる。
「君たちは何故こんな無駄な事を・・・」
「言わないで!」
ヨナの問いに答えた者、それもまた確かにロジカだった。
「言わないでヨナ。おねがい」
彼は思わず辺りを見渡した。
ブルーカラー達の顔からは一切の笑顔が消えて、中には既に泣いている者すら居た。彼等は決して他人を責めはしなかった。今の彼等にあるのは痛みを伴う程の酷い空腹と、明日も二日後も、2週間先もずっとその先もこうしている事への切望と、絶望だった。
悲しみに打ちひしがれる誰かの肩を誰かが抱いて消えて行った。
ヨナはなきじゃくるロジカの肩に手を置いた。激しい運動を終えた体は熱い程だった。
「すまない」
ロジカは何度か鼻をすすった。
「大丈夫。大丈夫だもん」
零れた涙が乾くよりもずっと先に彼女はすっかり元に戻って、門の上から降りてくる途中だったジーナを呼ぶ。ジーナは二人に気づくと軽いみのこなしで手すりを乗り越えて、空中に身を投げた。驚くべきはその高さである。
表情が二転三転するロジカの頭髪が何か見えない力で浮き上がり、彼女は大声をあげた。
「ジーナちゃん!!!?ヨナ!!ヨナ!!」
ジーナは狙いすましたかのようにヨナ目の前へと落ちて来たので、彼がその体を受け止めるのにそれほど苦労しなかった。それに、ジーナの体はやはりと言うべきか軽かったのだ。
「ふぅ・・・やっぱ局員は違うなぁ・・・ありがとよヨナ」
「ジーナちゃん!ジーナちゃん!」
「ロジカ。ヨナに言いたいことあるんじゃねえの?」
ロジカは何かを思い出したようにあっと声をあげた。
「そうだった・・・!あのねヨナ。・・・・わたしたちのね?」
「なんだ」
「手伝い・・・・お願いしたいんだ」
ヨナがジーナの体を地面に降ろすとロジカは申し訳なさそうにそう言った。
時は僅かに
「あ・・・・こんなとこにいた」
「・・・!」
回収が終わって今頃、仲間の多くは広場へと集まって日頃のうっぷんや不安を洗い流している事だろう。一見して無駄に思える営みも、彼等にとっては決して無視できない重要な文化の一つなのだ。
エリスは、彼女たちの宝である『MEGA/JUKE:VOX』が放つ懐かしい光を背中で受けて、回収品も、それに使用される道具も、仲間達もとっくに失せて一足早く本来の冷ややかな姿を取り戻したとある場所へとたどり着いていた。
『大地を支えるアトラス』の裏手側にある辛うじて原形をとどめる古い住居の内の一つ。この時間に限って夢の中のように心地よい音楽が聞こえて来て、横になるとひび割れた壁から仲間達やクルードの姿がぼんやりと見える場所。この場所を知っている者はもう少ない。
ひびから漏れ出ている光が横になっているブルーカラーの顔をほんのりと照らしだす。
「タップ?」
「・・・・」
エリスの声にタップは体の向きを変えてから答えた。彼の痩せ細った小さな体は回収が原因で付いた沢山の傷で覆われて、服には所々血がにじんでいる。
「来たのかよ」
「いけなかった?」
「みんなのとこに行けよ」
「あなたこそ、なぜこんな所に居るの?」
「どうだっていいだろ」
「よくないわ。あなたは今日の主役よ?堂々と胸を張っていればいいのよ」
「どうだって・・・いいだろ!」
背中から投げかけられる声が段々と近づいてきたのでタップは横になったまま虫のように這って影の中へ進んだ。
しばらく見ないうちに、かつての仲間は完全に心を閉ざしてしまったのかもしれない。それでもエリスは自分のよく知る人物に対して対話を試みるつもりだった。
「あなたは誰を手伝ったの?タップ?」
姿の見えないところでメガジュークが余韻を奏でて、エリスは入り口の隣で立っていた。それが終わる頃になるとようやくタップは口を開いた。
「・・・・・ロジカと、ジーナ」
「そう、あなたが」
「・・・」
「そっちへ行ってもいい?」
「・・・だめだよ!」
「タップのくせに」
「なんだよ、悪いかよ?」
「すこしも悪くないわ、すこしも。さぁ、なにがあったの?」
「関係ないだろ・・・エリスには・・・・・・勝手に出てっちゃったくせに」
「私たちは家族よ?関係ないわけないでしょう?さあ」
「エリス・・・その指・・・」
「これくらいなんともないわ。さあ」
「・・・」
それから、タップは回収の時にたまたま近くで降りていた一人の仲間について語りだした。
彼が言うには、彼が飛びついた回収品は今まで回収された物資の中で最も大きなものだったという。背中につながれた動線が誰よりも下まで伸びて切れたのだ。と。しかし、彼は生きていたのだ。なぜならば、その物資を捕まえていたのは彼一人ではなかったためだ。呼びかけに答えて、回収品をよじ登り仲間を見つけたタップの当時の気持ちは想像にたやすい。仲間の一人はタップを自分の傍へ呼び寄せるとあらかじめ回収していた品物を彼へと渡してハーネスを固定するように言った。それから、『もうすぐ仲間が引き上げてくれる、心配はいらない』と、言った。
タップはその言葉を信じて限界まで伸びた仲間の動線に自分のハーネスを連結させた。すると次の瞬間、仲間のハーネスが切れたのだ。
「俺のせいだ。俺のせいだ・・・」
「あなたのせいじゃないわタップ。あなたのせいじゃない」
「俺はみんなにすごいやつだって思われたかったんだ・・・!ソロモンみたいに・・・けど・・・」
「しー・・・しー・・・しー・・・大丈夫。大丈夫よタップ、大丈夫だから・・・さあ」
「なぁ、俺、変じゃ・・・ないかな?」
「変よ?」
「・・・」
「ここでは全てが変よ?私たちに同じものなんて作れないもの」
「・・・エリス」
「・・・・もぅ平気だよ・・・どっか行けよ・・・これ。やるから」
「これは?」
「っ回収品だよ!・・・なんの・・何の役にも立たないもんだけど」
通常、彼等はよほどの事が無い限り回収品を盗んだりはしない、盗みは軽蔑の対象になるし、回収品を得る事は彼等にとってこの上ない名誉なのだ。
タップには2度目のチャンスも、深淵に落ちて行った仲間の形見である小さなドーラン入れを差し出して賛美を浴びることも出来た。しかし、タップにはそれが出来なかった。
エリスは受け取った小さなドーラン入れに明かりを当てて開けてみた。
中はいくつかの小分けにされた淡い色のドーランと、小さな絵筆と、蓋の裏は磨かれた金属の鏡になっていた。この丁寧なつくりは間違いなく名前も知らない仲間たちの仕業だ。
「向こう向いてて」
「あ・・・ああ」
タップは急にエリスが冷たくなったのでとても不安になった。
「なあ・・・エリス?」
「だめ」
「・・・わかったよ」
響いてくるメガジュークの音楽が変わって、壊れた天井から光が落ちてくる。この曲も彼のお気に入りだ。
自分たちのいる部屋よりも高いところで花火が炸裂してエリスの後姿を仄かに照らし出した。久しぶりに再会した彼女は、恵まれた食生活を送っていたに違いない。その背中や肩は柔らかそうな曲線を描いているように見えた。タップはとても喉が渇いているような気がして思わずつばを飲み込んだ。
「いいよ」
エリスが後ろを向いたままそう言ったので彼は慌てて壁のほうに向きなおってしばらく待つという小賢しい工作を行った。
「うん」
彼が振り向くころには彼女は既にこちらを向いていた。
「エリ・・・ス?」
金色の花火が上がって、それに照らされたエリスの顔はとても血色が良くなっているかのように見えた。加えて、目元も、口元もまるで別人のように淡く彩られているのだ。唯一、炸裂する花火を反射する深い緑色の瞳だけが彼女がエリスであることを証明していた。
「変?」
エリスは打ちあがる閃光の中で不思議そうな顔をしたままそう尋ねた。
隙間から差し込む光がタップの網膜を突き刺してその衝撃で彼はようやく目を覚ました。何者かが鉛のように鈍重になった体と頭を操って、今されたばかりの質問を必死に思い出させて彼に答えさせた。
「とってもきれいだ」
***
何度見ても醜悪な設計だ。虫クズ以下の愚かな欲望を満たすためだけに築き上げられたこの街は既に何百年も前に行き詰まり、手遅れになっていたのだ。当の昔に再利用された愚か者どもと同じく、俺たちは消えかけた種の炎を目の前にしながら、目をそらす事だけに必死になり、多くをかなぐり捨てて、このバカ騒ぎだ。
反吐が出る。
俺たちは進歩する。人間だ。だが、奴らはそろいもそろって後退もする。自分たちの積み上げて来た過去に可能性がある。と、待っていれば、苦痛に耐えてさえいれば奇跡と呼べる転機がきっと訪れるはずだと頭のどこかで考えずにはいられない、どうしようもない臆病者達だ。
回収の熱が冷め止まないクルードのどこかで一人の男が影の中を突き進んでいた。男の歩は強く、僅かでも心の弱みを見せればたちまち引きずり込もうとする深い影を、踏み出すたびにこれでもかと練りつぶして前へ前へと進んでいた。
『ァアッ!ソロモン‼ソロモン‼』
この日、報告書を提出する予定になっている仲間の一人が彼の元へと駆け付けた。病で片目を失った男だ。落ち着きなく、よそ見ばかりしている痩せた男だが仲間の中では長く生きている方だった。
ソロモンは、いつものように歩くのをやめずに仲間の報告を待った。
「ああよかったソロモン、探してたんだよ!2回前の消灯からだ!本当だって!」
「なんだ」
ソロモンはどんな質問にも答える準備が出来ていた。放っておけば仲間たちはすぐに理解できない遠回りをしようとする、その間に一体どれだけの命が奪われていくのかも考えもせずに。
「ああ!ああ!・・・ああ!」
片目男は身振り手振り何かを告げようとして結局何も告げられないままただ狼狽えていた。ソロモンは出かけた言葉を一度飲み込み、苛立ちで煮えたぎる喉と彼を落ち着かせることにした。
「イザーク!イザーク!しっかりしろ」
片目の男イザークは開いている方の目をぐるぐると
「ああ!!すまねえソロモン、なにから伝えればいいのか・・・そいつは何だ?」
「お前は本当にそれを聞きに来たのか?」
「ああ!!いや!ちげえよ!水源バルブだ!78層の992番のバルブが閉まらねえんだよ!ああいや!閉まるんだけど・・・!閉まるんだよ!閉まるんだけどよ!ああ!ソロモン!」
ソロモンはこの目の前の片目男を殴りつけたくなる気持ちを抑えて、消えかけた記憶の中の一人の老いぼれを思い出した。彼は一度深呼吸し、足を止めた。
「イザーク。落ち着け。いつものようにやるんだ。いいな?」
「ああ!ああ!はあ・・・・すまねえ」
「ひとつづつ、ゆっくりと、お前の聞いた事、見た事、感じたことを俺に伝えるんだ。お前の言葉で」
ソロモンは再び地面を強く踏みつけて進んで、その後をイザークが追った。
「ああ・・・・・はぁわかった。わかった・・・・。初めに気が付いたのはDダウン方面のガキの一人だったそいつがテネットさんに言ってテネットさんがメイのやつに伝えてメイのやつがルルシィのやつに伝えてボウに伝えてボウからフィガロに伝えられて・・・兎に角俺はフィガロの野郎から聞いたんだ!Dダウンの水がおかしいって!それから・・・!それから!」
「イザーク。その原因を調べている間にも、仲間達からお前に沢山の報告があったんだな?だが、それはまたあとでいい。お前が俺だったら何を優先するのか考えて報告するんだ」
「ああ!わかったよソロモン・・・俺もお前みたいになりたいんだ。でもやっぱり無理だってわかってる!・・・ああそうだ。それで」
「水だ。Dダウンの」
「そう水だ。見に行ったら水圧が妙に低くなって水なんて!もう流れてるの流れてないのか分からないくらいだったんだ!おかしいって思ってよ!急いでガキどもに別の水源に水を汲みに行かせてよ!あいつら!はは!もう一人前だよソロモン!!」
「・・・」
「ああ!ああ!すまねえ。それからリッコリオとザムーロにも声をかけて管を辿ったんだ!!そしたら!」
「78層の992番のバルブに異常があったんだな?」
「ああ!そうだ!そうだよソロモン!まだ直ってねぇんだ。あのバルブは他と違ってハンドルが低い位置にあるだろ?締めようとしても管にハンドルがぶつかってそれ以上締められねえんだ!ザムーロのやつがハンドルを切り落とせばいいなんて言ったけどよ!俺たちにとって大事なもんだ!奴にとってもだ!出来るだけ今の形のままで残してやりてえ!あんたならきっとそうすると思って!」
「バルブのパッキンを変えてみたか?」
「ああ!それやったんだ!そしたら、パッキンが石みたいに固くなって!それで!代わりを探して付けてみたんだが何をつけてもダメなんだよ!色々試したんだよ!いろいろだ!」
「樹脂パッキンを2重にしてみたか?」
「2重・・・・?」
「そうだ、2枚重ねるんだ」
「ああ!!ああ!!あんたはほんとにっ!!ソロモン!それならきっとうまくいくよ!」
「ほかには?」
「ああ!トーコのやつなんだが!もう子供が生まれそうだって言うんだ。でも!でもよ!あいつはまだ歩き回ってるし腹も小さいんだ!おかしいんだよ!だけどよ!ああ!これは、ジェシカから聞いたんだ!ジェシカはナオから聞いて!ナオはアラシィから・・・アラシィは・・・」
「トーコは恐らく三つ子だ」
「三つ子?三つ子ってことはガキは3人だけって事か?」
「そうだ」
「じゃ!じゃあ!」
「ああ、出来るだけ人を集めて用事を分担させろ。テネットさんを連れて来てトーコの側にいてもらえ、きっと助けになるはずだ」
「あっ!あっ!じゃじゃあ!さっそく俺行って来るよ!そうだソロモン!」
「なんだ?」
「局員が一人もうここに来てるって」
イザークの思いもよらない報告にソロモンは歩みを止めて、マーケット用の巨大コンテナリフトを見上げた。クルードの天井に当たる部分の各所に備え付けられたそれらはやはりと言うべきか沈黙していた。
「局員が?目的は?」
「それが分からねぇんだ。何でもヴィンセントとやり合ってもう少しでやろう・・・その・・・・・その・・・・ヴィンセントを・・・・・はぁ!はあ・・・!」
「そのよそ者がヴィンセントと互角にやり合ったという事か?」
「そ・・そうだ!その通りだよソロモン!」
イザークの顔色が一層悪くなり、また、元に戻るとソロモンは再び歩を進めた。
「そいつは食料分配局員だ。探し出して要求を聞け」
「食料分配局員?ってことは!」
「決して手荒な真似はするな。こちらの持っている地上の住居、取引ルート、認証サイン、連絡手段、全て説明したうえでレートに沿った取引をするんだわかったな」
「ああ!ああわかったよソロモン!・・・・でもよ・・・・」
「なんだ」
「あんたは上の連中にずいぶん気を遣うんだな」
見当違いな事しか言わない仲間の一人に図星を突かれてソロモンは思わず微笑んだ。
「そうかもな、ほら早く行け!もうじき消灯になる。トーコを他の妊婦と一緒に安全なことろへ連れていけ」
「ああ!わかったよソロモン!!」
ソロモンは盗み出した予備地区のレガリアを持ち直し、彼が向かうべき場所を目指した。イザークがゴミの山をなかば上ったところで振り返り何かを思い出したかのように彼を呼んだ。
「そうだソロモン!」
ソロモンは取るに足らない事項だと決めつけて無言のまま報告の続きを待った。イザークが言う。
「エリスが戻ったらしいぜ!!」
ヨナが辛うじて示したのは確かに否定の態度だった。
しかし、当のロジカはそれを見なかった事にした。というよりも、彼女は食料分配局を訪れる多くのブルーカラーたち同様、差し出された事実を受け入れることが出来なかったのだ。
ロジカは、確かに自分の知性が振るえないという事は知っていた。けれど、それは別の場所に栄養が行ってそちらが素晴らしくなったためだと仲間たちは口をそろえて言ってくれたし。なによりも回収が終わった後の、メガジュークが美しい音色をクルードの隅々にまで響かせている間、彼女は文字通り無敵だったのだ。
なにか、とても素敵な存在が自分や周りの仲間たちに魔法をかけて、そのおかげで彼女は仲間たちの誰よりも早く、正確に、力強く、永遠と踊り続けることが出来たのだ。
体は未だにつよい熱を帯びて、それは、つい先ほどまで自分が無敵であった動かぬ証拠であり行動力の源でもあった。ロジカは、思いつく限りの理由を必死に思い浮かべて、それが3個ほど浮かんだ所で彼女の思考は強制的に初期化された。なぜなら、ヨナの反応はやはりあり得ない事だし、理解できない事だし、おそらくは前例も無い事なのだ。
ロジカは一度深呼吸した。吐き出される息はとても熱く、やはりそれが彼女に大きな自信を与えた。何かの間違いに違いない。ヨナのような人物であっても、時として自分と同じように過ちを犯すのだ。そう考えるとロジカの心には海のような広い余裕が生まれ、とても愉快な気持ちになった。彼女は寛大な心でヨナが犯した過ちを無かったことにして、もう一度、同じ要求をすることにした。
「ふふん・・・・ヨナ?わたしたちを・・・・」
「・・・ロジカ、その、残念だが」
ヨナは未だかつて誰かの期待をこんなにも壮大に裏切ろうとしたことは無かった。何故ならば誰も彼に期待などしていなかったからだ。否、一度あったような気がする。兎に角、誰かの、悪意の無い純粋極まる期待を裏切るという前例のない行為は、今まで一度も味わった事の無い苦しみを彼へと与えていた。不幸な事にロジカがそれに気づいてしまう。
(がーん!!!!!!)
じわりとした苦しみに暮れるヨナの姿を目の当たりにしたロジカに見て取れる動揺があって、それを見ていたヨナの胸にも何か重くのしかかるものがある気がした。一瞬にして二人の間に累々と、永遠と、苦しみだけが積み重なって互いの胸を押しつぶしてしまう。
額や、胸元に冷却以外の目的で分泌される汗が玉のようになって、呼吸は乱れて浅くなりたまらずロジカは側に立っていた友情を頼った。自分の力だけでは解決できない問題に直面した時、仲間を頼るのが彼等のルールなのだ。
「ジーナちゃんッ!!!!」
よく動く身体と異なり、考えが不器用なロジカと対照的な性質を持ったジーナは、様々な事態に期待を持たない、乾いた考えの持ち主だった。それと同時に他の者らと同じく仲間思いでもあった。
ジーナは性質上、仲間の危機を救済したいという願望も当然持ち合わせていたが、同時に、この状況を僅かに愉しんでもいた。
「ジーナちゃん!!!!!!」
「なんだい?」
「わたし!!変?!」
「変だよ?」
「わたし!!!!くさい?」
「臭いよ?」
「わたし!!!かわいい!!?」
「かわいいよ?」
「うわーーーん!!どうしてええぇぇ!!!」
「ヨシヨシ」
胸の重りは失せたがヨナはすぐに弁明の必要があると感じた。
しかし、その機会は幸か不幸か訪れなかった。一歩前へ踏み出した彼の背中に誰かが問いかける。
「お前が『ヨナ』だな?」
その声に振り返るよりも早く、彼の頭部にがさつく布袋が被せられて一切の視覚を奪う。抵抗するよりも早く別の者が言った。
「暴れるな?会わせたい人がいる。その人はエリスと関りの強い人だ」
落ち着いたその声の背後ではロジカの悲鳴とそれをなだめるジーナの低い声が聞こえていた。
「いやあああ!!!いやあああ!!!ヨナあ!!ジーナちゃん!!ヨナが行っちゃううう!!!」
「ヨシヨシ。・・・ああオイ、丁度良かった。お前たち今日いいかな?」
「勿論」
「いいぜ」
「じゃぁヨナ。こっちはもういいから暴れんなよ」
「ああああん!ヨナ!ヨナああ!」
「俺たちで我慢してくれよお世話様」
「うう・・・ヨナ・・・わたし・・・諦めない!」
ロジカの熱を帯びた鼻息に、ヨナは事態のとりあえずの解決を見た。文明的な音の数々が遠のいていき、ヨナは被せられた袋の隙間から見える足取りを追った。
がさ付いた布の向こうで、男の一人が立ち止まり、なにか手すりのような物に手を乗せるのが見えた気がした。ヨナは視界を奪われたまま前進し、何度も曲がり、埃の中をひたすらに進んで、エレベーターを何度か経由した辺りですでに、今現在自分がどこに身を置いているのかがすっかりわからなくなっていた。
ここにたどり着くまでに、沢山の足音や、布が擦れる音の他にブルーカラー達の話し声が袋の隙間から聞こえたりもしたが、それらも、ずいぶんと昔の事のように感じられた。
どこか品のある印象的な臭いと、靴底を硬く押し返す感覚からこの場所はクルードというよりも地上の街に近しい印象をヨナへと与えていた。
先導する二人が立ち止まり、ヨナに被せていた袋を取り去る。
「窮屈な思いさせて悪かったな」
「俺たちの役目はここまでだ。何か聞きたいことがあるか?」
ヨナはこの時、2名のブルーカラーと共に、クルードが一望できる場所に立っていた。簡単な手すりに守られただけの半円状の足場にはどこか不吉な風が吹き込んでいる。目の前に見えている四角い穴のような入り口は、小さな球を糸で連ねた帳のような物で隔たれ、中の様子がかすかに覗ける隙間からは不思議な薫りを放つ煙が音も無く這いだしていた。ヨナは二人の様子を確認した。
彼の想像通り、ここまで彼を案内した二人から悪意のようなものは感じない。代わりに、ブルーカラー特有の親切さだけがそこに立っていたような気がして、ヨナは特に詮索するつもりもなく形だけの質問をした。
「ここはいったい?」
二人の男は呆れたように腕を組んで、帳の中央を開けた。命令されたわけでもなく、ヨナは球を連ねた帳の中央を割って体を滑り込ませた。
打ち鳴らし合う音から察するに小さな球は色とりどりのガラスで出来ている。
中は薄暗く、やはり、あの印象的な臭いの発生元はこの場所で、所々に設置された光源が部屋の設置物をぼんやりと断片的に暗闇から映し出していた。それら中に、萎びた一人のブルーカラーの姿もあった。
ヨナの視線に気が付くと、その人物は、自分がれっきとした生物であることを証明するように、手にした細長い管を咥えて息を吸い込み、白い煙と共に吐き出すというアクションを見せた。立ち込める煙や、揺らぐ小さな火などを除いて、世界の一切が停滞したのを見計らうと、ヨナはその人物の姿がよく見えるところまで近づいて、同じように床に座った。
敷かれた絨毯の手触りは決して褒められるものではなかったが、やはり、温かい。
たるんだ痩せた皮に包まれた骨が動いて、紙を丸めては伸ばしてを繰り返したような肌が裂けて出来た口のような隙間が再び煙を吐きだした。口元、それは僅かに緩んでいたのかもしれない。
「よく来たねェ。ここは見ての通り、当の昔に絶滅した生き物たちが歩き回る、歴史の
その人物は緩急の少ない口の動きでそう言った。いつの事であったか、頭の中で思い描いていた事と非常に類似する発言をこの人物がしたのでヨナの口調には自然と敬意が込められた。
「あなたは他人の頭の中が読めるのですか?」
膨大な伝統、文化、知識、その全てが目の前の萎しなびた体に背負われていた。
また音も無く煙が吐き出されて、僅かに生じる空気の流れに呼応して、また、同じように部屋の灯りが悶えて揺れた。
「まあ、多少わね?」
細い煙が立ち上る管を持つ手とは逆の手が空を切って萎びた男ブルーカラーは「ここはこんな場所だからね?」と、言った。次の瞬間、干からびた指先が電気的な光を放つと同時に、暗闇から四角いスクリーンがいくつも現れて空間を埋め尽くした。それには街のいたる場所、例えば古アパートの一室や、食料分配局の窓口、何処か大きな建物の駐車場、灯りが落ちた水飲み広場、大勢の大男の影が続く狭い通路などの風景が映像として映し出されていた。さらに、それだけではない、画面が点灯した事によって明らかになるもっと巨大な空間、その全貌。それは・・・。ヨナは突発的な発声を抑えて尋ねた。
「あなたは監視局ですか?」
「ぼくが自分でそう名乗った事は、一度もないけどね」
締まりの悪い喉からそんな音が漏れて、干からびた指が再び虚空を切った。
すると、点灯したばかりの画面のいくつかが消え、表舞台から姿を隠すように、奥に見えていた巨大な空間も暗がりへと飲みこまれた。
「今日は消灯じゃないみたいだね?どうしてだろうねヨナ君」
「あなた達の事は殆ど知りません」
「聞くつもりもないかね?」
「はい」
「ふん・・・いぃだろぅ」
老人は大変嬉しそうに目を細めると、照明として置いてあった小さな火のいくつかを消して、残ったものの一つを利用して手にした管の先端に火を乗せた。
「君は何を望むかね?ヨナ君」
「その時によって変わります。けれど、多くを望んだ事はありません」
「そうかえ・・・どれ、ちょっと見てやろう。どうか動かないでおくれよヨナ君」
管の先端の炎が猛り、柔らかな笑顔を一時照らした。皺で覆われた唇が管を吸って吐いた。白い煙が漂い、その中を干からびた指がゆっくりと通り抜ける。すると煙は複雑な軌道を描いて捻じれ、線の集合体となり、やがて、何かの象徴となり動きを止めた。ヨナは目の前で起きた事実を疑った。それは、あまりにも正確な。
「ふん。これは・・・
世界で最も尊いとされる『花』で形作られた冠に、威厳と慈愛に満ちた表情、活き活きとした肌、どっしりと腰を据えて玉座に座る姿はまさしく女帝そのものであった。
「
「そう、エンプレス」
それは、見間違えであったかと思えるほどに一瞬の出来事だった。老人はゆっくりと目を閉じて、息を吸い込み、続けた。
「あぁ・・・・ヨナ。恐れを知らぬ戦士よ。お前はとてもとても強い星を持っているねェ」
「星?」
「そう、星。時を旅するすべての存在が巡ることになる運命とでも言うとわかりやすいか?君の星は今誰よりも強い所にある。でもね、どんなものでもそう長くは続かないものだよ、じきに、君を跪かせるものが現れるだろう、とても強い因果だ。決して逃れられないし、沢山の者を巻き込むだろう。お前が生み出す
老人がしばらく沈黙し、ヨナは続きを待った。何を言われようとヨナにはどうする事も出来はしないのだ。しかし、この人物ならばもしかしたら・・・。そんな期待がヨナの脳裏をよぎるよりも、ずっと、ずっと、早く、老人は姿勢を変えた。
巻き起こされた小さな気流を受けた煙は再び形を変え、なんとそれはヨナの姿になったのだ。
「なんてねェ・・・・時間ばかりあるから、ぼくはいつもこんな事ばかりしているんだよ。全部、出鱈目だよ。なに、心配はいらないよ」
老人がそう言い終えると、空間の明かりがゆっくりと点灯して、隠されていた全てを闇から暴き出した。壁一面のスクリーン、タペストリー、憲章。奥に見える巨大な空間に、天高く、所せましと陳列されていたのは膨大な量の書籍だった。
なぜ?
と、いう疑問よりも先にエリスの姿がヨナの脳裏に浮かんだ。ヨナは非常に納得して、もう一度彼女に会いたいと感じた。老人にはそれを見抜かれていたのかもしれない。
「時間を取らせてすまなかったねェヨナ君。君と話せてよかったよ。時間が許す限りここに居ると良い。と言っても、ぼくたちは君を歓迎したりはしないけどね」
老人の消えかけた視線の先には出口のようなものがあった。ヨナは立ち上がり、一度は出口を目指しはしたものの、どうしても、聞きたいことがあって彼はそれを押し殺すことが出来なかった。彼は振り返り、部屋の中をもう一度見渡した。
沢山のスクリーンに蝋燭、奇妙な装飾品の数々、女たちの手によって精巧に編み込まれたタペストリー、最も目立つ場所に掛けられた憲章には老人の物と思わしき署名と共に彼等ブルーカラー同士の取り決めがびっしりと書き込まれていた。加えて、その向こう側に広がる大量の本だ。
ヨナは図々しいのを承知の上で奥の空間を指さして「近くであれを見ても構いませんか?」と尋ねた。
老人は、やはり痩せていた。腕の周りは皮がたるみ、頭は禿げ上がり、所々に黒い斑点状の染みが出来ていた。けれど、ヨナは心の底からその姿を承認していた。
持ち上がった口の隅から煙が吐き出されて、老人は言った。
「いいけどねェ」
老人は続ける。
「半端な知恵は君を苦しめることになるョ?ヨナ君」
これは良心だとヨナは感じた。彼はそれに従った。
「わかりました。やめておきます」
「ぅんぅん。君にはそれがいいだろうね。代わりと言っちゃなんだけど、良い事を教えてあげようか。実はね、この場所は君がよく知ってる。食料分配局の丁度真下の場所にあるんだねェ」
「それは教えていい事なのですか?」
「まあ、良くはないね。みんな気を付けてくれてるしねェ。でも、この場所に来る者の多くはその事を知ってるし、今のところぼくも無事だから、とりあえずは知ってる人間が一人くらい増えても、いいんじゃないかな・・・・うん。どれ、ヨナ君ゃこっちへ来てくれないかい?」
「はい」
老人が僅かに座りなおして自分のすぐ手前を指さした。老人の爪は指から浮き上がり、何本も縦に線が入って割れているようだった。関節からは骨が浮き出て、今まさに崩壊の今際いまわにその身を置いているかのようだった。
ヨナは老人の言葉に従い、目の前まで進んで、目線の高さを合わせた。すると、老人はゆっくりと動いてヨナを抱擁したのだ。一瞬、あるいは、とても長い時間二人はそうしていた。
ヨナは出来るだけ長くこうしているべきだと思った。この老人がヨナを優しく包んでいる間だけ、きっと、彼の体は美しいままの姿で保たれて崩壊を免れるのだ。
ヨナの指先がじんわりと汗ばむ、そんな僅かな出来事をきっかけに二人は同時に終わりを予感した。
「ああ、・・・・ソロモン。・・・・・何故だ」
干からびた瞼からひと筋の涙が零れ落ちて、老人は最後にそう呟いた。
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