第7話 「九十年代の曲だ……」
「二回目で慣れたんもあるとは思うけん、目を合わせてゆっくり丁寧に話しかけたのも良かったと思うですばい!」
「丁寧に……? そっか、そげんシンプルな事で良かと……」
小百合は意外そうに目を見張った後、どこか納得したように呟いていた。
「まぁお疲れ様、佐古川君。仕事も頑張りー」
「はい。じゃっ、仕事行ってきまーす」
「ん」
小さく頭を下げ表情筋が緩まぬよう努めながらおおぞらの中で一番広い部屋である車椅子部屋に戻ると、尚也はパートの女性に挨拶をされていたところだった。
――が。
尚也はピクリとも反応しなかったのだ。
(え)
何故だろう。先程自分に挨拶してくれたのは気分だったのだろうか。聞きたかったが尚也に聞いても教えてくれない気がした。
あれ、と首を傾げる女性の横を通り、歩は部屋の隅に置かれている冷蔵庫に近寄る。白い扉に貼ってある献立表を見て、味処奥津の昼食を読み上げる。
「今日は茄子の挟み揚げやって〜それとチンゲン菜の明太子和えにお味噌汁。今日はがっつりメニューで嬉しかねぇ!」
自分の声に車椅子部屋に居る面々から喜びの声が上がる。みんな揚げ物が好きなのでテンションが上がったようだ。おおぞらの茄子の挟み揚げは、輪切りではなく一本丸々揚げるタイプなので食べ応えがあり、歩も好きな一品だ。
その時尚也と目が合った。「そんな普通の食事が出るのか?」と言わんばかりに珍しく目を丸くしていた。今までで一番表情が出ている。もしかしたらもっと変わった物が出ると思っていたのかもしれない。
その年相応の様子にクスッと笑ってそっと尚也に近寄り、腰を折って話し掛ける。
「鴻野君、茄子は好きと?」
話し掛けられ尚也は一瞬肩をビクつかせていたが、少しして首を縦に振る。
不思議だ。
先程女性の挨拶に反応しなかったのは何故だろう。それに、その横顔にはどうしてか困惑の色が浮かんでいた。
「あっ……はい」
「俺も好き。チンゲン菜の明太子和えもごま油が掛かっとって箸が進むんよ〜、おおぞらの昼食は奥津って元惣菜屋さんが作っとって、味処奥津って言われとーくらい美味しいけん期待して良かよ」
「……はい」
自分で調理する訳でもないのにドヤ顔で言う。
「あの」
尚也から話し掛けられた事に内心驚きつつも「ん?」と対話に応じる。
「ここの人達、どうやって茄子の挟み揚げとか食べるんですか」
おずおずと小声で尋ねられ一瞬瞬く。
どうも何も、と思ったがこの業界には無縁だっただろう尚也が疑問を抱くのも当然だ。この車椅子部屋に居る人は嚥下能力が落ちていたり、俊敏な意思疎通が難しかったり、上肢が不自由な人の方が多い。
「あーとね。厨房からは普通に食事が運ばれてくるんやけど、そっから俺らが手ぇ加えてキッチンバサミや包丁でひきわり納豆くらいに刻むんよ。刻み食が難しか人にはハンドブレンダーでペースト状にして
「へぇ……」
「鴻野君は普通食で食べられるとね? やったら運ばれて来たら食べてええよーあっつあつで来るけん、火傷せんでね!」
「しないです。……佐古川さん達はいつ食べるんですか」
冗談で言った言葉に冷たく返され心の中で涙を流した。まだまだ心を閉ざしているのだろう。
「俺らは交代で事務所の奥にある職員用の休憩室に行って食べるばい」
返事をすると同時に、部屋に置いてあるラジカセから平成初期の懐メロが流れてきた。小学生の時に流行った曲なので、イントロだけで分かる。
音に反応して室内を見渡すと、部屋の中央に緑色のマットが敷かれ始めているところだった。
「九十年代の曲だ……」
自分が子供の時の流行歌をそう呟かれるとなかなかに精神が抉られる物がある。尚也の口数が増えた事が嬉しくて笑みを浮かべたものの、どこか歪な表情になっていたかもしれない。
「こっ、この部屋のみんなも職員も音楽が好きやけん時間があると音楽流すんやけど、どうしても世代が出るとねうん。鴻野君も何だったら今度今時のCD持ってきてええからね」
「スマホで聴くのでCDは持ってないです」
「……ですよねー。じゃっ、じゃ鴻野君、午前は昼ご飯まで一時間くらい運動やストレッチを各自やるんやけど、自由時間みたいなもんやけんボーッとするなりこの部屋の外のホールに出たり好きにしてええから。壁にある手すりも好きに使ってえーよ、何かあったら呼んでね、宜しく」
おかしいな、十歳しか違わないはずなのに……と、遠い目になりかけたものの、気を取り直して軽く流れを説明し壁際のL字型手すりを指差す。説明を終え、懐かしい音楽が流れる中午前の担当である利用者の元へストレッチを手伝いに行った。
床に敷かれたマットに腰を下ろし横目で細身の少年を窺い見ると、顔を上げている尚也は微かに困惑したような表情を浮かべて室内を見ていた。
あ、と思った。
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