24話から31話 ブルーカラーコンプレックス

 ヨナは平和贈呈局員から奪った坊刃ベストを2着重ねてブルーカラーの娘に着させ、傷ついた手には彼らのグローブを装着した。ヨナは、このグローブを手にした瞬間からその作りの良さに感心していた。防刃ベストもそうだが軽くしなやかな素材で造られた装備品は人体の持つ複雑な曲線にも思いのままに対応して形を変えた。それでいて、触れている点の部分の剛性は非常に高く強靭だった。

地鳴りのような足音がすぐ下の階まで迫っているのがわかった。ブルーカラーの娘はあまりの痛みと、出血の影響か蒼白になっていたがその顔からは少しも生気は失せていないように見える。


「歩けるか?」


「うん」


ぶかぶかの衣服に身を包んだブルーカラーの娘はふらふらと立ち上がり、それから一歩踏み出して死体の下半身につまずいて血だまりに飛び込んだ。その間にもアパートの狭い通路を蹴る足音は鳴り止まない。


「ヨナ。・・・おこして」


「ああ」


4階から5階へと駆け上がる足音が響く中、ヨナは彼女をそっと起こして背負うことにした。


「重くない?」


「君を置いていくわけにはいかない」


「無理しないでね」


「わかっている」


「あなたが飛び掛かった時とても怖かったわ」


「すまない」


ブルーカラーの娘は着慣れていないサイズの大きな服の中で不器用に動いて、ヨナの体にしっかりと張り付いた。ヨナの体はやはり温かく、きゃしゃな見た目とは裏腹に肩や背中の周りがとても頑健だったので彼女は内心大変に満足していた。それからすぐに魂が羞恥に支配されてしまうと、全てを誤魔化すかのように自身との話題を巧妙にすり替える。


「旅に出るのね?ヨナ。ドン・・・ほーてみたいに」


「ドン・キホーテ・・・・。ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャだ」


「わたしはそのマンチャよ」


やはり、この娘は奇妙だ。


確かに背負っているはずのブルーカラーの娘からは重さを少しも感じない。出血の影響もあるかもしれないがこのブルーカラーは軽く、加えて、意味のない間違いをわざわざ宣言する。だからと言って、この娘は決して愚鈍というわけではない、この時もただ一度きり、自分ですら話したことを忘れていたような事をこうして覚えているのだ。もし、彼女の言う通り彼女がドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと言うならばさしずめ自分は


「あなたは痩せ馬のロシナンテよ。ヨナ」


ブルーカラーは言葉尻を震わせながらそう言った。ヨナは、ブーツの靴ひもを結びなおして立ち上がり部屋の中を見た。明日の今頃にはこの部屋は街の汚れと共に跡形もなく消え去ってしまうだろう。帰る場所の無い旅、それは、適さない者を容赦なく路辺に伏してしまうかも知れない。同じページを往復する事しか知らない者に新たな物語を見せるかも知れない。


「行こう。君を創造局へ連れていく」


ヨナは平和贈呈局員の殴り棒を伸ばして、膨大な数の空調パイプの内の一本と壁との隙間に差し込んで引きはがした。そして、外されたパイプを自分の身長よりも少し長い位置で取り外して獲物とした。


「すぐわかる嘘」


ブルーカラーの娘はヨナが両手をきちんと使えるようにしっかりと背中にしがみ付いた。足音はすぐそこまで迫っていた。


『この階だ!急げ!!エクスプロイターのセーフティーを解除!』


先頭を行く平和贈呈局員の一人が階段を上り切って通路の角を曲がったのと、ヨナが彼に気が付いたのは殆ど同時だった。仲間の血で濡れた姿に、その背中に背負った仲間から暴いたであろう装備の数々。平和贈呈局員の両目は、エクスプロイターの有効射程内にいる人物へ吸い込まれるようにフォーカスされた。


いたぞっ!


先頭を行く平和贈呈局員はちょうど手にしたエクスプロイターのセーフティーを解除しふところから抜いて構えた。


「い・・・!!!」


どっ!!!!!!


 存在を語る者すら居ない、はるか彼方にある地平線から朝日が昇る少し前、この巨大な街は暗かった。燻る様に光を放つ警告灯の中で、地上の平和贈呈局員たちはこの日何度目かにもなるエクスプロイターの発光を見上げていた。




 ヨナが投げつけた空調パイプだった物は鋭利な投げ槍へと姿を変えて、平和贈呈局員の右肩を貫いた。男はスローモーションのようにゆっくりと後ろに倒れながら引き金を2度引いた。一発は天井に命中し、もう一発は5階通路の手すりを乗り越えて隣の建物の建材を融解させた。


「ったぞ!!!」

「どうした!」

「仲間が負傷!!仲間が負傷!!」


状況不明のままのこのこと現れた2名の意識の外でヨナは散々通い慣れた古アパートの通路を滑るように移動して一気に距離を詰めた。


「・・・ぐ!こいつ!」

『なんだと?!』


環境の変化についていけない者はすべからく死ぬのだ。今までも、そしてこれからも。


 一瞬の放心状態すら許されないこの状況下で後続の二人はまるで頼りにならない様子だった。男は仲間に支えらえながらパイプが突き立てられた方の手を必死の思いで持ち上げてエクスプロイターを構えた。しかし。


「・・・ああ゛っ!あああ!」


刺さったパイプは男が思っていたよりもずっと長かった。


男の目論見よりも一瞬早くヨナがパイプの先端にたどり着いてその尖端を練り潰すように操作すると平和贈呈局の男は恐ろしい悲鳴を上げて再び引き金を2度引いた。放出された二つの熱エネルギーは、彼等のすぐ隣の壁で炸裂して通路の壁を容易く溶かし通り抜けて路上に集結していた仲間たちの頭上で拡散した。


 即座に向けられる新たな二つの銃口に対して、ヨナは素早く引き抜いたパイプを起点にして跳躍し彼等の頭上に躱すことにした。二人の平和贈呈局員はすぐさま反応して眼球と銃口でヨナの姿を追った。だが、通路の照明が僅かに眩しくそれが気になったせいだ。彼等の放った弾は一発も彼に当たらなかった。

それと相反して、自分とそしてブルーカラーの娘二人分のウエイトを乗せたヨナの蹴りは的確に男たちの脳を骨格の内側に叩きつけていた。

ヨナは着地するまでの間にパイプを体中に這わすように振り回して、丁度いい位置にそれが収まると両足の着地と同時に元通りの位置に納めて再び尖端を練り潰すように操作した。男は悲鳴を上げるマリオネットさながら絶叫し、急な階段を仲間たち諸共転げ落ちた。


「ヨナ?あの人たち死んじゃったの?」


「いや」


通路の角に隠れて下の様子を伺うとまた別の平和贈呈局員たちのチームがちょうど駆け付けたところだった。彼らの大きな体は踊り場の手すりから半分ほども上に飛び出して、その体は街の中をゆっくりと対流する発光ガスに今にも飲み込まれそうだった。

手招きしているように見えていたあれは、実際のところ毎晩誰もが寝静まるころに向こうからこちらに向かって押し寄せてきていたのだ。


『いたぞ!上の階だ!』

『撃つな!味方だ!転落してくる3名は味方だ!』

『エクスプロイターは使うな!このエリアは気化レガリアの対流周期と重なる!』


彼等はこの発光ガスを『気化レガリア』などと小難しく呼んだ。ヨナにとってはどうでもいい事だ。


転がり落ちる仲間を避けながら平和贈呈局の男たちが次々と階段を駆け上がる。狭い通路に極めて厳めしい足音と怒号が響き渡る。その多くは見えない位置から発せられていた。音の力によって小刻みに床や壁がビリビリと振動していた。しかし、他の建物同様に正体不明の材質で建築されたこの建物はやはり頑丈であった。


「ヨナ?大丈夫?」


「大丈夫だ」


彼らの体格ならば約一人と半身分の狭い通路。実質先頭の者以外多くがふさがれた状態の視界。誘爆の影響で使用できないエクスプロイター。照明を背中に背負う事によって起こる僅かな視覚錯誤。位置関係上、全ての攻撃に重さを添加することにより発生する膨大なアドバンテージ。

彼らの戦術が誤りだったと認知されるまでのわずかな時間に限り、状況は圧倒的にヨナが有利であった。彼はそれをすべて利用した。



 彼の突きは鋭いうえに照明と重なるその姿はたびたび目の前から忽然と姿を消したかのように見えた。4階の通路との合流地点では二手に分かれた平和贈呈局員たちの待ち伏せにあったが限定的とはいえ開けた空間は、武器に振り回すという一つの選択肢を与えた。


長く頑丈で重い素材で造られた空調パイプは前後左右を強烈にけん制するのにはもってこいの武器だった。ヨナの体を這うように自在に振り回された武器は、十分な遠心力をもって平和贈呈局員たちの肉を打ちのめして骨を粉砕した。しかし、それも彼らが2階にたどり着いた時までであった。


 平和贈呈局員たちの記憶力をも逆手に取りことごとく彼らを圧倒してきたヨナであったが、度重なる検証実験とも呼べる仲間たちの奮闘は彼らを最も効率的かつ有力な対策方法に導いた。素手での掴みかかりだ。

彼等は振り回すには狭く、突くにはあまりにも短すぎる殴り棒を捨てて生まれ持った巨体と両の手で次々とヨナへと迫った。

ヨナは、一番にそれを試みた者に対して額への強烈な突きで応戦した。

男の顎が一気に持ち上がり間髪入れず反対側のパイプの先端がそこに叩きこまれて、続いて、遠心力を乗せた一撃が男の大きな頭を体ごと壁に叩きつけた。


他の者同様壁に沿ってズルズルと倒れる者を乗り越え新たな平和贈呈局員の男がヨナへと迫る。


ヨナは一度引き付けたパイプを鋭く延ばしその先端は再び相手の額に向かって伸びていた。かのように見えた。

味方のてつ(前例・先例)を踏むまいと男は頑健な両手で槍の先端を先読みした。しかし。


「・・・ぐぅ・・・!」


次なる一撃は手元の微妙な操作によって波のように蛇行して進み、目の前の男をすり抜けてそのすぐ後ろにいた者の右目を貫いていた。


この状況を知っていたヨナはすぐさま槍から両手を放して、額を防御するように持ち上げられた両手をしっかりと捕まえた。そして、そのまま男を背負うと同時に思い切り体を伸ばして持ち上げた。

すると、大男の両足がふわりと通路から浮いたかと思えばそれは手すりの上を悠々と飛び越え地上へと落ちた。


人は落ちる事しかできない。


「すごかったわ今の・・・ねえヨナもう一回もう一回」


 予め背負ったブルーカラーの娘は押しつぶされる痛みで一度小さく呻うめいたかと思えば、次の瞬間自分の背中からカタパルトのように空へと打ち出された巨体を見つけると痛みも忘れ嬉々としてそう言った。


「彼等に同じ手は通用しない」


「わたしあんなの初めて・・・さっきの人は死んじゃったの?」


ヨナは相手の気を逸らす狙いも込めて下の様子を確認した。集まった車両からは次々と新たな平和贈呈局員たちが現場へと投入されている。肝心の男は、アパートの壁から随分離れた場所で上半身を起こした状態で、駆け付けた仲間達の制止を振り切り、ちょうど帽子をかぶりなおしたところであった。


「いや」


「そう、よかった」


「頭を下げていろ」


「うん。ごめんね」


ヨナの側頭部を狙った一撃が空を切ったのはそれから一瞬も経たないうちの出来事だった。ヨナは半歩後ろに下がって、用心深く片目を失った平和贈呈局員の出方を窺った。

 彼が目の前の男を投げ飛ばしている間に、目に突き立てられたパイプはすっかり新たな持ち主の所有物となっていたのだ。男はヨナの動きを完全にトレースして巨体を這わすような見事な体捌きを披露した。


下段からの振り上げ、首を薙ぐような横振り、そして、身体を捻った叩きつけからの通路から腕ごと外に出して存分に遠心力を蓄えた横振り。


ッガアアアアアアンッ!!!!!!!!


「!」


動作は勿論の事、この巨大な男が放つ一撃の破壊力はヨナのそれを軽々と凌駕していた。事実、先ほど撃ち込まれた場所などは一部が粉々に粉砕されている。ヨナが万全を期したとしてもああはならないのだ。溜まらずヨナが一歩後退すると、片目平和贈呈局員の男は口元を僅かに持ち上げた。


男は再び前方を強くけん制する動きを見せてヨナへと迫った。

そのタービンのような凄まじい回転から繰り出される縦横無尽の横薙ぎ、抉るようなかち上げ、強烈な振り下ろし。


ヨナはさらに半歩後ろに躱し、身体を限界まで落とし両の拳を構えた。そして、落とした体を一気に伸ばし男の顎に蹴りを放った。


しかし、浅い。


その間も、下の階では大勢がひしめき合うような気配が絶えずしている。

男は僅かに頭部がぶれたまま平然と空調パイプを操った。そして、身長差を利用した斜め上からの回転薙ぎ2連、流れるような動作でつながる倍以上のリーチを誇る横ふり、さらには、同じように屈んでそれを躱した者に対して、厳しい解答を突き付けるかのような突き。


 鋭い突きはヨナの首元を正確に狙いすましていた。彼が初めから虎視眈々と待ち構えていたものだ。ヨナは突きの先端を手の平でわずかに逸らして軌道を変えた。

それから、すぐに次の行動に移ろうとする空調パイプをブルーカラーの娘に着させた制服の裾できつく締め上げて固定した。


 平和贈呈局の男はすぐにパイプを引き抜こうとしたが、突きの動作によって伸びた体にそれだけの力が蓄えられているはずがない。対するヨナは、腰を落とし、必ず訪れる抵抗に備える準備が出来ていた。


 締め上げたパイプから男の闘志が消え去る気配を感じ取ると、締め上げた方の手を発射台にして放たれた強烈な正拳突きが男の顎を捕え、一瞬ふらついた頭には十分に力を蓄えた空調パイプの一撃が加えられた。


随分と後ろに下がってしまった。


そんな事を考えていたヨナが次に目にしたのは、数名の人間で出来た押し寄せる壁だった。


ヨナは咄嗟に人で出来た大波の第一波を躱した。


真っ先にかぶり寄った者はそのようにしてあっさりと躱された。にもかかわらず万事計画通りに事が進んで、早くも勝ち誇ったかのような微笑みを角ばった顔に浮かべると瞬く間に人の波に飲まれて視界から消え去った。通路を覆いつくすように次から次へと人間が押し寄せる。古いアパートは小刻みに振動するだけでびくともしない。


引く事の無い波は、初めからずっと第一波のままヨナを追い詰めた。二人目を躱し、三人目も躱し、いよいよ上の階に逃れるしか術がなくなりつつあった。背中のブルーカラーの娘は状況を理解しつつも弱音を吐かない。押し寄せる波からヨナは逃れた。上へ。するとどうだろう、逃れた先から見えるのは先ほどとまるで同じ景色だった。

今まで倒してきた者らに止めを刺さなかったことが仇となったのだ。


 一時的なダメージから回復した平和贈呈局員たちの目はどこか人間離れした根源的な力を宿しているように見えた。彼等の腕が沢山のうねりになって迫った。背中のブルーカラーの娘が怯えている。ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ、そして、痩せ馬のロシナンテの旅はここまでだ。通い慣れたアパートの通路から一歩も出られないとはなんという結末なのだろうか。この娘の物語にもこんなにも酷い物はたったの一つとして無かったと言うのに。

この街に平和を齎す彼等、平和贈呈局の局員たちはこの日も質実剛健に自らの使命をまた一つ果たしたのだ。


『捕まえたぞっ!!!!!』

『拘束しろ!!!!』

『骨を折れ!骨を折れ!』

『潰せ!逃がすな!』


手も足も、指先も、それがどこにあるのかもわからないような感覚がした。


「痛いッ!!いたいいたい!!やめて!・・・やめて」


ブルーカラーの娘の傷口に大きな圧力が加えられた。彼女は絶叫に近い悲鳴を上げた。ヨナはもう抵抗するつもりもなく身体を脱力させた。不思議と痛みは感じない。そうしているうちに段々と怒号や、悲鳴が遠のいていった。


淘汰、はたまた度重なる選別の末にどこかに置き忘れてしまった彼の記憶が見せたのか、それとも、あのブルーカラーの娘が紡ぐ物語の一つにあったのか、薄れゆく意識の中で彼はあるものを見た。


「・・・星だ」


奇妙な事に、組み伏せられた通路の冷たい床から見上げる天井は空のように高く見えた。彼等は、平和贈呈局の者たちは文字通り姿を消していた。


ヨナがそっと手を伸ばしてみるが届かない、空に向かって打ち上がる星はある程度の高さまで打ち上がると七色の輝きを放って砕け散った。それは彼にとって今まで一度も見たことの無い光景だった。

その七色の光の周りからさらに何かが生み出された。新たに生み出された物は爆発的に広がって空間を飲み込んだ。平和贈呈局の者たちも、ヨナも、ブルーカラーの娘も、この古いアパートも、街すらも飲み込んだのかもしれない。


ヨナはスローモーションのようなその光景をじっと観察していた。ふと、気が付くと頬が熱い。

これは、エクスプロイターの銃口だ。




『非常時対応!!!各員!非常時対応!!』


『地下に動員されている局員たちを呼び戻せ!!!』


『熱い・・・!!どうすれば!!』


『神が舞い降りた!!ああー!!神が!!』








ヨナ。ヨナ。









酷い耳鳴りの中で、彼は自分の名を呼ぶ声を聴いた。

彼をそう呼ぶ者は一人しかいないし、彼の名を知る者も自身を除いて一人しかいなかった。


「ああ」


「ヨナ!ヨナ!ああよかった!立てる?大丈夫?」


次第に鮮明になっていく彼の視界は極めて妙なものだった。仮に自分が随分長い間眠りについていたとして、夜が明けていたとする。もしそうなら照らされるのは上側のはずだ、しかし、この時彼を照らしていたのは明らかに下側からの光源だった。

最後に見たあの星の姿も無く、覆いかぶさっていたはずの平和贈呈局員たちは狭い通路の隅の方で燃えていた。手すりの上からはブルーカラー達は勿論の事、局員たちの怒号や悲鳴も聞こえていた。突如として現れる非日常を前にしてヨナの心にひょいと現れたのは、共感、それと喜びに近い物だった。


 彼は手すりに手を着いて立ち上がろうとした。すると、手の皮の表面が急速に泡立つ感覚がした。彼は咄嗟に手を引いて、今度は足と体の重心操作だけで立ち上がり、いつものアパートから街の様子を見渡した。

まだ、夜も明けていない巨大な街は、すっかり炎に包まれていて、遠くで見えているビルの隙間から真っ白な炎が時折ふき出している様子は壮観そうかんそのものだった。

人々は逃げまどい、火に巻かれて。のたうち回る平和贈呈局員を数名のブルーカラー達が取り囲んで、なにが始まるかと思えば着込んだジャケットを必死に振り回して消火活動に勤めていた。所々で吹き上がる熱の柱に立ち向かうこの街の住民たち。彼等は皆生きていた。


「ヨナ・・・怪我してない?」


「ああ、大丈夫だ。君は?」


ブルーカラーの娘はぶかぶかの上着と体との隙間を両手で潰してヨナを見た。彼女の肌は、火で照らされてつややかで健康そのものに見える。


「大丈夫」


「そうか、行こう」


「うん」


幸いにも、ヨナの体にも目に見えるような不調は無かった。


「歩けるか?」


ヨナがそう尋ねるとブルーカラーの娘は申し訳なさそうに首を横に振った。これは否定を現す態度である。

狭い通路、平和贈呈局員だったものたちが音を立てて燃え上がる中、ヨナはもう一度ブルーカラーの娘を背中へと乗せた。自分も、ブルーカラーの娘もぐっしょりと濡れていた。


「この人たちのおかげで私たち助かったのね?ヨナ」


「ああ」


「この人たちが壁になったのよねヨナ?」


「そうだ」


「そう・・・よかった」


「ああ」


ヨナは平和贈呈局員たちの亡骸を一つ一つ乗り越えて行った。あたりには、形容しがたい酸味の利いた不快な熱気が立ち込めていた。それはきっと、燃焼した気化レガリアが発する臭いに違いない。


背中でブルーカラーの娘が蠢いて、ヨナの耳元で囁く。


「水路が漏れたのね?だって、わたしたちこんなに濡れているもの」


「ああ、そうだ」


「そうね、きっとそうね」


そう言い残して、ブルーカラーの娘から一切の力が失せた。ヨナは、彼女の頭が後ろにのけぞってしまわぬように背負いなおした。ぐっしょりと濡れた互いの衣服からは、白い蒸気が音も無く昇っていた。通路の脇を寂しげに流れる小さな液体の群れからも同じように白い蒸気が音も無く立ち上っていた。階段を伝う様に下へ下へと流れる液体の群れを追って、ヨナも下へと向う事にした。




 ヨナは、住んでいるアパートの周りにこんなにも野ざらしの人間が大勢いたのだという事実を改めて思い知った。それらが一体どこからやってきてどこへ行くのかを彼は知らない。

メルロック・フェイカーは、建物が立ち並ぶ通りから少し離れた場所に停めてあった。搭乗者の持つ起動キーを認識するまで完全に姿を消す特殊なボディは彼の大いなる秘密を隠すにはもってこいの物であり、移動手段としても使用できるそれは、今最も重要な要素の一つだった。


燃え盛る通路と悲鳴の前を影のように横切って、建物の角を何度か曲がる。

この先だ。


「まって・・・」


耳元で囁くような声と一緒に、街の騒ぎが鮮明になる。


「もう少し休んだ方がいい」


ブルーカラーの娘は、もそもそと動いてから今度は逆側の耳に向かって密談するような口調で言う。


「とても、嫌な臭い?がするわ。ヨナ。その角の先からよ」


「匂い?」


「ええ。そんな気がするの」


ヨナは壁に背中を張り付けるように寄りかかって耳を傾け、鼻を利かせた。


今日の街は異常だ。

得られる情報全てが異常に思えて、彼女が言う嫌な臭いという奴がいったいどのことを指しているのかすら分からない。彼は今度はゆっくりと覗き込むように角の先を見た。

昼間よりも明るく照らされた狭い路地には巻き上げられた沢山の火の粉が降り注いでいた。目を凝らしてみると火の粉はメルロック・フェイカーの透明な車体の形をうっすらと浮かび上がらせている。


「大丈夫だ。すぐに屋根のある場所まで行ける。そこには、君にもあるんだ」


ヨナはタイミングを計って出来るだけ降り注ぐ火の粉が少ない間に進もうとした。


「まって・・・!違うの」


そんな彼をブルーカラーの娘は止めた。


「違う?」


「そう、とても嫌なにおいがするわ」


彼女の言う通り、辺りには酷い匂いが立ち込めていた。その匂いの内のどのことを言っているのかヨナには分らない。彼はもう一度メルロックフェイカーの周りを凝視したすると。


「ね?ヨナ。変でしょうあそこ・・・なにかあるわ」


「見えている」


娘が言うのは透明になっているメルロック・フェイカーの事だろう、しかし、この時ヨナもまた次第に明らかになる周辺の異常に気が付き始めていた。

注意深く目を凝らさなければ到底気が付かない。完全に透明になっている空間のそばに二つ、歪んだ透明な人影が確かにあった。


数秒の短い間様子を伺っていると、どこか近くで大きな爆発が起きた。巻き上げられた大量の火の粉が再び透明な空間に降りそそぐ。

すると、一瞬、黒い薄布で締め上げられた屈強な体が姿を現したかと思えばまた消えた。

形状からしてそれは女のようだった。


「なんだ彼女たちは」


「・・・ヨナ向こう」


「わかった」


このブルーカラーの娘にどんなあてがあるのかは知らない。しかし、彼はその言葉に一旦従う事にする。

元来た路地を少し戻り、煙が立ち上るいくつものグレーチング(街の排気を促すための埋め込み式の格子状の蓋)の内の一つを彼女は指さした。


先入観を否定して観察すると、明らかにそれひとつのみ痛みが激しく摩耗しているように見えた。まるで、それだけ使かのように。


ヨナは格子の一つに空調パイプを差し込んだ。


「まって・・・!」


背中のブルーカラーの娘の心配をよそに、街の者らはやはりそれどころではない。誰も、自分たちの事など監視してなどいない。しかしながら、ヨナは指示に従い少しの間待つことにした。


「よさそう。ヨナ、行きましょう」


「わかった」


街を封じ込めていた蓋の一つが取り払われ、狭く小さな穴が開いた。

ヨナの背中に強く張り付く力が加えられたので、彼は素早く穴へと体を滑り込ませ元通りに蓋をした。この時、彼等を知る者はだれも居ない。




 親から子へ、友人から友人へ、隣人から隣人へ、彼等ブルーカラー達の間に脈々と言い伝えられている呪まじないのようなものがある。


暗闇には恐ろしい『肉舐め』が潜んでいる。


 街の地下に張り巡らされた気化レガリアを無限に効率よく街中へと循環、拡散させるための言わばこの巨大な街の血管とも呼べる物の中を、それが放つ僅かな光を頼りにヨナは進んでいた。


構造的な類似性が高く、網目のようになった通路は一人で通るにはすぎるほどに広く、両手を広げたとしても壁と壁との距離にはまだまだ十分な余裕があるだろう。湿った柔らかい通路の中央には黒く分厚い染みに大部分を覆われた金属製の轍があって、仄かな光の中、それらは所々で見え隠れしていた。


「・・・ヨナ。もう少しで下に続いてる場所があるから落ちないで。つかまれる場所が・・・あるから」


地上の何処よりも蒸し暑いこの場所でブルーカラーの娘は声を震わせてそう言った。彼女の言う通り、進行方向の少し先は暗闇に塗りつぶされてまるで空間に大きな穴が開いているかような印象を彼へと与えた。


 随分前から、背中のブルーカラーの娘は2枚重ねたジャケットの中から出てこない。しかしながら、彼女の指示は、常に対流を続ける発光ガスとそれが完全に失せた時に必ず訪れる暗闇を除けば実に正確なものだった。


ヨナは立ち止って、優先度の低い要求を無視することにした。


「・・・・ヨナっ?」


彼が足を止めた途端、背中のブルーカラーの娘は不安げな声を上げた。


「ここから、ガスが切れる」


「・・・ッ」


告げられた事実に背中のブルーカラーの娘は一度短く息を吸い込むと、建物の建材のように固くなって背中を締め付けた。

間もなくして、足元を這いずるガスが後ろへと抜けてゆき、この日、何度目かになる暗闇が訪れた。


 靴底に感じる圧力よりも背中に感じる圧力の方が強い、まるで横になって居る時のようだ。加えて、この蒸し暑さ、暗闇、あの部屋で目を閉じて勤務開始時間を待つ時間にとても似ていると彼は思っていた。ただし、待つことによって訪れるものはまるで異なる。


「ヨナっ・・・ヨナ・・・!動いちゃだめだよ・・・!」


「わかっている」


ブルーカラーの娘はこの時もまた体温を一段高くして、言葉尻を震わせながらそう言った。つま先から段々と熱い何かが体を這いあがってくる。ブルーカラー達が肉舐めと呼ぶ存在だ。


それはまるで熱い湯に体をつける行為に近しい感覚であったが明確に異なる部分がいくつかあった。先ず一つ目に、この肉舐めという存在は鋭い刃のような物で体を突き刺しながら這い上るため痛みを伴う。そして、二つ目に、これらは人を食らうという。


 ヨナはこの時も彼女の言いつけを守りじっと身を潜め、体中をぐちゃぐちゃとはい回る存在を好きにさせていた。

彼からは、はるか遠くからこちらへと向かって来ている終焉が見えていた。


「・・・・・・・ッ・・・ヨナ・・・・!」


そうとも知らず、2枚重ねたジャケットの中でブルーカラーの娘がそう囁くと、肉舐めは機械的に彼女へと殺到した。そして傷口を見つけるとそこに鋭い刃を突き刺して餌なのかそうでないのかを確かめた。


そのあまりの激痛と恐怖にブルーカラーの娘は喉の奥で小さな悲鳴を上げた。

微かだが、背中の肉が小刻みに震えはじめ、足元からおびただしい量の援軍が背中に向かって送り出されるのがわかった。こころなしか背中も重く感じる。


「もう少しだ」


「・・・うん」


・・・・・・ザザザザザ・・・・・・・。


単純な存在には厳格な掟が存在している。彼等はそれを決して破らない。背中のジャケットの中は火でもつけたかのような熱を帯びていた。声を震わせながら、ブルーカラーの娘が囁く。


「・・・怖いよぅ」


彼女はまた泣くかもしれない。かけがえのない日常だ。


「空腹ではないか?」


ヨナがそう尋ねると彼女が何らかの方法を用いて空腹だと答えたので彼はポケットの中の青い合成飼料を一つ取り出した。

ぶかぶかの裾から小さな手が現れてそれを受け取ると、まもなく背後でそれをかじる音がした。


「こんなものをいくら食べたって、怖いものは怖いのよ?ヨナ。・・・・ねえもうひとつちょうだい?」


「わかった」


2枚目が完食されたのを見計らい、ヨナは垂直に続いている通路のフラップに足を乗せてゆっくりと降りて行った。すると、どこかで沢山の人間の悲鳴が聞こえてきた。なんてことはない、普段は決して観測される事の無い対流するガスや、肉舐めとあれらは少しも変わらないのだから。

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