結 すべてを、終わらせろ
犠牲
大陸歴2718年 7月18日
真っ暗な部屋の中に、コトコトと煮込まれたスープを照らすセピアの光があった。
「状況を報告しろ。特に5日前にモルトランツ荷捌き場で起きた事故について」
そしてクーの自室にあるデスクの前には、青白く光るデスクトップの光があった。
モルト軍の内部に入り込んだ工作員たちがもたらした情報は、クーが伝えていた情報に付け足される形でそこにあった、しかし先方からの答えは芳しいものではなかった。
『アルド。残念ながら君の期待する情報はない。月領域に仲間を送れない以上はより多く手を伸ばすことができないのが現状だ』
「捕まえてバラしても動いてる仕組みすら解らないなんて、どうにもならんだろ」
『説明したとおりだ。それを掴めない限り任務は続行される』
グラスレーヴェン。コードネーム:ヴァンサントと命名された巨人。
「心臓の動力……。奴の血」
と言いながらクーは、リクライニングを下げた椅子の上に、ほとんど寝ころんだまま手に取ったウィレ鶏の卵を投げては、目の前でパシリと音を立てて掴んだ。
『ああ。揮発、爆発性の非常に高い物質であることくらいだ。解っているのはな』
『その物質は液体、固体、気体に変化するか、何らかの化学反応を起こす度に巨大なエネルギーを発散させる。そのため、特殊なコーティングを施された容器を不用意に触るだけで爆発する。ウィレの外気に触れるとことごとく化学反応を起こして爆発する。その後は跡形もなく消失する』
二、三投げては掴んで、椅子から立ち上がり電気コンロの前に立つ。
カラン。クーは卵を机で割って、流体のような黄身と白身を透明な器に流し込み、チョップスティックでかき回す。
ディスプレイ上の戦場写真にはチャムレヴが記事にした北岸会戦のものもある。
『各戦線での結果から、奴の体を切断すると緑色の光る液体が出血することが分かっている。だがその血は戦闘終了後、回収できなかった。跡形もなく蒸発していたからな』
「そんな不安定なものを血液にできるのか、あの巨人は」
流動する卵をコンロの上にある熱したスープに流すと半熟卵のベールが現れる。
敵機を回収し分解した結果、内部にヒトの動脈と静脈に近い流体を循環させるパイプが通っていることが明らかにされた。
それはすなわち、心臓にある時は固体に、流動するときは液体になり、発散するときは気体になって、空気に混ざって消えてしまうことを意味する。
組まれた一つ一つのパーツが精妙に構築されていて隙が全くない。
それは一つも間違いを起こせない、敏感かつ繊細な機構で動いているのだ。
『月から表出した物質であるには違いないが、通信手段が文字通り一つもない、ブラックボックス化した国家が相手だ。何も分からない。それらしき施設は確認されてもどこから掘削して、そこで生成しているのかすら不明だ』
「石炭、石油、核燃料、水素の次に来るエネルギーってところか」
『その扱い方も奴らにしかわからない。職人気質に裏打たれた高い品質管理の能力が可能にする芸当だ。ウィレにはできん。しかし対抗策を用意することくらいはできる』
「言い切ったな」
『すでに結果が出た。正確には出した、といったところだが』
「そりゃいいね」
ラインアットアーミー《ウィレの当て馬》がグラスレーヴェンを倒した。
その映像記録がクーの前に再生されると、出来上がったスープを飲む手は止まった。
地面を走るロケットか、それとも暴走する車両のような、とにかくグラスレーヴェンの何倍もある巨大な鉄の塊の目が光る。その様はさながら、テクノロジーの鎧を纏う獰猛な獣だ。
『これが我々の意志だ』
「最低クラスでも大きさはヴァンサントの1.5倍……いい的じゃないか?」
『超高速リパルサークラフトによる慣性無視の変則的スピードには奴らでも対応不能だ』
そしてライリアの声は、鋭くクーの耳に響いた。
『これが我々の本気だクー。作戦成功率は八割以上だ』
「奴らがいろんな巨人を作って試してる理由が分かったよ。残り二割は?」
『惑星環境を厭わない
「条約無視だな」
『奴らは味方の兵士にすら告知せず、焼き払う。これが専制主義だ。だから我々は穴倉から徹底的な防御を敷いて対応する』
スープの温かさも、舌で感じ取れないほどに場の空気は凍り付いている。
「都市で戦争はやめろ。荒れ地に隕石が降ろうとも、お前たちが勝手にやればいい」
『それは飲めない。作戦内容による』
「またそれだよ。だから正規軍を抜けた。お前らは無茶苦茶な奴らだ。組織だ」
『君の気持ちは解る。だが民間人の避難勧告も、事前告知も十分行った上だ』
「足の動けない人、したくてもできない人、家を愛している人も巻き込んでか」
『モルトは都市機能を失わせるほどの破壊は望まない。月の経済はウィレの惑星を賄えるほどの経済力を持っていないからだ。だから積極的に都市を破壊するわけではない』
「そして?モルト軍が都市を攻撃すれば奴らのせいだとのたまうわけだ。お前達は」
『ウィレの航空兵力はすでにほとんど失われた。空軍の皆のおびただしい犠牲と忍耐の上に、我々陸軍の最終兵器の意義がある。全てはこのため、この時のためだ。君は納得してくれると思ったがな。どれだけ我々が血を流したか。それを解らない君ではないだろうに。これは絶滅戦争だ。その分別もつかないのか?』
お前は。そうライリアがこぼすように確かに言った。冷徹な指揮官ではなく、かつて海の向こうの大陸でともに戦った戦友の口ぶりそのものだった。
そしてライリアは、口惜しさを混じらせながらこう言った。
『この戦いから逃げ出し、自分だけの自由と幸せを選んだお前に言えることなのか?』
クーは、唇を震わせた。
クーは、失望の後に軍隊から身を引き、この仕事をしているその人生を選び取った人間として、発言するしかなかった。
「人のために仕事をしてる。大人としての基本だろ」
そしてライリアは、次の言葉を話すうちにいつもの説明口調に戻っていった。
『我々の自由と民主主義のための闘いを、とやかく言われる筋合いなどあるものか。お前は我々を支える情報を提供し、今も犠牲となる貴様の代わりに戦って死に続ける将兵の為、できることの一つでもしろ。これは友人として、指揮官としての忠告と命令だ』
「俺が死ぬのは別にいい」
その言葉にクーは、ただ従順に答えて通信を切る。
「この街を犠牲に何かを果たしたつもりになるのは許さないぞ」
ライリアは口をつぐんだ。
乱暴な口ぶりを軍人らしく咎めだてたりはしなかった。
そう、友に対して独り言ちるように言って、温かいか冷たくなったかわからないスープを飲み干す。
「この戦いは無価値だな」
月の軍隊は依然、隕石による完全破壊でウィレを脅す。
しかし大都市を破壊して復興する能力は連中にない。それは旧世紀の核ミサイルによる破壊の呪いと同じようにように、この戦争に影を落とす。
かつて狂った独裁国家が、戦争が忘れられた時代に一方的な侵略戦争を仕掛け、平和な国を核で脅しては国境を削り取っていった。一方的な被害者と思われたその一国は、しかし予想に反して粘り強く抗い、結果として眠りに落ちた国家たちを結束させていった。人間は悪を為す。成しえる。いいことも悪いことも、その両面を持った国々、その互いの利害を超えて結束した自由社会は、究極の鬩ぎあいを経験して……。
この戦争の背後にある核の撃ち合いによる絶滅戦争と、その時代は別の話だ。だがその蛮行とそれをめぐる人類の葛藤自体は、いまだ人類が宇宙に進出しようが変わることなく続いて、そしてまた争いが起こった。人類は悪を再び為した。為した以上成しえぬように、心あるものから立ち上がるしかほかに方法などあるものか。
誰も無関心にはなれても、慣れても、無関係には決してなれないのだ。
未来的テクノロジーの粋を集めた荷電粒子砲、レーザー。または征服の象徴のような人型機動兵器……しかし、この戦争は月がその気になればそれは必要にもならない。
いつでも終わる。終わりうる。それはこの水の惑星を、月と同じ灰色の穴ぼこだらけの環境に一変し得るおびただしい数のメテオ・ストライクで、この戦争を画策した政治やと金の亡者どもが立てこもる核シェルターほど掘り返すことだ。
進歩もテクノロジーも、人の心も国家間の条約も関係がない、ただただ悪魔の意志のもと惑星の水面に石ころを当てて、地獄の業火で掘り返し、焼き払い、すべてを殺しつくすのだ。
だがそれがいかに野蛮なことか。
そしてモルトが月にある以上、ウィレは反撃能力を持っていない。
奴らの人道的余裕は、この圧倒的な宇宙地政学の上に成り立つだけの話なのだ。
宇宙という場所を手に入れなければ、その破壊を止める路を見出すことはできない。
だから今も屋根もなく戦う兵士たち、飢え苦しむ難民たち、それを透明な窓越しに眺めて日常生活を送るいまだ本当の戦禍を経験することのない住民たちをクーは思った。
そして本当に巻き込めない。
そう思った。
だが、クーは怖かった。
頭で分かっていてもその胸に、見聞きしたすべてが促す言葉にならない何かを、命に代えねばならない何かを、その心に落とし受け止めるには、時間がかかった。
そうする間にも、人は死んでいく。
無機的に光るディスプレイの淡々とした文字が、この上なく乾いて見えた。
≪モルト軍、東大陸北部と南部に分断。
ウィレ軍、総動員兵力が開戦時1500万人から増加し5000万人を突破。
現在はウィレ軍による東大陸での大反攻のため戦力兵站の再調整中。
作戦は東大陸南端、フォール岬のモルト軍駆逐を目指し、大陸南部のモルト軍拠点、軍港都市ヒルシュ陥落の完遂を主眼に置く任務となる≫
クーはそのディスプレイを消すと、欠伸して天井を見た。
窓の向こうに広がる景色は、戦争など無縁のように静かだ。
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