第335話 決戦の前

 決戦の地には、近くに山が見える平原が選ばれた。


 オーエドの都から半日ほどの距離にあるその平原は、近隣に人里がなく、被害を出さずに戦うにはうってつけの場所だ。


 近くに見える山は「コシ山」と呼ばれており、ヤマタノオロチが住まう霊山だという。


 といっても、ヤマタノオロチは常にそこに実体化しているわけではないらしい。

 眠りから覚めたときだけ実体を持つのだとか。

 そうなると、「眠り」という表現もかなり概念的なものではあるが。


 人間側が何もせずにいれば、今日の夕暮れ時、日が落ちる頃にはヤマタノオロチが復活するとのこと。

 そして怪物は山から下りてきて、人里を襲い始めるのだという。


 しかしその前に、ヤマタノオロチを呼び出して誘導する方法がある。

 コシ山の周辺、一定の範囲内で「巫女」を捧げる儀式を行うのだ。


 儀式といっても、そう複雑なものではない。

 条件に合う「巫女」を用意して、その娘に代々伝わる紅白の衣装を着せ、樽一杯の秘伝の酒を浴びせる。それだけだ。


 そうすることで、ヤマタノオロチは「巫女」を食らうために、姿を現すのだとか。


「──皆、準備はいいか?」


 そう周囲に向かって確認するのは、紅白の巫女服を身につけたクシノスケだ。


 彼女が立つ場の傍らには、伝来の製法で作られた酒がたっぷりと詰まった樽が置かれている。


「いいお酒なのに。もったいないなぁ……」


 指をくわえてそうつぶやくのは、風音だ。

 その視線は、酒の入った樽に向けられている。


「あのなぁ。言ってる場合じゃないだろ」


「分かってる、分かってるけどさ。やっぱりお酒をどばーってぶちまけちゃうのは、すごく冒涜的な何かを感じるよ」


「全部ヤマタノオロチが悪いってことにしとくっすよ、風音さん」


「むーっ。せめてクシノスケちゃんの立ち位置を代わりたい……」


 そんな緊張感のない会話を繰り広げている俺たちだが、実際に緊張していないわけではない。


 あるだけの事前情報をもとに、考え得る限りの万全の計画は立てたつもりだ。

 だが実際にやってみなければ、どうなるかは分からない。


 周囲の準備がすべて整っていることを確認すると、ミコトさんがクシノスケの隣へと歩み寄る。


 そしてミコトさんは、酒樽の蓋を叩き割った。

 樽の中になみなみと詰まった酒が姿を現し、芳醇な匂いをあたりに漂わせる。


「姫様。参ります」


「ああ。やってくれ、ミコト」


 クシノスケの承諾の声を受け、ミコトさんがその怪力で酒樽を持ち上げ、樽の中身をクシノスケの頭からぶちまけた。


 巫女服をまとったクシノスケの全身は、その衣装ごと、びしょびしょのずぶ濡れになった。


 それに反応したように、近くの山──コシ山の一角が、あやしい赤色の光を放つ。


 その赤色の光に向かって、近隣から浮かび上がった黒い靄が収束していき、やがて渦を巻くようにして一つの形となって具現化した。


 現れたのは、距離感が分からなくなりそうな、巨大な魔物の姿。

 竜頭を持った大蛇を八つ束ねた怪物の大きさは、ちょっとした城ほどもあるのではないかと感じさせる。


 出現した怪物ヤマタノオロチは、すぐに恐ろしいほどの速度で山を下り始め、地鳴りとともにこちらへと向かってきた。

 まだ遠くにいるように見えても、俺たちの元までたどり着くまでには、幾許の間もないであろう。


 山を下る怪物の姿を見て、クシノスケが叫んだ。


「さあ来い、ヤマタノオロチ。お前の大好物は、ここにいるぞ!」


 山を下り切ったヤマタノオロチは、平原を凄まじい速度で突進してくる。

 そのまま待ち構えていると、やがて彼我の距離はもうわずかで接触するほどにまで縮まった。


 間近で見るヤマタノオロチの巨大さは、まさに怪獣だった。

 ちょっとした城ほどもあるというのは、誇張でも何でもない事実だ。


 あの怪物は、人間の十倍ほどの全高がある巨大ロボットか何かで、がっぷり四つになって戦うような相手ではないのか。

 あれに生身の人間が挑むとか、バカじゃないのかと思わなくもない。


 だが俺たち覚醒者の身に宿る力も、並の人間のそれではない。

 特に俺、風音、弓月、ミコトさんの四人の力は、他の覚醒者をはるかに凌駕する。


 やってやれない相手ではない。

 俺は右手にある神槍の力と感触を確かめながら、昨晩行われた軍議の内容を思い出していた。

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