第21話
奥薗 奈央
二〇一三年十一月
「本当に現れてくれるのかな」
「きっと大丈夫だよ。十一年後の奈央がきっと私と翔を繋いでくれる」
十一月十五日の午前六時、奈央は琴音を霞ヶ浦総合病院の地下にある放射線治療室に連れてきた。
琴音は重い足取りで『時を越えるノート』を放射線治療室内の中央付近の床にノートを置いた。その真上には煌々と光る蛍光灯がある。二人はノートを眺めながら、来たるべき時を固唾を飲んで見守っていた。
奈央は未だ半信半疑だった。本当にそんなことが起こり得るのか、そう思いながら、視線の先にあるノートをただじっと見据えていた。
二日前、奈央は琴音の病室で普通では信じられないような話を彼女から聞かされた。琴音は震える手で一冊のノートを取り出して、こう言った。
「このノートは『時を越えるノート』。私と十一年後の翔を繋いでくれる不思議なノート。未来の翔も私と同じノートを持っている。私と翔の考えが正しければ、私のいる過去と翔のいる未来で同じ日時、同じ場所にこのノートを置くことが出来れば、光の扉が現れる。その扉の先に翔がいる。翔に、会える」
奈央は当惑した。琴音が一体何を言っているのかほとんどわからなかった。病気のせいで頭に異常をきたしてしまったとさえ思った。だが、その考えはすぐに頭の中で訂正し、かぶりを振った。
琴音の目は真剣そのものだった。信じしてほしいという懇願の色が滲み出ている。
奈央は頬を緩ませた。琴音以外の赤の他人が同じことを言っているのであれば百パーセント信じられない話。だが、琴音は高校時代からの唯一無二の親友だ。琴音の言っていることはどんなことであろうと信じられる。理屈ではない。奈央の中の本能が信じろと叫んでいるのだ。
「バカげたことを言っているのは自覚している。でも本当なの、信じてほしい。もうあなたにしか頼ることが出来──」
奈央は琴音の前に手を出して、言葉を制した。
「わかってる。琴音の言うことを私は信じる。それで、私は何をしたら良いの?」
「ありがとう。あのね──」
琴音は奈央に二つのお願いをした。
一つ目は、琴音を十一年後の未来でもこの霞ヶ浦総合病院に変わらず存在し続けて、かつあまり人が出入りしない場所に連れて行ってほしい、ということ。
二つ目は、十一年後の翔に霞ヶ浦総合病院に来てほしいと伝えるから、奈央は十一歳になった翔を私たちが行くその場所に案内して上げてほしいということだった。
奈央は二つ返事で承諾した。奈央はこの時、琴音の言葉をあまり深くは考えなかった。何を言われよう琴音の頼みを断るつもりなんか毛頭なかったからだ。
奈央は右手で顎を触りながら、どの場所がより適切かを考えた。数秒頭を捻ったのち、ある場所が思い浮かんだ。
あの場所であれば、人目にあまりつかないし、病院の構造的にも十一年という年月を経ても急遽取り壊しになったりすることもおそらくない。
「琴音! あの場所なら──」奈央は慄然とした。
琴音が呼吸を荒くして倒れていた。
「ちょっと琴音!」奈央はすぐにナースコールを押して平木医師を呼んだ。
平木医師と史也が血相を変えて病室に入ってきた。琴音はストレッチャーに乗せられ、すぐに集中治療室に運ばれていく。ストレッチャーの上で意識絶え絶えとなっている琴音に史也が声をかける。
「琴音さん! あなたがいなければ僕は今頃自ら命を絶っていた。あなたのおかげで僕は生きているんだ! 兄ちゃんの葬儀の時、兄ちゃんの分もたくさん生きるんだって言っていたじゃないか! だから死ぬな! 生きて涼太さんと翔君の元に帰るんだ!」
「琴音、あなたにはまだやることがあるでしょ⁉︎ 未来の翔君に会うんでしょ⁉︎ こんなところで死んじゃダメ!」
奈央は琴音の手を握っていた。集中治療室に入室する直前、奈央は琴音が自分の手を強く握る感触を得た。
琴音は目を薄く開いて、口をゆっくり動かす。
「まだ死ねない」琴音の言葉は弱々しくも強い意志を感じた。
琴音が目を覚ましたのは、翌日の九時頃だった。集中治療室で眠る琴音が目を覚ましたことを教えてくれたのは回診で彼女の様子を丁度見に来ていた史也だった。
奈央は昨日、涼太が着替えも持って病院も戻ってきた時、琴音が倒れたことをすぐに伝えた。涼太は一睡もせず琴音が目を覚ますのを信じて琴音が元々いた個室の病室で待ち続けていた。翔はその病室のベッドで眠りについていた。
涼太は史也から琴音の目覚めを聞いた時にホッとして肩を撫で下ろしながらも、その肩は小刻みに震えていた。またいつ琴音を襲うともわからない発作の恐怖に慄いているように見えた。
琴音は涼太に「また心配かけちゃってごめんね」と掠れた声で伝えていた。涼太はかぶりを振って琴音を強く抱きしめていた。
涼太が席を外した時、琴音は奈央を呼んだ。
「例の場所どこか良いところ見つけられたかな……?」
奈央は奥歯を噛み締めた。場所の見当はつけれた。でも……。
「琴音、本当にやるの? 琴音の体はもう限界を超えてるよ…少しでも無理をすれば、もう……」
「わかってる。私にはもう時間がないことくらい。だからこそ後悔したくない。最後に翔に伝えたいことがある。それを言えないと私は一生後悔する。だから……」
「わかった。ごめん、バカなこと訊いた。琴音の心は決まっているのに、私がくよくよしてちゃダメね。もうブレない」
奈央は浅めに深呼吸をして真っ直ぐに琴音を見た。
「場所は琴音も治療で良く出入りしていた地下の放射線治療室。あそこは治療をする患者さんと医師しか出入りしないし、放射線を扱う以上構造上決まりで未来にわたっても早々変わることがない場所。基本は予約制だから、予約していない時間は鍵もかかっているし、人の出入りはまずない。でも念のため、時間帯は朝にしましょ。夜中も考えたけど、小学生の翔君を夜外出させるわけにはいかないでしょ? だから決行日は明日、十一月十五日の朝六時。私は当直で朝までいるから、その時刻まで病院にいられる。だから、その時間に私が琴音をこの集中治療室から放射線治療室に連れていく」
「うん、わかった。ありがとう。あと……」
「ノートでしょ?」
「あ、うん」
「後で琴音の病室に行って、例のノート取ってくるから。あのノートがないと琴音が言っていた扉は開かないんでしょ?」
琴音はこくんと頷いた。
「奈央には敵わないなぁ」
「何年あなたの親友やっているの思っているの。なんでもお見通しだよ」
奈央は琴音の笑顔を見て自分も自然と笑みが溢れた。それと同時に、いつまでこの笑顔を見ることが出来るのだろうかと、どうしようもなく不安に駆られた。
「なんの話しているんだ二人とも?」涼太が戻ってきた。
奈央は「女同士の秘密だよ」と無邪気に言ってのけた。
琴音も「だよ」と続いてくれた。
涼太は「なんだよそれ、ずるいなぁ」と大袈裟に頬を膨らます仕草を見せて、場を和ませてくれた。
奈央は琴音の病室にやってきた。無人の病室はどことなく寂しい気持ちにさせる。琴音のベッドの周りにある私物たちが唯一この室内に生活感を漂わせてくれていた。
奈央は琴音に言われた通り、『時を越えるノート』が入った鞄を手に取った。鞄は開いていて無意識にノートと思われるものが視界に入った。
奈央は鞄の隙間から垣間見えるノートをじっと見据えた。もちろんいくら親友とはいえプライバシーを犯すつもりはないから、ノートを手に取りページを開くことはしなかった。奈央はノートの表紙をじっと見た。なんの変哲もない、ただの大学ノートにしか見えない。このノートが本当に未来の翔と繋がっているのだろうか。そう思った時だった。
「──」
「⁉︎」
どこからともなく不気味な男性の笑い声が聞こえた、気がした。奈央は周囲を見回したが、誰もいる気配はなかった。琴音は目に見えぬ影に畏怖し、鞄を両脇に抱えたまま、足早に病室を出た。
奈央は琴音に鞄を託すと、彼女の耳元に口を寄せ、他の人に聞こえないくらいの声量で「明日の朝五時半頃迎えに行くからね。他の看護師さんに変に怪しまれないよう、物音立てずに行くよ」
琴音は真剣な眼差しで頷いた。
奈央はその日、全く仕事に手がつかなかった。琴音と未来の翔のためにも絶対に失敗出来ないというプレッシャーが彼女を覆っていて、普段はしないようなミスをして婦長に叱られてしまった。
「大丈夫か? 奈央ちゃん、なんかあったか?」
平木医師が心配そうに聞いてきた。彼もまた今日当直医だ。
「え? 全然なんともないですよ。ちょっと寝不足なだけです」
「そうか。なら良いんだけどさ。でもあんまり無理しちゃダメだよ」
「ありがとうございます」奈央は今出せる精一杯の笑顔でそう言った。
涼太は基本的にずっと集中治療室にいる琴音の傍を離れなかった。面会終了の時刻である夜の八時を過ぎると、昨日同様、琴音の個室の病室を借りて泊まることとなった。琴音に何かあったらすぐに伝えてほしい、彼は真剣な眼差しでそう言った。
心配で心配でたまらないのだろう。本当は一時も彼女から離れたくないんだろう。
「わかってる。涼太君は昨日から一睡もしていないんだから、翔君と一緒に少しは寝て。じゃないと身体保たないよ」奈央は涼太の身を案じて言った。
「そうだね。ありがとう、奈央ちゃん」
時刻は午前五時を過ぎた頃。奈央は看護ステーションでも保管してある放射線治療室の合鍵をこっそりと手に取り、ポケットに忍ばせた。
当直の助産師は奈央ともう一人で今はデスクワークを行なっている。これから出産予定の患者もいないし、絶好のタイミングだった。奈央はもう一人の助産師に「少し休憩いただきます」と言って、看護ステーションを出て、琴音がいる同じニ階フロアの集中治療室に向かった。
集中治療室ではニ四時間体制で患者の治療にあたれるようにしているが、常時患者を観察、モニタリングしているわけではない。奈央は集中治療室を覗き見ると、琴音はベッドの上で座っていた。奈央が来るのを待っているようだった。
人がないことを確認して、奈央は入室し、琴音の傍まで近づく。
「準備は良い?」奈央は小声で訊いた。
琴音は少し引き攣ったような笑顔を貼り付けたまま、指でオーケーサインを出した。手には例のノートを持っている。
がんは琴音の身体も蝕み続けている。平気なわけがない。でもここでひよるのは一番琴音のためにならない。親友失格だ。
奈央は意を決して、琴音に手を差し伸べた。琴音はその手をガッチリと握り、奈央は彼女を部屋から連れ出した。
琴音を自分の肩に掴ませながら、ゆっくりと廊下を歩いていく。日はまだ昇っておらず、廊下は足元灯のうっすら灯る光のみでほとんど暗闇同然だった。
誰にも会いませんようにと奈央は心で祈り続けた。集中治療室にいる患者を無断で連れ出すなんて前代未聞だ。自分はどうなったっていい。だが琴音の願いを絶ってしまうことだけはなんとしてでも阻止したかった。
ゆっくりと慎重に二人は階段を降って行き、ついに地下の放射線治療室の前にたどり着いた。奈央はごくんと唾を飲み込み、深呼吸した。
「行くよ、琴音」
「うん」
奈央は放射線治療室の扉を開錠した。
その時だった。
「何してるんだ、お前ら」
奈央はギョッとして振り返った。視線の先には平木医師が立っていた。なんとも怪訝な顔をしている。
「平木先生……」
「どういうつもりだ? 奈央ちゃん。無断で患者をここまで連れてきて。まさか自分で彼女のがんを治そうとでも思ったのか? 資格もないのに、いくら親友とはいえ許されるることではないぞ」
平木医師の目は真剣そのものだった。眉根を寄せてこちらを見据えている。こんな表情を見たことがなかった。
「親友を亡くすかもしれないという恐怖感は俺もわかっているつもりだ。でももう少し冷静になれ。今日のは見なかったことにするから、戻るぞ」
「見逃してください」
「え?」
「見逃してください、お願いします」奈央は深々と頭を下げた。
平木医師は眉間に皺を寄せて、指で頭を掻いた。
「あのな──」
「息子に会いに行くんです」
「え?」
口を開いたのは琴音だった。一点の曇りなく平木医師の目を見ている。
「何言ってんだ琴音さん。息子なら病室にいるだろう」
「違います。未来の息子にです」
「未来……?」
「平木先生!」奈央は頭をまた下げた。
「中の機械には指一本触れません。数分間だけ、猶予をください。琴音の最後の願いを叶えたいんです。私はこれが出来ないと一生後悔する。悔いが残る。どうかお願いします」
平木医師は呆気に取られていた。そして拳を額に押し付けるとうーんと唸ってから顔を上げた。
「六時半までだ。それまで俺はここで誰も来ないように見張っといてやる。何をしようとしているのかさっぱりわからないが、中の機械には絶対に触れるなよ? わかった?」
「はい」
「じゃあ行ってこい」
「ありがとうございます! 行こう、琴音」
琴音は目を潤ませながら、深くお辞儀をした。奈央は重く固い扉を開くと琴音を連れて、入室した。
電気のスイッチを入れると室内全体が明るくなった。目の前には相変わらず巨大な人が入れるほど大きい白い円形の機械に、黒く固そうな寝台がある。
「翔君にはなんて伝えたの?」
「『十一月十五日の午前六時に、霞ヶ浦総合病院の正門に来て。そこに私の親友奈央がいる』それだけ伝えた」
「充分だね。ノートはどこに置く?」
「十一年後の未来でも変わらないであろう場所に、というか目印になるようなものが変わらずある場所に置きたいな」
奈央は指を顎に乗せて考えるポーズをとった。最初に考えたのは放射線地超装置の一部でもある黒い寝台上だった。だが、この手の機械の大体の耐用年数は十年がマックスだ。十一年後の未来では違う機械に変わっていて、過去にノートを置いた場所に正確に配置することが出来ないかもしれない。
奈央はその時、ふと天井を見上げた。そこには蛍光灯があった。
「あ」
「どうしたの奈央?」
「琴音、電気系統の場所はそうそう変わらないんじゃないかな?」
「電気系統?」
「見て」
琴音は奈央に促されるように上を見上げた。
「そこの蛍光灯。きっとここの場所は変わらないはずじゃない? 変わるとしたらかなりの大規模工事になるはずだから。だからこそ、この真下に置く」
「なるほど! 奈央さすが!」
「それほどでも。さぁ早速置いてみよ」
奈央はチラリと腕時計を見た。時刻は午前五時五十七分。約束の時間の三分前だ。
琴音はおぼつかない足取りで、丁度蛍光灯の真下になるように床にノートを配置した。
二人はしばらくの間、会話をしなかった。奈央はあえて声をかけなかった。きっと今琴音は十一歳の翔にどんな言葉をかけてあげようかと色々と考えていることだろう。奈央はその邪魔をしたくなかった。
奈央はその時、自分が置かれている状況を客観視してみた。思わず笑ってしまいそうになった。きっと側から見たら、何を真剣にバカげたことをやっているのかと嘲笑の的にされるだろうなと思った。未来と繋がる扉? まるで映画の中の世界の話だ。
だが、不思議だった。奈央には琴音の言っていることが嘘だとは到底思えなかった。根拠なんてない。理屈じゃない。本能だ。今の奈央は自分の本能にただ従って行動しているだけだった。その本能が間違っていないと断言できる根拠のない確信が奈央の中には根付いていた。
奈央はまた腕時計を見た。すでに時刻は六時五分。未来の自分は翔に会って、この部屋に案内出来ているのだろうか。ちゃんと上手くやれているのだろうか。奈央は十一年後の自分の行動を案じた。自分自身に対してこんなにも懇願めいた気持ちになるのは生まれて初めてだった。
「ごめんね」
「え?」
琴音は急に謝罪の弁を述べた。理由がわからず奈央は思わず訊き返す。
「なんの謝罪? 琴音」
「こんな突拍子もないこと奈央にしか頼めなかった。でもよく考えたら結構自分は残酷なことをしているって思ったの。だって、十一年間、私は奈央をこの場所に縛り付けることになる。十一年という長い年月をある意味奪ってしまうことになるんじゃないかって。ごめん」
「何言ってるの、琴音。心配しすぎ。そもそも私この病院やめるつもりないし、全く問題ないよ。琴音は謝らないで。私だってあなたの力になりたくて好きでやっていることなんだから。ね? 約束するよ。必ず琴音と翔君を繋げてみせる」
「ありがとう、奈央」
その時だった。
急に床に置いてあったノートが眩い光を放射し始めた。あまりの眩しさに奈央は目を細め、直視することが出来ない。徐々に明順応する自分の目に従い、奈央は前を見続けた。
奈央はその光景に思わず息を呑んだ。そこには自分の背丈よりも大きい、ニメートルほどの高さの光の扉が現れた。一切の歪みのない、光で綺麗に型どられた重厚そうな扉だった。あまりの衝撃的な光景に奈央は声を発せられずにいた。
「見て奈央、未来の奈央がやってくれよ。繋いでくれた。未来と過去を、私と翔を繋いでくれた。約束を果たしてくれた。ありがとう。本当に、ありがとね」
琴音は光の扉に向かって重たい足で歩を進めた。そしてドアノブと思われる場所に手をかけて扉を開いた。
「琴音!」奈央は思わず叫んだ。なんとなく琴音ともう二度と会えなくなるんじゃないかとそんな不安に駆られた。
琴音は振り返り、笑顔で言った。
「大丈夫だよ。翔と会ってくる。ちょっと待っててね」
そう言って琴音は光の中に消えていった。
どれほどの時間が経ったのだろうか。奈央はしばらくの間、呆然と光続ける扉を見続けていた。ふと我にかえり、腕時計を見る。時刻は六時四十分。平木医師が待つと言ってくれた時刻を十分も過ぎてしまった。
奈央は胸が潰れる思いだった。平木医師に怒られることなんてもはやどうでも良い。琴音にもう会えないかもしれない思いが胸いっぱいに膨らんで、奈央の心を圧迫していた。
その時だった。突然また光の扉がさらに眩い光を部屋全体に放出した。奈央は直視することができず、思わず視線を逸らしてしまった。すると急激に光が弱まっていくのを感じた。奈央は視線をもとに戻す。そこには光の扉は完全にたち消え、琴音が立ってそこにいた。足元にあったはずのノートも消えている。
「こと……ね?」
奈央は恐る恐る琴音に声をかけた。琴音は振り返ると満面の笑みを浮かべてこう言った。
「翔に……会えたよ」
奈央は琴音を連れて放射線治療室を出た。部屋の前では平木医師が待ち続けてくれていた。平木医師は少しだけ憎まれ口を叩きながらもすぐに許してくれた。
「目的は果たせましたか? 琴音さん」
平木医師は琴音に訊いた。
「えぇ本当にありがとうございました」
琴音は無邪気な笑顔で言った。
「それは何よりだ」
平木医師もまた屈託のない笑みを浮かべていた。
すでに朝日は昇っていて、病院の廊下には明るく心地よい光が差し込んでいた。
三人で集中治療室に戻る道中、琴音は奈央にこう言った。
「ちょっと病室に行っても良い? 涼ちゃんと翔に会ってきたいんだ」
「うん、良いと思う。良いですよね? 平木先生」
「あぁ良いですけど、何かあればすぐに連絡してくださいよ」
「わかってますよ」
平木とは途中で分かれて、奈央は琴音を病室に連れてきた。病室では涼太が椅子に座裏ながら頭をベッドに乗せて眠りについていた。連日の徹夜で疲れ果てているのだろう。翔はベビーベッドですやすやと寝息を立てている。
「ありがとうね、奈央。私もちょっと疲れちゃったから二人と一緒に眠るよ」
「そうね。わかった。平木先生も言っていたけど、本当に何かあればすぐに連絡してよね」
「うん」
「じゃあ、またね」
「ねぇ奈央……」
「どした?」奈央は病室から出ようとした時に呼び止められ、振り向いた。
「私、奈央と友達になれて本当に良かった、大好き」
「ちょっとやめてよ、今生のお別れみたいに言わないで。もちろん私も大好きだよ、琴音」
琴音は笑顔で手を振っていた。奈央もそれに同調するように手を振って病室を辞した。
その一時間後、奈央は看護ステーションでデスクワークをしている時に、携帯電話が鳴った。涼太からだった。奈央は何の気なしに電話に出た。
「どうしたの? 涼太君」
「……」
「ん?」
「琴音が、息をしていないんだ」
琴音の葬儀が行われたのは、その二日後だった。
葬儀には病院関係者、学生時代の友人等、生前琴音と親交があった数多くの人々が喪服を見に纏い参列した。
喪主である涼太はまるで正気を感じない抜け殻のような状態で、参列者が彼に告げるお悔やみの言葉達ももはや彼の耳には届いていないように感じてしまった。みんな一様に大粒の涙を流していたが、奈央は泣けなかった。
あまりにも現実味がなく、琴音が死んでしまったという実感が湧かなかったからだ。まるで夢であるかのような、はたまたフィクション作品であるかのような、遺影で見せる満面の笑みのまま、またどこからか現れてくれて、また一緒にくだらない話を時間が経つのを忘れて、いつまでもずっとしていられるような、そんな気がしてならなかった。
「奈央さん」
葬儀会場外の廊下で、奈央は自分の名前を呼ばれて振り返った。
その子は中学生くらいのとても可愛らしい女の子だった。奈央はその子に見覚えがあった。
「里奈ちゃん……」
「お久しぶりです」
松岡里奈は琴音と同室で入院をしていた中学三年生の女の子だ。奈央は助産師であるため、卵巣がんを患っていた彼女の直接の担当看護師ではないのだが、琴音の病室に何度かいくうちに一緒にお話をすることが何度かあった。
奈央と里奈は廊下のベンチに腰掛けた。
「私、知らなかったんです」
「え?」
「琴音さんがまたがんが再発してまた入院しているの、知らなかった……。昨日琴音さんにメールしたんです。久しぶりに琴音さんのお話が聞きたくて、そしたら旦那さんの涼太さんから琴音は亡くなりましたって……」
奈央は里奈の背中を摩りながら、琴音の気持ちを察した。
きっと琴音は里奈にはあえて教えなかったのだろうと思った。病気が治り、子供を授かることが出来る未来を残せた彼女のこれからの人生の歩みを、自分の報告で止めさせたくなかったのだろう。自分のことは二の次で常に相手のことを慮る。いかにも琴音らしい考えだと思った。
「私、琴音さんのおかげで辛い治療も頑張れたんです。琴音さんがいなかったら、今頃どうなっていたか……。それに琴音さんと約束したんです。来年、高校に入学したら自分のテニスの試合見にきてくれるって。あと……将来私が子供を産んだら絶対に会いに行きますって……。約束果たせなかった。どうして神様は琴音さんばかりいじめるの。琴音さんが何をしたっていうの……」
里奈は体を震わせながら、怒りにも似た言葉を述べながら、大粒の涙をこぼした。里奈の着る喪服にぽつりぽつりと雫が染み込んでいく。
「神様なんていないよ、里奈ちゃん」
「え……」
「もし神様がいるなら、こんなに誰からも愛される人を死なせたりしない。一方でさ、言葉悪いけど、死んでも誰も困らない人がよぼよぼになるまで生きながらえたりする。死は決して平等じゃない。……でもね、これだけは言える」
「……」
「琴音は必死に生きようとした。家族のため、友人のため。きっと里奈ちゃんとした約束も絶対に果たしたいと思っていたと思う。琴音は最後まで病気と闘ったの。運命に抗おうと、未来を変えようとしたの。だから……最後は笑って送り出してあげよ。お疲れ様って言ってあげよう」
里奈は涙を流しながらも深く頷いた。
一通りの葬儀を終え、最後に棺桶に眠る琴音に花を供える時が来た。奈央は琴音の顔を覗き見た。がんと戦う日々は本当に辛い日々だったと思う。それでも最後未来の翔に逢えたためか、琴音はとても幸せそうな顔をしていた。そこに苦悶の表情など一切なかった。
その顔を見て、あぁ本当に逝っちゃうんだ、と思った。その瞬間、一気に親友の死という現実味が奈央を襲った。内から迫り上がってきた涙に琴音は必死に抗った。
まだ泣いちゃだめ。私にはまだやらなければならないことがある。それを果たすまでは泣けない。それを果たすまで私の中の琴音はまだ息をしているんだ。死んじゃいないんだ。だから泣いちゃいけない──。
ちょっと気を緩めれば、身体中のあらゆる水分が枯渇するほど涙を流してしまいそうで、奈央は奥歯を噛み締めながら、溢れてくる涙を服の袖で拭きながら必死に笑顔を作ろうとした。最後は笑顔で送り出してあげたかった。
棺桶に釘を打ち込み、いよいよ出棺となった時、行かないで、私の琴音を……みんなが大好きな琴音を連れて行かないで、と本気でそう思った。
奈央は火葬の場には行かなかった。もうこれ以上は自分の身が保たないと思ったし、火葬される親友の姿を見る勇気が出なかった。
後日、奈央は涼太と翔がいるマンションに訪問した。リビングの奥には仏壇が置いてあった。奈央はその仏壇の前に正対し座る。仏壇に添えられている琴音の写真に向けて奈央は瞼を閉じ、手を添えた。
琴音の写真を見ると涙がまた迫り上がってくるのを感じた。奈央は必死に袖で涙を拭った。チラリと涼太を一瞥するとまだまだ幼い翔にミルクをあげていた。その姿はもうれっきとしたお父さんだった。
奈央は心の中で呟いた。
待っていてね琴音。琴音に託された未来へのバトンを十一年後の自分に絶対に届けるから。琴音は覚えているかな? 高校時代、琴音が私の当時の友達に連れてかれて酷い目に遭わされそうになった時、私はあなたに言ったの。琴音のことはこれから私が絶対に守るって。その約束はまだ終わっていない。
棺桶に眠る琴音の表情は良い夢を見ているかのようにとても朗らかだった。それはきっと未来の翔に会えたから。十一年後の私がちゃんと約束を果たせたから。その未来を私自らの手で変えてしまうわけにはいかない。守るのは琴音だけじゃない。
琴音と翔君の未来は私が守る──。
十一年という歳月はとても長い。
奈央は琴音から言われた言葉が頭に残り続けていた。
『十一年間、私は奈央をこの場所に縛り付けることになる。十一年という長い年月を、ある意味奪ってしまうことになるんじゃないかって──』
奈央はこの言葉をそこまで重く受け止めてはいなかった。基本的に今後もずっとこの土浦市に住んで、霞ヶ浦総合病院で働き続けるつもりだし、十一年後に自分は違う道を選ぶことは想像がつかなかったからだ。
だが、その考えは甘かったのだと奈央は後に痛感することとなる。
翌年、奈央は彼氏が出来た。大学時代の友人の紹介で出会った大手商社のそこそこエリート街道を進んでいるであろう男性。見た目は硬派で内面は優しく、これまでの人生ではそれなりに女性にモテてきたに違いない。奈央は肩書きや風貌は二の次だった。彼の優しさと一途さに惹かれ、交際を了承したのだ。
それから二年後、奈央はとある高級ホテルのレストランで彼から突然プロポーズを受けた。彼の手中にはキラリと光るダイヤが埋め込まれた婚約指輪があった。
彼からの念願のプロポーズ。奈央にとってその言葉は待ち焦がれっていたものだったため、もちろん彼女は涙を流して快諾した。だが、その後、一つの条件とも言えるものが付与された。それは海外への転勤についてきてほしいというものだった。
「それは……何年間くらいの予定なの?」
奈央は恐る恐る訊いた。
「おそらく今後は海外での生活が基盤となるから、しばらくは帰って来れない。いつ日本に戻れるのかも今の段階ではわからないんだ。奈央には仕事をやめて俺のそばにいてほしい。俺を支えてほしいんだ」
「だめ」
「え」
「そういうことならダメ。プロポーズはお断りします」
そう言って、奈央は席を立とうとした。
「な、どうしてだよ!」彼はひどく動揺した。予想外の返答だったのだろう。
「私は土浦を離れるつもりはないの」
「か、海外が不安なのか? であれば出世コースからは外れるが、国内転勤ならどうだ? 仕事を続けたいのであれば助産師は今成り手が少ないって聞くし、どこでも引く手数多だろ? それなら──」
「それでもダメ。私は今いる病院にいないとならないの。ごめんなさい」
「どうして……」
悲しみに打ちひしがれる彼を置いて、奈央はレストランを出た。
帰り道で奈央は涙を流した。先ほど流した喜びの涙とは全く逆の意味を持つ涙だった。
大好きな彼氏だった。それでも奈央には迷いはなかった。琴音との約束を守るまで、この土地を離れるつもりは彼女には毛頭なかった。
彼とはその後、お別れをした。奈央から切り出したのだった。後ろ髪を引かれる思いだったが、自分の信念に迷いを生じさせないためには必要な決断だった。彼は何度も食い下がったが、奈央の決意は曲がることはなかった。
それ以降、奈央は彼氏を作ろうとしなかった。地元で働いている人を探せば良いじゃないかという周囲の意見もあったが、あんな悲しみはもう二度と経験したくないという思いが強かった。
それから奈央は助産師として懸命に働き、いろんな命の誕生を目の当たりにしていった。その一方で流産や死産など、救いたかった命もたくさん見た。尊くてやりがいのある仕事だと感じながらも、どこか無情な現実を叩きつけられるような仕事であるとも感じた。
毎年、琴音の命日には彼女の大好きだった紫苑の花を持って、土浦市の高台にある琴音が眠るお墓に来た。その時、何度か翔を連れた涼太に出くわした。翔は見るたびに成長を遂げており、顔つきもどんどん大人びてきて、琴音の面影が色濃く残っていた。恥ずかしがり屋なのか、いつも涼太の後ろに隠れながら奈央を眺めていた。
奈央は翔を見る度に、心の中で彼に語りかけた。
二〇二四年の十一月に必ずお母さんに会わせてあげるからね、もうしばらくの間待っていてね、と。
琴音が亡くなってから九年後、奈央が三十七歳の年にふくよかな体型が特徴的な産婦人科の婦長から言われた言葉が彼女の体に稲妻が走ったかのような衝撃を与えた。
「助産師出向制度……?」奈央は訝しみながら訊いた。
「えぇ数年前に出来た制度でね。うちにも厚生労働省から打診が来たの。奥薗さんはこの病院でだいぶと経験を積んできたから、その経験を他の病院の若い助産師にも伝えていってほしいのよ」
「場所はどちらなのですか?」
「北海道の病院よ」
「⁉︎」
「期間は二年間だから、すぐに戻って来れるわよ。あなたにとってもとても良い経験になると思うんだけど、良いわよね?」
二年も他の病院、ましてや北海道の病院に行っていたんじゃ、琴音と約束した二〇二四年十一月を超過してしまう。それだけは絶対にあってはならない。
「私は──」
「困るなぁ寺前さん」
奈央は後ろを振り向いた。平木医師があくびをしながらパーマヘアーの髪をくるくると指でいじって、近づいてきた。寺前とはこの婦長の名前だ。
「勘弁してよ寺前さん。うちも今助産師が潤沢にいるわけではないでしょ? ましてや頼れる奈央ちゃんがいなくなれば大幅な戦力ダウンだよ。別の人じゃだめなの?」
「だめってことはないけど……。というか平木先生、本当は美人な奥薗さんを手元に置いておきたかっただけじゃないの?」
寺前婦長は揶揄うような笑みを浮かべていた。
「そんなふしだらな理由じゃないよ。大真面目」
「平木先生が真面目なところなんて、そうそうお目にかかれないけどね。まぁわかったわ。しょうがないから他を当たるわね」
寺前婦長はそういうと体を上下に大きく動かしながら、てくてく歩いてその場を後にした。
「こんなんで良かった?」
「え」
「行きたくなかったんでしょ?」
「どうして……」
「奈央ちゃんはわかりやすいからな。全部顔に出てたよ」
奈央は思わず、自分の顔を手で触った。とても恥ずかしい気持ちになる。
「なんか悩みでもあるの?」
「え」
「いや、その、なんだ、最近の奈央ちゃん笑顔が少ないっていうか思い詰めているような顔をしているのをよく見るからさ」
「いえいえ、最近ちょっと疲れが溜まっているせいか、肩こりがひどくて。それだけですよ。今度エステにでも行って癒してきます」
奈央は必死に笑顔を作って、声色を無理やり上げて見せた。
「そうか、それなら良いんだけど」
「というかさっきはすいませんでした。正直平木先生が来てくれて助かりました。ありがとうございます」奈央は軽くお辞儀をした。
「なんもなんも」平木医師はそう言ってケラケラと笑いながら踵を返した。するとそこで一瞬歩みを止めた。
「まぁでも二年間も奈央ちゃんがこの病院からいなくなるのが寂しいってのは嘘ではないけどね」
平木医師は奈央に背を向きながらそう言うと、また歩を進めた。
平木医師のおかげもあって、奈央は霞ヶ浦総合病院でずっと助産師として働くことが出来た。
二〇二三年十二月。ついに来月、運命の年が来るのだと奈央は思った。あれから十年とちょっと。長かったような短かったような。気づけばあっと言う前だったようにも思える。この十年という年月の中でも琴音と約束したあの日の言葉たちは昨日起こった出来事のように鮮明に思い出せる。片時も忘れることはなかった。
琴音との約束のことを考えている時はまるで琴音が自分の心の中で息づいているような、いつもそばにいてくれているような、そんな不思議な気分になった。
奈央は数年ぶりに友也の命日の日にお墓参りに行った。なんとなく今の心境をかつての友に伝えたくなったからだ。友也のお墓がある墓地に行くと、すでに先客がいるのが見えた。近づくとそれが涼太と翔であることがわかった。
奈央はドキッとした。別に会ってはいけないというわけではないが、なんとなく翔を見るとドギマギしてしまう自分がいた。翔は十一歳になっており、三年前の琴音のお墓参りで会った時以来の再会ということもあって、その時はまだまだあどけなさが残っていたが、今の彼はとても凛々しい顔つきになっていた。涼太の顔にも徐々に似てきたようにも思えた。早く琴音を最愛の息子に会わせてあげたかった。
涼太と少し雑談を交えてから、別れ際、奈央は翔に「またね」と言った。翔は頷いてくれた。それがなんだか妙に嬉しかった。
二人が去ってから、奈央はその場でしゃがみ込み、友也のお墓に手を添えた後、とある不思議な物語を語った。
「あるところに、一人の少年がおりました。その少年には母親がおりませんでした。少年が生まれてすぐに死んでしまったからです。
そんな少年の前に少し不気味な出立の怪しげな男が現れました。そしてこう言いました『お母さんに会いたくないですか?』。少年はそんなこと無理だと怒りました。男は無理ではないと言い張ります。
そして少年にとある一冊のノートを授けました。男はそのノートの名を『時を越えるノート』だと言いました。そしてその場からいなくなってしまいました。少年は男を信用していませんでしたが、ダメ元でノートにお母さんへのメッセージを書きました。するとそのノートは突然光出しました。少年は驚きました。そして数分後、またノートは光出しました。少年はノートを開いて驚きました。お母さんから返事が届いていたのです。
少年はそのノートの力を信じました。そこから少年とお母さんは時を越える交換日記を始めました。少年は初めてのお母さんとの会話が嬉しくて毎日毎日交換ノートを続けました。
しかし、お母さんは病で倒れしまいます。そして少年をお腹に宿したと言いました。少年はこの時、病気で亡くなる前のお母さん、自分を産む前のお母さんと時を超えた交換ノートをしていたのだと気付きました。少年はお母さんが死んじゃう未来を変えようとたくさんお母さんを励ましました。おかげでお母さんは少年を産んでも死にませんでした。少年は過去を変えたのです。
ですが、お母さんはまた病に倒れました。まだ病気が完治していなかったのです。少年は悲しくてたくさん泣きました。そんな少年の元に怪しい男がまた現れたのです。男は少年にノートの秘密の力について伝えました。少年がその秘密の力を使うと、目の前に大きな光の扉が現れました。少年は扉を開いて先に進んでいくと、お母さんがいました。写真でしか見たことがなかったお母さんが実際にそこにいたのです。少年はそこでお母さんとたくさんたくさんお話をしました。少年はとても幸せでした。
ですが、お母さんと会える時間には限りがありました。少年はそこでお母さんに最後のお別れの言葉を伝えました。するともう目の前にはお母さんはおりませんでした。でも少年は笑顔でした。最後にお母さんの笑顔を見ることが出来たからです。
そして少年はお母さんからもらった笑顔を持って、この先の未来に歩んでいくのです。
おしまい」
奈央は友也のお墓を見上げた。
「どう、友也君? この物語。原作、琴音。脚本、奈央。って感じかな。絵本にしたら売れるかな? 私の下手くそな絵じゃ無理か。この話の少年とお母さんが笑顔でいられるためには、どうやら私の頑張りが必要みたいなの。だから私、頑張るよ。友也君も応援しててよね」
突然ビュンと風が吹いた。奈央は靡く髪を手で抑えた。
友也が「奈央ちゃんなら大丈夫」と言ってくれているような気がした。
十月。ついに約束の時の一ヶ月前に迫った。夕暮れ時、奈央は涼太と翔が住むマンションの前にいた。家に訪問するつもりも会いに来たつもりもない。ただなんとなく足がここに向いたのだ。数十秒マンションを眺めた後、奈央は踵を返そうとした。その時、誰かが走ってくる気配がした。
奈央は理由もなく体が勝手に動き、近くの塀の影に隠れた。まるで泥棒だと自嘲したい気分だった。だが、すぐに隠れて正解だったと思った。走ってきた少年は翔だった。なんだか酷く焦って顔色が悪いように見えるが、日も暮れているため、定かではない。ここで変に翔に見られて良いことはない。
奈央は翔に見られないようにその場を辞した。次に会う時は約束の日、そう確信めいた思いを抱いた。
十一月十五日午前二時。約束の時刻の四時間前。奈央は当直勤務で昼から霞ヶ浦総合病院で働いていた。この日の当直はシフトを決める際、婦長に強くお願いしたものだった。婦長は「別にそんな血相変えてまで言わなくても、ちゃんと調整するわよ」とたしなめられしまった。だがその甲斐もあって、当直でいられる。こんなところで十一年の年月を棒に振るわけにはいかない。
ドクンドクンと自分の心臓の音がはっきりと聞こえる。緊張しているのか、動揺しているのか、はっきりとはわからない。ただ平常心ではないことは確かだった。むしろ彼女と同じ境遇で平常心でいられる人間なんていないんじゃないかとさえ思う。それだけ十一年と言う歳月は一つの思いを強く持ち続けるには長すぎる期間だった。
すると突然頬に冷たい何かが触れた。奈央は思わず「ひゃ!」と叫んでしまう。
振り返ると平木医師が缶コーヒーを持って佇んでいた。冷たいものの正体はこれか。彼もまた当直医師だった。
「ごめん、そんなにびっくりすると思わなくて。飲む? ちょっと休憩しようや」
奈央は口を尖らせた。
「ありがとうございます。でも驚かさないでくださいよ、もう」
「ごめんごめん」
平木医師の平謝りを見て思わず頬が緩む。
奈央と平木医師は看護ステーションの椅子にもたれかかり、缶コーヒーを口につけた。もう一人の当直の後輩助産師は別件業務でここにはいなかった。今日は出産予定の患者は先ほど立ち会った患者が最後でもういない。ラッキーだった。もし六時を前に誰かの出産の場に立ち会うこととなれば、さすがに抜けることは出来ない。ただ急患の可能性はゼロじゃない。助産師として失格かもしれないが今日だけは急患が来ないことを祈った。
奈央は平木医師がいて良かったと思った。普段の日常ではない今日でも彼がいればいつもの日常に戻れる。彼がいればいつもの自分になれる、と思ったが、奈央は若干過呼吸気味に呼吸が荒くなった。
「大丈夫か、奈央ちゃん⁉︎」平木医師は奈央の体を支えた。
「すいません、大丈夫です」
「疲れてるんじゃないか? 今日ももう上がるか?」
「ダメです!」奈央はつい大声で叫んでしまった。平木医師は面食らったように口をつぐんでいた。
「すいません、でも今日は仕事を全うしたいんです」
「そうか、まぁ無理はすんなよ」
「はい」
その後、少しばかり平木医師と談笑してまた業務に戻ったが、一切集中出来ず手につかなかった。
午前五時四五分、奈央は後輩の助産師に「ごめん一時間ほど外すね」と言った。彼女は少しだけ訝しむ顔をしたが、「今度奢ってくださいよ」と少しおどけたように言う後輩助産師に奈央は救われる思いだった。
看護ステーションの奥の部屋にある放射線治療室の鍵をこっそりとくすねて、薄手のダウンコートをナース服の上から羽織ると奈央は病院の裏口から外に出て正面玄関前に歩いて行った。病院の目の前は幹線道路が通っており、朝方だというのに止めどなく車が視線を横切っていく。外はまだ真夜中のような暗さで、ふぅと息を吐くと白い吐息が肉眼で確認できる。ダウンコートを着てても若干肌寒かった。
奈央は歩道の先を見た。すると遠くの方で五人くらいの子供の影を視界にとらえた。こちらに近づいてきている。空が暗くて顔までよく見えない。十メートルくらい近くに来てようやく少しずつ姿が見えてきた。四人の男の子に一人の女の子。こんな朝方に子供たち五人だけで出歩くことなんて早々ないだろう。おそらく親に内緒でこっそり家を出てきたに違いない。
中央にいる男の子の顔を見て、奈央は心臓が跳ねた。浅く深呼吸して声をかけようとした時「奈央さん……ですよね?」と男の子から声をかけてきた。
奈央は少し目を見張った後、口元を緩めた。
「十一年間、待っていたよ。翔君」
「お待たせしすぎて、すいません」
翔はペコリと頭を下げた。そしてついて来てくれた子たちに振り返った。
「和人君、夏樹君、大吾、美織、こんなところまでついて来てくれて本当にありがとう」
「へへ。当然だよ。お前は大切な後輩であると同時に大事な友達だからな。なんだって頼みやがれ」
「何言っているのさ和人。僕らが勝手についていくって決めたんでしょ? だから翔は気にしないで。翔が今日のこと話してくれて僕も嬉しかったんだ。ようやくお母さんに会えるんだね」
「翔、翔ママによろしくね。最高に可愛い幼馴染がいるからってちゃんと言っておいてよね」
「可愛い暴力娘って言わないと正確じゃないな」
「うるさい大吾!」
「いて!」
隣の女の子に殴られた大吾という男の子が翔を見て、握り拳を突き出した。
「後悔がないよう想いの全てをぶつけて全力で楽しんで来いよ、翔」
翔も彼が差し出す握り拳に自身の拳も重ね合わせた。
「ありがとうみんな。行ってきます」
翔は奈央の顔を見上げて、目配せをした。
奈央はそれを見て頷く。
「さぁ行こうか、翔君」
奈央は翔を連れて、病院の裏口に回った。正面玄関はまだ閉まっているし目立ってしまう。裏口の扉は暗証番号で開く仕様になっている。奈央は慣れた手つきで番号を打ち込み、解錠音を確認すると、翔と一緒に病院内に入った。
日が少し出てきたが、病院の中はまだまだ暗い。奈央には慣れた景色だが、病院にあまり来ない人からしたら少し怖い光景だろう。病院の中に入ってから奈央は翔と手を繋いでいた。その翔の手から翔が若干震えているのがわかる。
「怖い?」奈央は翔の顔を覗き込んで言った。
翔はかぶりを振った。
「緊張……と不安かもしれません。本当にお母さんに会えるんだろうかって」
奈央は翔の手をぎゅっと握った。
「大丈夫。必ず私がお母さんに会わせてあげる。今日の日のために私は生きてきたんだから」
地下の階段を下り、できる限り、物音を立てないで目当ての場所である放射線治療室を目指した。時刻は既に五時五十五分。急がないと。
奈央の視界に放射線治療室の重たい扉が映る。奈央は息を呑んだ。いよいよだ。そう思った瞬間、眩しい光が奈央の眼球を焼いた。思わず目を細める。これは懐中電灯の光だ。
「ちょっと病院の人? こんな朝っぱらからこんなところでどうしたんですか? しかも子供を連れているじゃないか」
巡回している少し小太りでいかつい顔をした警備員だった。彼は訝しむような視線で奈央を見ている。奈央は頭が真っ白になった。言い訳の言葉が思いつかず、口をぱくぱくさせてしまう。
十一年間この日のために、生きてきたのに。こんなところで──。
すると後方で足音が聞こえた。奈央は警備員の応援かと思い、もう万事休すかと思った瞬間、見知った声を耳が捉えた。
「おっと! 警備員さん!」
奈央は振り返った。そこには平木医師がいた。
「その子はがん患者でして、これから放射線治療をやるんですよ。僕の患者なので間違いないですから、大丈夫ですよ」
警備員は少し警戒を解く表情をした。
「こんな時間に治療するなんて聞いたことないけど、平木先生が言うんならそうなんですね」
「まぁそう言うことです。最近はがん患者が増えて、治療の時間も取り合いですから、こういう時間を使わないとならないんですよ」
「そうですか。では私は巡回に戻りますので。呼び止めてしまいすいませんね」そう言って警備員はまた巡回に戻っていった。警備員が視界からいなくなることを確認して、奈央は平木医師を見た。
「平木先生、どうして……」
「心配だったから、ついてきた」
「え?」
「今日の奈央ちゃん、いつにも増して顔色悪かったし、仕事も上の空だったし、後輩置いて外に行くし、何か思い詰めていることでもあるのかと思って心配でついてきたんだよ」
「それって、ストーカー的なやつですか?」
「めっちゃ悪い言い方だな! 俺の善意を全否定すな!」
「す、すいません」
平木医師は翔を見て、片膝をついた。
「翔君だね? 久しぶり」
「お久しぶりです。先日の紙飛行機サプライズの時は、ありがとうございました」
奈央は驚いた。二人に面識があるなんて思っていなかった。
平木医師は奈央に体を向き直した。
「んで、翔君を連れて、こんなところまで来て一体何をしようとしていたの? 奈央ちゃん」
彼は真剣な顔つきになっていた。もはや言い訳は通用しないと思った。奈央は自分の口から真実を打ち明けようとした、その時。
「お母さんに会いに来たんです」
翔が平木医師を見上げて言った。
「お母さんに……だって?」
「翔君……」
「良いんです。だって本当のことなんだから」
「一体どういうことなんだ?」
平木医師は当惑した表情で奈央に訊いた。
奈央は意を決してこれまで全ての経緯を簡潔に説明した。
平木医師は真剣に、真面目に聞いてくれた。
話し終えると奈央は彼の顔を見れなかった。こんな突拍子もない話を誰が信じてくれるのだろうと思った。すると案の定、平木医師は大きな笑い声を上げた。
バカにするのは当然だと思った。こんな話信じる方が少数派だろう。すると平木医師はポツリとこうつぶやいた。
「そういうことか」
「え?」奈央はすぐには聞き取れなかった。
「ようやく全てが繋がった。点と点が全て一本の線になったよ。そうか、そういうことだったのか。あの日琴音さんは翔君に会いに行っていたのか」
平木医師は奈央を見た。
「十一年間、大変だっただろう。今日の日を片時も忘れたことがなかったよな。頑張ったな、奈央ちゃん」
「平木先生……」
思いがけない平木医師からの言葉に奈央はつい泣きそうになる。でもまだ泣くわけにはいかない。まだやりきれていないんだ。
平木医師は再度片膝をついて翔の肩を掴んだ。
「お母さんに会ってこい、翔君。でもな、一つ忘れないでほしい。今日君がお母さんに会えるのはこのお姉さんが必死の想いで二人を繋いでくれたからなんだ。彼女がいないと今日という日は迎えることが出来なかった。それだけは覚えていてほしい」
「はい。もちろんです」翔は深く頷いた。そして奈央を見ると「本当にありがとう奈央さん」と言った。
その言葉に奈央は走馬灯のようにこれまでの十一年間を思い出した。心がスッと軽くなるような救われる言葉だった。
奈央は放射線治療室の重たい扉を開錠した。翔を中に誘導する。すると平木が言った。
「俺は扉の外で誰も人が来ないように見張っておくから」
「ありがとうございます」
「なんかさ……」
「?」
「俺、十一年前もここで見張り番やっていた気がするな。こういう役回りが好きなのかもしれない」
平木医師は笑いながら言った。
奈央も顔を綻ばせて、「そうかもですね」と言った。
奈央は電気スイッチを入れて、明りを灯した。十一年前とは異なる最新の治療器がどんと存在感強く鎮座している。ただ目印としていた蛍光灯の位置はそのままだ。奈央は翔に中央の蛍光灯の真下に『時を越えるノート』を置くよう伝えた。
翔は頷き、リュックからノートを取り出した。十一年前に琴音に見せてもらったノートと全く同じ見た目だった。時刻は六時五分頃。急がないと。
翔は奈央の指示通り、ノートを置く。ただ例の光は中々発現しない。おそらくノートの位置は寸分の狂いも許さないのだろう。奈央は十一年前の記憶を頼りにノートの位置の微調整を伝え、翔はその通りに動かした。
そしてついにその時は訪れた。
突然直視出来ないほどの鋭い光が室内を煌々と照らした。奈央も翔も目を細める。光は扉の形に型どられ、まるで今か今かと訪問者を待っているかのようだった。
ついに……ついに辿り着いた。
胸を射抜かれたような形容し難い感情が奈央を襲う。
「奈央さん」
「え?」
翔が奈央を見た。
「本当に、本当にありがとうございます。この恩は一生忘れません」
奈央はニコッと笑った。
「お礼は良いから。さぁ行っておいで、琴音が待ってる」
「はい!」
翔は煌々と輝いている光の扉のドアノブに手をかけて、ゆっくりと扉を開くと、足を踏み入れた。奈央は後ろからその様子を眺めていた。
「いってらっしゃい、翔君」
ねぇ琴音、時間は掛かっちゃったけど、ようやく繋いだよ。約束守れたよ。
私、頑張れたかな──? 二人の笑顔守れたかな──?
これから先は琴音と翔君。二人だけの時間、二人だけの世界、思う存分楽しんで来て。
頑張ったね。奈央ちゃん──。
「え?」
誰かの声が聞こえたような、そんな気がした。
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