炎にまみれた静寂の中で
小型の爆弾から延焼した炎は、オフィスのあらゆる物を引火させて、燃え盛っていた。入口から発生した火災は、一連の戦いによって機能停止した消火装置の沈黙に伴って、部屋全体の温度を少しずつ上げていく。
この炎により兵士たちはこの場所に足を踏み入れることはできないが、その代わりクーとチャムレヴの二人は、ここから動くこともできなくなった。
「ここが完全な火事になるにはもう少しかかるな」
機能停止した強化外骨格のスーツの胸ぐらを掴んで窓に放ると、ガラスを突き破って下に落ちていく。早い段階ですべきその作業を終わらせると、クーは、部屋の中にある机に歩み寄り、そしてその場所に腰を落とした。
「さあ、どうやって逃げる?」
机の下に隠れたチャムレヴに笑いかけると、彼女は目線を外して、机の脚の下に縮こまって畳んだ四肢をそのままにして、クーに微笑みかけた。
「そうだな。まあ、それもいいかも」
炎が段々オフィスを侵食してゆく音が聞こえ、その度にぱちぱちと音を立てた。
「奴の言ってることが真実なら、連中の作戦は失敗だな」
「連中?」
「ウィレとモルトの中に、政治的に結託した集団があって、そいつらがモルトランツを無傷なままにしてくれるっていう、そういう取り決めをしていた。俺は見ての通り現役の工作員で、星側だ。で、ここにいる親衛隊って奴らは……その試みが上手くいった時に悪として切り離されるはずの人間だった。だから奴らはこういう場所に立てこもるか、破壊するか、もっとヤバいことをして自分たちを守りたかったんだろう。この場所の民間人たちは、モルト軍に協力することで飯を食っていた。ってこともあったし、格好の餌だった。闘いたくない人間と闘いたい人間が争ってこのざまだ」
クーは深く短く息を吐き、少しずつ赤く染め上がっていく部屋を見たまま、チャムレヴに言った。
「この場所に目を付けたのは当たりだったな」
「最もいのちが奪われる場所に飛び込んだってこと?」
チャムレヴが言い、少しの沈黙のうち、クーは声を出した。
「ああ。でも、今はそうでもない。奴の言うことが正しければ……」
クーは、今自分が命を奪い、不気味な表情のまま倒れている親衛隊の兵士を横目に見た。
「俺達の作戦は失敗だ」
「真偽不明の情報には惑わされない、でしょ?」
「ああ、だが兵士は、最悪を想定して動く」
「どうせ夢を見るなら、希望がいい。そのためにこの仕事を選んだ」
「壊れた窓からロープを渡して、下に逃がしてやる。その準備をするさ。もう、兵士は倒した。俺は最後までここに残って、誰か来たら上から排除する」
「もういいわ。クー、ここでいい」
チャムレヴは、口の端を柔らかくそして繊細に閉めて、小さく言った。
彼女の頬から玉のような汗がにじんでいる。
それはこの部屋に気温が炎によって上がっているからだけではない。
「あなたといたい」
そこで理解した。チャムレヴの腹部に裂傷が存在し、そして彼女が少なくはない血を流していたことを。先ほどの戦闘で吹き飛んだ破片によって、彼女の身体は傷つき、もう立てないことが分かった。
クーは何も言わず、チャムレヴを無理な姿勢から寝かせて楽にすると、止血するための最低限必要な応急処置キットを自分の作業服のポーチから取り出して広げた。チャムレヴの青い頭髪が、深い赤色の炎を照り返して透明に光っていた。
義眼はチャムレヴの身体に関する情報をクーに教えたが、出来ることはあまりにも少なかった。遠巻きにグラスレーヴェンの起動音が聞こえ、そして深い夜の終わりに最も暗く冷たい時間の中で、炎にまみれた静寂の中で、クーは意識が段々と薄くなっていくチャムレヴを抱えた。彼女は累積した疲労で、眠るように瞳を閉じた。
「OK。もういいぞ」
クーは零れ落ちるように言葉を紡いだ。
「最後に一番面白い、インタビューをしてやるよ」
チャムレヴは、目を閉じたまま、穏やかに呼吸して答えない。
「俺が若いころ、現役軍人の時だ。毎日戦争してた。もう枠組みも壊れちまったから覚えてもないが、主要何か国かが考えた「星を完璧に守るテクノロジー」を売りつけるために、意図的に起こした紛争の最前線だった。その中に、ティンベスタって地域があった。現地の人間は青くて深くて、海みたいな青い髪をしていた。そこに意図的に争いを起こし、時の政権を転覆させる陽動作戦を展開した一連の流れの中に、俺の部隊もいた」
クーの声は、喉から口の外に出て、胸元まで響いた後、だんだんと激しくなるどす黒い煙に巻かれていく。
「最初は利用してやろうとか思ってた。でも結局、自分に嘘は付けなかった。それだけだ」
チャムレヴの表情は何一つ変わらなかった。クーの身体にすべてを預けて、何も答えることはなかった。このまま全てを受け入れる準備を整えることだけに集中して、もうそれでいいと思った。
―――――その時、義眼に通信を受けた。
軍の機密プロトコルでもなければ、工作員同士の通信でもない、ただの電話番号に紐づいた一般回線からだ。
しかし、この番号は。
「もしもし」
「もしもし?おっちゃんなの?」
その声に、クーは、深いため息をついて言葉を詰まらせた。
「ああ、そうだよ」
「元気なの?」
「ああ、まだな」
「よかった……!僕もげんきだ!まだってなに?ここに来てよ!皆隠れてて、あんぜんだから!バンバン遠くで音も鳴ってたけど、もう止んだよ!すごく深い穴があって、そこにはソファもあって、缶詰もあって、警察の人がいて、見回りに来てくれて」
「よかったなあ」
そのくらいしか言葉を出すことはできなかったが、確かにクーはそう答えて、天井に黙々と上がっていく黒い煙を見ていた。
「よかったよぉ」
クーはそれだけでうなだれるように目線を落とした。
「警察官の人が、大丈夫だって!もう朝になったら全部終わるって、終わらせてくれたって、偉い人がそう言ってたって!だから多分、おっちゃんも危ない場所にいるのかもしれないけど!にげて!またおっちゃんに会いたいよ」
「そうだなあ」
「ああ、お母さんが、代わりたいって!いい?」
「ありがとうなぁ」
「……クー」
「生きてるぞ、まだ大丈夫だ」
「どこにいるかなんて聞けない」
もう二度と恐がらせたりはしないと思って、彼は問いかけた。
「旦那は?」
「無事だよ。ここでけが人を手当てしてる。でも皆、重症とかじゃない。今手伝ってて」
「じゃあ、俺は大丈夫だから、旦那を手伝ってくれ」
「また会えるよね?」
炎の外にあるはずの穏やかな藍色の空の透明さを想像する力はまだ残されているだろうかと思った。だがクーは、その問いに答えない。答えられないのか、答えたくないのか、その答えは彼にも分からない。
「ああ、分かった」
そうやってはぐらかして、そしておそらく通信の問題で、話している間に通話は切れた。
クーは、何かを思い出した。
そう言えば、アーティファクトは見つからなかったな。
作戦は失敗だ。レンにも、ビッグママにも、ここで働いていた同胞たちにも申し訳が立たないが、ここで終わるならそれでもいいだろう。
深い呼吸と共に、クーも目を閉じて顔を俯かせたその時。
クーが破った窓の向こうに、真っ赤な強い光が走り、部屋を照らし出した。
クーはグラスレーヴェンに向かって、嗤ったままだった。
あの漆黒の体をもつ鉄の巨人が、この部屋に向かって拳を振り上げるのを見た時、彼の視線の先に映った巨人が嵐のような何者かの接近を許したことを悟った。
耳が切り裂かれるような轟音と、凄まじく激しい光が視界を奪って、思わずチャムレヴをかばってうつぶせになるクーは、そこで何が起こって、何が終わったかも分からないまま、ただ時が静けさを取り戻すまで待った。
そして猛烈なフラッシュと共に、破砕された窓から数人の人間達がオフィスに入ってくるのが分かった。
「全員腹ばいになって武器を捨てろ」
その男たちと、炎の外側からやってきた消防隊員が消火器を吹き上げるのは同時だった。
「我々はウィレ軍だ。全員腹ばいになって武器を捨てろ。この地は我がウィレが制した。これよりの戦闘行為はテロリズムとなり戦争犯罪の対象となる」
鋭い言葉が空間を裂くように響く間、クーは頭の中で整理することも難しい様子で、もうろうと光が明滅する現場を眺めているだけだった。
「この場に戦闘員はいません。これより生存者を確認します」
「パイロットたちが来るまでに現場を整理しとけ。あいつも疲れてるからな」
「パイロット?それってアーミーのですか?」
「ああ、あいつらも原状復帰とか調査に駆り出されてるんだよ。なんだあのジスト・アーヴィンって名前のやつがうるさいんだ。あいつらが現着するまでに、生存者を全員見つけろ」
クーは、腰が砕けたように力を失って、笑っていた。
それを数人が見つけたのか、完全武装したウィレの兵士が近づいた。
「フェネスリテラ所属、クード・アルセルドか」
「間違いない」
「よくぞ御無事で」
「作戦は失敗だ」
「そうですか?」
「何かおかしいのか?アーティファクトは見つからなかった」
「あなたは生きてる」
そう言われ、クーはそこで眠っているチャムレヴを指さして言った。
「すぐにこの͡娘を頼む。すぐに止血して輸血して……生かしてやってくれ」
「医療班!」
ウィレの兵士はそう叫び、一連の逃走は終わった。
朝になった。
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