32話から42話 ブルーカラーコンプレックス

 人間の手足から伸びた糸をはじめて見たのはちょうど8つになった頃だ。

同い年のチャヴをはじめとしたコミュニティの多くの者たちは俺に対して常に否定的であった。

ある日、チャヴが死んだ。

隣で寝ていたチャヴは、偶然発生した崩落に巻き込まれてしまったのだ。修復とは名ばかりの置換を行う人々からもやはり同じような糸が伸びている。我々は何者かによって操られている。知らず知らずのうちに隷属されている事を俺たちは誰一人として認識出来ていない。


瓦礫の中から奴が見つかったのは崩落から3度目の消灯のすぐ後だった。


チャブは目を見開きゴミと灰と塵でまぶされ、両手の爪は全て剥がれ落ちていた。俺の期待通りに、魂の抜けたチャヴからもう糸は伸びていなかった。死して、チャヴの魂は隷属より解放されたのだ。


 こうした超自然的な彼等にとっての不幸に見舞われた時、人々は決まってすべてを地上の上流階級『ブルー』の奴らせいにして自らが今現在身を置いている社会構造的欠陥と奴らに対する劣等感を影でこっそりとすり替え物事の解決を先送りにした。


 無知でいる事、正直でいる事、与えられた才能を自己評価する事は大いに結構だ。しかし、声高に変化を望みながら一行に平行線をなぞり続ける奴らには、無意識化でその行動を抑制する見えない力のようなものが働いていると言っていい。つまり、俺たちが培ってきたコミュニティ。築き上げてきた道徳。親から子へと引き継がれた血の誇り。それらは、今現在の我々だからこそ共有体の中で尊い物として存在しうるものであり、逆説的に、現在の状況を打破するという事はそれら共有体の即座の解体へ繋がるとも言えてしまうのだ。彼らが無意識化で恐れているものは、手に入れた自由や安全や繁栄と引き換えに自分たちだけが所有していた唯一性の喪失だ。


 欠片でもこの事実に勘付いた知性ある者らは堕落し、変化を嫌い、虫以下の生活を送っている。彼らは溝にたまる糞以下の存在だが、彼らが自分たちの存在の重要性に気が付いているとしたら?多数派の為に敢えて少数派でいる事を自らの使命にしているのだとしたら?彼らは利用できるかもしれない。


12になった時、こんな実験を行った。


出来るだけ同じ能力、同じ境遇の者2名を選びそれぞれに同じ仕事を与える。そして、仕事が完遂するたびに片方のみを称賛するという極めて単純なものだ。


始めの内2名は全く同じパフォーマンスを発揮していたが時間がたつにつれて称賛された側はされていない側を蔑む態度を取り始めるようになった。その態度と比例曲線を描くようにその者が挙げる成果は肥大化し、本来与えられていない分野にまで貪欲に役割を求めるようになり、明らかに元々の能力を遥かに超えた結果を提示するようになった。そして、より大勢を蔑む態度をとるようになった。他人よりも優れているという事、そして、それが評価に結び付き、何者かを蔑むというこの者がたどった一連の流れは、大本を辿ればただ一つの偶然により発生した結果である。これを踏まえてこいつらのような存在を特別と呼ぶとする。


 それから、コミュニティ内で特別を求める運動が散見され始めたのは記憶に新しい。目まぐるしい発展、血で血を洗う氏族間での闘争、われわれはそれを乗り越えるだけの種の成熟を発揮した。


果たして、奴ら貴族ブルーブラッド共にもそれが叶うのだろうか?




***




・・・・・・。・・・・・・・・~。!!・・・!!







 少し前から、通路の脇には消えかけの小さな光が点灯するようになっていた。この頃から、体を酷く痛めつけられているはずのブルーカラーの娘は背中から降りて自分で歩くと言った。受けた傷を時々気遣いながら彼女はヨナよりも少し早い歩調で通路の中を進んでいった。故郷に帰るという事はきっとこういう事なのかもしれない。


 そのまましばらく進んで、消えかけの小さな光の中で彼女が振り向いた。暗闇の帳に覆われた表情は何かに、特に、小さな失敗に気づいた時に見せるもののように思えた。娘が小走りでヨナへと駆け寄る。


「ヨナ・・・ごめんね。なんだかとても、はやく会いたくなったの」


「いいんだ。君の体は、どこか痛まないか?」


「痛いけど、大丈夫。あなたは?ヨナ」


「どこも痛まない」


「そう・・・ねえこっちよヨナ」


通路はいつの間にか人間に向けて調節された広さになり、歩行の妨げになっていた金属の轍は無くなり靴の底はしっかりと通路の表面を捕えていた。順番に点滅する小さな光を頼りにヨナはなだらかな傾斜を進んでいく。


「ついた。ここよヨナ」


この地をよく知るブルーカラーが立ち止まりそう言ったので、ヨナは暗闇に目を凝らした。すると、人間の手の形に合わせた取っ手が二つ通路の床から伸びている。入念に周りを観察してみれば、それを囲うように四角い溝が掘られているのが見えた。


蓋だ。


「ヨナ、一人じゃ重いから。あなたはそっちを持ち上げて」


「わかった」


ブルーカラーの娘がそう言い、片方の取っ手を両手て掴んで腰を落としたのでヨナももう一方の側の取っ手を持ち、合図を待った。


「せーの・・・・・・ん!」


ブルーカラーの娘が小さく唸り体を力ませたので、ヨナも彼女と同じ向きに力を込めた。すると、蓋はほとんどヨナの力だけで簡単に持ち上がる

通路の床と蓋との間に出来た隙間から黄色い光と気体が漏れ出して音を立てた。それと一緒に、金属を叩き、靴の踵を鳴らし、人間が人間を呼ぶ音があふれ出す。

長い長い暗闇と、閉鎖空間が自分へもたらす狂いの一つだと思い込んでいた不思議な音の正体はクルードに住まう人々の生活音だったのだ。



 持ち上がった蓋は地上で見た物よりもずっと頑丈で分厚く、その取っ手からも分かるように大変に効率化されていた。蓋は2本の補助具によって固定され、上下前後、必要最低限の動作のみを保障されるデザインを施されていた。一度持ち上げられた蓋はすっかり重さを失い滑らかに動いて、ひとりでにもう一方の終着地点へと居場所を落ち着かせた。光が溢れる四角い穴からは、非常に彼等らしい居住区が一面に、なおかつ立体的に広がっている。


「よかった。みんな元気そう」


ブルーカラーの娘は不器用な体を無理やり俊敏に動かして、寄せ集めた建材の束、今では通路になっている物の上へと降り立った。その瞬間、ヨナの目には彼女に突然色が塗られたかように見えた。それは長時間の暗闇が自分に見せた錯誤に違いない。


「ヨナ?どうしたの?」


「なにがだ?」


「あなたほうけてるわ」


「今が特別なわけじゃない」


「・・・?・・・そうだ、誰かがあなたに手伝いをお願いすると思うけど・・・」


「手伝い?」


「そう。絶対に引き受けてはダメよ?絶対よ」


娘は伝統的な教訓を言いつけるようにそうに言った。


「わかった」


「よかった。さあ足元に気を付けて、ここには平らな地面なんてどこにもないの」


「ああ」


見えている小さな体が後ろへ一歩下がり、丁度一人分のスペースを作ったのでヨナは中継地点で一度足をついてぶら下がり、蓋を閉めた。

天井擦れ擦れの位置から望む彼らの住処は壮大で不規則で非常に複雑極まりない物で、気化レガリアが無いせいか地上のビル群よりもずっと遠くまで見渡せるような気がした。

ヨナが足場に着地すると彼女の言う通りに靴底は不安定に歪み、踏みつけられた足場は音を立てて僅かにずれた。ブルーカラーの娘は彼を一度気遣い、何食わぬ顔になって、細い通路を進んでいった。ヨナが後を追うと、彼女は前を向いたまま言う。


「さっきの事だけど、断る時はわたしに言われたって言ってはだめよ?」


「わかった」


「・・・・とても心配だわ。だって、あなたは・・・」


ブルーカラーの娘は街の騒音にかき消されながら小さくそう呟いて言葉を止めた。


「・・・・ぁ!」


唐突に、手すりもない凹凸の集合体とも言える高所の足場から彼女が身を乗り出して声をあげた。ヨナは色の塗られたこのブルーカラーの娘に対してすっかり関心が高まっていた。彼はそのまま彼女が落下した時の事を考え、服を掴んでいつでも引き上げられるように準備をしつつ、その目線の先を確認せずにはいられなかった。


塵色の物で埋め尽くされた住居の僅かな隙間にひしめき合う者らと薬品を詰めた金属製の容器、空いている空間に押し詰められた室内装飾用の織物の山がそこにはあった。

手際よく、作業を続ける者らの一人がいち早く気が付いてすぐ隣にいた者に声をかけてこちらを指さす。それを見たブルーカラーの娘は素早く一度呼吸した。

一連の動作には明らかに見て取れる気迫のような、目には見えない見えない力が込められているような気がした。ヨナの予想が適当だったと証明されたのはそのすぐ後の事だった。


「ロジカっ!!!」


突然の大声に準備が出来ないなかったヨナはその衝撃をもろに食らった。足元がおぼつかなくなって平衡感覚が失われる様子は殴打技に後れを取ったときによく似ている。

眼下に見えているロジカと思わしき人物はこの娘を見つけるや否や両手をしなやかに振って何やら叫んでいる。


それを見たブルーカラーの娘は喉の奥で小さく鳴いたかと思えば傷の痛みも忘れて細く、不安定で、ガタつく通路を全力で蹴った。ヨナもそれを追い、眼下では集団から一人抜け出したロジカが体を左右に揺らして物で埋め尽くされた集落を縫って駆けているのが見えていた。

二人は大量の物資で形成された迷路のような住居を駆け抜けて、ちょうど開けた僅かな空間で衝突した。


「ロジカっ!よかった元気そう・・・また大きくなったね」


「え!え?そうかなぁ?でもよかった。街へ上ったら帰ってこれないってみんなが言うから・・・」


「みんなは元気?」


「男はみんな、いろんな回収場所に行っちゃって、この辺りに残ってるのはタップだけ・・・女は私とジーナちゃんだけ・・・」


表情を曇らせたロジカの目から涙が一つこぼれた。悲しい過去を思い出したのかもしれない。


「そう・・・」


「でも!でも!エリスちゃん聞いて!あれからまた沢山仲間が増えたの!名前は無いけど・・・紹介しなくちゃ!あとあと!街の事たくさん聞かせて!私も知っておかないと!」


ロジカは一転して快活に振舞い、ようやくエリスの細い体を身に纏う薄着から離して、頭部に付けた滑らかな金属製の髪飾りにクルードの黄色い光を当てた。


「ロジカ?それ」


「うん。私、お世話に選ばれたの!」


「お世話様に?ロジカおめでとう!」


エリスは再びロジカの身体に両手を回して締め付けた。彼女もそれに答える。


「ありがとうエリスちゃん!私、みんなの分までいっぱい食べる・・・」


ロジカはもう一度、涙をこぼして、物が折り重なる山の片隅へと視線を向けた。


「そこ、その建物の隅・・・ウェンディさんが死んだ場所・・・マイカもヨフもキョイももらった食べ物を急いで運んできたのに・・・間に合わなくて」


「そう・・・ウェンディさんが?あの人はとても立派だったわロジカあなたもよ」


二人はもう一度抱き合った。その間もここクルードの騒々しさは鳴りを潜めることは無かった。


 騒音の中に奇妙な音が鳴り響く。濡れたブーツに無理矢理足を通してそれを連続して繰り返したようなどこか聞きなれたような音だった。クルードのわずかな隙間で抱き合う二人のブルーカラーはその音を聞くと操られるように互いの体を離して顔を上気させた。


「あっ・・・あ!嬉しくなったらお腹すいちゃったみたい。どうしてだろう、いつもぺこぺこなのに。おかしい」


「最後に何か食べたのはいつ?ロジカ」


彼女は下腹部を両手でさすって、腹の音をなだめて続けた。


「覚えてないの、最近は消灯も多くて・・・昨日も、なんの知らせもなくいきなり消灯したの。それで、それでね・・・」


いいおよんでロジカは再び目にいっぱいの涙をためて、こぼれる前の涙を労働によって荒れた指先に吸収させた。


「いいの。いいのよロジカ。ごめんねそんなつもりは無かったの」


「うん、ありがとうエリスちゃん。うん、そうだよね。くよくよしてられないもんね!みんなの分まで私たちが・・・!」


ロジカがそう意気込むと彼女の腹が再び鳴った。

離れた場所で事の顛末を見守っていたヨナは失ったはずの過去に一度呼ばれた気がした。それと同時に、勘違いも甚だしいとも思っていた。ヨナは二人に近づいた。

すぐにロジカが気が付いて近場にあったエリスの細身で少しでも体を隠そうと努める。彼女にとってエリスはいつでも頼りになる存在だった。ずっと以前も、この時も。


「あなたは?見たことない顔!エリスちゃん!」


「これはヨナよ」


「ヨナ?」


ロジカは丸い目を更に丸くして、まじまじと見慣れない人物が纏う怪しい風味を嗅いだ。ヨナは余計な不安を煽らぬように彼等ブルーカラー達に対する普段通りの態度を思い出してポケットの中の青い合成飼料を一つ取り出すとロジカに差し出した。


「俺は食料分配局の局員だ。この合成飼料は配給品と全く同じものだ。君はこれを受け取るだけの条件を備えている」


「でも・・・これ」


ロジカは差し出された青い合成飼料をじっと見つめて生唾を飲み込んだ。それから、ヨナの顔を見上げて、エリスの様子を伺った。エリスは今にも叫びだしそうなロジカを視線で落ち着けせてからゆっくりと頷いた。


すると次の瞬間、彼女はその外見からは想像もできないような敏捷さと正確さでヨナの手から青い合成飼料を両手で掴み取ると歓喜の表情を浮かべた。


「ありがとう!ヨナ!エリスちゃんも!みんなに分けてこないと!あなた達にも!」


ロジカは受け取った青い合成飼料を半分に割って二人へと差し出した。


「いや、俺には・・・」


「ヨナ。だめよ受け取らないと」


『じゃあヨナ!エリスちゃん!またあとでね!』


ヨナは沢山の物陰で見えなくなるまでロジカの姿を見送った。

そのわずかな間に、エリスはいつかの如く、不服そうにそっぽを向いていた。


「エリス。俺は・・・」


「意気地なし。それっぽっちじゃ誰も救えはしないわヨナ」


ヨナはクルードの影から見え隠れしている投げ出された骨の浮き出た痩せた手や足を発見し痛く納得した。彼はエリスに対して一切反論する気が起きなかった。


「すまない、君の言う通りだ」


エリスは最も近くにいた仲間に合成飼料を差し出し、屈めた体を少し伸ばした。


「ごめんねヨナ。わたしブサイクだね」


「君は間違っていない」


「ありがとうヨナ。ありがとう」


***


 彼ら全員の飢えをしのぐための食糧を除けば、このクルードと呼ばれる地域は実に多くの物で溢れかえっていた。むき出しのエネルギーラインでは様々な金属やガラスが溶かされ形を変え、上水管を無理矢理歪めて敷かれた水路では緻密に裁縫された生地に染み込ませた薬液が洗い流されて、狭く不規則な住居の上を沢山の積み荷を背負った人々が行き交い、地上の住居には必ずと言っていいほど搭載されていた衣類用のダストクリーナーを巨大空間用に作り替えた換気システムは巻き上がる塵や埃や布くずや彼らの汗を瞬く間に空間から消滅させていた。


 ヨナはエリスの言いつけを頑なに守り、飢えながらも勤勉にそういった営みを続ける彼等と決して視線を合わせないようにした。この場所では、自分には。と、常に偽る必要がある。そうでなければ、街の上層階級の者たちへ売りつけるための商品の用意に躍起になっているブルーカラー達の労働力の一つとして格好の餌食になってしまうだろう。


 彼等は地上の彼等の仲間たちと同じく、どうしようもないほどにであった。エリスが今ちょうど飛び越えた水路のそばで、幼いブルーカラー達の手も借りて作成されているのは、透明な樹脂で閉じ込めて特殊なカッティングを行った水のボトルだ。あれは勿論飲料であるが、購入者である街の上層階級の者らは決して飲むことは無いとされている。彼等にとって飲み食いするという行為は見下しているブルーカラー達が必死になって行う下品極まる日常行為であるためだ。あくまで寄贈用の貴重品として扱っている品物が、こんな場所で、あのような方法を用いて作成されていることを彼等が知ったらさぞ多くのの名誉評議の場が設けられる事だろう。

他にも、彼等が好んで被る帽子や衣服、絨毯、装飾品など、ヨナが知る限りでは多くの物がこの場所でこしらえられた物のようであった。

それらの中には、金属を鋭く丈夫に加工し殺傷能力を高めた道具もあった。


「・・・・ヨナ?ヨナ?」


「聞いている」


「あなた・・・ロジカを探していたのね?」


エリスがぶすぶすとそう言った。


「違う」


「そう・・・ロジカはお世話様になるのよ?とてもすごいのよ?・・・もう少し、わたしたちはあそこへ向かうの」


エリスは、地面が鋭角に隆起している場所へ慣れた様子で歩を進めた。その先はちょうど折り重なる物の群れが切れた場所となっており、黄色い光が差し込んでクルードの様子がよく見えた。

ヨナの住んでいたアパートがすっぽりと収まってしまう程下にさらなる住居が広がっていた。物で埋め尽くされた住居の中心には巨大な四角いプレートが鎮座し。

半球状の天井からはいくつもの柱が下へと伸びて、それはまるで、凄まじい力でせり上がる地面を無理やり押さえつけているかのようだった。エリスの指が指していたのはその巨大な柱の内の一本だった。


「消灯が無ければ、これから回収が始まるわ」


「回収?」


「ええ、でも、そんな事はどうだっていいの。見て欲しいものがあるわ。今日が最後じゃないなんて誰にも言えないもの」


近くにあったゴンドラにエリスが小さな重りを乗せると滑車の反対側から延びるワイヤーが鈍い音を立てて流れ始めた。暫く待っていると下から何も乗っていない空のゴンドラが段々と上がってきて、それはちょうど二人の前で停止した。


エリスが案内をかって出るように一歩乗り出す。


「ヨナ、あなたのその棒を貸して」


ヨナは言われるままに念のためずっと携帯していた空調パイプを彼女に預けた。エリスは、パイプの先端でとても慎重にゴンドラの床に当たる部分を何度か押した。誰も作り方を知らない叡智の結晶とも言える一連の設備は、彼女の失った指や痛めつけられた体の僅かな力をも動力へと変換し、布切れでも釣り上げているかのように何度か上下し、やがてびくともしなくなった。


「良さそう・・・でもどうしようとても怖いわ」


「先に乗ろう」


「そうじゃ無いのよヨナ。やっぱり一緒に乗るべきよ」


「わかった」


「うん。いくわよ?せーの・・・」


「・・・」


二人は同時に一歩踏み出して到着したゴンドラの床に体重を乗せた。彼女の言ったとおりに、あからさまな人工物であるはずにもかかわらず、床は所々が摩耗し、歪曲し、全くもって平らではなかった。

エリスの心配をよそに危険な変化は見受けられない。彼女がほっと一息ついて、裾をつまんでいた手を離すと、それを合図にしたかのように二人を乗せたゴンドラはゆっくりと下降を開始した。


水流を利用した『おもり係』と中腹にある壁からせり出た受け皿の上のブレーキや正転、反転を司る『制御係』で管理されている昇降機エレベーターを後にして、二人は更なる深層へと足を踏み込みいれた。



 上から見ていた印象とはまるで違う、あの場所から見えていた彼らの住居の正体は折り重なる物で偶然発生してしまった。言うなれば彼らの住処の蓋の部分だったのだ。隠された薄暗いその場所ではより多くの人々がひしめき合って、焼ける皮膚の下で蒸発する水分のように慌ただしい営みが繰り広げられていた。


「君が見せたかったものはこれの事なのか?」


「いいえ、こんなものは息をするのを見るようなものよ?さあはぐれないで」


「わかった」


一歩また一歩と歩くたびに足音や話声で頬を張られるような感覚、誰もが満足に食う事すらままならぬこの場所は不潔で散々としていて人間の活気に満ち溢れていた。


 遠い過去の名残である粗悪な屋根の連なりを通り過ぎて、水飲み場になっている広場の一つをぐるりと迂回し、たどり着いた場所は蓋が大きく取り除かれた場所で焦げた縁から見える空間には例の巨大な柱の一本がそびえたっていた。

心なしか、彼らの熱量が大きい。


「よかった。今日はまだ消灯は無いみたい」


エリスは息を弾ませてそう言った。


生まれ育った地が見えない力を供給しているのか、彼女に怪我や疲労による衰弱は全く見受けられず、それどころか街にいた頃よりもずっと活力に満ちているように見えた。

地上まで伸びている巨大な柱は、ブルーカラー達の重要な拠点の一つなのであろう。付近では多くの者たちが柱を中心に不規則軌道を描いて活動している様子があった。ヨナたちもそれらの内の一つだった。地形によって隠されていた柱の全貌がだんだんと明らかになりはじめる。

近くで見ればそれはやはり巨大であった。


 天井まで続いている柱の根元には大きな人間を模った象が彫刻されていて、それらは数名で巨大な柱を力強く支えているかのような姿勢を取っていた。更に、彫刻はそれだけではなかった。遠くから見たときには決して気が付くはずも無い、石なのか、金属なのかも知れない柱の表面にはびっしりと何かが刻まれてそれは認識が及ばなくなる遥か上までも続いていたのだ。この大いなる無駄は彼等のなせる業の一つかもしれないもしくは・・・。


『あ!!おーい!ヨナあ!エリスちゃん!!』


雑多なその場所で、二人の名を呼んだのはいつかのブルーカラーの娘ロジカであった。

「ほらっジーナちゃん!あの人!ヨナ!」


「えぇ?あいつが?」


「うんっ!おーい!」


ロジカの声はクルードの騒音に殆どかき消されていたが、ヨナも、そして、エリスも彼女の存在にすぐ気が付いて散々としたクルードから僅かに浮き上がる姿を視界にとらえた。エリスが体の筋を膨張させて声を張り上げる。


「ジーナ?!あなたジーナね!」


また、かつての友人を見つけたのであろう彼女がそのままの勢いで人ごみを駆けたのでヨナもその後を見失わない程度に追った。自分の方へと駆け付けまいとする友人の姿をよそよそと伺っていたロジカもいよいよ我慢できなくなって、傍らにいたジーナの手を引いて往来の隅から飛び出す。


「おっ・・・おいロジカ、あたしは」


「エリスちゃん!エリスちゃん!!ヨナあ!」


「・・・まったく」


それから3名のブルーカラーの娘たちは衝突して、いつかのように互いの体を締め付け合った。


「ジーナ!よかった。あなた・・・よかったわね」


「え?ああ、まあな。お前こそ急に上へあがったって聞いたから、いくらソロモンの言いつけってもびっくりしたぞ」


「わたしもよ。でも、ヨナに助けてもらったからこうしてまた会えたわ」


「ヨナねえ」


塊からいち早く抜け出したジーナは、段々と速度を鈍らせ始めた往来を行く人々を難なくすり抜けてヨナへと直進した。ジーナと呼ばれるこの娘は、エリスよりも僅かに背が高く、引き締まった若々しい体躯と、浅黒い肌を持った人物だった。

ジーナは、やはり、先ほどロジカが行ったのと同じようにヨナが纏う空気が危険でないのか否かを顎を少ししゃくって嗅いだ。


「ふん・・・・まあまあだな」


「・・・」


「ジンジャーをくれたらしいな。ありがとう、メシが楽しみだよ」


彼女の言う『ジンジャー』というのは、ブルーカラーたちが用いる青い合成飼料の呼称で、『メシ』というのは食事の事である。


「そうか」


ヨナはポケットの青い合成飼料の事は余程の事が無い限り黙っているつもりでいた。エリスの言う通りだ。たとえポケットいっぱいにジンジャーが詰まっていたとしても、彼らの飢えを少しの間だけ先送りにする事しか出来はしないのだ。ジーナが両目を真っ直ぐ彼に向けて続ける。


「エリスの事も、ありがとうな。あいつはあれで結構大変な立場なんだぜ」


ヨナは、街で彼女の仲間たちが平和贈呈局員たちによって抹消された時の事を思い出していた。それを踏まえて彼は答えた。


「彼女の事は何も知らない。だが、彼女が居なければ俺は今ここにはいない」


「俺は今ここにはいない・・・・?ぷっ」


ヨナの言葉を聞いてジーナは整った顔を少し歪めて、それから、体をくねらせた。


「おい!エリス!こいつお前そっくりだな!」


「あなたはおかしな事を言うのねジーナ」


「そーかもな。あーあ。もーおちょっと早くくりゃよかったのに」


ジーナは両手を後頭部に回して体の筋を伸ばしてそう言った。

往来の人々が巻き起こす気流を受けて、彼女の衣服の隙間から素肌の一部が僅かに覗くと、それを目がけてロジカがこちらにやってきた。少なくともヨナにはそう思えた。


「ジーナちゃん!」


「ロジカ!危ないよ!」


「え?」


『おーいどいたどいた!』


彼等の住処で彼等の日常でのありふれた出来事だ。そう簡単に大事にはなりはしない。二人の前を今通過していったのは、人間を横に何人も並べたように長い車輪付きの荷台だった。あのまま飛び出していたら、ロジカは今なお埃を巻き上げて進むそれと衝突していたかもしれない。


彼女はすぐに肩を持ち上げて、エリスに張り付いて、それから、荷台を引いている者に謝罪した。


「っ!・・・ごめんなさい」


『お世話様!気をつけろよ!』

『そうそ!傷付けちゃいけないもんね』


誰かが呟いた。


「長いトレーラー。いっぱいになると良いね」


荷台を引いていたブルーカラーの男は二人を横切りながら、手振りを付け加えて言った。


「なるとも」


一行を両断する、荷台の連なりが無くなったのはそれからしばらくしてからの事だった。最後尾の者が少し遅れて後に続くのを見届けるとジーナはヨナへ目配せして往来の隅の方へ居場所を移すように促したので、彼はそれに従った。


「まったく、危なっかしいったらないよ。なぁヨナ?」


「君たちはみんなああなのか?」


「ふふ、そうさ。バカみたいだろ?」


声の届く距離までジーナが来るとエリスは声を上げた。


「ジーナ。さっき最後についていったのって・・・」


「ああ、タップだよ。あいつ今日から降りるんだ」


「そう、タップが・・・応援に行かないといけないわね」


「そーだな」




「ヨナあー!ヨナこっちだよ!」


 ロジカは、よそ者で、この地になれていないヨナが気になって仕方がなかった。

ヨナは小走りで彼女の元へと駆け付けて、放っておけば際限なく前に出続けようとするその体を往来の隅の方へと押し込んだ。彼の懸念通りに、さっきまでロジカがいた場所はあっという間に人々や大きな荷車の流れに飲み込まれて消えた。


「・・・ヨナ?そんな・・・私・・・お水を汲んだり準備が・・・まだ」

「ロジカ、君はもう少し慎重になった方がいい」

「え?ふふ。心配してくれるんだ?ヨナ優しいね」


ロジカはにわかに嬉しそうにそう言うと体の筋を緩めた。



『ハーネスを締めろおおお!!英雄になる準備はいいか!!』



 巨大な柱の周りに集まったブルーカラー達の労働はひとまず鳴りを潜めて、その場の誰もが数十名からなる男たちの集団を固唾を飲んで見守っていた。


これより回収が始まる。


 あの巨大な街で不要となった資源の多くは一度地下の処理装置に送られ、分解されてから地上へと送り返され再利用される、回収とは処理装置にたどり着く前の資源を彼等がかすめ取る行為の事だ。

柱が溶けて出来た穴の周りに集まった男たち一人一人を統率者と思われる人物が素早く見回して穴のすぐ手前に立った。

その様子を少し離れた所から眺めていたヨナは身体が異常に熱を帯びている事に気が付いて、その発熱が自分ではなく彼等を見守る幼い子供たちや女たち、最も近くにいたロジカから発せられるものだと気が付いた。


 居合わせた者たちが何かのきっかけで今にも叫びだして、もしそうなっていたのなら、きっとそれは爆発的な光景だったに違いない。誰もが押し黙るその場所で一番初めに鳴り響いたのは小さな金属が落ちてきて何かにぶつかって弾けた音だった。

クルードの天井が今にも落ちてきそうな程激しく音を立てて揺れて、それから、シャワーの水圧を最大にした時の何百倍も酷い勢いで、柱の穴の中を大量の物が通り過ぎていくのが見えた。小さなものは食材を閉じ込めておく容器の蓋から、大きなものは車両や崩れ落ちた建材に至るまで、ありとあらゆる役目を終えた物たちが互いに激しく体をぶつけあいながら、弾けて、飲み込まれ、永遠と永遠と暗い穴底へと情け容赦なく際限なく落ちて行った。酷い臭いと恐怖を熱に変換したものがあたりを包んで、少し遅れて同等かそれ以上の騒音がクルードの各地から鳴り響く。


ロジカも、エリスも、ジーナでさえ顔を青くしている。


無理だ。


『いくぞおおおおおお!!!!!』


彼等の生命力が宿ったときの声が響き渡り、数十名のブルーカラー達は一斉に落ちて来る得体の知れない物の嵐の中へと飛び込んでいった。

丸められた彼らの生命線とも言えるケーブルはあまりにも頼りなく、何度も何度も行使されて来たそれらは擦り切れていた。


人数分用意されていたケーブルの山がどんどん小さくなってそれらが最後まで送り出されると同時にその内のいくつかが切れて穴へと吸い込まれていった。


『・・・!!!』『・・・・・・!!!!!!!!!!』


誰かがそう叫んで、それは名前のようだった。

なかには待機していた者が切れたケーブルにすぐに気が付いて、落下を免れた者もあった。


『引き上げるぞ!!』


地上から降り注ぐ濁流は止まない。そんななか待機していた者たちによって最初のケーブルが引き上げられた。縁まで上がってきたブルーカラーの男が両脇に抱えていたのは沢山の衣服、美しい装飾が施された家具、そして、小さな果実だった。


 今なお仲間の誰かの命を奪い続けている騒音の中で彼等は大いなる運命の大立者おおだてものの勝利に歓喜した。


回収された物資はすぐに手渡されて先程のコンテナに積み込まれる。

帰ってきたばかりの男は、何か偉業を成し遂げたかのように爽やかな笑顔を仲間に見せて、再び濁流の中へ身を投げた。


 つぎつぎと、彼等は引き上げられまた濁流へ身を投げた。柱から天井を伝って、やがて地鳴りとなる騒音がいっそう激しくなろうとも彼等はやめない、2度目の頃にはハーネスの先に誰もいない事すらあったというのに。

ヨナはいよいよ魂に満ちた不快感に耐えきれなくなりだして、誰とも言わずなすり付けたくなる言葉を抑えることが出来なくなっていた。


「こんな事」


彼女たちの視線が静かにヨナへと引き寄せられて、今日初めて三度引き上げられた者が両手に抱えた回収品を掲げて歓声に包まれていた。エリス、ロジカ、そして、ジーナは時々歓声を上げるたりもしたがその顔色は相変らず蒼白であった。


無駄死に以外の何物でもない。


彼がそう言いかけた時、荒々しい男の声が響き渡った。


『こちらアラヤ自警団ヴィンセント!許可なくこの地に足を踏み入れたよそ者よ!出てまいれ!!』


厳めしいその言葉は、今も鳴り響く凄まじい破壊音にかき消されて僅か数名を除いて無視されてしまったのは必然といえたのかもしれない。


 ヨナは、あの、何処か普通ではない雰囲気を纏った老いた人物が自分の事を言っているのだとすぐに気が付いて名乗り出ようとした。地上で平和贈呈局員たちが人々のモラルと秩序の守護者であったように、この場所にも彼らに準ずる存在があってもおかしくは無い、正直に名乗り出て、しかるべき処置を施される事こそ適当なのだ。そのような彼の物静かな態度とは裏腹にエリスは他の選択肢を模索しようとしている途中のようだった。

彼女にそうさせたのは、を知る者のみが感知できる微妙な変化を敏感にとらえたからに他ならなかった。

エリスは体を縮めて点呼と時間稼ぎの意を込めて小さなコミュニティ内のメンバーの名を呼んだ。


「待ってヨナ。ねえ?ジーナ、ヴィンセント・・・」


「ああ、普通じゃないな」


ヴィンセントと名乗ったあの男は、見た事の無い殺戮の道具を腰に二つも携えて眼光鋭く固定物かのような出で立ちでそこに立っていた。石から掘り出された様な厳しい顔には刃物によってできたであろう巨大な傷跡があって、それがあの人物により一層厳しい空気を纏わせている。


『名乗りでよ!!』


次の一声は先の呼び声よりもずっと大きく聞こえた。それは落ちて来る資源の奔流が次第に弱まり、今回の回収が終焉に近づいていることを現していた。

一足先に引き上げられた男らも、集まったブルーカラー達も、エリスやジーナのように困惑した様子でヴィンセントに注目し始めていた。


 その場の大勢が気が付いていなかったが、ヨナはあのヴィンセントと名乗る男の立ち姿から派生するであろうありとあらゆる殺戮の所作が見えていた。甚だしい勘違いだったのかもしれない。


「行かないと。君たちに迷惑を掛けたくはない」


「でも」


「いーじゃねえか。意外とダンスのお誘いかも」


「バカ、ジーナ。あなたは最低よ」


ヨナがヴィンセントと名乗る男の言う通り、名乗り出ようとした時だった。


「待って!!」


ヴィンセントの厳めしい言葉に一番初めに答えたのは何とロジカであった。彼女は、誰かが止めるよりもずっと素早くしなやかに行動した。そして、まっすぐヴィンセントの元へと向かった。


「待つんだロジカ君は・・・」


「違う!違うの!ヴィンセント!!」


肩を弾ませたロジカが近づくのをヴィンセントは鋭く睨みつけて、普段の彼をよく知る物は得体のしれない恐怖と不気味さに体をこわばらせることしかできないでいた。


「違うの!あの人は悪い人じゃない!」


次の瞬間、ヴィンセントは殺戮の道具を解き放って何の躊躇いもなく振りぬいた。そして、集まったブルーカラーたちが、男も女も子供も青い顔をして叫びだすよりも早く、足元に転がったロジカへととどめを刺そうと逆さに構えた刃を突き立てた。


 間一髪、刃は軌道を逸らさずを得なかった。持ち主を防衛するという最も重要な使命を全うしたのだ。奇妙な獲物から伝わる並々ならぬ強靭にヴィンセントは肩の裏あたりに一度寒気が走るのを感じた。

二人は一瞬鋭く睨みあって、先にヴィンセントがよそ見をしたのでヨナは後に一歩下がった。


「ロジカ。立ちなさい」


「ううん・・・・はっ!ヴィンセント!ヴィンセント!違うの!違うの!」


「早く立て」


「・・・うん」


ロジカは、やはりというべきか無傷であった。彼女は立ち上がるととても申し訳なさそうに、ヨナへと駆け寄る。


「・・・ヨナ!」


「ロジカ怪我はないか?」


「うん、でも!」


「エリスのところへ戻るんだ」


「・・・うん」


両者を遮るものが一切無くなるとあたりは瞬く間に人々から滲にじみ出る物々しい雰囲気に支配されていった。誰もが仲間の窮地を救おうと必死に頭を捻り、何の成果も出ないと言った様子だ。

初めに動いたヴィンセントが捻じれた短い髭を石のような指でこすってさりげなく構えを変えた。一連の動作は、液体のようで同時にはがねであるかのような印象を見る者に与えた。

一転して、彼は指導者のように落ち着いた口調で言った。


「俺たちの仲間になりたければまず俺を殺すことだ。さもなければ俺がお前を殺してやる」


彼の発言をまじまじと聞かされて集まっていたブルーカラーたちは息をのみ所々で小さな悲鳴を上げた。彼等にとってそれは決して口に出してはならない禁忌だった。


「なぜそんなことを?」


「ここじゃ理由もなく人が死ぬ」


 続く言葉は何も存在しなかった。ヴィンセントが地面と一体となり、殺戮の道具を自らに向かって構えたのでヨナもそれに応じる形でただならぬ覚悟とも呼べる雰囲気を纏ったこの人物との対話に備えることにした。

地上の街には地上の街でのルールがあった。局員たちには局員たちの、ブルーカラー達にはブルーカラー達の、そして、クルードにはクルードのルールがあり、彼には彼の確かな掟が存在していた。


 柱の中を唸りをあげて落ちていく騒音が次第に小さいものとなり、人知れず最後に落ちて行ったのは小さな小さな金属の磨かれた食器だった。地上から遥か地下まで続く空洞の残響が聞こえなくなると同時に、ヴィンセントの石の如き四肢は唸りをあげた。


『覇ハア゛ッ!!!!!』


彼の初撃は殺戮の答案としてこの上なく的確なものだった。向かって、左袈裟で振り下ろされた攻撃はすぐに足元を薙ぐような攻撃に派生して、ため込まれた力を初速に乗せた凄まじく速い横薙ぎへと続いた。

ヨナはそれらを全て躱していたが対する解答は限りなく少ないと感じた。


 ヨナの敏捷さと当の昔に滅んでしまった野生の渡り鳥のような勘の良さを目の当たりにしてヴィンセントは道具の持ち手を締めなおした。

それから3連、攻撃の所作が行われたがそれらをすべて見切った者は二人を除いてだれひとり居なかった。空中に広がる鋭く伸びた青白い残光の数が増えるたびに見守る人々の顔からは血の気が引いていった。


 僅か数回の攻撃でおおよその間合いを掴んだヨナは、地上から持ち込んだ空調パイプの長さを利用することにして、一方的なアウトレンジからの攻撃を試みてそれは誰の予想をも上回る大きな効果を挙げた。一時的な有利を得たかのように見えるヨナであったが、勝負が決まる程決定的なものとは到底なり得なかった。

ヨナの一撃を側頭部に受けてよろめいたヴィンセントは、目の前の、戦いがすっかり板についたと思わしき若者に既に罠を仕掛けた後だった。

良すぎる目、良すぎる勘、良すぎる頭脳が時として仇となるのだ。


防御に回した腕の骨は砕けたかもしれないが武器が握れれば問題はない。

ヨナの得物に伝わる確かな手ごたえと、底知れない危機感。代償と引き換えに得る絶好の好機。

ヴィンセントの反撃は的確にヨナの首元を狙いすましてこの日一番の鋭さを誇っていた。咄嗟に躱したヨナを執念深く追い詰める横薙ぎの攻撃は逃げ遅れた空調パイプを鋭く斜めに切り裂いた。


見守るブルーカラー達に我慢の限界が訪れようとしていた。彼等は無意識のうちに形成していた円形の決闘場をじりじりと締め付けていった。


ヨナはすぐに敗北と失敗を認めて、状況に適応するよう努めた。鋭角にカットされた空調パイプは突き刺すにはもってこいの物だった。彼は引き続き、ヴィンセントの負傷した側の肩辺りを容赦なく攻め立てる。


ひとつ突き、ふたつ突き、ヴィンセントはそのどちらも小手先の動きだけで先端をいなして僅かな負傷は放置した。三度突いた頃には、次に備える余裕さえ滲んでいた。


個人の性格や気質によっては、それは敗北とも呼べただろうがヨナにとっては取るに足らない選択だった。ヨナは4度目の攻撃に突きを選択しなかった。それでもこの時、まだ彼の攻めのターンは続いていた。次の攻撃は頭上から振り下ろされる強烈な打撃であった。それは、奇しくもヴィンセントが虎視眈々と体の機能の一部を餌にしてまで待ち望んだものであった。


 素早く身をひるがえしたヴィンセントの目の前を空調パイプが通過して暴力的な空気の流れを生み出した。それが地面に激突するよりも早く、その先端を靴の紐を結びなおすかのような年寄りじみた動作で上から踏みつけて彼は地面と一体となったのだ。

「・・・・!」

人形のように整った若者の顔にみずみずしい生物的な動揺の色が微かに覗くと、老練な戦士は生まれ持った己の性質をいよいよ隠しきれなくなって口元をニヤリと歪めた。

『覇ハア゛ッ!!!!!!!!』

 嬉々として容易い一閃と共にヨナから一切のアドバンテージが失われる。彼には今すぐに交戦距離を検める必要があった。ヨナは短く切断された空調パイプを持ち直す事も無く両手でしっかりと固定してヴィンセントの懐へと飛び込んだ。

彼の指先には若々しい力がみなぎり。彼の内ではこのヴィンセントという偉大な求道者に対する責任感があった。それなくして、対話など成立するはずがないのだ。


 ヴィンセントはすぐさま体を捻ってそれを躱すと石の如き体に溜めていた力を爆発的に開放して刃を振るった。刃は逃げ遅れたパイプを更に短く切断し空を切った。しかしすでにとどめとなる一撃が用意されている。


 ヨナは下から突き上げるように体を屈めたままヴィンセントへと体当たりをした。

真っ直ぐ持ち上げたのならば絶対に持ち上がるはずもない恐ろしいほどの重量感が彼の肩にのしかかったがヴィンセントの体はいつかの平和贈呈局員の大男のように持ち上がって姿勢を崩さない事に躍起になっていた。

 隙を見せれば地面と接着しようとするヴィンセントに対して、ヨナがこの一時的有利を継続するためには永遠に加速し続ける必要があった。

そんなことは不可能だ。僅かだが発生したこの時間で彼は次の解答をヴィンセントへ示す必要があった。


 持ち上げた体に重量の調和が訪れて十分な勝算をもって振られた刃に対して、ヨナは咄嗟に彼の腰にもう一振り差し込まれた殺戮の道具を利用して対応する事にした。

鞘から抜かれた刀身はクルードの黄金の光を受けても尚冷たく光り輝き、ただの空調パイプと異なり凄まじい打ち込みを受けてもびくともしなかった。止められた刃を追うようにヴィンセントが関節を軋ませて交錯した刃に力を籠こめる。


「壊すなよ?」


ヨナは純粋な力比べが一瞬でも継続していることが奇妙に感じて文字通り火花を散らす刃の交錯を解いて道具の性質を確かめるかのように刃をふるった。対するヴィンセントはまるで無駄のない攻撃を時にはいなし、躱し、受け止め、僅かな隙を見つけては相手のテリトリーへと苛烈に切り込んで、ヨナが少しでも選択を誤れば彼はたちまち蹂躙されてしまうだろう。二人が刃を交えるたびに恐ろしい金属音と灰と飛沫がとびちった。


クルードの灯りに僅かに陰りが現れる。


 ブルーカラー達ははじめこそ。ヴィンセントの事だから。と、自分たちが良く知る彼の事だから。と、自らの思考と行動を互いに空振りさせていたが、反撃に出たヨナの一閃がヴィンセントの耳の半分ほどを切り取ると堰を切ったように声をあげた。


やめてくれ!


ヴィンセントもうやめて!


やめろ!


もうやめろ!


だめだ!


どうして!


ヴィンセント!!


ヴィンセント・・・!!


当の二人はその場の空気に従う気配など決して見せない。それは、高速で回転する車の駆動系を片側だけ急停止させてしまうようなものだ。


ヴィンセントの肩が膨らみそれと共に背負う殺意が濃くなった。凄まじい連撃が繰り出されてヨナはひたすら耐えた。


そして、この瞬間!!


僅かな、エクスプロイターの閃光のような一瞬の僅かな反撃のタイミング。ヴィンセントはあろう事か刃を鞘に収納し体を小さく小さく凝縮していた。

ヨナの経験上、圧倒的に有利なのは自分のはずであった。こちらは既に刃を振り下ろしている最中でその相手はと言えば道具を構えてすらいないのだから。しかし。


やられる・・・!


彼を殺したのだとすればそれは、好奇心に他ならない。




『ヨナやめて!!!』


 人々が巻き起こす熱気と雑音の群れに紛れて鳴り響いた悲鳴とも呼べる絶叫は、確かにエリスから発せられた声だった。しかし、声が聞こえた時ヨナはその言葉に従う必要がなくなっていた。

ヴィンセントの神速はすでにヨナの腹を通り過ぎた後だったのだ。

これ以上の闘争は真の意味での意味のない死となってしまうだろう。周りで見ていた人らはともかく当事者の二人はそのことを互いに良く理解していた。

 少し前、相手に早く到達するのは確かにこちらの刃のはずであった。

しかし、エクスプロイターの閃光が消えるよりも、ヨナが目の当たりにした一連の動作は遥かに早かった。

 ヨナは、ロジカが恐らくそうされたように、信じられない程柔軟に働く手首と、それによって体と紙一重の位置をすり抜けていく鋭い刃が見えて咄嗟に振り下ろした刃を止めたのだった。

この男がもしその気なら彼は切られた事にすら一瞬の間は気が付かなかったかもしれない。そして、いざ体を動かそうとした時にそれは二つに崩れ落ちるのだ。


 二人を囲んでいたブルーカラー達の額には揃いも揃って冷たい汗が滲んでいる。


「ボウズ」


ヴィンセントが体の動きは止めたまま言う。


「お前の負けだよ」


「君は俺があのまま辞めなかったらどうするつもりだったんだ?」


「なあに、その時もお前の負けだよ」


簡単な言葉でのやり取りの後、ヴィンセントが石のような体を伸ばした。彼の汚れた顔を一時的に洗った大量の汗が模様のようになって、元々顔にあった大きな傷跡を目立たなくしていた。それから彼は、自分の体の時間だけを逆に進めて殺戮の道具を鞘へと納めた。

ヨナが彼から拝借していた殺戮の道具を返すと、ヴィンセントの体の時間はもう一度逆行した。


 粛々とした黄金の空気の中に小気味良い金属音が立て続けに2回響いたかと思えば、回収を終えたクルードのいたるところから歓声や雄叫びが薄っすらと聞こえてくる。

互いに足の位置を戻して、少し前と変わらぬ健やかな様子を二人が見せると、ずっと様子を見守り、中には気を失う者まで続出したブルーカラー達はいよいよ安堵と恐怖とヴィンセントへの怒りを爆発させて、あっという間に二人を取り囲んでしまった。


ヴィンセント!


ヴィンセント!


馬鹿!馬鹿!


ああよかった!


よかった!


ありがとう。


ありがとう。


彼等はそのままヴィンセントをどこかへと連れて黄金のクルードの中へと溶けて行った。それが大体半分の者らである。

ではもう半分はどうなってしまったのかと言うと、それは、ついさっきまでヴィンセントに殺す殺されるなどとと、散々自分たちの不安を煽る元凶ともなったよそ者のヨナの元へと殺到していた。


 彼等は口々に感謝の言葉を述べながら、シャワー室の行き場を無くした床の水たまりのように無軌道になってヨナを包囲し、しばし連れ回した。

ヨナは目まぐるしく変化する顔と、臭いと、次々と投げかけられる質問に普段通り冷静に対処するかたわらでエリスやロジカやジーナの姿を探した。

すると、遠くの方でどこか慈愛に満ちた顔の3人がこちらに向けられているのを見つけて、彼はこの地の掟にしばし身を任せることにした。

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