第323話 忍耐

 風音と別れてから、ほどなくして。


 見張っていた例の扉が開き、その向こうからエチゴヤと代官、それに一人の町人姿の娘が現れた。


 娘は背後から抱き着かれるようにして、スケベ面の代官の支配下に収まっている。


 娘は整った顔立ちをしているが、その表情は怯えきっている上に、泣き腫らしたようで目元は真っ赤。

 叩かれたのか頬も赤く腫れている。

 首には刃物で付けられたらしき赤い筋があり、少量の血が首筋を伝っていた。


 代官は娘の背後から、娘の首筋の血を舌で舐め取る。

 そして「ひっ」と引きつった声をあげる娘の耳元で、ねっとりとした言葉をかけた。


「分かっておるな、娘。おとなしくしておれば、たっぷりとかわいがってやろう。わしに逆らわねば、これ以上痛い目を見ることもないのだ」


「い、いやぁ……」


 娘の口から、悲鳴にも似たか細い言葉が漏れる。


 その直後、パンと頬を張る音が鳴り響いた。

 さらにもう一度、同じ音。

 エチゴヤが娘の両頬を、往復でひっぱたいたのだ。


「おい小娘、まだ自分が置かれた立場が分かっておらんのか。『いや』ではない。お代官様の望む通りにするのだ。分かったな」


「ううっ……は、はい……」


「そうだ。──申し訳ございません、お代官様。私どもの教育が行き届いておりませんで」


「なぁに、よいよい。多少のはねっ返りも、興が乗るというものよ」


「さすがお代官様、寛大なお心でございます。ささっ、いつもの寝室のほうへ。──さあ娘、お代官様の邪魔にならぬように、しっかりと歩きなさい」


 代官と娘は扉の前を離れ、座敷のほうへと向かう廊下を歩いていく。

 エチゴヤは扉の錠前をかけ直してから、その後を追った。


 その様子を、俺は先ほど隠れた小部屋から、扉をわずかに開いて覗き見ていた。


 虐待を見て、今すぐ飛び出していきたくもなったが、どうにか耐えた。


 代官の不意さえつければ、娘の身に危害もなく救出できると思うが、今の位置関係だと確実性に自信がない。

 それでも決定的な場面になったら、出て行かざるを得ないだろうが……。


 俺は代官たちのあとを、【隠密】スキル発動状態で尾行する。

 代官に気付かれないよう、ある程度の距離をとってだ。


 やがて代官たちは、先の密談があった座敷の前までたどり着いた。

 庭のししおどしが、こーんと暢気な音を立てるのが聞こえてくる。


 代官たちは、今度は先の座敷ではなく、近くにあった別の部屋の前へと向かう。

 エチゴヤがその扉を開いて、代官を中へと案内した。


 分厚い二重扉で防音されたらしき畳敷きの部屋には、すでに布団が敷かれており、部屋の隅に置かれている立派な行灯にも準備万端とばかりに火が灯っていた。


「ではお代官様、お気の召すまで、ごゆるりと」


「うむ。娘よ、これからわしが、たっぷりとかわいがってやろう。嬉しかろう?」


「い……は、はい……」


「そうだ、それでよいのだ」


 代官が娘を連れて、寝室に入る。

 怯えきった娘には、もはや抵抗の意志は見当たらない。

 エチゴヤもまた、それを恭しく見送る仕草を見せる。


 代官が娘を投げるようにして布団に寝かせ、自らは刀を壁に立てかけ、上衣を脱ぎ始める。

 エチゴヤが寝室の扉を閉じようとする。


 この間、俺はいつ動くかで、ずっと迷っていた。


 今出て行って、事をうまく運べるか?

 向こうの出方次第だが、最悪、娘を人質にとられて窮地に陥ることもありうる。

 覚醒者の力なら、武器を使わずとも一般人の首をへし折ることなど造作もない。


 だがこれ以上、手をこまねいて見ているわけにもいかないだろう。

 確実性は十分ではないが、動かざるを得ないか──


 俺が踏ん切りをつけて出て行こうとした、そのときだった。


「お、おい! なんだお前たちは!」


「待て、貴様ら! 何をしている、勝手に入るな! 当家をこの町きっての大商家、エチゴヤと知っての狼藉か!」


「誰か! この小僧と娘たちを止めろ!」


「無理だ、こいつら武士モノノフだぞ! よ、用心棒だ! 誰か旦那様の用心棒を呼んでこい!」


 屋敷の表のほうが、にわかに騒がしくなった。

 どうやら風音たちが屋敷内に乗り込んできたようだ。


 エチゴヤと代官も、当然に驚いた様子を見せる。

 腰帯を緩めていた代官は、それを締め直しながら、部屋の外のエチゴヤのもとまで歩いてきて問う。


「この騒ぎは何事だ、エチゴヤ!」


「い、いえ……私にも、何やら……。お、おい誰ぞ! 何が起こっておる! わしのもとに報告に来んか!」


 エチゴヤが声を張り上げる。

 隣にいる代官は、苛々とした様子を見せていた。


 俺はこのとき、その状況に好機を見出していた。

 二人とも戸惑っている上に、代官と娘の物理的距離がこれまでになく離れている。


 この位置関係なら──いける。


 俺は代官とエチゴヤ、それに娘がいる寝室へと向かって駆け出した。

 少し離れた場所にいたが、さしたる間もなく懐に潜り込む。


「なっ……!? 何奴だ、貴様!」


 最も素早く反応したのは、やはり代官だった。

 壁に立てかけた刀を取りに走る。


 だが俺の目当ては代官ではない。


「きゃっ……!?」


「俺は敵じゃない。助けるから、少しだけ大人しくしていてくれ」


 俺は代官を無視して布団のほうへと向かうと、そこに寝かされていた娘をお姫様抱っこよろしく抱え上げた。

 探索者シーカーの力を持っている俺には、そう重たい荷物ではない。


 ちなみに、相手が協力してくれないときの人体は相当重いとも聞くが、このときはそうではなかった。


 抱え上げた娘の目には、俺の姿が、絶望から救ってくれるヒーローにでも見えたのかもしれない。

 彼女は俺の言葉にこくこくとうなずくと、その身を素直に俺に委ねてきた。


「き、貴様ぁっ! 狼藉者が、生きて帰れると思うでないぞ!」


 代官は刀を鞘から抜き、俺に向かって構える。

 だが警戒しているのか、すぐに斬りかかってはこなかった。


 それをいいことに、俺は娘を抱えたまま走って寝室を出る。

 エチゴヤは仰天して尻餅をついており、障害にはならなかった。


 ししおどしのある庭へと出る。

 代官が追ってきたが追いつかれることはなく、俺が庭に出て振り向くと、代官はまた警戒して動きを止めた。


「く、曲者だぞ! 出会え、出会え!」


 腰を抜かしたままのエチゴヤが、声を張り上げる。


 俺は娘を地面に下ろし、【アイテムボックス】を出現させて神槍と盾を取り出しつつ、こちらも同じように声を張り上げた。


「風音、座敷の前だ! ししおどしのあった庭!」


「──分かった、すぐ行く!」


 やや遠くから、最愛の相棒の声が返ってきた。


 そして言葉どおりに、ほとんど間を置くこともなく三人の娘がその場に姿を現し、俺のもとまで駆けつけた。


 風音、弓月、そしてクシノスケの三人だ。

 グリフは小型化状態のまま、弓月の帽子にへばりついている。

 なお風音は黒装束に着替えていた。


 またそれと大差ないタイミングで、何人かの粗野な男たちが、その場に姿を現した。

 厳密には六人で、うち二人は見知った顔──人さらいの男たちだ。

 そして彼らばかりでなく、その場に現れた六人全員が覚醒者であると感じた。


 敵勢力と思しき六人の覚醒者たちは、エチゴヤと代官のもとに駆け寄って、俺たちと対峙する。


 それを見たクシノスケが驚きと焦りに満ちた声をあげた。


「よ、用心棒が、六人も!? 一介の商人が、そんな人数を抱えているなんて……! こ、これじゃあ」


 覚醒者の数で見れば、こちらは四人、向こうは代官含めて七人だ。


 その数の優位を見てか、用心棒らしき六人の男たちは、ニヤニヤとした笑みを浮かべている。

 例の人さらいのうちの一人に至っては、風音やクシノスケのほうを見て舌なめずりをしていた。


 腰を抜かしていたエチゴヤも、その状況を見て落ち着きを取り戻したのか、立ち上がってニヤリと笑う。

 そして子飼いの用心棒たちに、自信満々でこう指示を出した。


「こやつらは狼藉者だ! 斬れ、斬り捨てい!」


 用心棒たちが、一斉に刀を抜き放った。

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