第2章 少年と茄子の挟み揚げ

第6話 「スマイリング・プリンス第一関門クリアばい!」

「あっ……」


 利用者達を車椅子部屋と自立部屋やホールに送り届け、車椅子の利用者が中心に集まる車椅子部屋に戻った歩は小さく息を飲んだ。

 部屋の隅、誰とも目を合わせないかのようにフローリングの床を見ている黒Tシャツの美少年が居たのだ。


「お早う御座います~」


 尚也の事は気になるが、その前に利用者の一人一人に挨拶をしていく。「あゆむんおはよー!」と快活に挨拶を返してくれる人も居て、自然と笑顔が溢れる。

 チラッと尚也を見ると丁度パートの女性に挨拶をされていたが、反応をしていない瞬間だった。

 困り顔の女性を前に無反応な少年。怖気づいてしまう物がある光景だ。

 しかしグッと堪えて一拍置いてから尚也の側に行き、身を屈めて目線を近付ける。


「鴻野君、お早う。俺、佐古川歩って言うたい。トイレ行きたいとか、着替えたいとかあったら佐古川ぁーって遠慮なく言ってくんしゃいね」


 腰を折って目線を合わせ、ゆっくり丁寧に尚也に話しかける。視界に人の顔が現れて流石に無視出来なかったのか、長い前髪に覆われた黒い瞳が人の存在を認めるようにこちらに向けられた。

 驚きすぎじゃないかと言うくらい大きく目を見張った後、視線が揺れ――少しして目を逸らされると同時に微かに頷かれた。


「…………はい、宜しくお願いします」


 初めて聞いた尚也の声に嬉しくなり、ゲームでレアアイテムをドロップした時以上に胸がいっぱいになった。


「宜しくね」


 犬のように惜しみなく喜びを表現したかったがそれをやったら絶対に尚也が萎縮すると思ったので、必要以上に弾みそうになる声を抑えて大人ぶって返す。

 すぐ目を逸らされてしまったが、その前にもう一度頷いてくれた事が嬉しくて小走りしそうになった。やっぱり自分が思った通り、自分も周囲も尚也との接し方を難しく考えすぎていたみたいだ。

 それ以上尚也に話し掛ける事なくその場を離れ、歩は次の利用者への挨拶を始める。


「佐古川さんすごーい、藤沢さんからさっき聞いよ本当にあのプリンスコーノに反応させるなんて。やっぱり同性は違うのかしらねぇ」


 その際距離の縮まったパートの女性が、声を抑えて感心したように呟いてくる。朝のおおぞらは賑やかな上、この部屋はTVも点いているので少々の内緒話も簡単に出来る。

 プリンスコーノと言うのはスマイリング・プリンスあってのあだ名だろうか。一体小百合は何と伝えたのか気になった。


「違うと思うたいよ、ゆっくり話し掛けたのが良かったとね? 分からんけど、嬉しかね!」


 勝ち越しホームランを打ったバッターのように晴れやかな笑顔で返すと、女性はクスリと笑う。そのすぐ後女性は利用者に呼ばれ、歩との会話もすぐに終わった。


「うっし、今日も頑張ろっか! ……の前にちょっと送迎車の鍵置きに事務所行ってくるばい、先やっててくんしゃい」


 おおぞらが本格的に動き出す十時を時計の針が指したのを見て、歩は声を張り断りを入れてから部屋を後にする。今日の車椅子部屋のリーダーは自分なので早く戻らなければ、と思い廊下に出てホールに向かう。




 博多市が持て余していた公園横の酒蔵を、福祉施設に再利用する事が決まったのは二十年前の事。

 おおぞらは外観こそ古式ゆかしい蔵造りだが、室内はフラットでほぼ全室フローリング張りだ。

 玄関スペースには蔵造りながら、ガラス張りの自動ドアがある。求人サイトでおおぞらの存在を知るまで、歩はたまに前を通り過ぎる未来の職場の事を、良く見ていなかった事もありお土産屋だと思っていた。


 室内はリノベーション時にぶち抜いている為広く、大雑把に四つの区分に分けられている。

 知的障害を持った利用者が主に使う自立部屋、身体障害や重複障害を持った利用者が主に使う車椅子部屋、キッチンもあるホール、事務所だ。

 一般トイレ、車椅子用トイレ、脱衣場と浴室、応接間、スタッフルームなども転々とある。

 早歩きを意識しつつも「尚也から返事を貰えた」という喜びが勝りニヤついてしまう。セミオープンキッチンがあるホールを横切り、パソコンが並んでいる事務所に入り送迎車の鍵を壁掛けコルクボードに引っ掛けた。

 その時。


「佐古川君、今日はニヤつきすぎやないかいね? 本当に捕まるよ?」


 眼鏡を掛けてデスクチェアに座っている小百合に話し掛けられた。


「あっ藤沢さん! 聞いてくんしゃいよ!」


 尚也の事を伝えたくてぱっと笑顔になる。思ってたよりもずっと興奮気味の声になったからか、事務所で仕事をしていた他の職員も何事かと目を丸くしてこちらを見ていた。


「ん?」

「スマイリング・プリンス第一関門クリアばい!」


 笑顔を浮かべたまま報告すると、小百合の表情に驚きの色が浮かんだ。


「と言っても、ちーっと反応して貰っただけやけど。お早うございますーって」


 言葉にしてみると少し喜びすぎな気がして、親指と人差し指で僅かな隙間を作ってみせるジェスチャーをしながら微かに苦笑を浮かべる。

「ふーん、ふーん……良かったやない。何したと?」

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