自由


 暗い淵のような藍色と、紅色の炎に包まれた夜が明ける。

陽が上り空の青さをもたらすとき、全ての戦闘行為は終わり、黒くもうもうと上がる煙だけがくすぶって空をさまよっている。


この場所を包囲するのは現在、ウィレの兵士である。

 それは事前に組み立てられた政治的青写真の完成を意味していた。


 10時間前。

 事件当時、この施設に閉じ込められた数百人の従業員のうち、逃げのびたのは僅か50人足らず。それは、事前に何者かによって開かれた通路を通って森に逃げた者、用心深く息を殺して影に隠れて生き延びた者以外の手段を使ったすべての者の犠牲を意味する。


 クーは担架に乗せられることも拒否してどす黒く退廃した自らの職場の通路を抜けて、かじかむような寒さに吹きすさぶ風と共に降りてくる朝日を浴びた。


「猫の手も借りたい。パイロットも原状復帰を手伝え」

とのお達しが、ウィレの兵士たちのあらゆるところに申し渡されてからというもの、特に若い兵士の多いモルト奪還任務に当った兵達は、便利屋のようにこき使われることとなっていたらしい。


 それは、あらゆる意味で慣れない手つきで医療班の手伝いを始めた人のよさそうな男を傍目で見たクーが感じた事だった。

 そいつは洗練されたパイロットスーツのままに現場に突入して、まるでボランティアの学生のようにすら見える。

 だが彼らが到着して走り出したころ、既にクーは、誰の目にする場所にも存在しなかった。


 遠目に、医療班によって担架に乗せられたチャムレヴを見ていた。彼女がどれほど傷つき、自分の血を失ったのかは、正直あの炎の中では分からなかった。

 きっと無事なはずだという考え方と、もう助かりはしないだろうという考え方とがずっと頭の中でせわしく議論を繰り返していたが、しかしクーは、その結末を確かめることなく、人間の群れから背を向けて歩き出していた。


 どこへともなく。と言ってもすでに人間は宇宙に進出するほどの移動手段を確立し、世界は小さく狭くなっている。


 セピアから青に滲んでいく空に、ウィレの戦闘機が正確な隊列を維持して飛んでいく。チョークで引いたような、鋭く白い雲を曳いていく5機の戦闘機は、ここが既にウィレによって一線を引かれた土地だと示すようであった。

 全滅した空軍のものか、それとも陸軍にあった予備機か、いずれにしてもこの戦いで最も弱い存在となり果てた航空機が再びこのモルトランツの空を自由に飛べる時が来たのだ。

  

 自分達を襲った最後のグラスレーヴェンが、まるで断末魔のように片手を上げて息絶えている。その周りを人というより重機とか、巨獣に近い容貌をした新兵器が、予測不能な地面の障害物を完璧に理解するように滑らかに動き、明らかに精巧な挙動のうちにその巨大な鉄の四肢を操って、がれきの撤去を進めているのを見た。


「どこに行くんだ?」

 数年ぶりの友人に会って早々言うことでもない台詞を吐く男は、クーの後ろで腕を組みながら、含んだような笑みを湛えていた。かつてならば、走り寄って懐に入り背中をたたき合ったかもしれない。今はもう、それはない。

 だが少なくともクーは、行為ではなくそれと同等の好意をもってアーヴィンに向かい合ったつもりで、彼の目を見た。

その瞳は、経験を重ね研磨された透明なダイヤのように見えた。

またはその全てが奥底に何か別のものを隠して偽装された、人工ダイヤのようにも。


「あれがアーミーか?」

「そうだ。ウィレの総力を結集して作られた、最先端技術の結晶だ」

「グラスレーヴェンがボクサーなら、こいつはゴリラだな」

「変わらないな、お前も」


 ダイヤの瞳はあの当時の若さを多少なり湛えながら、クーにしか見せない表情で笑って見せた。

 ジスト・アーヴィンという男。かつてクーと同じ部隊に所属し、共に数々の紛争を戦ってのち、クーが辞めることで投げ出したあらゆる仕事を引き受けて昇進を果たした男は、今、このアーミーという名の兵器、テクノロジーを身にまとった機械仕掛けの獣を操って、ウィレ軍の中で確かな地位を築いていた。


「これはお前達の活動の成果だ」

 その言葉はアーヴィンからクーへの最大の賛辞だった。

「こいつの性能のおかげで、俺の部下たちは守られてる」

「お互い様だ。だが、今やお互い失いすぎたかもな」


 アーヴィンは腕を組んだまま、クーに言った。

「そうだな」

「担架に乗せられた子、見ただろ」

「青い髪の女性か?」

「ああ。彼女は、ティンベスタの生まれだ」

「そうか。地毛なんだな。やけに透明だと思ったが」


 クーは頷く。

「俺達の過ちの一つだ。いい治療を受けさせてやってくれ」

「心配するな。この町一番の名医が治す」

 その意味するところを感づいて、クーの口の端は穏やかに膨らんだ。

「じゃあ、安心だな」

「マスコミからも、軍からも守ってやってくれ。おれはしょせん退役軍人のサラリーマンだ。できることはない」


「昨日、モルトランツ警察に送った秘密電文が、親衛隊の待機位置を明確にし、モルトランツの市民全体を彼らから遠ざけ、適切な避難ルートと防空壕への速やかな避難を可能にした。警察は避難民全体を守るために展開したが、それが間に合わないこの荷捌き場に単身突入し、命の危険を顧みず全員殺されたはずの人々を一部でも救った、何者かがいた」


 クーは表情もなく、全てを見通した旧友の台詞が終わるのを待った。


「脚色のない事実を提示したまでだ」


そのある意味で冷厳なアーヴィンの言葉に、クーは答えた。


「ああ。俺は敵の重要機密を奪いとる作戦に従事して、そして任務を失敗した。

 それだけだ」


そして最後に結論した。


「それでいいのさ」

「なるほど。よく分かった。巨人の心臓については、まあ。気にするな。事の本質はそうじゃない。お前は、そこじゃなかったんだ。そんなものは……一緒に戦地に派遣されていた時から、分かってたことだ」


 アーヴィンは、歴史の証人である彼を追いかけることもせず、ある含みを込めたまま、咎めることもなかった。そこでクーは何かを直感して、そして誰かの思惑を理解した。なるほど、それは合理的だ。その言葉の一つで、クーはこの作戦の欠けることのない完璧な成功を感じ、そしてついに、この世界に別れを告げることにした。


「ジスト」

 クーは親しいその名で友を呼んだ。

「お前はどうする?」

「俺は残るさ。ひどい世の中だが、それなりにやり方はある」


 アーヴィンは友の背中に最後の言葉を送って、静かに背を向けて歩き出した。


「お前はもう、自由の身だ。どこにでも行けよ」


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