紛争幻想・幻惑妄想
耳鳴りがする。
激しい耳鳴りだ。
ずっとジリジリと鼓膜を震わせる重低音が響き渡ってこびりついていた。
耐えがたいその耳の不快感に。
「クー!」
名を呼ばれ思わずカッと目を開いた。
あたりに広がるのは、黄土色の煙と瓦礫だ。
動悸が忙しく心臓を圧迫して、よく声が聞こえない。
「クー!しっかりしろ!急げ!ここにいるな!」
友の声がする。
両手で握っているのはアサルトライフルで、向い合せの壁からは風切り音が絶え間なく聞こえ、掠めた弾が後ろの建物をえぐっていた。
ばねのように、身をかがめて走る。
―――曲がり角の先に起爆装置。
ナビゲーションの音声に身をかがめて立ち去ると、爆発音と同時に、悲鳴が聞こえてくる。
その声の主が兵士であり、敵兵であると信じて走る。訓練を思い出し、建物から建物へ、壁から壁へ、物陰へと動きながら的確に明らかに戦闘服に身を包んだ兵隊を撃ち抜く。今にも、奥に二人を見た瞬間、銃身が動き、射撃が正確に敵の頭と肩を捉えたのを見て、自分は素早く身を隠した。
そこには、自分の名を呼んだ仲間がいた。
「クー」
相手は鍛え上げた体とその瞳の奥に、自分と同じ臆病さを宿していた。
「ここは地獄だ」
「ああ」
クーは、語彙を失ってただ付和雷同していた。
「意味あるよな、クー」
「ああ」
その虚ろな声に、仲間は念を押すように、肩を揺らすように言った。
「俺達の仕事に意味はあるよな?」
ふと壁ごしに敵の方向を見ると、そこには逃げまどう明らかな子供が見える。
足元に逃げ遅れた大人たちがいる。
彼らはまだ生きている。
「逃げろ!逃げろ!」
言いながら引き金を引き、とにかく相手を、逃げる人々を襲いそうな軍服を着た連中を撃ち抜こうと試みるその時、対岸に構えた敵の瞳は、私と全く同じ瞳をして、人を逃がそうと懸命に銃を構えていた。
一瞬、引き金が遅れた。
気おくれした。
耳元で跳ねた弾が爆ぜた。
恐怖に身をかがめ、戦場の掟をかえりみる。
時、ウィレ・ティルヴィアという超大国連合が、それまでの兵器を無効化する自前の防衛システムを完成させ、惑星ウィレの隅々に売りさばくことによって、世界を統一させようという動きを、活発に広げていた時だった。
クー・アルド・セルドは、民主主義連合軍の尖兵として前線へと赴き、粉粒のようにたわいのない、時代遅れの全体主義的国家が抱く野望を打ち砕くための闘いを、この晴れた空の荒野で繰り広げていた。
そして子供は硝煙の中に消えた。
急に心配になって。
そして反射的に、煙の中に突入していくクーは、任務を忘れた。
「クー!行くな」
別の同僚の声にも、振り返ることなく、ゴーグルの探知機能を使って小さな人の形をした影を追って、走って、走って、探した。
徐々に視界が開けるほどに、自分が撃たれるリスクが上がる、そんな基本的な知識も吹き飛んでいた。何せ初めて、戦火に巻き込まれる民間人を見てしまったのだから。
いったい誰が始めた戦争なのかは分からなかった。
身をかがめることも忘れて辺りを見回していた。
やがてすすり泣く声が聞こえた。
ここは三差路の交差点、自分の右手に広がる道の始まりに、彼か彼女か、あの子がいる。人形のように思えた少女の身体を見た瞬間、覆いかぶさって、更に炸裂する爆発に耐えた。
「クー!死ぬなら一人で死ね!」
明らかなる上官の声が聞こえ、そして自分が飛び出してきた方角から面を制圧するすさまじい火砲の嵐が聞こえて、そして鳴りやむ。
耳鳴りは止むことがない。
視界は晴れることがない。
ようやく陽光がさして、そこで初めて状況が飲み込めた。自分がとっさに、子どもを探して走りだし、覆いかぶさったことを知った。
息を切らして手を衝き、体を立て直した時、その子供の顔を見て、その透明な瞳のまつ毛に眉毛にも黄色い埃が付いてしまって、よく目が見えなくなっていることを解った。
そして子供は、いやだと言って、ごつごつとした自分の手を振りほどいて走り去っていった。
その手を引っ張ることはできなかった。
子供がどの方向へ逃げて行ったのかも分からないまま、座り尽くした時、
「クリア!」
男の声。
声を呼んだ味方が走り寄ってクーを守る陣形を組んだ。
「背後に注意しろ!」
女性の声。
そして屈みこんで手を貸す仲間は、クーに問いかけた男だった。
「ジスト……」
「気持ちはわかるが、無謀だ」
その男、ジスト・アーヴィンは共にこの仕事をする同僚であり、無二の友だ。
だがこの時、彼も若い新兵だった。
彼はクー以上に、自らが進むべき道に悩んでいた。
「あの子は?」
「俺達には懐かない。諦めろ。そう教えられてる」
「ブリーフィングで説明しただろうが!このゴミ屑!」
恐ろしいほど腹に響く、白眼を剥いた鬼のような形相の隊長に睨まれて、蹴られてクーは、その反動で立ちあがると胸ぐらを掴まれた。
「生きてたって死んでたって構わん連中の為に、隊の全員を危険に晒すな!」
そのまま腕を伸ばされ、胸を押されて思った。
そうだ。
そうだった。
この戦場では、俺達が侵略者だ。
虚ろな目で立ち上がり、そこからは機械のようにライフルを振り回し、敵を撃ち倒す。チームの先頭に立ち、最も優秀な歩兵として働くために、自分を自分たらしめる言葉を唱える。
優秀な兵士、完璧な戦術、敵は抵抗勢力、遅れた政治体制。
その度に彼は、一射一殺のトリガーを引いて回った。
間違った抑圧、住民を苦しめる敵。隊列は乱さない、仲間はかけがえない、共に戦う仲間の為、死を恐れない。通りに多数、自爆ドローンを起動、三人を倒す、攻めにくい地形、仲間の到来を待ち、面を制圧、袋小路に追い込みグレネードを投げ込み、壁を割り、がれきを崩し、五人を倒す。
死んだか。
後続の為、敵の死の確認が必要。
接近を試みる間にライフルの弾が切れる、補給を、しかしマガジンがない。
壁はどこだ。急に不安になる、焦る。壁を見つけ隠れる。
敵の足音が大きくなる。顔の付近で爆ぜる。敵の弾があと数センチで体を掠めていく。弾痕から推察、いまいち敵は、自分の位置を知らない。もういい。
空になったアサルトライフルを、目立つ方向に投げた。
ここにいるぞと敵の声が聞こえる。
腰だめにあったハンドガンを抜き放って中腰に構え、ライフルを拾いに行く敵を撃つため、トリガーを引く指が。
「おっちゃん」
そこで、はっとした。
身体を凍り付いたように固く微動だにしないままに、マブタを二回しばたいた。
『戦闘デモンストレーションを中断します』
視界と感覚器官を電気的にハッキングした義眼の、戦闘訓練が終了した。
義眼ではない肉眼を開いた先に、サミーが手を振っていた。
クーは、何も持っていない、丸めた手をそのままに、フローリングに倒れ込んだ。
「おっちゃん!」
「大丈夫、大丈夫だ……サミー」
「おっちゃん、かぜなの?」
「風邪じゃないけど、ちょっとゆっくりしたいな」
粗い息で、笑んで見せる。
「げーげーしたいのかと思ったよ」
中腰になっていたから、吐くのと間違えたのだということが分かる。
そこで慌てて、リズが駆け込んできたのを知って、大きな息を吐いた。
「ああ、君か」
「ごめん。家の中すごい音がするのに、ドアは半分空いてるし、メールも電話も反応なくて、心配したから」
「そういうことなら今日来るって言ってくれよ……」
少々の不満を含んだ小声を発すると、リズィが申し訳なさそうに答える。
「今日、クーの誕生日でしょ?」
「ああ、そうだった」
本当に抱えてる仕事なんて、二人が分かりっこないのだから、当たり前だ。
クーは努めて何ごともないように振舞おうと、立ち上がって見せる。
そして本人の精神と結びつきすぎると、本人の夢とさえ結びついてしまい、幻惑作用を引き起こす場合がある。
だから通常、エラーによる中断は推奨されるものではない。
夢と現実を分ける訓練を受けていないと、錯乱状態を起こす可能性すら秘めている。
「来ちゃいけなかった?」
サミーは申し訳なさそうにクーに聞いた。
「いや、そうじゃない」
クーは、そのサミーの透明な瞳を見て、すぐに答えた。
「そんなことあるもんか」
サミーの小さな頭の輪郭を確かめるようになでて、彼の存在を確かめたクーは、窓から吹く心地よい、モルトランツを渡る風を感じて、穏やかに照る陽射しを肌に当てた。
「水、ちょっとくれないかな」
「うん」
リズィはすぐに、蛇口から出る水を、透明なコップに注ぐと持ってくる。モルトランツの水は新鮮で、豊富な地下水であるが故にそのままおいしいと評判だった。その冷たい水をのどに通して、落ち着く。
「ああ、二人とも。座ってくれ」
いつも自分がだらしなく寝転んでいるソファに向かって二人を案内して、
「料理でも作るからさ」
まともな人間としてふるまおうとすると、リズィが首を横に振る。
「私作るよ。卵の料理。昨日旦那にほめてもらったんだから」
「ロバート?」
「うん。この冷蔵庫の中、使っていい?」
「あ、ああ……ありがとう」
するとサミーが横からご機嫌に言った。
「おっちゃん、これ見て!」
サミーがリズィの携帯端末の画面を光らせた。そこには、サミーによく似た男が、そわそわと困ったように眉を上げて、こちらを見ていた。
『クー。あー。その。いつもリズとサミーがすまない。君の誕生日だって聞いて、二人にこのメッセージを録画してってせがまれてね。……誕生日おめでとう。君と僕とは子供の頃から……』
と言っている途中でサミーの広げた端末を掌で隠した。
嫌だ。コイツの顔は見たくない。
ただ同時に、圧倒的な現実に引き戻されて、それはよかった。
俺は、間男だ。
「父ちゃんの話はあとで聞くよ。大切にね」
「ごめんね、早かった?」
「そんなことないさ」
台所でリズが冷蔵庫を物色しながらいろいろと小言を言っている。
「うわ、加工食品ばっかりね、野菜とか買ってさ、もうちょっと食生活をちゃんとしないとさ……」
その忙しく動く後姿を眺めたのはいつぶりだっただろうか。
彼らのいう事を聞いて、今日は過ごそうと思った。
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