起 どこにいようと君は大丈夫
お茶してる彼は今、おっちゃん
正直であけっぴろげな普通の人間だとわざわざ自分から言うのは、そういうやり方で、彼なりに自分の異常性を自認しているのだと私は思う。
或る作家のことば
※
子供ってのは、丸っこくて軽くて、ぺたっと抱き付かれると離したくなくなる。
そんな背中におぶった友人の子は、七歳になりたてのやんちゃ盛りだった。
それも、この土地で昔からある風習のお祝い日を迎えたばかりだ。
ここはカフェ『モルタバンガ』。トロピカルな見た目がかわいい紅茶で一躍有名となり、
この店はモルトランツに立っている中では最も立派な旗艦店だった。この土地にしかない針葉樹をふんだんに使って作られた空間には、柔らかなセピアが灯っている。
子供も親も、高齢者もビジネスマンも、そして軍人もいる。
広めの個室にある、ゆったりとしたソファに座った男は、背中にくっついた小さく温かい素肌のその子に手を回し、自分の胸の前に抱きいれると目を合わせた。
「人間ジャングルジムはもう終わりだ。サミー」
その少年、サミーはこらえきれないように口を抑えた後、こぼすように笑った。
「ソファに座りながら七歳児を振り回すのやめてよ。カフェで」
彼らの向かいには、モカカラーのワンピースを着た若い母が座った。
片方のひじ掛けを頼るように体を預けて、周囲を見ながらもこぼすように笑っていた。
「そりゃちょっと誇張だ。迷惑はかけてない」
なあ?
とサミーに聞くと、彼は答える。
「おっちゃんは山だもん」
「やま?」
「ムッキムキの山だって。登っていいって」
「ちょっとなに子供に吹き込んでんの?」
「しょうがないだろ、登ってくるんだから。仕事柄こういうナリだしさ。自由な子供を育てるには、自由な発想からだ」
サミーの母親、リズは上目遣いでため息をつくと、迷惑しないようにねと言う。
大きな公園に隣接したこのカフェは人の往来が多く、かえって人の目に触れない。
ゆとりをもって配置された座席は、ほとんど個室のような効果があった。
スタッフがグラスを洗浄したり、置いたりする音が鈴のように鳴っている。
サミーはクーの丸太のような太ももの上に座って、向かい合わせでクーを見ていた。青いパーカーに黄色い紐が揺れる。
サミーの眼は大きくて、真ん丸で、透き通る水から生まれたような気さえする。
濁った瞳は、自分の外の景色から受け取った光をもはや乱反射してくすんで受け取る事しかできない、クーが自分のことをそう評価するのとは大違いだった。
サミーの目は、物事をそのまま受け取り、澄んだ心そのままに映し返す。
そういうことを思い出せるのは、わずか彼とこうして過ごす時間だけだった。
だから、
「抱っこしていい?」
「もうしてる」
うんざりした様子で答えるリズィの顔は微笑んでいる。
リズィの言葉を聞き、クーは軽く、胸に顔をうずめたサミーの、シャツ一枚隔てた向こうにある彼の骨格や体温を感じて、そのまま目を閉じてホッとして。
時が経ち、彼の体を自分から離した。
「いい子だ。この子は笑ってるだけで誰かを助けられる」
そう何気なく、そして静かに、かすかにしかし恥ずかしげもなくはっきり言う。
サミーはクーがあえて何も言わず口にした言葉を、目で受け取って心で返した。
「おっちゃん」
「どした?」
「いじめられてる子もできる?」
面食らった。
ああ。そりゃ。大変だけど。そう小さく言うと自分の膝の上に乗ったサミーを想像した。
こうすれば楽か、もっと俺が深く座ろうかなんて考えながらサミーの背中を……よく自分の鍛えた腕で支えながら、とにかく頑張って、柔らかく微笑んで見せた。
目の前のサミーの顔の奥にいる母の少し不安げな瞳とも目を合わせて大人の確認をしあう。
クーは答えた。
「もちろん。助けられるさ」
するとサミーは言った。
「どうやったらいい?笑ってたらいい?ぼくが笑うだけでできるの?」
その強いニュアンスを映しとったサミーの目から、実は甘えん坊な光が消えた。
この子は世界のことをよく分かってる。
「できる。おっちゃんができるったらできる」
そしてクーは言った。
「その子に、にこって笑ったら、座らずにまっすぐに手を繋いで、一緒に歩くことさ」
驚くような顔をして見せたサミーは、クーと重なり合う手に自分との明確な違いを感じ取っている。
それもクーの手がガサガサして、ごつごつして、岩のようで、普通の人より手の皮が厚いことの意味を、サミーは何か直感で掴んだ。
そして彼なりにそれを理解しようとしているかのように思えた。
この子は何かを隠している。
リズィには言えない、誰かと会った。
何かあったな。
だけどこの話題の子とは別の誰かだ。
子供でもないだろう。だけどサミーは優しいから、多分その誰かと会って、何かを学んで、それでいじめられてる子を見つけて。
そう思った。
「だけど、知らない人についてっちゃだめだ」
そう母親にはわからないように言い当てると、サミーの表情はその分固まった。
「それは君が手を引ける人は、まだ限られてるからってだけさ」
サミーはこくりとうなづき、クーの言葉を受け入れたようだった。
「そのまま大人になってくれ。その心のまま」
サミーの透明な瞳の向こうに、彼をやさしく見守る母親リズィが見える。
「自分の子供みたいに思ってるの」
リズの言葉には彼を迎え入れる温かさがあった。
「まあ、間男なりに。全部間男なりだ。君に会うときはな」
「まおとこって何?」
「おとうさんとおかあさんとおっちゃんの仲の良さを示す最高の言葉」
「クー。はあ。また変な言葉覚えさせないでよ」
リズは困った顔をする。
この子が生まれる前までに、リズィ。
すなわちリゼレブノ・マーフィンと、彼の父ロバートと、そして自分の三者にあった物語を、大切な時間のことを思い出した。
モルトランツで過ごした青春時代、クーはリズィのそばにいつまでもいたいと思っていたことを。
でも自分がこの生まれ故郷から退いて、どこか遠くの場所で仕事をした間に、親友のロバートとリズはすでに婚約関係にあった。
帰郷するなりその連絡を受けて、結婚式にも来てほしい、何ならスピーチでも、なんて言われて、意外にもその関係を知って最も安心したのはクー自身だった。俺がいない間に男がいなかったらこの子、もういい男には巡り合わないだろうななんて、ひどく恩着せがましいがそう思わずにはいられなかったこともある。
孤独な旅先では特にそうだ。ふと思い出した故郷が恋しくなり彼女に会いたくなり。
それほどまでにクーが、自分が支えなければと勘違いするほどに、リズィはかつて内気で自分に自信のない少女だったから。
それが今や、こんなに大きくなった男の子を生み、その子のすべてを受け止める海のような眼を持つ女性となり、そしてリズィは今日もサミーの手を引いて彼を育てている。
クーは、それを見た時、自分の役割が終わったことを悟っていた。
戦争が引き止めるまでは。
ロバートがウィレ人でありながら性格と腕のいい医者であって、ここに留まることが志だと思うと、そう打ち明けてくれるまでは。
クーはサミーの肩をがさついた掌なりに柔らかく包み、床に立たせて母へと返す。
サミーは母の座っていたソファの片側に空いたスペースにちょんと座る。
クーはいよいよ、待っていた時間の到来を悟った。
「じゃ、本題だ」
クーは自分の荷物の中にあった四角い箱を取り出す。箱は衣をまとったような花があしらわれたデザインのラッピングに包まれた、モルトランツの伝統的な模様だ。
「七歳記念日おめでとう、サミー」
サミーの顔が、この上なく喜びに膨らむのを見て、こちらも思わず、口元がにっと曲がる。
サミーはリズの指が示すのに従って、丁寧にラッピングをはがした。
箱の外側には、サミーと同じように丸みを帯びた人形が入っている。
『いつもあなたの傍に。自立型AIロボット:ラフィ』
リズィが驚く。
「ちょっと……これ結構しない?」
「大丈夫だロバートとも打ち合わせしてるしハハハ。マーフィン家のプレゼントはもっと安いやつでよくなるってあいつ言ってたぞ全くコスパ野郎なのは相変わらず」
「クー……」
リズィの表情は曇る。そして申し訳ないような顔をする。
「俺も君も、いつどうなるかわからない。できるだけのことをさせてくれ」
「ありがとう」
愛してくれてありがとう、クーは言葉にすることもなくそう笑った。
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