第8話 「火傷せんでね〜」
初めてに近い場所で「好きにしろ」と言われて動ける人はなかなか居ない。
失敗した。午前のこの時間をどう尚也が上手く過ごすか考えねば。
尚也の様子は気になるが、おおぞらの職員である以上申し訳ないが彼ばかり気にしていられない。それにチラチラ見られるのもずっと構われるのも、尚也は嫌だろう。
暫く経ち厨房から揚げ物の香ばしい匂いが漂ってくると、歩は車椅子部屋の午前の活動がそろそろ終わる時間である事に気が付いた。
足の曲げ伸ばしを手伝っていた利用者から顔を上げ、白い壁に掛かっている横長のデジタル時計を視界に映す。十一時五十二分。思った通り、もうマットの片付けに着手しても良い時間だった。
尚也は先程と同じ場所で室内の様子を観察していた。
「そろそろ十二時が近かね、引き上げて昼の準備に入ろっか!」
声を張った後マットで寝ていた利用者に起き上がりの体勢に入って貰うよう促す。
「鴻野君もごめん、ちーっと端に寄っとってくれん? 昼食が運ばれて来る他にもマットの片付けや移乗もするけん、人やワゴンがその辺結構行き交うんよ。落ち着いたらまた声掛けるばい」
壁際の尚也に話し掛ける。尚也は小さく首を縦に振った後、電動車椅子のレバーを動かして端に寄ってくれた。
起き上がりの準備を終えた利用者を車椅子に移乗し終え、マットの片付けも終わった時。
入り口からワゴンに味噌汁の椀を車椅子部屋の利用者分乗せた奥津が入って来た。惣菜屋で接客も担っていたからか、この博多マダムは何時だって身だしなみがしっかりしていて上品だ。
「あら、あらっ……ごめんなさい、ちっとずれてくれるかしら?」
奥津が尚也に話しかける声が聞こえ、「あ」と思った。
移動を頼んだものの更に移動させる羽目になってしまった。尚也の表情が強張りすぐに申し訳無さそうな物になる。
微かに頭を下げた後、強張った表情のまま尚也はワゴンの邪魔にならぬ位置にズレる。その横顔からは、先程まで覗いていたひたむきさは消え、奥津が礼を言った後も以前のように翳っていた。
「鴻野君ありがとっ! 奥津さんも机に味噌汁置いといてくんしゃい!」
尚也の翳りを払うように明るめの声を張ると、助け舟に気付いた車椅子の少年の表情に安堵の色が浮かんだ、気がした。
「鴻野君ごめん、何度も移動させちって……あ、今度こそ机側に行っといてくれん?」
後方をワゴンを引いた奥津が通り抜けて行く音を耳にしながら謝ると、今も頬を強張らせた尚也がこちらを見る事もせずに首を縦に振り、電動車椅子のレバーを押してテーブルへ向かう。
その横顔は居場所を探し求めている野良猫のようで、見ているこっちがいたたまれなかった。
反応して貰ったからと浮かれていたが、まだまだ尚也はおおぞらに慣れていないし心を開いていないのだ。自分以外の人には反応しないのも、そういう気持ちがあるのかもしれない。
味噌汁の優しい匂いが鼻腔を擽ってくる中、不甲斐なくなった歩は誰にも気付かれぬように小さく歯噛みした。
それから次々と料理が運ばれてくると職員は忙しくなる。消毒、配膳、刻み食などの準備の為動き回るからだ。
食事時はCDを聴かないおおぞらルールがあるので、ボタンを押してラジオに切り替える。
「はい鴻野君。茄子の挟み揚げとチンゲン菜の明太子和え、お待たせっ! 一部の利用者さんはまだ準備中やけん早く食べると大分待つばい、ゆっくり食べた方が良かよ」
先程感じた不甲斐なさなど無かったように笑顔で話し掛け、揚げ立ての香ばしい匂いがする料理を入れたプラスチック皿を尚也の前に置く。
「…………おー」
茄子を一本丸々揚げた存在感のある料理を前に、尚也は僅かに目元を弛ませどこか感動したような呟きを漏らす。どれだけ心を閉ざしていようが、この少年も十八歳という食べ盛り。ボリューミーな揚げ物に反応する気持ちは良く分かる。
「火傷せんでね〜」
こんな尚也を見れた事が嬉しい。笑みを浮かべたまま準備に戻る為その場から離れた。
尚也の横顔が見れる場所にあるテーブルに戻って、年下の女性職員の趣味によりおおぞらにやってきた猫耳がついた黒いキッチンバサミ片手に、茄子の挟み揚げに鋏を入れていく。じゅわ……と熱々の肉汁が溢れる光景に心躍った。
チラッと尚也を見ると端正な顔を緩ませ、茄子の挟み揚げをのんびり頬ばっていた。味処奥津の味を気に入ってくれたようで嬉しい。
「鴻野君が美味しそうに食べとったって聞いたら、奥津さん喜ぶやろね〜奥津さん、プリンスコーノにきゃーきゃーはしゃいでいたもの」
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