第15話
折原 琴音
二〇一三年六月
「外来通院……ですか?」琴音が訊いた。
「はい。最初は一ヶ月ほど入院して、抗がん剤治療を受けていただきますが、治療状況によっては出産時まで外来通院よる抗がん剤治療に切り替えることもあり得ますよ」
平木医師がお洒落なスパイラルパーマヘアーを指でクルクルといじりながら答えた。
「がん治療となれば必ず入院が必要になるんだと思っていました」涼太が言う。
「今は軽度ながんであればむしろ外来通院が多いんですよ。でも琴音さんのがんは軽度とは言えませんので、今後の治療の状況次第で入院期間が長引く可能性もあります。抗がん剤治療は副作用も顕著に出てしまう治療法ですから、辛い時期もあるかと思いますが、お腹のお子さんのためにも一緒に頑張っていきましょう」
平木医師は胸元あたりに握り拳を掲げた。
「はい、ありがとうございます」
診察を終えた琴音は涼太と共に、五階にある入院する病室に向かった。前回手術で入院した時は個室の部屋であったが、今回は四人部屋を選んだ。個室を選ぶことも出来たが、これから入院生活が長引く可能性もあるので、少しでも金銭的負担を抑えたかった。
同じ部屋には琴音の他に二人の女性がすでに入院していた。一人は五十歳代の見るからに活力に溢れているような少しばかりふくよかな女性。もう一人は中学生くらいの幼い女の子だった。可愛らしいお人形のような外見をしているが、俯きがちで本物の人形のように正気を感じなかった。
琴音は入室すると、二人に挨拶をした。五十歳代の女性は明るい笑顔で応えてくれたが、幼い女の子は終始無言で俯いたままだった。琴音のベッドは廊下側にあり、同じく廊下側の琴音の向かいに五十歳代の女性。窓側で琴音の隣に幼い女の子のベッドがあった。
「いらっしゃい。また可愛らしい子が来てくれて嬉しいわ。こんなおばちゃんだけど、話し相手になってちょうだいね」
「折原琴音と言います。こちらこそ、よろしくお願いします」
「琴音ちゃんね。私ったら名前も言わずに喋っちゃってごめんなさいね。私は南雲さゆり。よろしくね」
琴音は顔が綻んだ。気さくな女性が同室でとても安心した。さゆりは琴音を手招きした。琴音は彼女のベッドに近づき、琴音の耳元で小さく声を発した。
「そこにいる女の子は松岡里奈ちゃん。中学三年生なの。三日前から入院しているんだけど、ずっとあんな感じ。でも無理はないと思うの。この若さで卵巣がんだもの。塞ぎ込んじゃうのはしょうがない。だから優しくしてあげて」
琴音は里奈をチラッと一瞥した。彼女は俯いたまま人形のように動かないでいる。琴音は彼女の心情を慮った。人生これから、まだまだ友達と遊びたい盛りの多感な時期にがんという病気の告知を受けたとなれば、まさに青天の霹靂だろう。自分も彼女と同じ境遇となれば間違いなく正気ではいられないはずだと思った。琴音は今は彼女に対して無理に話しかけることはしないようにした。
「また明日来るから。なんか必要なものあればメールで教えて。すぐ届けるから」
「うん、ありがと。ちゃんと栄養あるもの食べるんだよ、涼ちゃん。外食ばっかりじゃだめだよ」
「わかってるよ。相変わらず人の心配ばっかりだなぁ。今は自分の体を一番に労りなよ。じゃあまた明日」
涼太はそう言って病室を後にした。彼は入院中は仕事終わりに毎日来てくれる。それは琴音にとって素直に嬉しかった。辛い治療で心が折れそうな時でも涼太がいてくれたら頑張れると思った。
涼太が帰った後、病室で琴音はさゆりとたくさん話をして、彼女のことを色々と知ることが出来た。
さゆりは土浦市の商店街で旦那さんと二人、南雲亭という定食屋を経営し、来年で三十周年を迎えるということだった。そんな最中、さゆりは子宮体がんを発症した。発覚時にはすでにがんがかなり進行した状態で医者からは余命半年と言われたという。だが、そう宣告されてからすでに一年を経過していた。
「余命宣告なんて当てにならないよ。この私をがんに呆気なく負けちまう女だと侮っちゃいけない。そう宣告した医者は気付いたらこの病院からいなくなっていたけどね。確か田中って言ったかな?」
琴音は少し頬が緩んで思わず笑いそうになった。思わぬところで田中医師の名前が出て、あまり良くない意味で相変わらずな人だと思った。
「今お店は旦那さんだけで切り盛りしているんですか?」
「そうなんだよ。うちの人料理の腕は確かなんだけど、気が弱くてね。私がいなくて大変だと思うし、何より寂しい思いをさせてるから早いところ治しちゃって、お店に復帰したいんだけどね。私みたいな看板娘がいないとお店も繁盛しないだろう?」
琴音は目を瞬いた。どう答えていいか迷ってしまった。
「琴音ちゃん、今の笑うところよ?」
「ご、ごめんなさい」
「琴音ちゃん、あんた面白い子ね」さゆりは大きな動作で快活に笑った。
琴音はお腹の子のことや病気のことなど自分の境遇について、さゆりに語った。さゆりはうんうんと頷きながら親身になって聞いてくれた。その時里奈は布団にくるまって横になっていた。顔まで布団で覆っているので、寝ているように見えるが実際はどうかわからなかった。
「そうかい。あんたも中々壮絶だね。でも立派だよ。お腹の子供のためにもしっかり病気治さないとね。そうだ、赤ちゃん産んだら私に抱っこさせてくれない? 私赤ちゃん大好きなんだけど、うちは子供に恵まれなくてね」
「ありがとうございます。ぜひ、うちの子抱っこしてあげてください。だからさゆりさんも病気に負けちゃダメです。うちの子を絶対に抱っこするって約束ですよ」
「ありがとう、琴音ちゃん。これで死ねない理由がまた増えたよ。一緒に頑張ろうね」
「はい」
さゆりの存在は琴音にとって本当に心強かった。お互い同じがんという病気と闘う戦友として、励まし合いながら頑張ろうと思えた。
一方で心のどこかで引っかかりがあった。それは里奈の存在だった。結局入院初日は一言も言葉を交わすことがなかったが、琴音はそれが気がかりでならなかった。余計なお世話だと思われてしまうかもしれないけど、この入院中で彼女とも心を通わせたいとなぜだかそう強く思った。
夜に琴音は家から持参してきた『時を越えるノート』で翔からのメッセージを確認した。サッカーの地区予選は翔の活躍もあって、一位で予選を突破したらしい。僕はずっとお母さんを想っている、という言葉が琴音の胸に響き渡る。
琴音は自然と口元に笑みが溢れた。翔の言葉には本当に毎回救われる思いだった。彼女は翔へのエールと入院生活が始まったことをノートに綴り、鞄に閉まった。
翌日から琴音の抗がん剤治療が始まった。
点滴注射を行い、その後一週間は休薬期間として薬による身体の状態を確認していく。このサイクルを一クールとして、今回の入院ではこのサイクルを合計四回行う。この休薬期間は決してら楽な期間ではなく、抗がん剤による様々な副作用が生じる。一クール目から琴音は吐き気や発熱、嘔吐等の副作用に襲われることとなった。決して侮っていたわけではなかったが、やはり実際に経験してみるとその辛さは想像を遥かに超えていた。
同室のさゆりと里奈も同じく抗がん剤の副作用に苛まれていたが、同じ辛さを共有する仲間をみると辛いのは自分だけではないと思い、心を奮い立たせることができた。しかし、未だに里奈とは心を通わせることができていなかった。
入院中は涼太だけでなく、奈央と史也も仕事の合間を縫って毎日のように病室に様子を見にきてくれた。親友との話は辛い治療も一時忘れさせるだけの力を持っている。奈央と話をしている時はいつだって自然と笑顔でいれた。史也も兄の友也を思わせるような明るさを見せてくれた。二人の優しさに琴音は救われていた。
その後も琴音のもとに大勢のお見舞い客が訪れた。彼女の両親や涼太の母親も来てくれて、彼女を励ましてくれた。中でも嬉しいお客さんは入院二週目に訪れた。
「琴ちゃん!」
「え⁉︎ なっちゃん! 愛香!」
突然病室に現れた彼女たちは高校時代の友人である、高野なつみと丸箸愛香だった。久しぶりの再会に琴音は目を輝かせて胸がはしゃいだ。だが、琴音は二人に病気のことを告げていなかった。もしかすると死ぬかもしれないという事実をかつての親友たちに告げる勇気がなかった。
「琴ちゃん! 心配してんだよ。体調はどう? ご飯食べれてる?」
愛香は昔と変わらず純真無垢で琴音は嬉しくなった。
「琴ちゃん! 水臭いよ。どうして私たちに病気のこと教えてくれなかったの」
なつみが少し口を尖らせて琴音に言った。
「ごめんね。二人には余計な心配をかけたくなくて。お仕事だって忙しいんでしょ?」
なつみはプロのイラストレイターとして、愛香はアニメーションスタジオで日々多忙に東京で働いていることを琴音は知っていた。
「そんなことだろうと思って、二人に連絡しといたんだよ」
廊下から奈央がひょっこりと顔を覗かせた。
「奈央……」琴音が薄く声を漏らした。
なつみは琴音の目をじっと見据えた。
「琴ちゃんは昔から自分のことじゃなくて人の事ばっかり考えすぎだよ。まぁそれも琴ちゃんの良いところなんだけどね。でも今は琴ちゃんが一番辛いんだからもっと友達に頼りなさい。わかった?」
「わ、わかりました」
なつみの顔がほんのり和らいだ。そして彼女は琴音をぎゅっと抱きしめた。
「奈央から病気のこと聞いてからずっと心配してたんだから。絶対に死んじゃダメだからね?」
なつみの声は微かに震えていた。愛香もなつみの後ろからさらに二人を抱きしめる。
「私、琴ちゃんいないと嫌だ。絶対に死なないで!」
愛香はまるで小学生のように涙をポロポロと流した。
琴音は二人を力強くぎゅっと抱きしめ返した。
「絶対死なないよ。二人をもうこれ以上悲しませたりしない。約束する」
その後、奈央を含めた四人で昔話に花を咲かせた。琴音はまるで高校時代にタイムスリップしたかのような高揚感に包まれた。会話をする中で四人の共通の話題である最近のアニメの話になった。琴音は昔ほどアニメを頻繁に観れていないが、今でも注目作品はチェックするようにしていた。
『ミリタリー』というアニメのモブキャラである酒場の店主の名前を愛香が思い出せずに唸っていると、琴音の隣から「マルセリス」とか細くも可愛らしい声が聞こえてきた。すると愛香が「そうマルセリス! ってあれ、今の声って誰の声?」と言った。
琴音は声の主はすぐにわかった。初めて聞く声だったが間違いなく里奈の声だろうと思った。琴音は里奈の方を向いた。里奈は横になって布団にくるまりながら琴音たちと逆の窓側を向いている。
「里奈ちゃんも『ミリタリー』好きなの?」琴音が里奈に訊いた。
「普通」とだけ布団の中からくぐもった声が聞こえた。
「そうなんだ。お姉ちゃんたちもアニメ大好きなんだ。里奈ちゃんも良かったら一緒にお話しない?」
「……」
「ごめん。そう言う気分じゃなければ良いんだ。無理しないで。でも私、里奈ちゃんとお話したいんだ。もし嫌じゃなければ、里奈ちゃんのタイミングで良いから、一緒にお話しよう? 私待っているから」
琴音がそう言った後も、声が返ってくることはなかった。
数十分後、なつみと愛香はまた来るからと言って、病室を後にした。
琴音はさゆりに「騒がしくしてすいませんでした」と言って頭を下げた。さゆりはにこっと笑って「良い友達さね。大事にした方が良いよ」と言ってくれた。
その日の夜、部屋の消灯後、真っ暗闇の中、微睡んでいた琴音の耳に微かな泣き声が聞こえてきた。その泣き声には聞き覚えがあった。琴音が昼頃耳にしたことがある声だった。琴音はむくっと起き上がり、右側を向いて口を開いた。
「里奈ちゃん、大丈夫? どこか具合悪い?」
琴音はベッドを囲うカテーンの中に向けて声をかけた。
小さく唸る声が聞こえるばかりで、返答はなかった。
「り──」
「琴音さん」
琴音は一瞬体の動きを止めた。初めて里奈から自分の名を呼んでくれた。
「里奈ちゃん、大丈夫?」
「……どうして、私なの?」
「え?」
「私まだ十五歳だよ? 中学生なんだよ? なのになんで私が卵巣がんになんてならなくちゃいけないの? 私これでも真面目に生きてきた。取り立てて悪いことだってしたことないのに、なんで神様は私を選んだの? 私だって普通に生きて普通に結婚して普通に子供産んで普通に孫を見て、それで安らかに死にたかった。私まだ死にたくないよ。赤ちゃんだって産みたい──」
琴音は一瞬で里奈の気持ちを察した。この子はまだ中学生なんだ。今の自分の状況を受け止めきれず、感情が制御できないのなんて当たり前なんだ。
琴音は少し深呼吸した。
今自分に出来ること──。
「里奈ちゃん。病気のこと本当に辛くて悲しいよね。でも一旦落ち着いてお姉さんの話聞いてくれる? お医者さんは里奈ちゃんの病気のことなんて言っているの? もう治らないって言っているの? 子宮は取り除かないといけないって言っているの?」
少ししてから里奈の声が聞こえた。
「前に担当医だった田中先生は早急に子宮を取り除かないと命に関わるって言ってて。でも私赤ちゃん産みたいから子宮を取り除きたくないって駄々こねて……そうしているうちに担当の先生が平木って人に代わって、その人になって改めて詳しく検査したら、まだ片方の卵巣内にのみがんが留まっているから、まだ妊娠できる機能を残した治療法は残っているって。でもその選択はがんの再発や転移の可能性が高くなるから十分に考えてくれ。その上で私が選んだ治療には全力を尽くさせてもらうって、平木先生は言ってくれたの」
琴音は少し頭を抱えた。田中医師による余波がこんなまだまだ幼い子供にも波及しているなんて──。どれだけ人の気持ちを逆撫でしたら気が澄むんだと憤りすら感じた。
「それで里奈ちゃんはどちらを選択したの?」
「私の親は将来子供を産むことは諦めてほしいの一点張りだったけど、当然私は諦めたくなかったから、平木先生に妊娠できる可能性を残してほしいって言った。そしたら親が裏で『娘はああ言っているが、やはり子宮の全摘をしてくれ』って平木先生に私に内緒で言ってたの。ひどいと思いませんか? 子供の意向を無視して勝手に話を進めようとするなんて。でも、親の話を聞いた平木先生が『ご両親のお気持ちはわかりました。ですが私はあなた方に聞いているんじゃない。患者である里奈さんの一向を第一に考えます』って言ってくれて。その後、平木先生はうちの親をなんとか説得してくれて、私が望む治療をしてくれることになった。でも……」
「でも?」
「やっぱり怖いものは怖いの。死ぬのが怖い。未来が無くなるのが怖い。入院してからなんで自分がこんな辛い目にってずっと考えてる。毎日夜になると震えが止まらないの。……琴音さん、助けてよ……私、どうしたら良いかわからないよ」
「里奈ちゃん、ちょっとそっちに行って良い?」
「……うん」
琴音は里奈のベッドを囲うカーテンをそっとずらして、中にいる彼女のことを見た。その瞬間琴音ははっとした。入院して初めて里奈を見た時から彼女はまるで人形のようにずっと所在のない表情をしていたが、今琴音の目に映っている彼女は目元がじんわりと赤く染まり、切れ長の綺麗な目から留まることなく涙が零れ落ちている。表情はくしゃくしゃにゆがみ、それでいて哀憫に満ちた雰囲気を醸し出していて、実に人間味のある表情だった。おそらくここでは相応しくない表現かもしれないが、琴音は里奈の姿がとても美しく思えた。里奈はベッドの上で膝を抱えて座っていた。
琴音はそっと近づいて、里奈の隣に座った。そして彼女の背中をそっと摩った。
「私もね田中先生にはひどい目にあったの」
「え? 琴音さんも?」里奈は琴音を見上げた。
「うん。私は今、子宮頸がんを患っていて、周りの人たちの助言もあってお腹の子と一緒に生きられる可能性のある抗がん剤治療をを望んだのだけれど、田中先生は病院の評判を落とさないためって言い分で母子ともに死んでしまう可能性もある抗がん剤治療を拒否し続けて、子宮の全摘出手術を強行しようとした。もちろんそうなったら私は絶対に同意書に著名する気はなくて他の病院に転院するつもりだったけど、その分治療が遅れてお腹の子供と一緒に共倒れする可能性は増してしまう。この時はね、正直すごく辛かった。何をどうしたら良いか、誰に助けを求めていいか、全然わからなかったの。里奈ちゃんは研修医の南野先生ってわかる?」
「えーっと……平木先生についているお医者さんのことですか?」
「そう。彼は私のお友達の弟でね、彼は当時研修医として田中先生についていたんだけど、決死の想いで私の想いを代弁して私がいないところで必死に戦ってくれた。それもあって今私の担当医は平木先生に代わったの。里奈ちゃんも担当医が平木先生に代わったのは多分それが原因かな」
琴音は里奈の手をぎゅっと握った。
「平木先生はね。何よりも患者のため。医者としてその確固たる信念を持っている。他のどのお医者さんよりも強い信念なんだと思う。だから彼が全力を尽くすというのであれば、それは絶対に間違いない。彼は里奈ちゃんの将来妊娠出来るという希望を残した上で最善の治療を全力でしてくれる。平木先生のことは信じていい。きっとあなたを助けてくれる」
里奈は目を滲ませながらこくんと頷いた。
「それとね、お父さん、お母さんのことは恨まないであげて。田中先生はさておいて、里奈ちゃんのご両親は誰よりも里奈ちゃんの命が大切だったんだよ。だからちょっと強引なやり方をしちゃったんだと思う。大切なわが子が病気になって正気でいられる人なんていないから。だから許してあげて。ね?」
「うん」里奈は声を震わせていた。里奈はその震える声で琴音に質問をした。
「琴音さんは病気で辛い時、どうしているの?」
「そうだね……。月並みな考えかもしれないけど、病気が治った後の楽しいことを想像する……かな。子供が生まれたら家族三人でどこに行こうかとか、何をして遊ぼうかとか、そんなことを考えていると私が亡くなる未来なんて存在しないもののように思えてくるんだ。私と子供が生きる未来以外、存在しないあり得ないってね。それでもどうしても悲しくてやりきれないくて辛い時はね、感情が赴くまま、目一杯泣くの。そして誰彼構わず助けを求めるの。悲しみを抱え込まず、みんなと一緒に共有させてもらって悲しみを分散するの。そうしているとまた自然と明るい未来が頭の中に現れてくれる。私は病気は一人で戦うものじゃなくて自分を支えてくれているみんなと徒党を組んで共に戦うものだと思っている。みんながいれば、どんな病気にも勝てるってそう思ってるから」
琴音は里奈に微笑みかけて続ける。
「ねぇ里奈ちゃん、私は里奈ちゃんみたいに十五歳って若さで重たい病気に罹ったことはないから里奈ちゃんが抱えている辛さや苦しさを百パーセント理解することは出来ない。どれだけの不安、悩み、苦しみを抱えているのか、私なんかじゃ想像すら出来ない。何かにすがりたい、当たり散らしたい、誰かを恨んでやりたい、そんな感情があるのは当然。それだけの辛い出来事だと思うから。でもね、そういう意味で私と里奈ちゃんは完璧には分かり合えないかもしれないけど、私は里奈ちゃんの抱えている想いを分かち合いたいと思っている。里奈ちゃんの抱えている苦しみを私にも教えてくれないかな? 私にも里奈ちゃんの病気と闘わせてほしい。支えさせてほしいんだ」
里奈は琴音の目を見た。少し俯いたあと、また顔を上げて涙ながらに口を開いた。
「なんで私が病気にならないといけないのとか、なんでよりによって卵巣がんなの、将来子供生めないかもしれないじゃんとか、色んなこと考えていましたけど、それはもう一旦良いんです。まだ死んじゃうかもしれないっていう怖さは完全にぬぐい切れたわけではないですけど、琴音さんの言葉でその気持ちはかなり吹っ切れました。ありがとうございます。……あのね琴音さん、私本当だったら来週テニスの県大会の初戦だったんです。ダブルスで相棒の女の子と一緒に沢山これまで練習をしてきました。それなのに私こんな病気に罹っちゃって、私も彼女も今年で三年生だから最後の大会だったんです。それなのにこんな病気のせいで彼女の努力を無駄にしちゃった。それが本当に申し訳なくて……。いっそのことふざけんなって罵倒してほしかった。なのにその子は私の心配ばかりするんです。『私のことなんて良いの! 里奈はきっと治る! 里奈のことずっと待ってる!』って。そんなにも優しい親友に私、入院する前『あんたに私のこの気持ちなんてわかるわけない! 勝手なこと言わないで!』って罵倒しちゃったんです。頭おかしいですよね。どうかしていたとしか思えない。彼女の優しさが辛かった。健康な人を見るのが嫌でたまらなかった。……謝りたいんです。でもきっと嫌われた。もう許してくれない。そう思うと、どうしても彼女に電話が出来なくて……」
琴音は里奈の肩を優しく抱きしめた。
「教えてくれてありがとう。里奈ちゃんは本当に良いお友達を持ったね。訊くまでもないと思うけど、里奈ちゃんはその子と仲直りしたいんだよね?」
里奈は抱きしめられながら首を縦に振った。
「だよね。躊躇しちゃう気持ちはすごくわかるけど、明日その子に謝ろう。きっとその子も里奈ちゃんを怒らせてしまったって、申し訳なく思っていて仲直りしたいってきっと思っているはず。二人の間に絡まった糸は里奈ちゃんの言葉でほどいてあげよ。あなた達の絆はそんな簡単に壊れちゃうものじゃないでしょ? その子もきっと里奈ちゃんの病気と闘ってくれるよ」
里奈は「うぅ」と嗚咽をこぼしながら琴音の胸にうずくまり、これまでため込んできた感情を一気に解放した。琴音の入院着は彼女の涙で濡れてしまう。琴音はそのまま里奈の体をそっと抱き締め続けた。そして数十秒後、疲れてしまったのか、そのまま里奈は琴音の胸の中で眠りについてしまった。スースーと静かな寝息が聞こえる。
琴音は里奈の寝顔を覗き見た。とても美しい寝顔で思わず胸がキュンとなった。こんなにも可愛らしい人を見たのは奈央以来だと思った。琴音は彼女の腕をそっと掴み、ゆっくりとベッドの上に横にさせてふとんを胸元までかけた。「おやすみ」と小さな声で彼女に語りかけた後、琴音は自分のベッドに戻った。
翌日、琴音が目を覚ますと既に里奈は起床し、外を眺めていた。「おはよう」という琴音の言葉に里奈は満面の笑みで「おはようございます。昨日はありがとうございました。」と答えた。朝日に照らされるその顔は形容し難いほど美しかった。
このやり取りを見ていたさゆりは二人の顔を交互に眺めながら目を瞬かせていた。
「あんた達いつの間に仲良くなったの! 私も仲間に入れなさいよ~」
そう言ってさゆりは朝から快活の声で二人の間に割り込んできた。里奈はさゆりにこれまでの無礼を謝った。
「そんなもんは一切気にしないで。それにしても、今更言うけどあなた達可愛すぎるわよ。オセロみたいにあなた達の間に入ったら私も美人になれないかしら〜」と自虐するさゆりの言葉で病室は一気に暖かくも優しい空気が流れた。
朝食後、里奈は琴音に見守られる中、親友に電話を掛けた。涙ながらに電話口で親友と語りあった後、電話を切った里奈は笑顔で琴音にピースサインを向けた。その時の里奈の表情は晴天の空のようにとても晴れやかだった。
その日は休日だったこともあり、電話があった一時間後、里奈の親友は病室に駆け込んできて、里奈の体を力強く抱きしめた。二人は互いにごめんねを言い合いながら、涙と笑顔を互いに共有していた。二人の絆の糸は見事に解けているように見えて、琴音も自然と口元に笑みがこぼれた。
その時ちょうど「琴音、体長はどう?」と奈央が様子を見にやってきた。
「奈央!」琴音は奈央のもとに近づいて思い切り抱きついた。
「ちょ、どうしたのよ⁉」
奈央は突然の親友の抱擁に驚きの表情を見せた。
琴音は里奈とその親友の方を指差した。
「なんか私も親友に抱きつきたくなっちゃって」
「なにそれ~。まぁ琴音の頼みとなればしょうがない。いくらでも抱きしめられてやろう。ほれほれ」
得意げな奈央の表情に琴音は思わず声を出して笑ってしまった。そのやり取りを里奈やさゆりも微笑ましく眺めていた。その瞬間、病室は辛い病気と闘っている者がいるとは思えないほど、笑顔と温かさに包まれた。
「なんだか楽しそうだね」
「涼ちゃん! おはよう」
涼太が琴音に会いに病室に来た。休日のため彼も朝から来ることが出来たのだ。
「おはよう。ほら、琴音が言ってた本何冊か持ってきたよ」
「ありがとう。重かったでしょ?」
涼太が持ってきたのは家にある琴音の小説十冊だった。読書好きの彼女が涼太にお願いしていたものだった。
「流石に十冊くらいじゃへこたれないよ。というかまだそれ使ってくれていたんだね」
「ん?」
「栞だよ」
「あぁ! そりゃもちろん。すごい可愛いし。涼ちゃんからのプレゼントだし」
涼太が言った栞とは四年ほど前に彼が琴音にプレゼントした押し花をラミネートフィルムで挟んだ手作り仕様の栞だった。琴音の大好きなお花である紫苑の青い花があしらわれている。もちろん手作り仕様とはいえ、涼太が作ったものではなく、おしゃれな雑貨屋で涼太が選んで買ってくれたものだ。
涼太が目にしたのは、読みかけの小説の間に挟まっているその紫苑の花の栞だった。
午後から琴音は検査の予定が入っていた。涼太が帰った後、琴音は昼食を終えて『時を越えるノート』のこれまで翔とやり取りしていた過去のメッセージを眺めていた。ベッド横の簡易デスクには先ほど涼太が持ってきてくれた小説を並べて置いていた。
「折原さん、検査に向かいますので準備お願いします」
女性看護師からの言葉を受け、琴音は「は〜い」と言って、咄嗟に小説で使っていた紫苑の花の栞をさっと抜き取って、読み途中であった『時を越えるノート』のページの間に挟んでから、鞄に閉まった。
「今行きます!」
琴音はベッドから降りて、看護師の後に付いていき病室を出た。
検査終了後、平木医師と診察室で副作用の状態を確認した後、どうしたら清楚な女性にモテるのかという平木医師プライベートな悩み相談を聞いてあげた。
病室に戻る道中、琴音は急な吐き気がやってきた。すぐにトイレに駆け込み、嘔吐した後異変に気づいた。長い髪の毛が自分の周りに落ちていたのだ。琴音はあまりのショックに落胆してしまう。抗がん剤治療の副作用で脱毛してしまうことは当然知っていたが、いざその状況を目の当たりにすると想像を超えたショックさだった。女性にとって髪はそれだけ大事なのだ。
それでも琴音の心の灯火は一切消えることはなかった。琴音はトイレの鏡の前に達、自身の頬を数回叩いた。こんなことで病気に負けるわけにはいかないと自分を改めて奮い立たせた。
琴音が病室に戻った時、さゆりと里奈も検査のためか病室にはいなかった。里奈は明後日には手術が控えている。きっとその説明などを受けているのだろうと思った。琴音は自分のベッドに戻って、先ほど読んでいた『時を越えるノート』を鞄から取り出し、続きを読もうとした。その瞬間、琴音はある違和感に襲われた。
「あれ?」
先ほど、咄嗟にノートに挟み込んだ栞がなくなっていた。鞄の中に落ちたのかと思って、鞄の中を漁ってみるも全く見つからなかった。琴音は眉根を寄せたまま、首を傾げた。
折原 翔
二〇二四年七月
「千機って想像してたよりも大変だな」
大吾が折り紙を折りながら柄にもなく弱気な発言をため息混じりにした。するとバシッと大きな音が部屋に響く。もはや翔にとっては聞き慣れた音だった。愛着すらも感じるほど。「いってえ!」と大吾は声を漏らした。美織が大吾の背中を叩く音だった。
「あんたがそんな弱気でどうするのさ! 大きいのは図体だけなの?」
美織は口元を歪めた。
「昔お前のことを少し好きだった自分を殴りたいわ」
大吾は眉間に皺を寄せて吐き捨てるように言った。
「いや、なんでもう好きじゃないのよ。こんな可愛い子と一緒にいられて嬉しいと思わないの? 大吾うちのクラスの男子から羨ましがられているんだよ? 知ってる?」
「みんな美織の正体を知らないんだよ」
「どう言う意味よ」
「二人とも全然手が進んでないよ。口も手も同時に動かしてね」
「翔のくせに生意気だな~」
美織は握りこぶしで翔の頭を何度か小突いた。小突かれながら翔は美織にとある疑問を口にした。
「あのさ、美織。ずっと気になっていたんだけど、なんで美織はグーで殴るの? 女の子の相場はパーで平手打ちでしょ」
美織はぽかんとした表情になる。
「え? だってグーの方が痛いからその方がやりがいあるじゃない」
美織はまるで言わずもがなといった様子で言ってのけた。
「悪魔みたいな発想だな」
すかさず大吾がツッコミを入れた。
「誰が悪魔だって?」
美織が鋭い目つきで大吾ににじり寄る。その時部屋のドアが開いた。三人はドアの方に振り向く。
「みんな、いらっしゃい。紙飛行機は順調かい?」
涼太がドアの隙間から話しかけた。
「翔パパ! お邪魔してます。すごく順調ですよ。みんなで和気藹々とやれています」美織が若干猫なで声で答えた。翔は軽くゾッとした。よく耳にする女性の裏の顔というものを目の当たりにしたような気がした。
「それは良かった。ゆっくりしていってくれよ。大吾君もごゆっくりね」
「はい!」大吾は笑顔で言った。
先月、美奈子を勇気づけるため、千の紙飛行機を折ると決めてから各々の家で三人は紙飛行機を折り続けていたが、今日は翔の家に集まり、みんなで紙飛行機を折ることにした。折り鶴よりは折る工程が少ないため、それなりに早く終わるのだろうと翔は踏んでいたが、やはり千という数字は三人だけでは途方もなく、ようやく百個の紙飛行機が完成したくらいだった。
大吾が翔の家に来たのは実に一年ぶりのことだった。すでに涼太に大吾と仲直りしたことは伝えていたため、涼太は大吾の訪問をとても喜んでいた。翔自身大吾と美織が家にいることが最初は不思議な感覚で若干の気恥ずかしさを感じたが、三人で喋る中でその感覚はあっという間に消し去った。一年以上も大吾がこの部屋に来ていなかったことが信じられないくらいに当たり前の空間に変わっていた。
「それにしても二人とも大活躍みたいじゃない。あと一回勝てば、予選リーグ一位で初めての県大会出場でしょ? 永森先生も学校で心なしか浮かれてるもん」
美織が折り紙を折りながら訊く。
「しかも大吾は得点ランキングでもぶっちぎりの一位だからね」
翔が重ねて言った。大吾の活躍は自分のことのように嬉しい。
「もしかしたら俺は将来とんでもない選手になるのかもしれないな……」
大吾は顎を摩りながら得意げに言う。
「すぐそうやって調子に乗るんだから。どうせ翔が良いパス出してくれているから点を決めれているんでしょ? ちゃんと翔に感謝しなさいよ」
「わかっているよ。でも俺の実力も半分あるわい。なぁ翔?」
「僕的には大吾がすごく良いポジション取りをしてくれるから、すごいパス出しやすくて助かっているって思っているけどな」
「ほら見ろ、美織! 俺もそこそこすごいんだからな」
大吾は不敵に片頬で笑った。
「はいはい。わかりましたよ。本当そういうムキになるところはいつまで経っても子供っぽいよね」美織は嗜めるように言った。
「しょうがないだろ、子供なんだから」
「まぁまぁ」翔は二人をなだめた。二人の夫婦漫才のようなやり取りを見るのが翔は好きだった。ついつい顔がほころんでしまう。
「ちなみに大吾、お母さんの病状はどんな感じなの?」
翔は気を取り直すように訊いた。
大吾は翔の方を向いて眉根を下げた。
「実はまた来月手術があるんだ。この前の頭痛の原因はやっぱり脳梗塞だったみたいでさ、今度もまた大掛かりな手術になるっぽいんだよ。俺の前ではいつも笑顔でいてくれているんだけど、内心相当辛いと思うんだ。だから早くこの千の紙飛行機を見せてあげたいんだ」
「そうね。じゃあ大吾ママの心からの笑顔のためにも、ガンガン折り進めるよ!」
美織の檄を受けて翔と大吾は気合を入れ直した。
折り始めてから二時間後、紙飛行機の個数は二百個になった。切の良いところで、三人は少し休憩を取ることにした。
「そうだ翔、例のもの見せてくれよ」
翔が用意したスナック菓子を食べながら大吾が訊いた。
「あ、そうだよ。すっかり忘れるところだった!」美織がそれに続く。
「うん、ちょっと待ってて」
翔は立ち上がって机の中に閉まってある『時を越えるノート』を取り出した。
大吾と美織が今日翔の家に来た理由は二つあった。一つは紙飛行機をみんなで集まって折り進めること。もう一つは、翔が二人に『時を越えるノート』を見せることだった。
「はい、これだよ」
翔は取り出したノートを二人に見せ、大吾にノートを手渡した。
「私にも見せて」
大吾は美織と一緒にノートを持ちながら、まじまじとノートを見据える。
「これがそうなのか? なんだか見た目はただの大学ノートにしか見えないな」
大吾が若干拍子抜けしたように呟いた。
「見た目はね。でも本当に書いた文字が時空を越えて過去に行っているはずなんだ」
「別に疑っちゃいないよ。ちょっと中身も見ていいのか?」
大吾がそう言うとまたも美織が大吾の背中を叩いた。
「いったぁ!」
「あんたにはデリカシーってものがないの? 友達のお母さんとの交換日記の中身をおいそれと見ようとすんじゃないの」
「ご、ごめん。確かに」
「別に良いんだよ、美織。でも少し恥ずかしい文面もあるかもだから、見せられるところだけ抜粋しても良い?」
翔はそう言うと、美織からノートを受け取り、ノートをペラペラとめくり始めた。するとノートのページの間から何か薄っぺらいものが落ちてきた。美織がそれをしゃがんで拾った。
「なにこれ、すごい可愛い栞。手作りみたい。これ翔のなの?」
美織は顔を綻ばせて言った。その手の中には透明なラミネートフィルムに包まれ青い花の押し花であしらってる美しい手製の栞があった。翔は当惑した。一切見覚えのないものだったからだ。
「それ僕のじゃないよ。初めて見たもん。でもすごい綺麗な栞だ」
すかさず大吾が口を挟んだ。
「でもだとしたら変じゃないか? 翔のじゃないとしたらなんでそのノートから落ちてきたんだ? そのノートまだ誰にも見せたことないんだろ?」
翔ははっとした。顎に指を添えて考え込む。
大吾の言う通りだと思った。このノートはこれまで自分以外の誰にも見せたこともない。もちろん涼太にもだ。ノートの存在を知らせたのも大吾と美織が初めてだった。
すぐに翔の脳裏に浮かんだのは涼太が偶然このノートを見つけてしまい、自分に内緒で読んだりして、その時にこの栞を挟んだのかという疑念だった。しかし、翔はすぐに思い直す。涼太は息子に内緒で部屋に入ったりすることはないからだ。もちろん自分の与り知らぬところでそういうことをやっている可能性はゼロには出来ないかもしれないが、こと涼太に関してはそういったことはしないと思った。失礼かもしれないが、そもそも涼太がこんなお洒落な栞を持っているとは到底思えなかった。
だとしたら一体なぜ? 昨日琴音とノートのやり取りをしている時にはこんな栞はなかったはず──。
翔は次の瞬間ある可能性を感じて体が硬直した。
まさかとは思うが、翔にはその可能性以外考えられなかった。
「美織! ちょっとその栞貸して!」
「え、良いけど。はい」
翔は美織から栞を受け取って、すぐに部屋のドアノブを掴んでドアを開いた。
「ちょっと翔⁉」美織が翔に声をかけた。
「ごめん、美織! ちょっとそこで待ってて!」
翔は栞を手にリビングのソファに座っている涼太の傍に行った。涼太は翔の方を振り向いた。
「お、どうした?」
「お父さん、この栞見覚えある?」
翔は手に持っていた栞を涼太に見せた。
「ん? なんだそれ? 栞?」
涼太は翔の手のひらに乗っている栞をまじまじと見つめた。すると数秒後、涼太は勢いよく翔の顔を見上げた。
「翔、これどこで見つけたんだ?」
涼太の目は先ほどまで優しい目から動揺の色を孕んだ瞳に変わっていた。明らかにこの栞を以前見たことがあるようなリアクションだった。
翔は答えに窮した。父には『時を越えるノート』のことは伝えていない。翔は必死に頭を回転させて言い訳案を考えた。
「ふ、史也さんから貰ったんだよ。この前、うちに来てくれたでしょ? その時に……」
翔は言葉が口から出た瞬間すぐに後悔した。もし自分の予想が外れて、これが涼太のものだったとしたら史也から貰ったという状況は彼をより困惑させてしまうと思った。だが、涼太の返答は意外なものだった。
「史也か。それならもしかするとあり得るかもしれないな」
「え、どういうこと?」
翔は首を傾げた。なぜ史也から貰ったのであれば、あり得る話なのか彼にはわからなかった。
「その栞はな、俺が昔、琴音にプレゼントしたものなんだ」
「‼︎」
翔は驚きのあまり声が出なかった。
涼太の言葉は翔にとって、きっとそれしかないだろうと思いながらも心のどこかで、けどそんなことあるはずはないと疑心を孕んだ考えだったからだ。
「お母さんはな、小説とかの本を読むのが好きだったんだ。それで確か十五年前くらいに俺から琴音に彼女の好きだった花である紫苑の花を押し花にした栞をプレゼントしたんだ。雑貨屋さんで偶然良いの見つけてな」
翔は動揺をひた隠し、さらに訊く。
「でもどうしてそれで史也さんが持っている可能性もあるってことになるの?」
「確か入院中の時だったと思うけど、琴音はその栞を失くしてしまったんだ。もし病院で史也がその栞を見つけたんだとしたら、持ち主がわからなくてそのまま貰ったってこともあり得るかと思ってさ。それにしても懐かしい……」
「お父……さん?」涼太が微かに肩を震わせているように思えた。
「ごめん、みっともなくて。なんかその栞を見ると生前の琴音を思い出しちゃったんだ」
翔はぎゅっと拳を握りしめた。
「お父さん、この栞、僕がそのままもらっても良いかな?」
涼太は顔を見上げた。若干目が赤らんでいる。
「もちろんだ。母の形見として翔にずっと持っていてもらえると嬉しい」
翔は栞を手にして部屋に戻った。
「翔、何かわかったのか?」
大吾が少し心配そうに訊く。翔は首を縦に振り口を開いた。
「この栞は過去の世界から来ている。お母さんの栞だよ。このノートを伝って未来に届いたんだ」
「なんだって⁉︎」大吾は驚きの表情を浮かべる。「本当なのか⁉︎」
翔は頷く。
「うん。恐らく間違いないと思う。原理はさっぱりわからないけど」
「その栞はノートに挟まっていたんだから、翔ママがノートのページに栞を挟んだことで未来に飛んできたって考えるのが妥当じゃない?」
美織の言葉に大吾と翔は「なるほど」と口を揃えた。
「なんでも送れるのかな?」翔がぽつりと呟いた。
「なぁちょっと試してみないか? 何を送ることが出来るのか」
大吾が目を輝かせて言う。
「良い考えね。でももし突然色んな物がノートから溢れ出てきたら、翔ママもびっくりしちゃうんじゃない? だったらさ先に事前告知しちゃったらどう? これから色々物が届くかもしれないけど驚かないでねって」
「うん、そうだね。そうしよう。でもさ、何を送ろっか?」
翔の言葉を受けて、二人は少し考え込んだ後、先に口を開いたのは大吾だった。
「どれくらいの大きさの物なら送れるのかを把握するためにさ、試す物を段階的に大きいものからどんどん小さいものにシフトしていったらどうだ? 例えば最初は……サッカーボールとか?」
「え、ちょっと大きすぎない? 翔ママ今入院しているんでしょ? そんなもの万が一送れちゃったら、病院の人もおかしいって思っちゃうんじゃない?」
「でも試してみないと始まらないだろ? 事前に予告はするんだし、すぐに送り返してもらえたら大丈夫だろ。ちょっと他も選ぼうぜッ」
「大吾、あんたワクワクしてるでしょ?」
美織が目を細めて言う。大吾は翔と美織を交互に見た。
「これがワクワクせずいられるかってのッ」
その後の話し合いで翔達三人はノートに挟んでみるものを決めた。
まず最初に試すものはサッカーボール、その次は筆箱、その又次は消しゴム、最後は翔が昔買った仮面ライダーカードだ。何を過去に送れるのか、大吾と美織が心に占めている大半の気持ちが興味と好奇心なのかもしれないが、翔にははっきりと思惑があった。それは、ある程度嵩張るものでも過去に送ることができるのであれば翔たちが完成させた千の紙飛行機も過去に送ることが出来るのではないか? それを確かめることが翔の一番の目的だった。
言葉で伝えるより、実物を送れた方がきっと喜んでくれるはず。翔はそう考えた。
翔は早速琴音にメッセージを書いた。
『お母さん、今僕のノートに青い押し花の栞が挟まっていたんだ。これってお母さんのだよね? ってことはさ、ノートに何かを挟めばもしかしたら文字以外のやり取りも出来るんじゃないかって思ったんだ。どれくらいのものなら送れるのか、ちょっと試してみたいんだけど良い?』
翔が大吾と美織に見舞わられる中、メッセージを書き終えると、いつものようにノートは淡い光を放った。
「光ったぞ!」大吾が声を上げた。美織は手で口を覆い、息を呑んだ。
「これがメッセージが過去に送られた合図。お母さんからメッセージが届いたらまた光るよ。でもお母さん入院中だからすぐ返事が来るかはわかんないけど」
翔がそう言った一分後に、ノートはまた光出した。
「おい、翔、これ──」
「うん、お母さんからの返事だ」翔はノートを開いた。
『驚いた。間違いなくその栞は私のだよ。ノートに挟んでいて少し目を離していたら無くなっちゃったからショック受けていたところなの。今検査も終わって、今日はしばらく何も予定はないから、その実験やってみても良いよ。面白そう』
翔は琴音からのメッセージを読んで、見せても問題ないと判断し、二人にも母からのメッセージを見せた。
「よし、翔の母ちゃんも問題ないって言うし早速やってみるか」
翔が「うん」と頷いた後、後ろに目をやると美織が座り込んでいた。
「どうしたの美織? こっちおいでよ」
「大丈夫か? 貧血?」
「腰抜かしちゃって、立てない……」
「はぃ? どうしたんだよいきなり」
「だって……もちろん翔の言うことに間違いはないと思っていたけど、実際にこの現象を目の当たりにしちゃったらビックリしちゃって」
「大丈夫?」翔は美織に手を差し出した。「ありがと」美織は翔の手を握り、なんとか立ち上がることができた。
無理もないと思った。むしろ良い意味でおかしいのはきっと大吾の方なんだろう。あまり驚いていないところを見るとやはり百パーセント自分を信じてくれていたんだと嬉しくなった。美織の反応の方が正常だろうと翔は思った。いくら友の言葉を信じていても実際に目の当たりするまでは心のどこかで疑心は芽生えるはずだ。
「お前にはまだまだ翔を信じ抜く気概が足らんなぁ」
大吾は得意げに言う。それとほぼ同時に「うるさい」と言う言葉と鋭いチョップが大吾の脳天に直撃した。翔は、また余計なことを、と一言多い友に心の中で呟いた。
早速翔はサッカーボールを持ってきて、ノートの間に挟み込んでみた。そして三人は固唾を飲んでサッカーボールが消える瞬間を待ち侘びたが、一切何も変化は見受けられなかった。
「ダメか……やっぱりデカすぎたかな」大吾が肩を落とした。
「じゃあ次やってみますか」
美織は次に翔の筆箱をノートに挟んだが、これまたうんともすんとも言わなかった。次の消しゴムはおそらく過去に行くのでは? と期待したがこれまた何も起きず、消しゴムはノートに挟まったままだった。
「おいおい。本当にこれ過去に送れるのか?」大吾は頭を掻いた。
「おかしいな。過去から未来にしか送れないとか何か条件があるのかな?」
翔も腕を組みながらうーんと唸った。とりあえず少しだけ諦めの境地で残りの仮面ライダーカードもノートに挟んでみることにした。すると挟んでから数秒後、ノートはまた淡い光を放った。
「え、ちょっと光ったよ!」美織が声を上げた。
翔は恐る恐るノートを開くと、先ほど仮面ライダーカードを挟んだページには何も無くなっていた。
「これは過去に行ったってことだよなッ?」大吾が目を見開いて言った。
「そうだと思う。でもさ、一体何が基準なんだろ? 小さいものってことはわかるけど、消しゴムは送れなかった」
すると美織が「あ」と言葉を漏らした。
「栞とカード……薄いよね? ノートを閉められるものじゃないと送れない……とか?」
翔と大吾は目を見合わせた。
「あり得る……」翔は呟いた。
「だったら!」大吾は前のめりになった。
「写真とかなら送れるってことじゃないか⁉︎」
「写真……か。確かに……」
「じゃあ早速翔! 早くお前が写った写真送ってあげようぜ! 絶対翔の母ちゃんも喜んでくれるだろ」
「あ、ちょっと待って」美織が制した。
「なんだよ、美織」
「どうせなら、千の紙飛行機と一緒に写真を撮って送ってあげない? ぽんぽんと沢山翔の写真を送ってあげるのも良いと思うけど、なんて言うんだろ……重みっていうか、その写真一枚に翔の想いを凝縮させた方が喜びもひとしおなんじゃないかって思って」
「そうか? 沢山将来の自分の息子の顔見れた方が嬉しいんじゃないか?」
「翔はどうしたい?」美織が訊いた。
「僕は……」翔は数秒考えた後に答えた。
「大吾と美織、そして千の紙飛行機と一緒に写真を撮って送りたい。こんなにも最高の友達が僕にはいる。お母さんにも早く会って欲しい。だから未来で待ってる。そう伝えたい」
「そうか」大吾は清々しい顔をして言った。
翔が何より嬉しかったのは、大吾と美織が自分のことを、そして琴音のことを真剣に考えてくれていることだった。琴音にもこの最高な友人たちに早く会ってほしいという気持ちは紛れもなく本物だった。
するとまた机に置いてある『時を越えるノート』が光り出した。翔はノートを開き、琴音からのメッセージを精読してから二人の方に振り向いて、頬を緩ませた。
「仮面ライダーカード、届いたってさ」
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