14話から23話 ブルーカラーコンプレックス

この街は病んでいる。


今朝の事だ。生活に行き詰ったであろうブルーカラーの一人がこの食料分配局の屋上までよじ登り、何かを叫んだかと思えば施設の前に集結していたブルーカラー達の群れめがけて飛び降りた。そして、巻き込まれた数名と共に死亡した。


彼等は未だに放置されている。


活動を停止した体は物と同じだ。それはこの朝食と同じだ。と、ヨナは思った。

昨日の昼食に加えて、今日の朝食も分けてくれと哀願する強欲な男をヨナは無視した。自分は同じなのだ。他の局員たちと同じなのだ。彼等は誰一人、朝食を残さない。

彼は食事の後、呆れる程うんざりとした大勢の気配にほかの職員たちと共に溶け込んでいった。シャッターの向こう側はどんよりと暗く、時折叫び声が聞こえるばかりであった。8時を知らせる鐘の音が街中に鳴り響き、食料分配局の窓口には数えきれないブルーカラー達が群がった。あるものは男、またある者は女だった。片方の靴を失った者、小刻みに痙攣する者、怠惰の代償に片目をくりぬかれた者、ブルーマジックの禁断症状が現れている者、ヨナを手製の襤褸ぼろナイフで脅そうとして躊躇ちょうちょし止める者や病に体を犯されている者も大勢いた。


どれも、どこかで一度は目にしたような気がする。そんなありふれた救いようのない落伍者たちだ。


「次の方」


次の者はもうとうの昔に花盛りを過ぎたブルーカラーであった。彼女は暗く厚手のローブの中で幾分か申し訳なさそうに身じろぎした後、ヨナの窓口の前の椅子へと腰を下ろした。


「使用済みの配給カードを返却してください」


「・・・ええ」


「本日は配給を希望されますか?」


「ええ、ぜひお願いしたいわ」


「何か差し出せる貴金属・証券・または権利書があればご提出ください」


ヨナは返却された配給カードを管理機械へと飲み込ませ、台帳と出力されたレシートを照合し、必要事項を記入した。そんな事には目もくれず、ブルーカラーの女は一間ひとま若々しく周囲を不快にさせる声を上げる。


「いつも言っているでしょ!・・・うちにはそんなもの何一つないわよ・・・!おねがいよ・・・!もう限界・・・なの?・・・え?」


ヨナは発行された配給カードを女の前に差し出して長蛇の列を形成している人混みの先頭の者を呼んだ


「次の方」


ブルーカラーの女は差し出されたカードとヨナの冷え切った表情を交互に見てから、所在なく放り出されたままの赤い配給カードを懐の奥深くにしまい込み、暗いローブの中で小さく頭を下げた。


「・・・ありがとう」


「次の方」




 一日の終業を告げる鐘の音が近づくとヨナは一度座りなおした。鐘の音が鳴り響いたのはそれから数名のブルーカラーに配給カードを渡し終えた頃だった。

食料分配局の窓口のシャッターは一斉に閉じられて、向こうからはまだまだ大勢の気配が感じられた。小さな入り口から一日という時間をかけて補充され続けたブルーカラーたちは、今日も食料分配局のエントランスホールに充満していて、これから時間をかけてそれぞれの居場所へと帰るのだ。そこに必ずしも屋根があるとは限らない。


 ヨナは台帳とレシートを整理し帰宅の準備を整えた。無駄話をする局員など当然どこにも見当たらない。彼は無意識に例の強欲な男を探した。この日、ヨナは残り物を彼に渡さなかった。しかし、かすみのようにうっすらとした心配をよそに例の強欲な男は誰よりも早くその場から姿を消していたようだった。


 食料分配局の前ではこの日も小さな人だかりが随所に出来ていて、ホールに充満していたブルーカラーたちの放出も完全には終わっていなかった。ただただ、通り過ぎていくだけの彼らの顔の中にヨナはどこかで見たような顔を見つけて、間違いを証明するためだけに一瞬立ち止まった。


「・・・まさか」


奔放に揺れる汚らしい人影の隙間からちらちらと覗く顔に向かって、ヨナは一歩また一歩と歩み寄った。見開かれた瞳は黒々としていて、あのブルーカラーの娘の頭髪のように艶やかだった。投げ出された手の指は何かにしがみつくような形のままで硬直し、折りたたまれた足の上にはぐったりと体が乗っていた。


「なぜだ」


この場に集まった人々をずっと図々しくさせたのは、どこか普通ではないストーリーを互いが共有していたためだ。ヨナの存在に気が付いたブルーカラーの男は、小汚い編み帽子を外して、僅かに髪が残された油頭を夜風にあてると囁くように言った。


「赤色をもらったらしくてよ。それをやられちまったんだ」


赤色の配給カードもブルーカラーの死も、どちらも、それほど珍しい訳ではない、しかしながらそれを略奪され、さらには命をも奪われた事がこの悲劇の凄惨さをほんの僅かだけドラマチックなものに仕立て上げていた。


「みろよ」


別のブルーカラーが遺体の手から布きれを拾い上げ広げた。使い古されたボロボロのハンカチのようだった。それには、ただの円に黒い点が二つ、その下に小さな円が描かれ、ぐねぐねとよれた書体で文字が書かれていた。


『まま』


ブルーカラー達の殆どは文字が書けないし読めない。しかし、そんな彼等にも親から子へとまじないのように伝承され続けている言葉が存在している。その一つがこれだ。まま。これは、母親の事だ。


***


 時間は、明日に近づきつつあった。


人類が築き上げたこの巨大な街の、最も東に位置する場所、ここは予備地区と呼ばれるほとんど見捨てられた場所だった。


「・・・まさかな。見つかりっこねぇ」


盗み、殺し、その常習犯である男は、ここ予備地区に人が寄り付かない事を知っていた。この巨大な街で最も昼間の光を蓄えるこの地区は生きている物に対して等しく毒なのだ。そして、この男はそれを良い事に悪事に手を染めてはこの地に逃げ込み昼間まで身を隠し、この街の住民が活動を始めると自らもそれに加わった。

 

 どんよりとし薄っすらと、街の中央に向かって流れていく発光ガスの中には、それこそ言葉を交わしたことは無かったが似たような境遇の顔なじみもいた。


「よっ。今日は一段と暗いな」


事実この日の予備地区は消えかけの街灯がいくつか点いているだけであった。


男は盗っ人らしく、悪事を働いた後は勘も冴えていてこの場所へたどり着いたときの違和感に当然気が付いていたが、建物の角を何度か曲がった頃にはもうすっかりその事を忘れていた。


「・・・」


薄らいでいく発光ガスの中で見つけた男はブルーカラーの男で年老いてなびていた。


「チ・・・無視かよ」


もし、この運命的な出会いを果たした人物が若い女であろうものならばすぐにでもと画策していた男の気分は一層悪くなった。それと同じくして彼を取り巻く状況も一層悪くなっていた。


「・・・どこだ。遠くへは行っていないはずだ」

「探せ」

「応援を呼ぼう」

「そうだ。そうしよう」


・・・平和贈呈局だ。奴らがこんなところに現れるなんて。


男が建物の影に身を隠し、訪れたしじま(無音・静寂)と共に動き出した時だった。


「・・・きゃっ・・・!」


「・・・おいおい」


こんな時に間抜けな奴だ。この間抜けが女でなければ彼はすぐにでも顔を殴りつけているところだ。


突然闇から現れぶつかってきた女は目を剥いて男を見た。その背後からは数名のブルーカラー達がぞろぞろと続いている。異様な光景に呆気に取られていた男が何かを告げるよりもずっと早く、後からやってきたブルーカラーの声が響く。


「おい、無事なんだろうな?」


低く冷徹なその声に女は恐怖しているようだった。彼女は抱えた荷物をぎゅうと締め付けて答える。


「・・・足、挫いちゃったみたい」


見れば他のブルーカラー達も一様に顔を青ざめて恐怖しているようだった。よく研いだ刃の上を素足で歩くような危うい空気がその場に流れていた。


「・・・」


「お願い。ソロモン」


女が荷物を差し出す、すると衣服の隙間から白い素肌が見えた。


あの女を買おう。


「・・・」


次の瞬間、一部始終を見ていた男の脳裏によぎったのはこの状況下で、あろう事か大声を上げた女の愚かさに対する怒りではなく、脳のどこかに置き忘れていた勿体ないという奇妙な感情だった。


「・・・ごめんね」


簡単な遺言を残し一瞬で弾けたブルーカラーの返り血を男は熱いと感じた。騒ぎを聞きつけたのか、混乱する頭が聞かせた空耳だったのか、男は笛の音と共に近づく幾つかの足音をどこか遠くで聞いていた。浴びた血汐は熱く、これにはもう全くの興味が湧かなかった。


 茫然自失、ただその場に立ち尽くしていた男のこめかみに冷たい何かが押し当てられた。遠のいていた男の意識がほんのわずかに覚醒する。


あれは、平和贈呈局あいつらのエクスプロイターだ。ブルーカラーが何故?


・・・ジウウウ・・・・ぶぶぶッ!


「あああっ!!ああああ!!!!」


あれではない!これだ!


射撃後間もないエクスプロイターの銃口は男の肌を音を立てて焼いた。冷たいなどと全くの錯覚だ。溜まらず男は跪いて両手を頭の上でしっかりと結んで掲げた。


「助けてくれ!助けてくれ!お願いだ!」


男にはこのエクスプロイターの持ち主の顔が、まるで死体のように熱を失ったままだったような気がした。灰色の銃口が再び男のこめかみに押し付けられた。引き金にはすでに指が掛けられていて、男は恐怖のあまりその指の先にあるであろう持ち主の顔を見ることが出来なかった。


「・・・哀あわれだな」


やがて、一度小突くように動いた銃口が離れ、それを追いかけるように他のブルーカラー達も足早にその場を立ち去った。


これらは、一瞬の出来事だった。


男の心臓は胸部を突き破って今にも飛び出してきそうな程に凶暴な膨張と伸縮を繰り返していた。気味の悪い鼓動と、追手の足音。男はそのどちらも都合のいい幻という事にした。


「みつけたぞ」


男の目の前に自らの死が立っていた。それが自らの体の自由を奪うのだ。それでいて男の眼は暗闇を克明に映し出した。


彼が生き残るための最後の道しるべ、神よ。


逃げ道はどこだ!?


どこにもない。


 狭い路地を汚した血の染みは早くも薄れてきて、月光が照らすそれは仄かに青色を帯びていた。3人いる平和贈呈局の男は上着に片手を差し込みエクスプロイターを抜いた。


「あんなものを盗んだところで、明日の食料がまかなえるわけではないだろう?君らに扱えるとも思えない、でも盗みは盗みだ。仲間の場所を教えれば許してやろう」


男の勘はやはりさえ渡っていた。

自分は運悪く、ブルーカラー共の悪事にたまたま巻き込まれ、さらには、たまたま連中が逃げるのを手助けしてしまう形になってしまったのだ。都合の悪い偶然が重なるなど滑稽だ。


「・・・くくく」


「どうした、ほら、食糧だ。答えればやるぞ」


男は平和贈呈局の男が差し出した青い合成飼料を獣のような動きで奪い去り貪り食った。


「おい!」


「まて!大したことない・・・もっと欲しいだろういうんだ仲間たちの場所だ」


「ああ・・・ああ・・・・もっと寄越せ」


「おまえ!」


「まあ待て」


平和贈呈局の男が二つ目の合成飼料をポケットから取り出した時だった。




ピィー・・・・・。ピィー・・・・。




どこかから笛の音が聞こえて来た。3人の大男は操られるように背筋を伸ばして、笛の残響が消えると全く同じタイミングで男を見おろした。それは最優先事項が変わった事を知らせる合図だった。平和贈呈局の一人は取り出した合成飼料を元に戻して、その代わりにエクスプロイターを抜いた。


「終わったな」


男は構えられたエクスプロイターに向かって哀願した。


「まて!待ってくれ!おれしってるんだ!」


「いいや。それは、嘘だな。なぜかな・・?わかるんだよそういう奴がね」


男の哀願空しく、引き金は容赦なく引かれた。




 予備地区は見放されていた。自らを最も尊い存在、人間の正当な血統だと主張する者らからも、局員からも、また、ブルーカラー達からも。建物の影や、路地裏などは月の光にすら見放されかけている。2度目になる発砲は弾ける血によって隠されなかった。平和贈呈局員のエクスプロイターは大きく的を外れ、建物の壁に命中し未知の技術で作られた建材をどろりと融解させていた。


「おまえ・・・!」


「君に聞きたいことがある」


「こいつっ!」


「内通者?!ほかにも仲間が居たのか!」


 背後の二人がエクスプロイターを構える。

二つの銃口は砕けたガラス片と共に夜空から降ってきたヨナへと向けられていた。

いち早く攻撃性をあらわにした後ろの二人と異なり正面の男は全く違う事を考えていた。


近すぎる。


「待て!俺に当たる!」


 正面の大男が怒鳴ると2丁のエクスプロイターに戸惑いが生じた。ヨナは暗闇に訪れたその一瞬の隙をついて、大男の側頭部に鋭く腕を伸ばした。肩越しに伸ばされた腕は早く、初めその行動の目的がなんであるのか彼以外わからなかった。


「ああ!!なんだっ!!これは!」


「グアアアア!!」


正面の男は、苦しそうに悲鳴を上げ出鱈目にエクスプロイターの引き金を引いた。打ち出された弾はヨナの思惑通りに街の建材を幾度か融解させる。


「ああっ!!ああ!ああ!・・・・耳だッ!!!」


暗闇から顔めがけて飛んできた仲間の耳を乱暴に地面に叩きつけると、平和贈呈局員の大男は情けなくそう喚き散らした。どんなに屈強な人間でも何かを失うと同時に、まるで別の生き物になったかのように弱くなることをヨナは知っていた。失うものは何でもいい、最も手近なものは体の一部だ。自分の物であれば尚効果がある。


「武器を持っているぞ!」

「そいつから離れろ!早く!」


仲間の二人がそう叫んだが、そのせいで、男は目の前の小男よりも背後が気になって仕方が無かった。


「やめろ!撃つな!」


平和贈呈局の男は無意識に大きくなってしまった声に苛立ちを覚えた。二人の仲間はエクスプロイターをしまって腰の折り畳み式の殴り棒を構え直した。彼等がその行動に掛けた時間だけヨナは先のステージに進む。ヨナは手に持った鋭く割ったガラス片をエクスプロイターが握られている腕に突き立てて上腕部の骨に着いた肉を削り取るように持ち上げた。


「放すんだ」


平和贈呈局員はあまりの痛みに酷いうめき声をあげて、少し遅れてからエクスプロイターを地面へと落下させた。ヨナはそれを蹴とばす。

腕を押さえて崩れ落ちる男の肩越しに二人の大男が見えた。一人は棒を振り上げてこちらに向かい、もう一人はヨナが蹴ったエクスプロイターの方へと向かう。

ヨナはこちらに向かって来ている方に向かって行き、相手が迎撃態勢に入ったのを見計らうと手にしていたガラス片を投げつけた。耳、さらには生々しい仲間の血が付着した鋭いガラス片。彼等平和贈呈局の全員が瞬間的な記憶に優れていることをヨナは知っていた。

男は顔めがけて飛んできたガラス片を避ける為に体制を大きく崩した。それから、しまったと口にする代わりに手にした殴り棒をめちゃくちゃに振り回した。が、そこにヨナの姿は無い。


ヨナはいつものように天性の殺戮センスを存分に発揮して、棒を振り回す大男を初めから無視して、エクスプロイターへ飛びつこうとするもう一人の元へと向かっていたのだ。

暗闇にて、男の視界は狭窄きょうさくし最も危険な物しか視界に入らなくなっていた。男の評価は一部で正しく、また、一部で過ちであった。


 男の手がエクスプロイターに伸びるとほとんど同時に、彼の顎は強烈に蹴り上げられた。首が完全に反り上がり、重く大きな上半身が僅かに浮くほどの威力だった。男の体は、死体や食料を詰めた袋のようにどさりと地面に落ちて動かなくなった。


そうして、ただ一人残った無傷の男が戦う姿勢を整えたころにはもう全てが終わっていたと言っても過言ではなかった。


「動くな。君を撃ちたくない。仲間を連れて。ここから去ってくれ」


平和贈呈局の男は、ヨナを鋭く睨みつけた。それは彼に出来る最大限の抵抗だった。




 ふらつきながら狭い路地を行く3人の平和贈呈局員たちはまるで壁そのものがゆっくりと遠ざかっていくような印象をヨナに与えた。床に落ちた物も含めてエクスプロイターは全て彼らが持っている。

ヨナはこの図々しい同僚であり、殺しの容疑者でもあるこの男との話が彼等に聞こえなくなる距離までその後姿を見送った。


壁のようなの男の左肩が建物の角へ吸い込まれ他の者もそれに続いた。それを見届けるとヨナはまず初めに男に忠告をしようとした。しかし。


「アアアアッ!!」


男は足元に転がっていた殴り棒を拾い上げてヨナを後ろから奇襲した。振り向きざまに加えられた一撃はヨナの頬に命中し皮を引き裂いて鈍い音を立てる。


「・・・・ハッ・・・ハッ!」


汗でまとめられた毛、見開かれた両目、荒い呼吸。これらの次に決まって訪れるものを彼は知っていた。今回、それが訪れる必要が無い事も。


「もう大丈夫だ。君が盗んだ配給カードは追跡されている。長く持っていない方がいい」

「大丈夫?大丈夫だと?!なにがダイジョウブだ!なんだってんだ!」


男は手にしていた棒を思い切り投げつける。大きな音が建物の壁に反響したが、ヨナの言う通り、帰ってくるのは木霊のみであった。男はヨナの言葉に従いすぐに配給カードも捨てようとして躊躇ためらった。男はこのまま逃げてしまおうかとも思っていた。しかし、出来なかった。男の体は不思議な感覚に捕らわれていたのだ。それがいったい何であるのか、今までの経験では計れない奇妙な感覚だった。

その発生源である同僚の男がゆっくりと口を開く。初めて会った時と変わらない落ち着いていて、感情がまるで感じられない口調で言う。


「俺が担当したブルーカラーだと知っていてやったのか?」


ヨナの問いを受けて、男は脳にアドレナリンが回り全身の肌がいっそう汗ばむのを感じた。もともと死に掛けのブルーカラーの女を手にかけるのとはわけが違う、目の前の人物はつい先ほどエクスプロイターで武装した3人を文字通り圧倒した人物なのだ。男は、奥歯の震えを押さえるだけで精いっぱいだった。


「俺はそれだけが知りたいんだ」


完全にこちらを振り向いた同僚の頬からはドロドロと血が垂れて、表情はいつものように悲し気で、目元は完全に冷え切っていた。彼は慎重に言葉を選ぶことにした。


そして、「俺がそんなこと知るかよ」と、言った。


その言葉を聞いて、ヨナは特別な反応をしなかったように思えた。


「そうか、妙な質問をしてすまなかった」


「すまなかった?」


「君は監視局の人間なのか?」


男は思わず破顔した。


「俺が監視局なわけねえだろ。あんなもんは存在しねえ!俺たちを体よく利用するためのでっち上げだ!・・・お前はじきに死んじまうよ」


男は汗で固まった頭髪を乱して唾をまき散らしながらそう言った。

ヨナは、もうこの人物と会うことは無いであろうという確信のようなものが意識のどこかに在った。その根拠は無い。


「そうかもしれない。中心部までは遠い、乗っていくか?」


「いいや遠慮しておくよ」


彼は生まれて初めて友情の香りを吸い込んだ気がしていた。


 ヨナは地区の外れに停めてあるメルロックフェイカーへと足を向けた。もう時間はない、彼の日常と言える物は自分自身の手で叩き壊してしまったのだ。


「なあおい!」


路地を抜ける手前で背後からあの男の声がした。ヨナが振り返り男が続ける。


「悪かったよ」


「なら初めからしない事だ」


***


静けさ。


しばらくの間、聞こえてくるのは磨り減ったブーツの足音のみであった。彼の時計の針は2時を指していた。

メルロックフェイカーは地区の外れ、がらんとした空間を縦に幾層か連ねただけの建築途中の建物の影に停車してあった。他の建物と比べて特に飾り気がなく、巨体の多くが空間で占領された実用的な建物は、ヨナの精神を僅かだがなだめていた。


 平和贈呈局員と共同の担当者としてこの地に訪れた際はまるで気が付かなかったが暗い区画で巻き起こるささやかな旋毛風つむじかぜを目で追ってみると壁や街の一部と同化して動かないでいるブルーカラー達を見つけた。彼等は、干からびた食材や、死体や、食い終えて何度も表面をしゃぶられた骨付き肉の骨よりもずっと痩せていて、街の影にぼんやりと浮かび上がるその姿は10年も前に世界の謎を全て解き明かしてしまったかのように寒々としていてつまらない様子だった。


 ヨナは、近頃すっかりストックされた状態になっている青い合成飼料をいくつか取り出して手近な建造物の上に置いた。彼等はピクリとも動かなかった。恐らく死体なのだろう。


 離れた所では隣の地区から引き込んだ動力を存分に消費して一帯が昼間のように照らされていた。偶然にもこの日、この時刻に、この地区で発生した小規模だが重要な盗難事件に対応するための仮設対策本部も設けられていた。

集まった平和贈呈局員たちはこれから、めくれ上がった地区の居住プレートから『クルード』への侵入を果たす準備をしているようだった。クルードは地上に収まりきらなかったブルーカラー達が住まうこの街の地下空間だ。

今現在、彼等から自身へ向けられるべき意識、その低さ、ずさんさ、を観察すれば、夜を徹してブルーカラー達の領域にまで侵入して盗品を追跡するという事がどれほどの大事おおごとなのかは推測に容易い。実際ほとんどの者はヨナの存在など眼中になかった。


 メルロックフェイカーの停車位置が近づくと、持ち主の持つ識別鍵しきべつかぎと連動して暗闇の中から重厚な車体が下から浮かび上がるように姿を現した。ヨナが指先の第一関節にフレームの冷たさを感じた時、ふと誰かに呼ばれたような感じがあり、彼はその感覚に従って眩い光源の下騒々しく動き回る平和贈呈局員たちの方に目をやった。

大男たちが荷物を運び、手にした青写真を仲間と覗き込みルートを再確認し、装備品の点検を行っている中で、3名の平和贈呈局員が停止したままこちらをじっと見ていたのだ。

規則的に回転する赤い光源が彼等3人を闇から暴き出して、次はいたずらにヨナの前を横切った。何度か。ヨナも、彼等もただ動きを止めて互いに互いの姿を憐れんでいるような時間が数秒続いた。めくれあがった地面の隙間に挿入されたパワージャッキがうなりをあげて、ゆっくりと広がる隙間からは人間の悲鳴のような音がした。


 その音を聞いた3名の平和贈呈局員たちが、全く同じタイミングで彼らの日常に戻ったので、ヨナも自らの車に乗り込んだ。ブルーカラーが待つあの部屋へと戻る途中、ヨナはある出来事を目にしていた。それは、名前も知らない中年の小男が平和贈呈局のチームに追い詰められて射殺されたところだった。

その男は運命に立ち向かう老人のように勇敢に自らの死へと立ち向かい、そして、あっけなく敗れさったのだった。あれこそが、きっとあれこそが、自分たちに相応しい最後にちがいない。彼は取り留めもなくそう思った。




 はやる気持ちとは裏腹にヨナの足取りは重かった。その理由が彼には分らない。この時も街はいつもと変わらない、ビルとビルの隙間から見える不気味に発光するスモッグは今日もヨナを手招きするように悶えていた。


遠くで聞こえる平和贈呈局員の笛の音、それからサイレン。


気温とは打って変わってひんやりとしたドアノブ。


ガチャ・・。


「おかえり。ヨナ」








「ただいま」


ヨナはまず初めに眼球だけを動かして部屋の変化を確かめた。天まで伸びる円柱状の柱の隣に新たに何かが書き足されている。

名誉評議で時折使われる、動きを奪うだけの重苦しい装飾品、それをこの上なく大げさにしてさらに全身をそれで包んだ恐らく人のシルエットだ。


片腕を直角に曲げた状態で拳を掲げ、こちらを見ている顔は信じられない程に生命の力に満ち溢れて、この人物からは不可能という言葉を一切感じられない。


 ブルーカラーの娘は、いつものように折りたたんだ足を左右に投げ出して、足の裏とまるみを帯びた肩甲骨の先をこちらに向けて直接床に座り、自分の影の中で何かを描いていた。


ヨナは慎重に部屋の中ほどまで足を進めた。


背後の気配を感じ取ったブルーカラーの娘は、額にかいた汗を白く小さな手の甲で拭った。この気候以外、知らないはずなのにヨナはこの時も部屋が暑いと感じた。


「その絵は『鎧を纏った上昇』よ」


「人は飛べない」


「いつかきっと、飛べる日が来るわ・・・ヨナ?」


振り返ったブルーカラーの娘はどこかさっぱりとした表情をしていた。新たな創造が上手く行った時、彼女は決まってそうだった。しかし、深い緑色の丸い目がヨナの姿を捕えるとたちまちその表情は街の夜空のようにどんよりと不安を掻き立てるものへと変化する。


「あなた、また怪我をしたの?だいじょうぶ?」


ブルーカラーの娘は頬の傷をみると不安げにそうに言った。この表情になった娘はたまに泣く。当の昔に失われた自然の雨のように。ヨナはいつもそれを心からの楽しみにしていた。そしてその事は、ヨナの魂に秘めた多くの秘密の内の一つであった。


「ああ、大丈夫だ」


「そう」


ヨナは自分がこれからどうしていいのかがわからなかった。

平和贈呈局員たちに嘘は通用しない、局員同士ならば猶更苛烈な尋問が待っている、それに、あの3人が再び気まぐれを起こす理由などどこにもないのだ。彼等はすぐにでもここを突き止めて扉を蹴破るだろう。


「ねえヨナ?」


ブルーカラーの娘は、今度は反対側から振り向いてヨナを見た。


「なんだ」


「何も、心配はいらないよね?」


「ああ、何も心配はいらない」


「そう、よかった。さぁ。こっちへいらっしゃい傷の手当てをしないとね」




静寂。





そして、炸裂音。悲鳴。




 ヨナの体はどちらかといえば扉よりも離れていてその事が幸いであったのか、また、そうでなかったのかは今となってはもうわからない。

酷い耳鳴りと砕かれた建材の粒子が舞い上がって出来たもやと強い血の匂いの中に彼はいた。


上か下か、あるいは右か左かもわからない。自由を失った体を何とか持ち上げてヨナはあの娘を探した。


ぼやぼやと霧の向こうで鳴り響く汽笛のような音がして、彼の目の前を大きなブーツが通り過ぎていった。床と壁そして天井の位置関係が確かになり、ヨナはその後を追う。あの娘と思わしき物はその先に折りたたまれた状態で落ちていた。


持ち上げられた指先は不気味に焦げていて、腕や足や頭と言った物らがいったいどこから生えているモノなのかすら明確にはわからない。


そしてそれらは今なお広がる新鮮な血だまりの中心にあった。




なんてことだ




ヨナがそう呟くと血だまりの中心の物は命を吹き込まれたかのようにビクリと一度跳ねて獣のようにおぞましい音を立てて、ぐったりとこと切れた。

ヨナにとってそこそこ見慣れた風景のはずであったが、この時彼の中にあった何かが音を立てて壊れてしまったような気がした。


 ヨナの耳や平衡へいこう感覚が次第に回復し始めた頃、平和贈呈局員の一人が突き付けたエクスプロイターそのままに、巻き上がった塵や埃が晴れていくにつれ明らかになる部屋の中をぐるりと見まわして当惑したようにつぶやく。


「なんだこれは・・・」


ヨナは彼等にきちんと説明する必要があると感じた。そして、自分たちがいったい何をしてしまったのかを理解する必要があると思った。これから、彼等に訪れるであろう災難が妥当なものであり、その理由を思い知らせななければならない。と。


「この絵はそこに居るブルーカラーがすべて書いたものだ」


「これを?・・・すべて?」


平和贈呈局員たちはすぐに殺してくれとでも言わんばかりに隙だらけになって狭い部屋に描かれた絵の数々を見回した。足元にも同様の絵が広がっていた事に彼等が気付くとヨナは再び口を開いた。


「彼女は君たち一人一人が個のキャラクターとして、何かに必要とされるような世界を創造したかもしれないんだ。わかるか?例えば、その巨人だ」


ヨナは九つのじらを持つ怪物『クジラ』と格闘する人のシルエットを持った絵を顎で指した。奇跡的に無傷で残っていた絵を平和贈呈局員たちも視界の隅で捉える。


「その巨人は『結ぶ巨人タイ・タイタン』」


段々と薄らいでいく意識の中でヨナが続ける。


「彼は寝静まった夜に人々の頭上に現れては眠りを妨げ嫌がらせをするクジラを人々の住処から追い払うために人の王が雲の上から呼び寄せた巨人だ」


ヨナは、彼等平和贈呈局員の者らの記憶力が大変優れている事を知っていた。せめて、彼等だけが覚えていてくれさえすればそれでいい。


「結ぶ巨人はある条件と引き換えに人々が安心して眠れるようにクジラを追い払う事を約束した。その条件というのが彼の後ろの絵だ」


怪物との死闘を繰り広げる巨人の後ろには円形上の枠に何本も紐を通した不思議な道具を携えた女の絵が描かれていた。


「結ぶ巨人は人間の美しい歌声が何よりも好きだった。その娘は王の娘だ。君たちは知らないかもしれないが彼女が持っているものは『ハープ』という楽器に近い物だろう。結ぶ巨人は100日間の激しい戦いの末ついに怪物を人の住処から追い出し。人の王は、最愛の娘を年に1度巨人の元へ送り。歌とハープの演奏を聞かせたそうだ」


ひとつの物語を語り終え、ヨナは自分の体から生命力が一つ抜け出ていくような気がした。視界がぐらりと下がり暗くなったが、彼は最後まで続けるつもりだった。しかし、平和贈呈局員たちにとっては彼の語る物語など何の価値もない絵空事であり、規則通りに務めを果たす事こそが彼等の価値でありまたリアルでもあった。


ヨナが原形をとどめている絵をどうにかして探し出そうとしている僅かな間に、平和贈呈局員の一人は顔色一つ変えずに言った。


「残念だが。少しも分からないな。おい、そのブルーカラーはどうだ?」


平和贈呈局の一人はゴミでも扱う様に、靴底で遺体をひっくり返して答えた。


「脳はまだ使えそうだな」


ヨナは、邪悪だ。と、思った。


ブルーカラーの娘を転がした平和贈呈局員の男は、彼女の血汐で固まった頭部をいたわるように、それでも、ものを扱う態度で体をひょいと持ち上げて肩に乗せた。


「先に行く後の処理は任せる」


「わかった」


エクスプロイターを抜いている者とヨナを横切って、彼等は狭い部屋の出口を目指した。先頭を行く者がいつの間にか通路を塞ぐように傾いた部屋のドアを直そうとして手を掛けた。


ヨナに向けられている銃口が少し持ち上がって、まるで持ち主と一体となったかのような不思議な気配を纏った。彼等は、思惑通りに事が進んでさぞ満足だろう。しかしながら彼等はその事にはきっと気が付かない。彼等には毎回同じ成功という結果以外はありえないのだ。彼等は無意識に明日もまた同じように成功すると考えているだろう。それこそが彼らがもたらす平和であって何よりも尊く素晴らしい物なのだ。しかし。


ヨナは遺言、または、呪いのつもりで言葉を発した。


「君の名前はなんという?」


平和贈呈局の男は引き金に指をかけてゆっくりと答える。低く不気味な声色だった。


「名前?さあ、しらないね」


「知りたいとは思わないのか?」


「思わないね」


「そうか」


「そうだとも。・・・さようなら」


それから間もなくエクスプロイターの閃光が3度も瞬いて、狭い部屋中に血の匂いと鮮烈な色をぶちまけた。


奇妙な事にその光景をヨナは見ていたのだ。彼はまだ生きていた。そして。


「・・・・こいつ!まだ生きていたのか!」


ちょうど中心にいた仲間の上半身が急に吹き飛んでしまったので、残された平和贈呈局の2名は手にしているエクスプロイターを新たな脅威へと向けた。


ああ。彼等はまことに隙だらけだ。


扉を弄んでいたものと、予め、武器を手にしていた者とでは当然勝負になどならない。とても距離が近かったのでヨナは身体を回して、右足の踵でエクスプロイター、顎、鼻と口の間、鼻、額と順番に触れて扉の男を睨み付けた。

必要以上に派手な動きは、驚異の対象をこっそりとすり替えるのに十分な効果を発揮した。加えて、ヨナはエクスプロイターを構えた男に向かって飛び掛かっていた。


それから、2度銃声が響いたが新たに死んだ者は一人もいなかった。

下の階では彼らの仲間が駆け足でこちらへ向かって来ている音が地響きのように聞こえていた。


血と、埃と、灰にまみれたブルーカラーの娘をヨナはそっと抱き起した。


「大丈夫なのか?」


「・・・痛い」


ブルーカラーの娘は苦しそうにそう言って、ブルブルと震えながら右手を上げた。


すると指が3本ほど無い。


「大丈夫だこれくらいなら血を止めよう」


ヨナは落ちているエクスプロイターを拾い上げて、空いている場所に数発撃ちこんだ。そして、加熱された銃口をブルーカラーの娘の方へとゆっくりと向けた。


「いや・・・いや・・・っ痛いの嫌!」



ああ、生きているのだ。






ジュウウウウウウウウっ!!!!

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