第328話 浴場の二人

 オーエド城の浴場は、男女別に分かれている。

 男たちが汗を流す大浴場と比べると、女人向けの風呂場はいささか手狭で質素だ。


 とはいえ、それでも四、五人は同時に入れるだけの湯舟と、それに相応しい洗い場が設えられているのだが。


 その洗い場で今、剣聖ミコトがクシナ姫の体を洗っていた。

 現在は二人の貸し切りで、余人の目はないのだが──


「やっ、めっ……ミコトっ……ダメ、だってば……!」


「ふふふっ……クシナ様、これほどお美しく育って。このミコトが、そのお体を隅々まで堪能……もとい、洗って差し上げましょう」


「ミコトが女色の人だとは分かっていたけど……! これほど見境がないとは思わなかったよ──んぁあああっ!」


「見境がないとは遺憾ですね。クシナ様だから愛おしいのです。それにお体を洗って差し上げているだけではないですか。妙な声をあげているのはクシナ様のほうですよ」


「もぉおおおっ、やらぁあああっ……! そんなところまで、丹念に洗わないでよぉっ……!」


 体を洗っているだけである。

 美しくも豊満な剣聖の肢体が、うら若き少女の背後から絡みついているようにも見えるが、密着して体を洗っているだけでおかしなことではない。


 しばらくして全身を洗い終え、ミコトが木桶で湯をかけて洗い流した頃には、クシナは全身を脱力させ、恍惚とした表情でぼーっとしていた。

 少女の頬が真っ赤に染まっているのは、幾度も湯を浴びたからに違いない。


 少ししてクシナは、はたと覚醒する。

 それから拗ねるような目で、自分よりも一回りほど年かさの美貌の女武士モノノフを睨みつけた。


「……ミコト。襲わないって言ったのに」


「ふふふっ、何度も言うようですが、お体を洗って差し上げただけですよ」


「しらばっくれてさ。だいたい私は、自分で洗うと言ったよ」


「ならば今度は、クシナ様が私を洗ってください」


「もう……分かったよ」


 今度はクシナが、ミコトの体を洗う。


 出るところが出た立派な肢体を、泡のついた手拭いでなでながら、クシナはそれと自分の未発達な体とを見比べてしまう。


「……私は一生、ミコトのようにはなれなかったな」


 ミコトの体を洗い終えて湯で流した時、ぽつりと、クシナの口からそんな言葉が漏れた。


 それを聞いたミコトは、それまでのふざけた雰囲気を失って、目を伏せる。


 口を開こうとしては、思い直したようにつぐむ。

 ミコトはそれを幾度か繰り返した。


 沈黙を破ったのは、やはりクシナだった。


「……ごめん、口が滑った。そろそろ湯に浸かろうか、ミコト」


「はい、クシナ様」


 体を洗い終えた二人は、湯船に浸かる。

 四、五人が入れる湯船に二人で浸かるものだから、かなり広々としていた。


 胸までたっぷりと湯に埋まったクシナが、またぽつりぽつりと語りはじめる。


「ねぇミコト。ミコトはさっき廊下で出会ったとき、私の人柄をよく知っているとか、私を信じていたとか言ってくれたね。でも私は、そんなミコトの信頼を裏切っていたかもしれないんだ」


「…………」


 ミコトは目を伏して、クシナの顔を見ていない。

 クシナはそれに構わず、湯に浸かって赤くなった顔で、ゆっくりと語る。


「逃げるつもりはなかった。でも、自暴自棄というのかな。どうなってもいいやと思っていたところがあったように思う。彼らに出会わなかったら、私は今頃、この城には帰って来れずにいたかもしれない。さらわれた町娘たちと同じように、エチゴヤの地下牢に閉じ込められていたかも」


「……『彼ら』というのは? それに、エチゴヤの地下牢とは」


「ああ、そっか。まだ父上にしか話していないんだったね。旅の最中に、こんなことがあったんだ──」


 クシナは二日前に遭遇した出来事を、ミコトに語った。


 神隠しが単なる人さらいであったこと、自分がその人さらいに捕まって窮地に陥ったこと、それが悪徳商人エチゴヤの雇った武士モノノフたちであったこと、その窮地を西方から来たという冒険者たちに救われたこと──


「その冒険者たち、凄いんだ。たった三人で、六人の手練れの武士モノノフたちをばったばったとなぎ倒してさ。信じられないことだけど、あれはもう三人ともが『限界突破』をしていたとしか思えないよ」


 沈んだ表情で話を聞いていた剣聖ミコトの瞳が、にわかに光を帯びていく。

 クシナはそれに気付かずに話を続ける。


「ダイチ殿、カザネ殿、ホタル殿──彼ら一人ひとりが、ミコトとも渡り合えるほどの実力者だった……は、さすがに言いすぎかもしれないけど。でも本当、凄かったんだ」


「クシナ様! それは本当ですか!?」


 ざばっと水音をたてて立ち上がったミコトが、クシナの前に立ち、両手で姫の肩を掴む。

 突然のことにうろたえたのはクシナだ。


「え……な、何、ミコト……痛いよ、肩」


「あ……す、すみません。しかしそれよりも、その異国から来た冒険者のことです。今その者たちは、どこにいるのです」


「え、と……ど、どうだろう。二日前に、西の町で出会っただけで、それからどこに行ったのかは……」


「くっ……! 姫様、どうして、どうしてその者たちを連れてこなかったのです! 引きずってでも連れてくればよかったものを」


「だ、だからどうしたんだよミコト。私にはミコトが、何をそんなに怒っているのかが分からない。説明してくれ」


「その者たちの実力次第です。ですが、希望はある。私とその者たちがいれば──あの怪物、ヤマタノオロチを倒せるかもしれません」


「あ……」


 クシナは、思いもよらなかったという顔を見せる。


 クシナが聞いていたのは、伝説の怪物ヤマタノオロチには国の戦力の大半をもって挑んでもまったく敵わず、無為に犠牲を出すだけに終わったという話だけだ。


 また諦念も強く、ミコトが言ったような発想はそもそも浮かばなかったのだ。


「くっ……オロチが現れるのは、明日だというのに。どこに行ったかも分からない冒険者たちの足取りを追うなど……。姫様、ほかに何でもいい。その者たちの行き先の、手掛かりとなるような記憶はありませんか」


「え、と……ヴォルフという商人の護衛を務めているとは言っていたけど、どこに行くかまでは聞いていなくて……」


「──っ! 西方から旅をしてきた冒険者たちが、商人の護衛を務めている。そう言ったのですね」


「う、うん。そうだけど」


「ならば希望は皆無ではありません。護衛を連れて西方から来た交易商人ならば、このオーエドの都に寄らないはずはありません。クシナ様、その異国から来たという冒険者たちの特徴を教えてください」


「あー、えっと……三人とも、私と同い年か少し年上ぐらいで、男が一人と女が二人。髪や瞳の色はこのヤマタイの民と同じ黒で、ペットを連れていて……」


 ミコトの勢いに押され、クシナは思い出せる限りの特徴を口にする。

 クシナから情報を引き出し終えたミコトは、愛する姫に向かってこう訴えた。


「姫様、なんとしてもその者たちを探し出しましょう。こうしてはおれません。今すぐにでも──」


 一刻の猶予もないとばかりに、湯舟から出ようとしたミコト。

 だがその腕を、クシナがつかんだ。


 うつむき加減のクシナは、こう口にする。


「……いいよ、ミコト。もういいんだ。ありがとう。私は、その気持ちだけで十分だよ」


 あきらめに満ちたクシナの言葉。

 ミコトはいったん足を止める。


 だがミコトは、主君の娘が言うことに唯々諾々と従いはしなかった。


「いいわけがありません。希望があるなら、私は──」


「嫌なんだ。彼らが見つかったとしても。私のために万が一、ミコトや彼らがオロチに挑み命を落とすことになったら、私は今度こそ耐えられない」


「何を……! 姫様はいつから、そんな弱虫になってしまわれたのです!」


「なっ……!? よ、弱虫とはなんだ! 私だって、この国の民のために命を投げ出す覚悟をして──」


「もういい! その者たちは私が探します! 弱虫の姫様は、ずっとここでいじけていなさい!」


「あ……」


 ミコトは姫の手を振りほどき、風呂場から出て行った。


 クシナは手を伸ばし、「待って、待ってよミコト」とか細い声をあげるが、それはすでに相手が去っていった後のこと。


 慕う相手に置いてけぼりにされたクシナは、湯の中で赤ん坊のようにうずくまる。

 少女は口元まで湯に浸かりながら、涙を流した。


「いいじゃないか……もう後は、私が犠牲になれば、それで済むんだ……私の前にも、私と同い年ほどの七人の娘が生贄になっているんだぞ……私だけ特別扱いなんて、そんなの許されるわけがないじゃないか……弱虫とか、言わないでよミコト……私を見捨てないでよ……希望を持ったら、今度こそ耐えられないんだからぁ……うわぁあああああっ!」


 ほかに誰もいなくなった浴場で、ただ一人泣き叫ぶクシナ。

 自らの言葉が矛盾だらけであることに、今の彼女が気付くことはできなかった。

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