カメレオンの変節
そうやって、前と違う場所の違う道のベンチに座り、何度も米のお菓子を味わって噛んでいる間、指にべた付かないようにまぶされた粉を弾いて落とすと、その指と指の間に見えた、立っている人間に向かって言った。
「食べる?」
彼女は客人だ。
サミー親子の後に予定していた。
しかし心穏やかに接せる相手ではなかった。
「いいえ、遠慮しておきます」
チャムレヴ・パカド記者が無表情で言った。クーは頬の膨れてろれつが回らない。
「ふぇつにふぁいしゅうひゃない」
「あの。なんて言ってるの」
クーは口に含んだものをごくりと飲み込んで言った。
「買収じゃない。これはおすそ分けってやつだ。善意の」
「はあ。でも要りません。甘いの苦手で」
「あっそ。まあ、座れよ」
「元軍人さんでらっしゃるんですね。お話を聞けると伺っていましたが」
「そうだよ。こっちも複雑な心境ってのがあるからな。匿名でやってくれれば」
チャムレヴは、クーの向かいにある背もたれのない机にもなりそうな椅子に、小さく着座して小ぶりのバッグからいくつかのファイルを取り出そうとした。
「撮んじゃねえよ」
チャムレヴの左胸元に差さったスマホカメラのレンズが、自分の顔を見つめているのを感じてクーは言った。
「すみません。これはただの不注意で」
「言い訳すんじゃねえ」
チャムレヴは少し動揺したようにスマホを手に取ると、クーの目の前で電源を消して、パンツの右ももにあるポケットに入れた。
「録音もすんなよ」
ええ。彼女の思いもよらぬといった真顔は、かえって何の企みもないことを証明している。クーは半目で顔を上げて空を見ていたが、向き直ると仕事の話を始めた。
「そういや、あんたの記事を読んだんだけどさあ」
「ありがとうございます」
「よかったよ。リアルで」
「あの現場、全部終わってから半日で奇跡的に入り込めたんで。偶然が味方したと思います。モルトの兵隊も協力的でしたし」
「へえ。そりゃ正義の軍隊だな」
「ポーズでしょ、あんなの。ただ人当たりはみんなよかったけどね。二年前初めて入った現場よりはまし」
チャムレヴは元軍人を名乗るクーにリップサービスをしながらクーの質問に答えた。
「どこ?」
「西大陸南東部ティンヴェスタで、ウィレ政府から資金提供された政治家の元首就任に端を発する市民の反乱。ウィレ治安維持軍の態度は目に余ったわ」
「ああ。そんなのあったね」
気の抜けた発泡酒のような声でクーが答えた。
「あなたも参加した?しててもおかしくないわ」
「さあ、どーだか」
「なんにせよ。世界の無関心は金になる。そう言ったほうがあなた向けでしょ」
「必要でない話はしない」
クーはにやりと笑って、スマートフォンでチャムレヴのソーシャルメディアサービス:イルマスのアカウントページを開く。あーそれで。と言いつつ
「えーっと。大手新聞社アルクリアを解雇された後フリーになったチャムレヴ記者の最近の仕事ぶりは、イルマスで占領下のモルトシティ市民の暮らしぶりのレポート、犬、猫、子供、高齢者、学校、幼稚園、レストランの料理……」
チャムレヴは少しいらだった様子で言葉を挟んだ。
「変化を追ってるの。この街のすべてをね」
「ここが壊されるまでの変化?」
「この街を知ってもらうため、無関心を消すため」
「目的は何?世界平和か」
「そんなところと思ってもらって構わない」
「熱いねえ。君みたいなのが新兵ならいいが」
チャムレヴの目が本気の怒気をはらんだ顔になる。
そして彼女はクーに問いかける。
「ウィレの軍人さんなら毎日苦しくないの?こんな状況。本国からの支援も、協力もないなんて。見捨てられたと思わないの?」
「あの巨人に勝てる能力をウィレが持つならそう思ってる」
「現状は勝ち目がないと考えてる?」
「さあな。もう軍人じゃない。予備役以下だからわからん」
「何も言う気がないのね」
「まあ、それに関してはな」
「へえ。だったら時間の無駄だったかしら。態度の悪いウィレの元軍人の話を記事にして終わりにしましょう。その価値はあった。ウィレの軍隊は、上から下までこのモルトシティのためなんか思っちゃいないってね」
クーはチャムレヴの言葉を聞いて黙り、そしてある確かさをもって口を開いた。
「この街にこだわるのは、金がなくて家に帰れないからか?同情を買えるからか」
「違うわ」
チャムレヴははっきりとそう答えた。そしてクーから目線を外して大きな川の流れを見ると、唇をあらためるように口を閉じてこう言った。
「放っておけないからよ」
一陣の風が吹き、チャムレヴの流れるような髪の青色が、深まるのを見た。
「この街も人も、好きになってしまったから」
その奥の瞳が信念を宿らせているのを見た。
「いいだろう。これは元軍人としての回答だ」
そしてクーはチャムレヴに笑んで見せた。
「でも、俺の話は聞かせない。何も言うつもりはない。まだな」
「まだ?」
と少しクーの答えを待つように口にしたままのチャムレヴに、クーは適当にカーゴパンツのポケットにしまっていたカードを取り出し、ウェットティッシュで指紋を拭いて渡した。
「とりあえずこれで暮らせ」
それはストアレコッカレのショッピングカードだ。仕事で荷物を運搬した後、買い物で付いたポイントカードが万単位で溜まっていて、使うのが面倒臭いまま放置していたものだ。カードに情報が紐づいていないので、個人情報はない。
「買収?」
「違う。ただの善意だ。俺の背景とは何も関係ない。ホラ、SNSにアップロードしてるお前の貰いもんと一緒だよ」
「ありがとう……ございます」
「まあ、半額引きとかの弁当に使って賢くやればいいさ」
「私に何かを期待してるの?」
「そういう訳じゃないが、まあ、そのまま活動すればいいんじゃねえかな」
それは上の句と下の句で全く違う、建前と意図だった。その世を捨てたような物言いの中に込められたクーの思いをくみ取るチャムレヴは、若いがさすが記者だと言えた。
「モルトシティがこの後どうなるか知ってるの?」
「何も知らん。そうじゃなきゃモルトの奴らに捕まってるだろ?」
「わかった。詮索はやめておくわ。あくまで協力者として」
「そうだ。チャム」
「チャム?」
「まだレヴってんじゃない。かわいい女の子って感じだからな」
「サイテーね」
と言いながらふざけたように、呆れるように、白けたようにチャムレヴは笑う。
「よく言われるよ。俺のことはまあ、クーって呼べ」
ショッピングカードを指で挟んでひらひらしながらチャムレヴは言った。
「ありがと」
それでこの会話は終わって、素知らぬ他人のように二人は別れて去った。
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