第22話
折原 翔
光の間
徐々に空間を覆っている光にも目が慣れてきた。
翔は放射線治療室に出現した光の扉を開いてから、そこから続く道なき道をひたすら歩いた。周囲は光の空間に満ちていて、奥行きがあるような、ないような、肉眼でははっきり認識できない。地面だって周囲と同じような光が広がっているだけで、道の上を歩いているような感覚はない。まるで見えない道を踏み締めているようだった。
不思議な空間だった。現実世界にはこんな場所どこを探してもないだろう。道を認識できないせいか、若干の浮遊感がある。それに、体が異様に軽い。この光の間に入るまで、昨日の試合の疲れもあってか、体中どこもかしこも痛かったが、ここに来てからその痛みが一切無くなっている。
さらに周囲をよく見てみると何かが空間を浮遊しているのがわかる。翔はふわふわと泳ぐように浮かぶそれを凝視した。それは文字だった。それも見覚えのある筆感。
そうだ、これは僕が書いた文字だ──。
そしてその横を浮遊する綺麗な文字。この文字は琴音の筆跡に相違なかった。翔はそれらを見て確信を得た。ここはノートの中の世界なのだ。これまで自分が書いてきた文字たちはこの空間を通じて、琴音に届いていたのだ。
以前、一瞬だけ垣間見たこの光の空間はもっといびつに歪んだ空間で、すぐに消え失せた。おそらくそれは翔と琴音のノートが未来と過去でほんの一瞬だけ重なったから、こんなにもきちんとした温かみのある空間を作れなかったのだろうと翔は推測した。
それにしてもいつまで歩くのだろうか。この空間に来てから多分一分くらいは歩き続けている。
どこまで歩けばお母さんにたどり着ける? そもそも本当にお母さんに会える?
翔が負の感情を持ち始めた時、彼の視線は光、以外のもの捉えた。
彼の視線の先に一脚のベンチが置いてある。少し古びた、公園とかに置いてありそうな木製のベンチ。どこか鉛筆で書いたような質感が残るベンチ。
このベンチにも見覚えがった。翔は記憶の引き出しを漁った。そして思い出した。その引き出しは翔が思っているずっと手前にあった。このベンチは翔の家の隣にある公園のベンチ。翔と大吾、涼太と友也を結んでくれた、馴染みあるベンチ。
以前、翔は琴音が自分の住んでいるマンションに内見に来ると聞いてから、マンション隣の公園について説明する際、イメージしやすいようにと公園のベンチや他の遊具などをノートに模写したことがあった。その時のベンチではないかと思った。
翔はベンチの前までたどり着くと、何の気なし座ってみた。別に疲れた訳ではないが、ベンチを見ると座ってみたくなるのは人間の習性だろうか?
翔はベンチの背もたれに腰掛けると視線を上げてふぅと一息ついた。何も聞こえない静寂の空間。自分以外誰もいないと思うほどの無音の世界。でも不思議と孤独には感じない。この空間に満ちている光の温かさが心にも浸透しているような気がする。
そんなことを夢想している時、静寂の空間を縫うかの如く、微かな音が聞こえた。それは少しずつではあるが、次第に大きくなっていく。
これは足音だ。
翔は足音が聞こえる方に視線を向けた。だがその音は別の音にかき消されてしまう。翔は自分の胸に手を置いた。ドクンドクンと心臓の鼓動が高鳴っていくのを感じる。自分の心臓の音が聞こえてくる足音をかき消しているのだ。
翔は目を剥いて、一点先を見つめた。
そしてその瞬間、翔の目の前に広がっていた光の空間が扉の形に切り取られた。扉の縁に沿うように光の空間にうっすらと線が引かれる。そこから実際に扉が開くように切り取られた少し暗めな空間は徐々に大きくなっていく。
その空間から人の足と思われるものが出てきた。女性の細い足のようだ。
翔を瞬き一つせず、その様子を眺めていた。
足から入り、次は胴体、そして手、最後に頭。そうして一人の女性が扉のように切り取られた空間から背を向けた状態で姿を表した。病院の患者が着る薄緑の服を来ている。
その扉の空間は瞬く間に光の空間に戻っていた。
その女性は周囲をキョロキョロと見回していた。ここがどんな世界か確かめているように見える。まだ背後にいる翔の存在に気づいていないようだった。
翔は息を呑んだ。彼は意を決して持てる力を全て声帯に注ぎ込んだ。
「お母さん……?」
女性は声に気付き、振り向いた。
「かけ……る……」
その姿は見間違えようがなかった。家のリビングに置いてある家族三人で写る写真。『時を越えるノート』で送ってもらった生まれたばかりの翔と涼太と奈央の三人と一緒に写る写真。何度も目にしてきた。
翔はここに来る前、琴音と会ったら一言目になんと言おうかとか色々と模索していた。制限時間があるのかすらわからない中で話したいことがあり過ぎて順序立てて話をしないと全部話せじゃないないかと思ったからだ。
だがそんな考えなんて、いざ目の前にずっと会いたかったその人が現れると全てが泡のように吹き飛んでしまう。翔は駆け出した。そこに理性はなかった。剥き出しの本能に体を預けた。
「お母さん‼︎」
「翔!」
翔は琴音の胸に飛び込み、思い切り抱きしめた。母の感触を感じた。幻じゃない、幽霊じゃない、正真正銘の生きている母がそこにいた。
「ずっと、ずっと会いたかった」
「私も、会いたかったよ。翔」
しばらくの間、二人は立ったまま抱擁し続けた。
小学六年生にもなって母に抱きつくなんて普通の感覚では恥ずかしいものなのだろう。だが、翔は十一年間、この母の温もりを知らずに生きてきた。物心ついてから母という存在は既にいなかったのだ。普通の人が生きていれば享受できる母からの愛情が彼は枯渇していた。
だからこそ翔には恥ずかしいという気持ちは微塵もなかった。あるのは嬉しいという感情だけだった。
母の姿、声、体温、匂い、その全てが母がここに存在するという事実を翔にありありと告げる。翔は交換ノートでは感じれなかった母の存在を五感を研ぎ澄ませて得ようとした。この感覚をいつまでも忘れないように。
翔と琴音は一旦ベンチに腰掛けることにした。翔の気持ちはふわふわとした浮遊感の中にあった。それはこの空間の仕業かそれとも琴音のおかげかそれはわからなかった。
「翔、本当に大きくなったね」
琴音は翔の頭を撫でながら優しい聖母のような微笑みで言った。
翔も自然と笑みが溢れる。
「これでも小学校のクラスでは身長低い方なんだよ?」
「え、そうなの? 十分大きいと思ったのに」
「でも僕は多少チビでも構わないかな。だってサッカーではチビの方が有利の場面も結構あるからね。小回り効くし」
「そうなんだ。あ、そういえばサッカーの試合どうだったの? 決勝戦」
「あ……」そういえばまだ琴音に伝えられてなかったのだと翔は気付いた。若干の沈黙の後、翔は重たい口を開いた。
「実は負けちゃったんだ。二対一でね。すごく惜しかったんだ。でもやっぱり相手は強かった。強かったんだけど……悔しかった。大好きな先輩たちとまだ一緒にサッカーしたかった。それにお母さんに勝利の報告をしたかったんだ」
翔は俯きながら言った。昨日の悔しさがまた胸の底から込み上げてきた。
「そっか……。翔は楽しかった?」
翔はバッと顔を見上げた。
「すごく楽しかった。今までで一番悔しい試合だったけど、一番楽しい試合だった」
「それがお母さんにとって一番嬉しい報告だよ。翔が楽しそうにしているのが何よりも幸せ。嬉しくなっちゃう。涼ちゃんは……翔のお父さんはね。サッカーをしている時、本当に嬉しそうな顔していたの。大切な仲間とボールを蹴ってる時の涼ちゃんを見るのが私は本当に大好きだった。翔も良い仲間に恵まれたんだね。きっと翔の人徳がそういう人たちを引き寄せたんだよ」
翔は顔がにやけてしまう。自分の大切な仲間を褒めてもらえるとこんなに嬉しい気持ちになるのかと思う。
「和人君っていう先輩はね、本当に男気のある先輩で、おっちょこちょいなところもあるけど、みんなに慕われていて、周りを明るくしてくれるんだ。和人君といると自然とみんな笑顔になる。守備もすごく上手くて、僕も何回も止められたことあるし、それと──」翔は思わず顔を上げた。自分ばっかり喋っている気がしてしまったのだ。
だが、琴音は笑顔でうんうんと頷きながら翔の話を聞いてくれていた。翔は嬉しくなって話を続けた。
「それとね、夏樹君っていう和人君の一番のお友達で同じくサッカーチームの先輩なんだけど、本当に大好きな先輩なんだ。いつも優しくて気を遣ってくれて、僕のこと友達だって言ってくれて……。一番期の合う先輩だったと思う。ゴールキーパーとしても一流で、和人君がみんなのお父さんだとしたら、夏樹君はみんなのお母さんだと思う」
「素敵な先輩たちだね。翔からよく話に出ていた大吾君と美織ちゃんのお話も聞きたいな」
「うん、美織はね。僕が行っていた保育園からの幼馴染だったんだ。昔から絶世の美女と持て囃されて、まぁ確かに可愛いんだけどさ。でもそのせいで調子に乗ったのかどんどん傍若無人な振る舞いになっていって、僕も何回小突かれたことか……」
「きっとそれは愛情の裏返しなんじゃない? 美織ちゃんも誰彼構わずそんな態度じゃないでしょ? 信頼されている証拠じゃないの」
確かに美織が自分と大吾以外を小突いているところは見たことがない。
「そういうもんかなぁ?」
「そういうものだよ。女の子の気持ちって複雑なの。翔も美織ちゃんと一緒にいて嫌な気持ちにはならないでしょ?」
「うん、まぁ確かに」
美織といると確かに自然体でいられる。基本誰にでも気を遣っちゃう自分にとって異性でこんなにも気を使わない人は美織に以外にいないと思った。
「あと、大吾とはね、色んな話があるんだ。小学一年生の時にうちの隣の公園で出会って、そこから友達になって、一緒にサッカーをやることになって、一番の親友になった。でも、言ったと思うけど、二年前くらいに大喧嘩してさ。それで一年間サッカーからも遠ざかった。チームでサッカーが出来ないのも辛かったけど、何より大吾と口を聞けなくなった一年間は本当に辛くて、まるで先の見えない暗闇を歩いているようだった」
「お母さんのせいでごめんね」
「え、なんで?」
翔は琴音に大吾と喧嘩した理由を価値観の違いなどと言ってはぐらかしていた。それなのに、どうして琴音が謝っているのかわからなかった。
「お母さんだもん。息子の嘘くらいわかるよ。きっとお母さんがいるいないってところが喧嘩の原因なんじゃないかってなんとなく思ってた。根拠はなかったけどね。この時期の男の子ってお母さんを煙たがり始める時期じゃない? だからきっとそうなのかなって」
「お母さんはなんでもお見通しなんだね。ごめん、嘘ついて」
「翔の嘘は優しい嘘だから。だから翔が嘘をついている時はなんとなくわかるよ」
「そう……なんだ。でも大吾とは仲直りできた。きっかけは大吾のお母さんが病気で倒れちゃったことだから喜んで良いのかわかんないんだけどね。でも大吾は誠心誠意謝ってくれた。僕は嬉しかった。大吾が謝ってくれたことが嬉しいんじゃなくてまた大吾と一緒にいられる、一緒にサッカーが出来ることが嬉しかった」
「そんな最高のお友達と巡り会えて本当に良かったね。今言ってくれた子達がこの写真に写っている子達だよね?」
琴音は病院着のポケットから一枚の写真を取り出した。その写真は翔が以前大吾の母を喜ばせようと企画した千の紙飛行機サプライズ終了後に五人で撮って『時を越えるノート』で琴音に送ったものだ。彼女がこれまで大事に持っていてくれたのかと思うと翔は嬉しくなった。
「うん、そうだよ」
「みんなすごく良い笑顔している。大吾君のお母さんもきっと喜んでくれたでしょ? 私もすごく感動した。最高のプレゼントだったと思う。私、あぁ自慢の息子だなって思ったもん」
「へへへ」
翔は鼻の下を擦りながら照れ笑いをした。そして思う。
あぁここは温かいなぁ。体も心もほかほかな気持ちになる。幸せが体を包み込んでいるみたい。ずっとここにいたいなぁ。ずっとお母さんとここでお話ししていたいなぁ。
その時、翔は一瞬我に帰った。そして琴音を見て言った。
「そういえばお母さん具合はどうなの⁉︎ 平気なの?」
「ここの部屋に来るまではね、正直いつ倒れてもおかしくないなと思ってたの。でもここに来たらすごく身体が軽くて、さっきまで状態がまるで嘘だと思っちゃうくらい元気なんだ」
それは翔も同じだった。琴音の病気の辛さと比較するのはおこがましいが、昨日の試合の疲れが一切ない。だが、これは決して気持ちが晴れることではない。
「でもきっと、この状態はこの空間にいる間だけだと思うの。ここを出たらきっとまた辛い体の状態に戻っちゃう気がする」
「じゃあ、ずっとここにいようよ」
「翔……」
「だって、僕お母さんが辛そうにしていて欲しくない。ずっと元気でいてほしいし、こうやってずっと喋っていたい。ずっとここにいればそのどちらの願いも叶う。だから……」
「それはだめだよ、翔」
「どうして⁉︎ お母さんだって病気の体に戻りたくないでしょ?」
「もちろん、戻りたくなんてないよ。でもね、私は何よりも翔の未来を奪いたくないの。翔にはこれから無限の未来が広がっている。私がその妨げになるわけにはいかない。お親はね、子供の未来を守るものなの。守りたいものなの」
「嫌だよ。未来なんていらない。お母さんのいない未来になんて戻りたくない」
翔の目から涙が溢れてくる。自分がとんでもなくバカなことを言っているのも自覚してる。それで母を困らせてしまうこともわかってる。それでも自制心が働かない。感情が制御できない。
「それにまるでもう死んじゃうみたいな言い方しないでよ。まだ未来で僕と生きることが出来るかもしれないでしょ?」
「本当に翔は嘘が下手だね」
「え?」
「翔、ノートでお母さんにこう言ったでしょ? 僕とお母さんは未来で一緒に暮らしているって。もう今のでお母さんが翔の未来にいないことわかっちゃったよ」
「あ、違う、今のは……」
琴音はかぶりを振った。
「わかってた。翔の嘘はとっくにわかってた。あんなにノートの文字を滲ませちゃね」
「あ……」
「お母さんはね、翔が思っている以上に翔のことわかってるんだから。それと翔はもう一つ私に嘘をついているね?」
「え」
「私、今日死んじゃうんでしょ?」
「な……」
琴音は顔を綻ばせた。
「本当翔は顔に出やすいんだから。元来翔は嘘をつけるタイプじゃないのよ。慣れないことはやるものじゃないってことね」
「ごめんないさい」
「謝らないで。本当のこというと、自分の体のことは自分が一番わかっているってだけ。この部屋に来るその瞬間まで私は明日という未来を生きられる気がしなかった。もう限界はとっくに超えてた。翔に会う、そのためだけに私の体は命を繋ぎ止めていたの。だからこの時間が終われば、私の命は数時間も保たないと思う」
「そんな……」
「もう後悔はない」
「嘘だ! 後悔がないわけないじゃないか! お母さんだって嘘つきじゃないか!」
琴音は翔の肩に手を置いた。
「嘘じゃないよ。もちろん私だって小さい翔がハイハイをして、たくさん夜泣きして、歩き始めて、保育園に入って、小学生になって、サッカーの試合で活躍して、中学生になって、初めての彼女を見て、高校生になって、大学受験を応援して、翔が巣立つところを涼ちゃんと見送って、翔の奥さんと仲良くなって……そんな人生を送りたかったよ。些細なことで喧嘩して、他愛もなことで笑い合って、翔のお母さんとして、翔と一緒に人生を歩みたかった」
「だったら! ── 」
「でも! ……翔には帰る場所があるでしょ? 待っている人たちがいるでしょ?」
「え……」
帰る場所……待っている人……。
その時、翔の脳裏にはこれまで自分を支えてくれた大勢の人たちがフラッシュバックされた。
永森先生。史也さん。和人君。夏樹君。土浦ユナイテッドFCのチームメイトのみんな。美織。大吾。そして……。
『帰ろう、翔。ご飯、出来てるぞ』
……お父さん。
翔は俯きながら頷いた。
「お母さん……ごめん、困らせて」
琴音は首を横に振る。
「翔は何も悪くない。翔に寂しい思いをさせてしまっているのは事実だから。ごめんね。この歳になるまで、よく頑張ったね。えらいよ、本当にすごい」
「僕、頑張ったかな?」
「うん、頑張った。お父さんの代わりに家事だってたくさんやってくれているんでしょ?」
「うん、お父さん、ちょっと不器用なところあるからさ、洗濯とか食器洗いとか掃除は僕の仕事。でもお父さん料理はすごく上手なんだよ。毎日欠かさず料理を作ってくれるんだ」
「あら。私といる時は料理作っているところなんて一度も見た事なかったのに。涼ちゃんも変わったんだね。頑張ってる。翔をこんなにも立派に育ててくれた」
「うん、自慢のお父さんだよ」
「翔は将来の夢は変わらず公務員なのかな?」
「え」
そうだ。前に僕はお母さんに自分の夢を偽って、公務員になると言った。あの時は、本当の夢を言うのが恥ずかしくて、それに見合う実力も自信もなくて、僕は逃げた。バカな夢だと思われたくなくて、保身のために嘘で自分を塗り固めた。
でも今は違う。自信も実力もこの一年で色んな人の支えもあって、手に入れてきた。今の僕にはその夢を自信を持って言える。
「僕の夢は……サッカー選手になること……だよ、お母さん」
「そっか。翔なら絶対になれる。お母さんが言うんだから間違いないよ」
「本当?」
「うん。翔のお父さんはね、あの世代では日本で一番上手い選手だった。でもほんの少しお父さんは心が繊細だった。大切な親友と誓ったプロサッカー選手になるという夢をその親友を亡くしたことで持ち続けることができなくなっちゃったの」
友也のことだとすぐにわかった。翔は頷きながら聞く。
「でも、涼ちゃんが悪いってわけじゃない。親友を失って悲しくない人なんていない。私は涼ちゃんの夢を支えられなかった。だから大好きな涼ちゃんの次の人生を支えたいと思った。夢を叶えるってことはね、自分の力だけでは必ず壁にぶつかるの。その壁を乗り越えられるかどうかは、自分を想ってくれる人、支えてくれる人の存在がとっても大切だと私は思ってる。翔にはそんな人たちが今はたくさんいる。きっと翔が壁にぶつかった時、みんなが翔を助けてくれる。だからこそ、翔も誰かの夢を支えられる、応援出来る人になってほしい。信頼には信頼で返す。翔にはそれが出来る。それと……」
「?」
「私、前にノートでさ、翔に強くなってほしいって言ったこと覚えてる?」
「うん、覚えているよ。あの時は、ごめん」
翔はその言葉をよく覚えていた。恥ずかしながらそれを言われて母にひどく激怒してしまったことは今でも反省している。
「翔は何も悪くないよ。あれは間違いだった。翔は強くなくて良いの。強さよりも大切なことがある。私は翔には誰よりも人の心に寄り添える、そんな優しい人になってほしいと思っている。人の弱さを理解し、共感して、共に支え合える、そんな人になってほしい」
「僕に、なれるかな?」
「なれるよ。翔は私と涼ちゃんの子供だもん。絶対に大丈夫」
翔は琴音の目をじっと眺めた。
翔は琴音の言葉に不思議な力を感じていた。翔の心の中にポツリポツリとある隙間に彼女の言葉はしっかりと浸透していき、翔の心を温もりと安心感で満たしてくれて、自信をくれる。
翔はこの一年間、『時を越えるノート』で琴音と毎日のようにたくさんの話をした。それでも話したい話題は一切尽きない。まだまだ話したいことは山ほどある。いつまでもここで話していたい。でもきっとそうはいかないだろう。ここの空間はきっと有限だ。翔の直感がそう告げる。終わりはきっと迫っている。
そんなことを思っていた時だった。
「お取込み中、失礼します」
「きゃ!」琴音の驚く声が辺りに響いた。翔もギョッとした。この空間に自分と琴音以外の存在があるわけがないと思ったが、その声の主の姿を見て翔は納得した。
「エリーさん……」
「お久しぶりです、琴音さん。翔さんは一ヶ月ぶりくらいでしょうか?」
そこには例の如く、顔に不気味な白い仮面を貼り付け、黒いロングコートに黒いシルクハットを被った、よろず商人エリーがいた。
「もう、脅かさないでくださいよ。あなたは本当に神出鬼没ですね。心臓に悪い」
琴音は手で胸を抑えながら、眉根を寄せて、少し呆れたように言った。
「ふふふ。驚かせてしまいすいません。悪気はないんですがね。ところで私の授けた『時を越えるノート』はお気に召しましたか?」
「はい、とっても。エリーさんにはすごく感謝しています。ただ、一つ苦言はありますけど」翔は言う。
「ほう、それはぜひお聞かせ願いたい。商売人としてお客様のお声は神のお告げと同じくらい価値がありますから」
エリーは仮面の下あたりを手で摩りながら翔の言葉を待っていた。
「『過去と未来が重なる時、扉は開かれる』でしたっけ?」
「えぇこの空間を作り出す、条件ですね。私がお二人にお伝えした──」
「わかりづら過ぎる‼︎」
「え」エリーは声を漏らした。
「こんな大事なこと伝えるならもっとわかりやすくはっきり伝えてくれないと困るじゃないですか! 僕達がこの言葉の意味を理解出来なかったら、僕はお母さんにこうして会えなかったんだから、そこんとこお客さんのこともっと考えてもらわないと!」
「そ、それは、失礼しました。以後気をつけます。ま、まぁ結果として、こうしてお会い出来たんですから良かったじゃないですか。ね?」
仮面を被っているため、本当の表情は読めないが、エリーは少し焦っているような反省しているような様子だった。その姿がなんだか新鮮だった。
「あははっ」
翔が琴音を見ると、口を手で覆いながら声を出して笑っていた。
「お母さん?」
「ごめん、ごめん。なんだかおかしくなっちゃって。翔って結構物応じしないタイプなんだと思って。普通こんな怪しい人にそんな啖呵切れないよ」
「そ、そう? もう三回目だし、多少見慣れちゃったよ」
「そっか。ふふ。でもこの光の空間へ導くためのヒントがわかりづらかったのは私も同感だな」琴音は少し口を尖らせて言った。
「本当に失礼しました。では、お詫びにいくつか私に質問をしていただければ、お答えしますよ。なんでも構いません」
「なんでも?」翔は訊いた。
「えぇなんでも」
翔は少し考えてから「あ」と言葉を漏らした。
「寿命!」
「寿命?」琴音は眉根を寄せた。
「エリーさん、僕にこのノートを見せてくれた時、対価はお金じゃなくて二年間分の寿命だって言っていたよね? あれってつまり僕の残りの寿命から二年分をエリーさんに支払うってこと?」
「翔、何その話! エリーさん、私そんな話初耳ですよ! 翔の寿命なんてそんなひどいこと──」
「ご心配なさらずに」
「え?」琴音はキョトンとした顔をした。
「その点はご安心ください。確かに本来であれば、翔さんか琴音さんのどちらかから残りの寿命二年分をいただいてました。と言っても琴音さんの寿命は二年もなかったので、翔さんからいただくことになっていましたでしょうが。ただ、お二人の代わりに寿命を立て替えてくれた人がいらっしゃいます。その方から二年の寿命を頂戴しましたので、翔さんからは頂かなくても良いのです」
「ちょっと待ってよ、立て替えたって? 寿命を? 僕達の他にこのノートのことを知っている人は限られている。というか寿命の話は僕は誰にも言ってない。一体誰がそんなことをしてくれたんですか?」
「それは……守秘義務があるので教えられません」
「え? いやいや、なんでも答えるってさっき……」
「個人情報に関わることはダメです。こちらも信用を大切にしておりますから。どうかご理解を。琴音さんは何か?」
琴音は上目遣いに顎に手を添えて考えるポーズを取ったが、すぐにエリーに視線を向き直した。
「やめとく」
「え? よろしいのですか?」
「い、良いの? お母さん」
「本当は聞きたいこと山ほどあるよ。この一年間は普通じゃありえないことだらけの日々だったしね。例えばさ、エリーさん、あなたは一体何者なの? とかね」
「……」エリーは何も答えない。
「でも良いの。もはやそんな些細なことはどうでも良い。私があなたに伝えたいことはただ一つ。こんなにも素敵で夢のような日々を与えてくれたことへの感謝しかない。本当にありがとう」
「いえ、約束を全うしただけですから」
「約束?」翔はその言葉が妙に気になって訊いた。
「あ、いえ。こっちの話です。お気になさらず」
「気になさらずって……」
その時だった。翔が琴音のことを見ると強烈な違和感に襲われた。翔は視線を下に落とす。そして目を剥いた。琴音の足が少しずつ消えかけているのだ。
「お、お母さん! 足が!」
「翔も!」
翔は琴音の言葉を受けて、自分の足を見た。琴音と同様に翔の足も消えていっている。痛みや妙な感触は一切ない。
「おや、もうお時間ですか」エリーが抑揚なく言う
「時間? どういうこと?」翔は怪訝な顔で訊く。
「この光の世界の時間も残りあとわずかってことです。体が完全に消え去るとお二人は元の世界に戻ります。そしてそれと同時にこのノートも消滅します。この空間に一度足を踏み入れたが最後ノートは二度と使えなくなるのです。そして残り時間は、そうですね、もっとあと三分ってところでしょうか」
「三分だって⁉︎ どうしてあなたはいつもそんな大事なことをこんなギリギリで言うんだ──」
「そんな憎み口を言っている暇はないですよ。思い残しのないように。では私はこれで」
そう言って、エリーは姿を消した。
翔は目に焦りの色を滲ませながら琴音を見た。もう膝あたりまで彼女の体は消えかかっている。無論それは自分も同じだった。
「お母さん、僕……」翔の声は震えていた。
漠然と抱えていたこの幸せな時間の終わり、それがこんな急にやって来るなんて思っていなかった。まだまだ伝えたいことはたくさんある。感謝の言葉だって伝え切れていない。だが、思考がまとまらない。何から言っていいのかわからない。涙が止めどなく溢れえくる。最後なんだ。最後くらいお母さんを悲しませるような涙を流すな。
その時、琴音が翔の頭を撫でた。そしてニコッと笑う。
「大丈夫。まだ時間はある。私の伝えたいこと最後に伝えさせてくれる?」
翔は頷いた。正真正銘、母と過ごせる最後の時間。母から紡がれる全ての言葉を翔の全細胞が吸収しようと研ぎ澄ましているように感じた。
「まず元の世界に戻ったら、奈央に伝えて欲しいことがあるの。それはね──」
翔は琴音から奈央への伝言を聞いた。
「わかったよ。絶対に伝える」
「ありがとう。翔、涼ちゃんのことよろしくお願いね。翔が支えてあげて。そして翔がどうしても辛い時は涼ちゃんを頼って。翔のお父さん、実は結構頼りになるところもたくさんあるから。いつでも翔の味方でいてくれるから。それともし涼ちゃんに好きな人が出来たら、翔はどうか涼ちゃんも背中を押してあげてほしい。でも、もしそんな素敵な人が涼ちゃんの前に現れても、わがままかもしれないけど、どうか私のことは忘れないでほしいな。なんか矛盾してるよね?」
翔はかぶりを振る。
そんなことないって心で強く念じる。嗚咽が止まらなくて声にならない。
琴音は入院着の上着のポケットからあるものを取り出して翔に差し出した。それは以前ノートを通じて琴音にお返ししていた紫苑の花の栞だった。
「お母さん、これ……」
「涼ちゃんからもらった私の宝物。翔に渡しておくね。形見ってやつかな? 私とここで過ごした日々の証。貰ってくれる?」
翔は頷いて、それを琴音から受け取る。翔は両手で大事にその栞を握りしめた。
「ねぇ翔、私が翔と過ごしたこの一年間はね、本当にかけがえのない時間だった。病気の私にとって翔は私の生きる希望だった。本当にお母さんは幸せな人生だった。心からそう思える。翔のお母さんでいられて本当に良かった。幸せだった」
「お母ざん……」声が掠れる。必死に絞り出す。見ると琴音の目からも涙が止めどなく溢れていた。
「翔は未来を見て、この先に広がる広大な未来を。でも人生楽しい事ばかりじゃない。たまに辛くなったら、後ろを振り返ってみて。そこにはお母さんが必ずいるから。いつでも見守っているから。心はずっとそばにあるから」
琴音の体は胸のところまで消えかかっていた。
翔はその胸に飛び込んだ。消えていく体を必死に手繰り寄せる。琴音も翔を力の限り抱擁する。
「翔は、私がお母さんで良かったかな?」
「よかった! お母さんの子供で幸せだった! 次生まれ変わってもまたお母さんの子供として生まれる」
「うん。絶対だよ。翔、愛している」
琴音の顔は笑っていた。涙を流しながら笑っていた。
最後くらい自分だって笑って、お母さんとお別れをしよう。お母さんが僕を思い出す時の顔が笑顔であってほしいから。
「僕も愛してる!」翔は最高の笑顔で言った。
「またね、かけ──」
琴音の顔が完全に消えかかった瞬間、あたりの光の空間が今以上に激しい光を放射し、一気に目の前が見えなくなった。目を開けていられない。翔は瞼を閉じた。
翔はゆっくりと閉じていた瞼を開いた。
視界には眩い光が漂う空間はなく、白い壁に覆われた無機質な空間。中央には大きくて近代的な機械が鎮座している。すぐにはここがどこなのかわからなかった。だがすぐに後ろから声が聞こえた。母ではない別の女性の声だ。
「翔君?」
翔は振り向いた。そしてすぐに現実を理解した。
「奈央さん……」
戻ってきたのだ。ここは放射線治療室。光の扉を出現させた、霞ヶ浦総合病院地下の一室。足元にあるはずの『時を越えるノート』は姿を無くしていた。本当に消えてしまったのだ。
「琴音には会えたの?」
奈央の目には当惑の色が見えた。きっと自分が浮かない顔をしていたからだろう。もちろんお別れの直後だ。悲しくないわけはない。でも言いたいことは全部言えた。後悔はない。
翔は奈央に笑顔を見せて言った。
「お母さんに会えましたよ」
「そっか。良かった。良かった……」奈央は目を潤ませていた。
翔はすぐに琴音から授かった伝言を思い出した。
「奈央さんにお母さんから伝言があります。聞いてくれますか?」
「琴音から⁉︎ ……うん、聞かせてくれる?」
『奈央、まずは謝らせてほしい。この十一年間あなたには私のわがままのせいで色んなことを我慢させてしまったと思う。本当にごめんなさい。だけど、奈央のお陰でこんなにも素敵で幸せな時間をもらうことができた。私と出会ってくれて、親友になってくれて、ありがとう、ずっとずーっと大好きだよ。奈央』
奈央は両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちた。そして赤子のように大声をあげて泣いた。私こそありがとう。そう言いながら。
翔は思った。
きっとこの瞬間まで奈央にとって琴音の死は本当の意味での死ではなかったのだと。琴音と翔を繋ぐという約束があり、それを果たすまで本気で悲しんでなんていられなかった。だが、今日この瞬間をもって、奈央の中で琴音が本当の死を迎えたのだ。その悲しみが一気に彼女を覆いかかった。親友の死を彼女がようやう受け止めた瞬間だったのかもしれない。
彼女の涙を見て翔もまた涙を流した。ただのもらい泣きではない。だが、悲しいだけの涙でもない。母を想ってこんなにも涙を流して悲しんでくれる人がいて、息子として誇らしいような、くすぐったいような、嬉しいような、そんな感情が翔を包み込んでいた。
母を支えてくれた全ての人に感謝したいと思った。
その時、翔は何か違和感を感じた。自身の手に何かの感触を感じてゆっくりと握り拳を開いてみた。そこには琴音からもらった紫苑の花の栞があった。
翔はその栞を自分の胸に押し当てた。そこに微かに、だが確実に母の温もりが残っているように感られた。
しばらくしてから翔は奈央と放射線治療室を出た。廊下では平木医師がずっと待っていてくれた。翔は平木医師に母に会えたことを伝えると、「そいつは良かった」と満面の笑みで言ってくれた。
翔は奈央と共に、病院の外に出た。翔は思わず目を細めた。差し込んできる朝日が異様に眩しく感じた。
「おーい! 翔ー‼︎」
遠くで自分を呼ぶ声が聞こえた。大吾達だった。美織も和人も夏樹もみんながこっちを見て手を振ってくれている。みんな外で翔の帰りを待ってくれていたのだ。
「大吾、みんな……」
『翔には帰る場所があるでしょ? 待っている人たちがいるでしょ?』
その時、光の間で聞いた琴音の声が脳裏で再生された。
待っている人たち──。
「行っておいで、翔君。みんな翔君を待っている」
奈央が翔の背中をポンと押した。
翔はみんなの元に駆け出した。その顔には偽りのない笑顔が浮かんでいた。
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