希望と栄光。彼岸と、悲願。
大陸歴2718年 6月4日。
自宅は1LDK。
小部屋が一つある。
ちょっとした八階建てマンションの五階で無駄なものは置いていない。
かつてはここに来る客の目を引くために映画のフィギュアとかポスターとかを配置してオタクに擬態していたが、三十を超えると人との交流がなくなるから、自分の本性を見せる必要がなくなってすべてフリーマーケットサイトで金に換えた。
一番高額だったのは生誕百周年を祝って発売された、翼のある怪獣のフィギュアで、確か生まれて初めて自分一人で映画に行った時に見た、その作品の着ぐるみを忠実に再現していたものだった。
後ろのポケットが振動して、クーは端末を取り出して液晶画面を見た。個人用SNSに動画が投稿されている。
リズが撮影者で、サミーが画に収まっていた。
『そんじゃ、詩を朗読してください』
サミーは、身体を丸めながら縮めながら、揺らしながら手に持った教科書で顔を覆って、そして顔を話してはにかむ。
『どうしたの?』
リズィが聞くと、サミーはうーん、恥ずかしい、という。
『えー。やめちゃう?』
『うーん』
『やめちゃってもいいよー?』
『えー?……うーん』
と笑いながらサミーはもじもじしたまま。
『でも、皆に発表したいんでしょ?』
『うん』
首を縦に振ると、リズィは明らかに笑顔をサミーに向けているように感じた。
そういう母親だ。その母に勇気づけられたのか、サミーは教科書に書いてある言葉をいよいよ読み始めた。
まるで授業に来たような、こそばゆい緊張感に満たされる。
『希望を抱こう。
希望からヒガンが見える
ヒガンから希望の道が見える
希望を抱こう
どんなに遠くとも
どんなに苦しくとも
希望を見失わないために
希望を追いかけて
その背中をつかまえよう
すがりついていてもいい
希望につかまって
希望とともに
歩んでいこう。だってこの道は、
すべてが叶う場所へと
続いているから』
リズィが言った。
『よくできました』
画面に向かって、
「よくできました」
クーが答えた。
サミーが教科書を畳むと、思い出したかのようにカメラを向いた。
『ねえねえ、おかあさん、ヒガンってなに?』
『んっとね……あ、終わった』
そこで動画は切れた。
ヒガンか。ウィレ語には向こう岸、という意味の言葉しかない。
別の言葉で同じ音には、悲しい気持ちになるほど果たしたい願い、という意味もある。もう一つの意味もあったはずだけど、思い出せない。
調べて母親に送っておくか。
そんな事を考える。
物音一つない、静かな部屋で。
クーはキッチンに置いていたカップのビニールを破くとごみ箱に捨て、てっぺんのふたをはがす。
そこには麦を練って作られた一つ一つ糸状に形成された麺が、調味料の粉とともに乾ききっている。
すでにケトルの中の水は沸騰し、白い息を吐いてパチッと止まった。
カップにお湯を注ぐ。
今、自分の部屋にあるのは必要最低限の家具、そして山と積まれた雑誌に本、政治経済についての論文。すべてほんの数か月前の戦前にネットでそろえて製本装置であつらえたもので、現在は閲覧不可のものばかり。
そしてブロードキャストにでも使うのかと勘違いされるようなマイクと、開閉しない一枚板のような薄いPCモニターがある。
麺を絡めとる専用の匙と、カップを持ってその前に座ったクーは、片方のこめかみを中指で静かに押した。
するとPCの端末が光を帯びて、真っ黒な画面に青い線で作られた暗号通信インターフェースが起動した。
「本日も定刻通りだ」
『エージェントを認証。通信を承認します。ネフステッド通信。レゾヴレ・システムリンク正常。ようこそ、アルド。コード:バルディロイ、追証しました』
「状況を報告しろ。コード:ライリア」
クーは、カップに湯を注ぎながら言った。
クーの耳の中で言語インターフェースがささやく。
『この地域で開示可能かつ確定的なウィレ・ティルヴィア政府軍の戦況報告です』
画面にはマスコミすらも知りえない高度な軍事情報が表示される。
「ノストハウザンを守ったっていうのか?」
モルト軍全戦力の7割に及ぶ機動戦力を喪失。
モルト軍に決定的かつ致命的な打撃を与えたもよう。
その圧倒的な戦果に、クーは言葉を失った。
「いつものことだが嘘はつくなよ。アーミーが投入されてこっち、月の前進が止まったように思えるのは、本当のところだが」
『モルト・アースヴィッツ政権下の世論工作とその結果です』
「とはいえ奴らの信念をくじくのは無理だろうな。情報もないだろうし」
『ウィレ・ティルヴィア領域内民間企業各社SNSのワードとリアクションの概況、キーワードによる国民感情の変化と世論形成の結果です』
「民主主義をまとめるのは一苦労だ」
『モルトランツ市警の内況説明とモルト軍内規の緩みによる犯罪や過激化による市民圧迫の懸念』
「市警は思ったよりうまくやっているようで安心したけど」
その時、明らかなる人の声が返答した。
『絶え間なき協力に感謝する』
その声は濁り、性別も年齢もわからない。
「それで通信状況は今よりマシになるのか?」
『残念だアルド。現在我々の衛星は全て落ち、地下からのぺアレンタルクレア・ファイバー通信のみでしか我々の繋がりを担保できない。君達のような現場の目と耳が……」
「あーわかったわかったその説明何回目だよ」
濁った声は、聞き慣れないと判別できないが声の主自体は流ちょうなウィレの言語を話している。
「インターネット開通直後の時代ってこんな風だったんだろうな。曾婆と爺が若かったころみたいな。リモートだと音も画面もカクカクしてウザくてさ……」
『画面不調は君の端末が原因だ』
「うるせえな。だったらもっとスペックいいのをよこせ。俺のPCはもっといいぞ」
『まあ、耐えろ。東大陸を取り返し敢えて爆破したインフラ施設を回復すれば、再び君の地域は高速通信に困らなくなる。この戦況であれば光を見いだせると確信する。我々を信じろ』
『お前の新しいおもちゃがやってくれるのか』
『我々の仕事は正確だ。君たちがもたらしてくれる情報でそれは担保されている』
「感謝はもういい。俺たちが望むことは一つしかない」
『アルド。残念だ。君のはねっ返りも大概だが……』
「お前らの無能がこの事態を生んだ。『社長』に言ってこの協力関係を打ち切っても俺たちは困らない。政治的な力が弱い側につくのは損だと分からないのか?」
クーはコード:ライリアに対しても一歩も引かず、政府を糾弾した。それは少なくともクーが、ウィレ政府の絶対的なしもべではない事を示していた。
我々は協力組織だ。ウィレ寄りであっても、完全にウィレには仕えない。
その言葉でバルディロイは閉口したまま数秒静まり、そして切り替わったように口を開いた。だがクーは、生半可な返事を求めていない。
「わかった。アルド。引き続き、対象の資料を集めろ』
「ここはいつ取り返す?」
『必ずやり遂げる』
「いつだ?」
『それを我々にわざわざ言わせるのは君の不安の解消のためか』
「ダラダラしてたら連中は凶暴化するぞ。歴史が証明してるだろうが」
『そのために君たちがいる』
「なめたこと言うんじゃねえよ」
『我々を信じてもらわなければ関係は成立しない』
「モルトランツは無傷でやれ」
『我々とて生き死にを賭けたベストを尽くしている。これ以上の議論は不要だ。お前の仕事をもらおう』
クーは会話している間動かしていた画面にあるボタンを押した。すると青色のゲージが現れ、その上には夥しい数の進行プロセスを表す文面が現れそして流れ、二秒で完了した。通信トラフィックの大部分をこの報告書の送受信に費やすために、会話の通信は落ちがちになる。
「インポートした情報は受け取っただろ?」
『感謝する』
「ローカルに切り替えるぞ」
『幸運を。アルド』
少し間が空いて、クーは言った。
「栄光を」
クーは
「愚痴っちまったことは謝るよ」
と言おうとして切れた。
「あ」
たくよォ。とか、今回は完全なる暗号通信なんだから、コードネームで呼び合う意味あんのかよ。とか、そう思っているうちに画面はローディングへと遷移し、ここからはほぼ日常会話のようなやり取りの音声が流れ始めた。
するとクーは、今のやり取りで丁度三分経ったのを解ってカップのふたを剥がす手に持った匙をくるくると回し、麺を絡ませて音もなく口に入れながら、画面を見る。
当然ながらこの通信は、モルトが設置した彼らの衛星による『人道通信回廊』を使用していない。
今終えた本国にいるインテリジェンスとのやりとりは三分ちょうどと決まっているが、実際には無制限の通信が可能で、この職場以外に接点が少なくなった等身大の三十代にとっても、ありがたい電話相手には違いない。そんなことを考えるクーは、戦時の国家機密を取り扱うインテリジェンスのくせに楽観的だ。
というよりは、そんな極限状態の仕事だからこそ楽観的でいたい。
事実、クーが使用するウィレの国防通信ラインは、海底の山脈を用心深く回避して伸びるケーブルネットワークを最後の頼みの綱としている。軍事演習で何回しか大気圏にダイヴしたことのない、水も風も知らないモルトの宇宙戦艦から投下された、これまた一回も深海に出たことのない海底探査ポッドが、その網を不器用に血眼になって探している。
シビアな見方でもその任務の遂行には三か月かかると見られる。
今のところは何の問題ない。作戦が奏功して一部または全部が発見されるまでは、工作員とその端末が抑えられたからと言って、システムを解析される恐れはない。
そしてここまで通信網が断絶された状況において、クーが取り扱う戦時の国家機密などというのは、今からやり取りされる事柄の一つ一つ、取り上げれば些細なことの積み重ねだ。
つまり。
井戸端会議でも重要な情報源足り得る。
人とのつながりは、独り暮らしの希望だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます