許されざる禁忌
大陸歴2718年 11月28日
モルトランツ解放までカウントダウン状態になったことが本国より打電された夜、クーはゆったりとした自室の椅子に腰かけて、窓から見える空を眺めていた。
駐屯地に潜んだ工作員のチームが死を賭した最終任務にあたるとき、それはモルトランツにも戦禍が再び伸びることを意味する。
そして我々はそのための浸透工作員。モルトランツ解放のどさくさに紛れて一気に潜入任務を遂行せよとの命令が下っても、何らもおかしいことはない。
≪友よ、この打電が君への最後の手紙だ。
我々はこの青き星を守るため、最後の戦いを実施する。
友よ。前の戦いで何十億もの人間が死んだ。この世界はその上に建てられた。
敵は強固なようで、実はぜい弱だ。だからそこに付け入る隙はある。
敵は許されざる禁忌を犯した。それもじき明らかにできるであろう。
もう十分だ。我々が命を捧げる理由はそろった。
このせっかくの平和だ。それを守るためなら、喜んでその地に赴きそして名も知らぬ人々のために死のう。その用意も覚悟も、我々にはある。
いい『知らせ』を持ってくる時には、すぐに受け取ってくれるよう切に願う≫
強固なようで、実はぜい弱。
許されざる禁忌。
このメッセージには、実は強い意味がある。
ミサイルが戦術的に無力とされた世界の中で、時代遅れの超兵器を成り立たせるには、自分の領域に物言わぬそれを置き、起爆スイッチに手をかけておくことだ。
『人質核』と呼ばれたそれが、モルトランツに配備されているということ。
そして文中にある、知らせとは相場が決まっていた。
コードネーム『ヴァンサント』とされるあの巨人たちの極秘情報。その動力源となる物質の詳細なスペックだ。
もしモルトランツ内で戦闘が始まればクーたちはあの文書を打った部隊の後詰として設定され、その工作員が任務に失敗すれば代わりに彼らの任務を遂行するように命じられるだろう。
『午後のニュースです。モルトランツに対して、ウィレ軍の手が迫っています。モルト軍司令部によりますと、ウィレが最後の攻撃のためモルトランツ周辺海域に結集し始めています。モルトアースヴィッツ政府は市民の保護を最優先するとの声明を発表しており、必要に応じて最寄りの避難区への退避指示を出すとのことです』
放送局のアナウンサーの表情は、げっそりとしていた。彼はこの戦争が始まる前からずっとこの番組の顔だ。放言が話題になることもある人情味のある語りが評判だったが、ある時から決まりきったことしか言わなくなった。
モルト政府も、生活レベルでの干渉を避けたい。その意向が、このアナウンサーの配置ににじみ出ていたと言える。
クーはシャワーを浴びた後のさっぱりとした爽快さを名残惜しむように、窓から吹く穏やかな風を受けていた。
秋の去り際に沈む夕日を見て、柑橘系の酒をグラスに注いで飲んだ。
そういう訓練を積んだ以上、クーが酒に酔うことはできない。
職場では皆に合わせて行動していても、彼らと本当の意味で同じにはならなかった。
モルトの月が白み、周囲が愛色に染まるほどに輝きと輪郭をはっきりとし出す。
遂に、モルトランツ領域内には、朝六時から夜九時以外の自宅待機が課せられた。
だから12月中旬になるまでに、すべきことを考えなければならなかった。
それは彼が潜入したほかの土地で定められた仕事を仕上げた後、去り際にしたことと同じであり、それは自分がこの街で暮らしていたことの痕跡を永劫に消し去る事であった。だが今回だけはその前に、大切な人に必要な指示をする必要がある。
彼の一軒家に書き手紙でも残して去ろうと思っていた。
ロバートならそれですべてわかってくれる。それで自分とあの家族とのつながりも、もう終わりだ。この世に未練など、一つも残す必要はない。
メールの通知が届いたのは、その時だった。
『突然ごめんよ。近く会えるかい?』
ロバート・マーフィンからだった。クーはメールを開封済みにした後、着信拒否にした後に、内容を消す、その一連の捜査が始まる最初の×字マークに、手をかけた。
『どうしてもお礼がしたいんだ。君の仕事の休憩時間にでも。トラックはどこかに泊まれるだろ。公園でもどこでも』
クーは、指を動かさずに止めたまま、突っ立っていた。
『すまん。早朝に三角公園なら。日は合わせる』
そう打つとすぐに返事が来た。
『ああ、そうだね。三日後が丁度休みだから、そのときにしよう』
三角公園はモルトランツ市に百か所ある。何気ない空き地にある公園は全部その名前だ。そしてクーとロバートが三角公園と言ってしまえば、彼らが合点する場所は一つしかなかった。例え善意のシャツから入れ替わった、市民をストーカーする変質者のようなモルト兵がこれを見たとしても、この文句だけで十分だろうと思った。
クーは、職場への道を歩いて出勤する。各地に荷物を運搬するトラックを停留させるポイントで、運送業者のつなぎに着替え、そして荷捌き場へと出発する。
今日は一時間も繰り上げて家を出た。そして出勤ルートを少し迂回して目的の場所に着くと、その敷地内に足を踏み入れた。
「やあ」
自宅待機が解除されて間もない、六時半に公園に着くと、ロバートが立ち上がって手を振っていた。
「驚いた。ここが分かったなんて」
「何でできたかは、まあ聞かないでくれ」
ここは幼い時に二人が遊んだ思い出の場所で、この雲梯もブランコも滑り台も、補修されてペンキを塗りなおされてぴかぴかだ。
この公園が破壊されることなく、ずっとここにあることはそれだけで幸運と言えた。
クーは穏やかに微笑みながら、ベンチに歩いてロバートの隣に腰かけた。
「サミーの風邪は治った?」
「おかげさまで、熱は下がったよ。あとは少しの咳だけ」
「そうか、あの子の咳を聞くのは、俺もツラい」
「また仕事で病院にいなきゃいけなくて、妻も息子にも寄り添えない」
「仕事だ。しょうがないだろ。訪問医だっけ?」
「人手不足で今はね。フレイルになりそうな高齢者の家に行くこともあるし、精神的によくない人を尋ねることもある」
「君がこの街を護ってるんだな」
ロバートはウィレ人だ。そしてリズはモルト人にルーツを持っていた。モルトランツの中でも評判の名医が彼だ。開戦から二、三度、迫害もどきのような嫌がらせがあってそのたびに、患者や周りの看護師に助けられていたことはリズに明かしていない。
しかしロバートからのメールで、クーはそれを知っている。
「ありがとう。でもそんなもんじゃないさ。だけど戦地から運ばれるような重篤患者を、以前みたいに診なくて済んでいるだけでも感謝しなきゃいけないのかも」
「本当にその通りだ。街の屋上にある大砲が憎いな」
「ありがとう、クー。リズを助けてくれて言葉もないよ。改めてさ」
「いや、いいんだ。俺のできることといえばこのくらいだ」
「クー……そんなことは」
「いや、それしかないんだ。俺は嘘をつくのが嫌いだ。つきたくない嘘をいくつもついてきた。でもそれが、人のためになるんだったら別にいいかって思ってきた」
「トラックドライバーも?」
「さあな」
そうか。そのことだけでロバートは、様々なことを察したようだった。
だって彼は、頭脳明晰な医者だ。この公園で遊んでいるときは、むしろ彼の方が様々なことを予測できた。あの雲梯でクーが鉄棒をつかみ損ねて転んだ時も、そうなるから雲梯で遊ばないと拗ねていたのはロバートだった。
リズもロバートも、それからクーもこの地元で育って、そしてリズだけがこの土地で普通の人生を過ごした。
ロバートは人を治す道を究めるためにこうとシュトラウスの大学医学部を卒業し、クーは人を殺す道を究めるために西大陸に渡った。ロバートとクーは入れ替わりだった。浪人して軍学校に受かったクーが西大陸に渡ったころ、医学を修めたロバートがモルトランツに帰ってきた。それで彼らは大人になった。
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