第14話

折原 琴音


 二〇一三年四月



 琴音は霞ヶ浦総合病院の看護師として働きながら、水戸市にある免疫療法を専門としているクリニックへ通う生活をスタートさせた。

 琴音が働く内科の看護師たちはみんな、彼女の身体を気遣ってくれて、身体に無理のない範囲で仕事をさせてもらうことが出来た。仕事終わりには定期的に産科婦人科に寄っては、平木医師の元を訪れ、治療状況の共有やがんの進行状況を確認するための検査を行った。平木医師は田中医師とは違い、毎回前向きになれる言葉をかけてくれて、その優しさに琴音はだいぶと助けられた。田中医師には申し訳ないが医師が代わってくれて本当に良かったと思った。

 そして数日後、驚くべきことに琴音が内科の看護ステーションでデスクワークをしている最中、突然北崎院長が彼女の元に訪れた。急なことで琴音はとても当惑した。

「突然押しかけてしまって申し訳ない。あなたが折原さんだね? ご病気の件は伺っているよ。田中先生があなたに大変不快な思いをさせてしまったこと、本当に申し訳なかった。心からお詫びする」北崎院長は深く頭を下げた。

「いえ、院長に謝ってもらうことじゃないですよ。頭を上げてください」

「いや、彼の本質をしっかりと見抜けなかったのは院長である私の責任だ。だが次の担当医である平木君は見た目こそ軽い男に見えるかもしれないが、しっかりとした芯を持った私が心から信頼している医師だ。折原さんのがんを治すために必ず全力を尽くしてくれる。抗がん剤治療は辛いことも多々あると思うが、お腹の子供のためにも頑張ってほしい」

「ありがとうございます」

「私が平木君の出生に携わった医師だということは聞いているかい?」

「ええ。研修医の南野君から聞きました」

 琴音は平木医師に担当が代わったと史也から聞いた時に、彼の生い立ちや院長との関わりについても教えてもらっていた。

「そうか。私は今でも平木君のお母さんを救えなかった自分の無力さを悔いている。だからこそあなたには生きてほしい。お腹の子に平木君のような寂しい思いをさせないためにも。平木君はきっと君の想いに寄り添ってくれる。思ったことはなんでも伝えると良い。私もいつでもあなたの力になる。遠慮なく言ってほしい。業務中なのにすまなかった。では失礼するよ」

 北崎院長はそう言って、踵を返し、その場を辞した。

 北崎院長の来訪に内科の看護ステーションはしばし騒然となった。院長が一人の看護士に直接会いに来ることなどこれまでなかったことだったからだ。琴音は突然のことに驚いたが、院長の言葉はどれも慈愛に満ちており、彼女は自然と笑みが溢れた。

 翔には、助言してくれたとおりに史也に自分の思いを伝えて、彼の頑張りによって、新しく代わった担当医である平木医師の元、琴音と翔が二人で生きられる可能性がある治療をすることが出来るようになったと『時を越えるノート』で伝えた。

 ようやくこれで前を向いて治療に専念できると思った。今は何の迷いもない。これからどんな困難やどんなに苦しい治療が待ち受けようとも、翔と一緒に生きる未来が待っていると思えば、頑張れると思った。

 その時、琴音は机の上に置いてある『時を越えるノート』を見て、ノートをくれた張本人であるエリーという怪しい仮面男のことを思い出した。

 彼が一体何者で、どういう意図をもって、自分たちのもとに現れてこのノートを授けてくれたのか、その真意は未だにわからない。以前住んでいたアパートで出会った時以来、彼は琴音の前に一切現れてない。翔からもあの時以来、エリーが現れたという話は聞いていないから、彼の元にもおそらく現れていないのだろう。

 琴音はきっとあの男は人という生き物を凌駕した、人知を超えた存在なんだという風に思っていた。それは無論あの見た目の異様さや突然姿を現したり消したりするような不可思議な事象によるところだけではなくこの『時を越えるノート』の存在が大きかった。

 彼女はあまりオカルトチックな話を鵜呑みにするようなタイプではないが、事実このノートは時空を越えて未来の翔と繋がっていることはこれまでの出来事を踏まえてもまず間違いないだろう。きっとこの世の中には理屈じゃ片づけられない不思議な世界があるに違いない。琴音は疑うことよりも、この不可思議な出来事に感謝し、受け入れ、その上で最大限活用することを選んだ。

 このノートがなかったら未来が示す通り、自分は翔のために自らの命を投げ打つを選択をしたことだろう。だが、今はそんな気持ちは微塵もない。翔と涼太と三人で生きる未来。その世界しか見えていなかった。

 そう思うようになってふと琴音はある思いを抱いた。

 エリーは私の未来を変えるために、翔と私の元に訪れ、ノートを授けてくれたのではないだろうか? 私を生かしてくれようとしているのではないか? でも何のために──?

 琴音は薄く口元を緩めた。

 憶測はこれくらいにしよう。いくら考えても想像の域を越えることはないだろう。今は自分が生きるためにがんに打ち勝つこと。元気で健康な赤ちゃんを生むこと。それだけを考えようと思った。

 琴音はその後、日々のがん治療の進捗状況をノートで翔に伝えていった。

 今行なっている治療である免疫療法は基本的に薬の投与により自身の身体にある免疫細胞を活性化させて、がん細胞の進行を抑えるもの。

 抗がん剤治療や放射線治療より副作用は少ないため、琴音自身大きな体調の悪化は見られなかったが、これから待ち受けている厳しい抗がん剤治療との闘いを想像すると少なからず恐怖感はあった。それでも翔は毎日、勇気をくれる言葉、励ましの言葉を彼女に送り続けてくれた。そのメッセージで琴音は何度も前を向けたし、未来に希望を抱くことが出来た。

 翔は日々の日常生活についても、逐一教えてくれていた。喜ばしいことに今は以前所属していたサッカーチームに復帰しサッカーに打ち込んでいるようだった。仲違いしていた大吾という名の友達とも仲直りして、大好きな先輩たちと一緒に全国大会を目指しているという話を聞いて、琴音は自分のことのように嬉しくなった。翔の喜びは自分にとっても至高の喜びなのだと改めて彼女は実感した。

 自分も高校時代に吹奏楽部で全国を目指したり、大学ではサッカー部のマネージャーとして全国優勝に向け、必死に応援していた頃を思い出し、懐かしさで胸がいっぱいになった。

 その他にも翔との会話の中で美織ちゃんという女の子の名前が頻繁に出てきた。翔からは「顔は可愛いんだろうけど、すぐ叩いてくるただの暴力女だよ」みたいな、いかにも小学生の男の子が言いそうなことを言ってきて琴音は思わず頬が緩んだ。

 もう一つ驚いたことがある。それは翔のサッカーチームの監督があの永森雄星だということだった。大学時代ずっと近くで見ていたあの雄星が次は自分の息子のチーム監督としてサッカーの指導をしている。琴音はとても感慨深い気持ちになり、巡りゆく時の流れを感じた。

 必ず病気を治癒して、私もこの時の流れの中に組み入るんだ、死んで置いてけぼりになるもんか──。絶対に生きるんだ──。


 五月に入り、心地良い春の風が頬をなでる季節となった。

 土浦市にある亀城公園では桜が随所で綺麗に咲き誇り、琴音は涼太と一緒に公園内の中通りを歩いた。公園内では多くの家族連れが琴音の視界に入ってきた。バドミントンをする親子、ピクニックをする親子、シャボン玉を膨らませて遊ぶ親子、鬼ごっこをする親子。琴音はその光景を見つめながら、徐々に膨らんできた自身のお腹を優しくさすった。

 来年の春には無事に生まれた翔と涼太と一緒にこの公園にまた来たい。翔にもこの優しく心地よい風を感じてほしい。そう思っていると、一人でに琴音の頬に一筋の涙が滴った。

「琴音、大丈夫? どこか痛むか?」

 涼太は琴音の涙に気付き、心配そうに背中をさすってくれた。

 琴音は自分がなぜ涙を流したのか、その理由がすぐにはわからなかった。だが、その後に襲ってきた感情によって、彼女はその理由を悟った。

「怖いの……」

「怖い?」

 琴音は震える手で涼太の手をぎゅっと握った。

「私ね。ちょっと前までこのお腹の子が生きてくれるなら自分が命を失う事なんて、何も怖くなかったの。むしろ喜びすら感じていた。これが自分がこれまで生きてきた理由なんだって思えたから。でも、今は死ぬことが怖いの。生きたいって思ったから、この子と一緒に三人で一緒にこの先の未来も生きたいって本気で思ったら、死ぬことが怖くてたまらない。この子と、涼ちゃんと一緒に幸せに暮らしたい。絶対に死にたくないよ」

 琴音は恐怖で身体の震えが止まらなくなり、立っているのもやっとで涼太が琴音の身体を支えてくれた。死がこんなにも恐ろしいものだなんて思ってもみなかった。生きたいと願えば願うほどその恐怖は増大していく。

 その時、震える自分の身体を涼太が力強く抱きしめてくれた。

「涼……ちゃん?」

「琴音は絶対にどこにも行かせない。あの世に何て行かせない。三人で楽しい家庭を築いて、この子の将来を二人で見守るんだ。そしてこの子が巣立った後も、沢山いろんなところに旅行に行って、お互いよぼよぼのお年寄りになっても、手を繋いで歩いて、そして二人で一緒に天国に行くんだ。それまでは琴音を絶対に死なせない。ずっと離れない。一生そばにいるから」

 涼太の力強くも優しく包み込む抱擁と気持ちのこもった言葉に琴音はさらに涙がとめどなく流れた。

 未来を変えるんだ──。家族三人で生きる未来に──。

 桜舞う亀城公園の真ん中で琴音と涼太は人目も憚らず抱きしめ合い、琴音は未来への誓いを立てた。





 折原 翔


 二〇二四年六月



 太陽の強い陽射しでじんわりと肌が焼き付く季節がやってきた。

 その中でも今日という日は優しい風が木々の木葉を揺らし、その鋭い陽射しによる暑さを丁度良く緩和してくれている。まさに絶好の蹴球日和だと翔は思った。翔は緊張感と高揚感を身にまとい、土浦ユナイテッドFCのえんじ色のユニフォームに袖を通して、グラウンドの真ん中に立っていた。身に着けたユニフォームの背番号は十番。センターサークルの中でボールをセットしている大吾が振り返り、翔を見た。大吾の目は気合とわくわく感に満ち溢れていた。

 ベンチから永森先生の檄が飛ぶ。その言葉でグラウンドに立つ選手たちはさらに士気が上がっていった。

 六月一日の今日は土浦ユナイテッドFCが全国大会を目指す全日本U-12サッカー選手権大会茨城県大会の地区予選第一試合。会場は土浦市内にある某小学校のグラウンドであった。

 ここから全国大会への道がスタートする。対戦相手は稲田FCという過去の戦績では土浦ユナイテッドFCが負け越しているチームであった。さらに初戦ともあって、チームメイトはみんな、緊張感に包まれ、体もガチガチだったが、キャプテンの和人と副キャプテンの夏樹の声かけによってチームは良い塩梅に雰囲気が和み、心地よい緊張感で試合に臨むことが出来た。

 翔はグラウンドの真ん中で周囲を見渡した。ゴールキーパーには夏樹が、ディフェンスラインの中央には和人が、前線のフォワードには大吾がいる。翔は頬が思わず緩み、喜びを噛み締めた。こんなにも心強い仲間たちがいるチームにいられて自分は幸せ者だと思った。一切負ける気がしなかった。グラウンドの外には涼太の姿があった。翔は少し気恥ずかしい気持ちもありながらも涼太に自分のプレーを見てほしいという気持ちがあった。父を超えること。それが翔の目標だったから。

 翔は琴音から『時を越えるノート』で、ついに明日から抗がん剤治療が始まると聞いていた。

 ここから未来を変えるための本当の戦いが始まる。少しでも琴音を勇気づけるために今日の試合はなんとしてでも勝って母に報告する。

 翔の中で闘争心がどんどん漲っていき、比例して集中力も研ぎ澄まされていった。

 試合開始のホイッスルと同時に、翔たちは猛攻を仕掛けた。

 ボールはチームの司令塔である翔に集まり、巧みなボールさばきで攻撃を組み立てていく。

 翔はプレー中、涙が溢れそうになり必死に堪えた。一年前はたった一人、公園でボールを蹴ることしか出来なかった。もう二度とこの場所には戻れないと思っていた。でも今は、こんなにも大好きな仲間達と一緒に試合が出来ている。翔は心の奥から溢れてくる喜びを思う存分噛み締めていた。

 試合が動いたのは前半開始五分だった。翔が相手陣内でピッチの中央付近をドリブル突破していくと相手選手は翔からボールを奪おうと密集してきた。その瞬間、翔は右横の無人のスペースにパスを出した。ミスパスかと誰もが思った瞬間、後ろから猛スピードで走ってくる選手がいた。

 大吾だった。

 大吾は走り込んできた勢いそのままに右足を一気に振り抜いて、豪快なシュートを放った。彼が放ったシュートは地を這いながら相手選手の間を抜いていき、ゴール右隅に吸い込まれ、豪快にネットを揺らす。大吾の元にチームメイトが群がってすぐに喜びの輪が出来上がった。

「翔! ナイスパス! お前なら絶対にここに出してくると思ったぜ!」

 大吾が翔の肩に腕を回す。

「大吾のシュートが良かっただけだよ。さぁ、ここで気を緩めず、もっと点取っていこう!」

「当たり前よ!」

「どっちも最高だよ!」

 和人が二人の間に入って二人の頭を手でくしゃくしゃにした。

「和人君!」翔が言う。

「さぁこっからまたガンガン攻めるぞ! 気抜くなよ!」

 そこから試合は一方的な展開になった。攻撃は翔がタクトを振るい、相手チームのペースに一切持ち込ませなかった。時折ある相手チームの攻撃も和人と夏樹が中心となり、完全にシャットアウト。

 相手選手たちは信じられないような表情で狼狽していた。昨年までほぼ互角であった両チームはこの一年間で大きな実力差がついていた。もちろん翔が戻ってきたことも大きかったが、永森先生を中心にチーム練習も活性化していたため、チームメイト全員の実力が向上していた。

 結果的に、試合終了時のスコアは六対〇となり、土浦ユナイテッドFCの圧勝であった。試合内容も申し分なく翔たちは全国大会出場に向けて素晴らしいスタートを切ることが出来た。

 父兄たちが来ている応援席では涼太が笑顔で右手を突き出しグッドポーズをしていた。翔も彼にに対し同じポーズを取り、応えた。

 ベンチに戻り、翔たち土浦ユナイテッドFCのメンバーは改めて円陣を組んだ。大差で勝利できたとしてもまだたかが一勝しただけ。ここで気持ちを緩めず次からの試合も全力で挑むためにと、和人が発案したものだった。

「お前らこんなところで満足するなよ。このまま一切気を抜かず、全国まで一気に駆け上がるぞ!」

「おぉ!」

 和人と力強い声にチームメイトが呼応した。円陣を解いてみんなが離散していった後、夏樹が翔のそばにやってきて笑顔を見せた。

「良いチームだよね」夏樹がチームメイトを眺めながら言う。

「えぇ。このチームならどこまでいける気がします。全国だって夢じゃない」

「きっと行けるよ。どの試合でも僕と和人が一切点を取らせない。だから点を取るのは翔と大吾に任せるよ」

「わかりました。後ろは和人君と夏樹君が居れば安心です。攻撃は僕らにどんッと任しちゃってください」

 翔は得意げに言ってみせた。夏樹も目を細め微笑む。

「僕さ、こんなにも充実した日々は初めてなんだ。みんなと一緒にサッカーが出来ることが幸せで嬉しくて仕方がない。負けてみんなとのサッカーが終わってしまう何て絶対に嫌だ。だから翔。また明日から頑張ろうね」

 夏樹が差し出す右手の握りこぶしに、翔も同じく拳を合わせた。夏樹の思いが拳を通じて伝わってくるようだった。

 試合終了後、翔は大吾と一緒に帰宅の途に着いた。今日の試合会場は自宅からさほど離れていない他校のグラウンドであったため、二人は徒歩で会場入りしていた。当然帰りも歩きだ。

 一緒に大吾と並んで歩いている中で、翔は彼の笑顔の裏に若干の陰りがあることに気付いた。無理して笑っているような、そんな気がした。翔は大吾に声をかけた。

「大吾どっか体調でも悪いの? なんかあれば僕に言ってよ? 友達なんだから」 

 大吾は少し虚を突かれたような表情を見せた後、若干間を置いて口を開いた。

「やっぱり翔にはバレちゃうよな。ごめん。そんなんじゃないんだ。実はさ、さっき試合後にメールを確認して知ったんだけど、父ちゃんから連絡があって、母ちゃんがまた頭痛を訴えて、すぐに病院に運ばれて検査をしたらしいんだ。今はまだ結果待ちなんだけど、お医者さんが言うには、もしかしたらくも膜下出血の後遺症で脳梗塞を発症しているかもしれないって……」

 大吾の表情がみるみる苦悶の色に変わっていた。

 翔は大吾の目を目据えた。なんとかして親友を勇気づけたかった。

「大吾のお母さんが病気になんかに負けるわけないよ。例えどんなに辛い病気でもね。きっと大丈夫。とにかくさ、まずは大吾のお母さんに今日の結果を報告に行こう。きっと喜んでくれるよ。病気に一番効く薬は笑顔だって何かで見たことがあるんだ。サッカーの試合で勝ち続けて、大吾のお母さんが笑顔になれる嬉しい報告をし続けようよ」

 大吾は少し間を空けて、口元を緩ませた。

「ありがとう、翔。そうだよな。俺が悲しんでたら母ちゃんも悲しむんだ。なんか吹っ切れたよ。今から母ちゃんが入院している霞ヶ浦総合病院に行こうと思うんだけど、翔も来てくれないか? 時間あるか?」

「僕も行って良いのかな?」

「ダメなわけないだろ。きっと母ちゃんもその方が喜ぶだろうし」

「わかった。だったらもう一人呼ばない?」

「もう一人?」と大吾が言ったあとすぐ「あぁ」と言って、翔の意図をすぐに読み取って、笑顔で頷いた。

 翔と大吾は美織の家に向かい、事情を説明すると、彼女は一緒に病院に行くことを快く了承してくれた。三人は大吾の家に行き、大吾の父、浩志の運転で母、美奈子が入院している霞ヶ浦総合病院に向かった。

 病室で美奈子に会った時、想像していたよりも元気そうな様子だったため、翔は少し安心した。美奈子は三人を見るや否や笑顔で向かい入れてくれて、大吾から試合で勝った報告を受けると大きな声で喜んでくれた。頭痛やめまいはまだあるものの、痛み止めの服用により今は少し落ち着いているとのことだった。

「翔君も美織ちゃんもわざわざ来てくれてありがとね。おばさんそれだけで元気になれそうよ」

「大吾ママが元気になってくれるなら、毎日だって会いに来ますよ」

 美織が無邪気に言う。

「あら、うれしいこと言ってくれるわね~本当にお願いしちゃおうかしら?」

 美奈子が冗談めかして言った後、彼女は大吾を見た。その目は愁いに満ちていた。

「大吾、迷惑かけちゃってごめんね。絶対に病気治すからそれまで小夏と小春をお願いね」

「任しといて母ちゃん。母ちゃんは病気を治すことに集中してよ。絶対に死んじゃだめだからな!」

 大吾は赤らんだ目で言った。

「ありがとうね。絶対に死なないよ。翔君も大吾もサッカーも頑張って。私が試合に応援に行けるようになるまで、負けちゃダメよ」

「はい」翔は笑顔で答えた。

「おいおい母ちゃん、翔に変なプレッシャー掛けるなよ」

「あら、余計な一言だったかしら?」

「いえ、逆に力が漲りました」

 その後もみんなで他愛もない話を続けた後、三人は病室を出た。浩志は主治医から今後の治療に関して説明を聞くため、翔たちはそれが終わるまでの間、病院のロビーで浩志を待つことにした。

「大吾ママ、このまま元気でいてくれるといいね」美織が心配そうに呟いた。

「今は落ち着いているけど、またいつ激しい頭痛が来るのかわからないから、正直不安だけど、信じるしかない……よな。翔も言ってくれたけど、俺たちに出来ることは少しでも母ちゃんが嬉しくなって笑顔になれることをするしかないもんな」

 大吾は奥歯を噛み締めながら言った。

 翔は大吾の姿を見て心が痛んだ。彼の沈痛たる気持ちの理由が痛いほどわかったからだ。翔も大吾と同じく母の病気が治ってほしいと心から思っていて、出来ることならなんでもしてあげたい。

 だけど、翔が先ほど大吾にアドバイスした通り、サッカーの試合で勝って、その嬉しい報告をすること以外、自分たちに出来ることがなんなのかわからないのだ。

 本当はもっと母の力になりたいと思っているからこそ、何も出来ないこの状況が辛いのだ。翔自身、他の勇気づける手段が思いつかなかないことが歯痒くて悔しかった。

 大吾はきっと自分の無力さに対する怒りやもどかしさを抱えているに違いない。翔もそれは同じだから。

「あのさ……」

 何も考えがまとまっていない中で言葉が口を衝いて出た。大吾と美織が翔を見た。

「どうしたの、翔?」美織が訊く。

 翔は言葉が続かなかった。何か言わなきゃと思っていると、大吾の後ろを自分たちより幼い数人の子供たちが何かを持って通り過ぎる姿を見かけた。その光景が視界に入ると、自然と子供たちが持っている物が何かわかった。おそらく数枚の色紙とカラフルな折り紙で作った沢山のお花……だと思った。ちらっと見ただけだが、多分間違いない。色紙にはいろんな人からの言葉がつづられているのが見えた。きっと誰かの親なのか、はたまた学校の先生が何らかの病気を患っていて、子供たちはその人が良くなってほしいという思いからみんなで一生懸命色んな人にお願いして作ったのだろう。

「翔?」大吾が顔を覗き込んできた。

 翔はすぐ大吾の声で我に返って首を振った。そして大吾の目を見た。

「大吾、美織、僕たちで何か大吾のお母さんに贈ることは出来ないかな?」

「何かを贈る?」

 大吾は首を傾げた。翔は力強く頷く。

「あの子たち」翔は子供たちがいる方向を指さした。美織と大吾もその方向に顔を向けた。美織が「あれ──」と言う。

「きっと病気の誰かのために、あの子たちはあの紙のお花を沢山作って、贈る方のゆかりの人達に色紙にメッセージを書いてもらったんだと思う。自分たちにできることを一生懸命考えて、導き出した答えなんだと思う。僕たちにもまだ出来ることが何かあるんじゃないかな」

「翔!」美織が翔の背中をばしっと叩いた。

「いった!」

「あんた良いこと言うじゃない! そうだよね! あの子たちでもあんな風に頑張っているんだから、私たちだってきっと何か出来るはず! 何が出来るかみんなで考えよっ!」

 翔は背中をさすりながら、今の場面絶対に叩く必要ないだろ、と心の中で愚痴をこぼした。

「翔の言うとおりだな。でも何が出来るかな?」

 大吾と美織は腕を組んで考えるポーズをした。

 その数秒後、美織が何か閃いたように顔を上げた。

「千羽鶴! 折らない?」美織は目を輝かせながら言った。

「千羽鶴?」大吾が言った。

「うん。千羽鶴って病気が回復するようにって願いを込めるでしょ? みんなで頑張って折って、大吾ママにプレゼントするっていうのはどう?」

「すごい良いと思う!」翔が言った。

「でしょ? 大吾どう?」

 大吾はうーんと唸りながら眉間に皺を寄せた。

「えぇ何? 不満なの?」美織は頬を膨らませて言った。

「いや、すごく良いんだけど、なんというか、その……ベタという気がしてさ……ありきたりじゃない?」

「えぇ! せっかく考えたのに~。ベタな案で悪かったね!」

 美織は唇を尖らせて言った。

「ごめんって美織!」大吾は美織の前で手のひらを合わせて謝った。

 翔は大吾と美織のやり取りを聞いて少し考え込んだ。確かにありきたりといえばありきたりだけど、全然悪い案ではないと思う。けれども大吾が乗り気でないなら別の案も考えた方が良い気もした。そもそも自分たちは母たちに何をしてあげたいんだろう。何を伝えて、どんな思いを届けたいんだろうか。

 伝える……。届ける……。

 翔ははっとして大吾と美織を見た。

「紙……飛行機……」

「え?」大吾と美織が翔に振り向いた。

「紙飛行機を折ろうよ。それも千の」

「ど、どうして紙飛行機なんだ?」大吾は目を見開いて訊いてきた。

「あくまで一つの案として聞いてほしいんだけどさ、僕たちが伝えたいことは何かって考えて、それって生きてほしいってこと、だよね? その想いを届けたい。それが僕たちに限らず大吾のお母さんに関わっている人はみんな思っているはず。だから紙飛行機を折ってその僕たちの強い想いを紙飛行機に乗せて、大吾のお母さんに目掛けて飛ばして届けるんだ。千の束にして。……どうかな?」

 大吾と美織が顔を見合わせた。そしてお互い頬を緩ませあった。二人は翔のもとに駆け寄る。

「すっごい良いじゃん! 素敵。翔やるねぇ! なんか目新しさもあるし」

「想いを届ける千の紙飛行機か! すごい最高だ! それやろう!」

 翔はつい頬が緩んだ。自分の案で二人が喜んでくれたことが嬉しくてたまらなかった。

「それにしても翔、よくそんなこと思いついたな!」

「そ、そう?」

「うん。もしかして翔にも何か想いを届けたい人がいるとか?」

「え、もしかして私?」美織は揶揄うような笑みを見せた。

「そんなわけないだろ、美織」大吾が食い気味に鼻白んだ表情で否定した。

「ひど〜い。そんなのわかんないじゃ〜ん」美織は冗談っぽく声を尖らせた。

 翔は大吾と美織の漫才のようなやり取りを見て、言葉を詰まらせてしまった。

 想いを届けたい人──。

 この瞬間、翔はあるとてつもない衝動に駆られた。

 それは琴音との秘密を二人に打ち明けたいという衝動であった。

 想いを届けたい人は母。それを伝えるにあたり、『時を越えるノート』の存在を打ち明けることは避けて通れない気がした。それにこの二人には何も隠し事をしたくなかったし、自分の悩みを共有して欲しかった。過去を変えたいという途方もない悩みを。

 だが怖さもあった。翔は以前もこの自分の悩みを理解してほしいという気持ちで大吾に母のいない寂しさを打ち明けて、それがきっかけで仲違いしてしまった。もちろん今の大吾であればきっと以前のように無意識に人を傷付けるような言葉は吐かないだろう。それは断言できる。

 しかし、冷静に考えたらこんな話を誰が信じてくれるのだろうか。自分はもう『時を越えるノート』を半年以上使っていて感覚が鈍っているのかもしれないが、このノートは常識の範疇を余裕で超えた存在だ。このノートを授けてくれたエリーという仮面を被った怪しい死神のような男だってそうだ。彼の存在自体、常識の範疇を越えている。出会った時以来、彼は自分の前に姿を現していないが、彼の思惑は一体なんなのか、それは未だに謎のままだ。

 果たしてノートの文字が時空を越えて十一年前の母に届いているなんて、大吾と美織は信じてくれるのだろうか。頭のおかしなことを言っていると思われて、嫌われてしまうのではないか。

 荒唐無稽で突拍子もない話だけど、二人には信じてほしいし、心のどこかで二人なら信じてくれるんじゃないかとわずかな希望を抱いている自分もいた。

 翔は震える拳を力強く握った。そして心の中でぐらぐらと左右に傾く気持ちに決断を下した。

「実は二人に話したいことがあるんだ。冗談みたいな話だけど、全て真実なんだ。二人には信じてほしい……。聞いてくれる?」

 翔は大吾と美織にエリーという男から『時を越えるノート』を授かった時の話から今は亡き母とこのノートを使って交換ノートをしていること。そして母の病気を治して過去を変えようとしていることを伝えた。

 翔は顔を上げることが出来なかった。二人の顔を見るのが怖かった。引かれてるかもしれない。呆れられてるかもしれない。バカな話だと顔を顰めているかもしれない。でももう全て打ち明けてしまった。後悔しても後戻り出来ない。翔は意を決して二人の顔を見た。

「なるほど。そんなすごい映画みたいな話本当にあるんだな。翔のお母さん、なんとか生きてほしいな。千の紙飛行機は俺の母ちゃんと翔のお母さん、二人に届けよう。一緒に生きようという気持ちを届けるんだ。でも過去にはどう届けたらいいんだろうな」

「そうね。過去の翔ママに私たちの気持ちを届ける方法、ノートでの言葉以外にも何か考えたいよね。ねぇ翔、そのノートは折り紙とかの物を過去に送ることは出来ないんだよね?」

「……」

「ちょっと翔? 聞いてる?」美織が訊いた。

 翔は頭が真っ白になり、二人をぼんやりを眺めた。目の前にいる二人の言葉が翔の中にうまく浸透していかない。何故という文字が脳裏を駆け巡る。

「んで……」

「え?」美織が言う。

「なんで……信じてくれるの? こんな話をどうしてすんなり受け入れてくれるのさ。普通ありえないじゃん。漫画の世界の話じゃん。なのになんで……」

「嘘なのか?」大吾が言う。

「嘘じゃないよ! 嘘じゃないけど……こんな話をすぐに信じてくれるって思わなくて……」

「もちろん翔以外の奴からこの話を聞いていたらまず間違いなく信じてないし、軽くあしらっていただけだったと思うよ。でも翔ならどんな話だって信じられる」

「どうして?」

「だって翔は俺たちに嘘をつかないだろ?」

 大吾はあっけらかんとしながら言う。

「あんたとは長い付き合いだけど、私たちに嘘をついたことなんてないでしょ? 翔の良いところはいつだってバカ正直で嘘をつけないところなんだから。翔が言うことはどんなことだって真実。それくらい私にだってわかるよ」

「ありがとう……でも……」翔は意を決した。

「僕そんなに真っ直ぐな人間じゃないんだよ。お母さんにノートで未来のことを聞かれた時、僕はお母さんに病気のことを隠した。元気で一緒に暮らしていると嘘をついた。だから僕は二人が思っているような奴じゃない」

「でもそれは優しい嘘だろ?」大吾は平然と言う。

「え……」

「翔の嘘は翔ママのことを想っての嘘でしょ? そういう嘘ならついて良いと私は思うけどな」

「優しい……嘘……」

「まぁそう言うこった。お前は意味も無く嘘をつく奴じゃないってのはわかってんの。だから俺たちはお前を信じる。それだけの話だ」

 翔は胸が熱くなった。彼らの自分に向く真っ直ぐな信頼が嬉しくてたまらなかった。改めて彼らに出会えたことに深く感謝した。

「お待たせ、みんな! じゃあ帰ろうか」

 浩志が翔達が待つロビーに戻ってきた。三人は話の続きは後日にするとして、浩志の車に乗り込み、翔と美織は自分達の家に送ってもらった。車の窓から顔を出し「また明日な」と言う大吾に手を振り、車が見えなくなるまで見送った。

 あたりはすでに真っ暗になっていた。涼太にはメールで大吾の母のお見舞いに行くことを伝えていたため、家に帰るとすぐ彼女の病状を伝えた。涼太はとても心配そうに眉尻を下げていた。

 翔は涼太が作ってくれたカレーを食べて、部屋に戻った。机の中に閉まっていた『時を越えるノート』を取り出して開くと、琴音からメッセージが来ていた。

『明日から霞ヶ浦総合病院に入院するから今入院のための準備をしてる。私頑張るからね。絶対諦めないから。翔はサッカー頑張ってるかな? 今日の試合はどうだった?』

 翔はすぐにペンを手に取り、ペン先をノートにつけた。

『お母さん、いよいよだね。抗がん剤治療は本当に大変だと思うけど、僕は未来でずっとお母さんのことを想っている、エールを送り続ける。だから頑張ってほしい。僕もサッカー頑張る。今日の試合は六対〇で勝ったよ。僕一点取って、アシストも二回も出来た。すごいでしょ?笑 これからも嬉しい報告し続けるからね』

 翔は書き終えた後、窓から空に浮かぶ夜月を眺めた。荘厳の輝きを放つその月に、翔は心の中で願いをかけた。

 どうかお母さんを助けてください──。

 どうかお母さんに会わせてください──。

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