第12話
折原 涼太
二〇一三年
十一年前、琴音は円錐切除の手術を受け、がんの進行具合を検査した。手術の十日後に出た検査結果は担当の田中医師から聞かされた。
結果は円錐切除だけではがんは取り切れなかったというものだった。田中医師の後ろには研修医の史也が立っていた。彼は唇を噛み締め、悔しさを滲ませている。この検査結果を受けて田中医師が示した選択肢はたった一つ。それは赤ちゃんは諦めなければならないというものだった。
「大変申し上げにくいのですが、折原さんのがんは既に膀胱付近まで侵辱しています。まだ子宮自体への病理検査をしておりませんので断定は出来ませんが恐らく、がんの進行は子宮全体に広がっています。こうなってしまった以上、妊娠終了まで治療を待つという選択肢は医師の立場として推奨出来ません。その時まで奥様の命が保つ可能性は限りなく低い。あまりにもリスクが高すぎます。直ちに子宮の摘出手術を受けなければなりません」
「ちょっと待ってくださいよ!」
淡々と話を進める田中医師の言葉を涼太は遮った。
田中医師は「何か?」と三白眼を向けてくる。
琴音は俯いたまま動けないでいた。
「勝手に話を進めないでくださいよ。子宮全摘出ってそんなことしたら……」
「お腹にいる胎児は諦めてください。そして今後妊娠することも出来ません」
「そんな簡単に言わないでくださいよ。何とか出来る方法はないんですか? 手術以外にもがんの治療方法は他にもあるでしょう?」涼太は声を震わせながら言う。
「他の治療方法には放射線治療や抗がん剤治療等の化学療法がありますが、これらの治療は原則妊娠中は出来ません。胎児に多大なる悪影響を与えてしまうからです。それにそれらの治療より子宮摘出手術の方ががんの治療には極めて有効なんです」
「しかし……」
「ご主人。あなたは奥さんを見殺しにするつもりですか? 今考えるべきことは助かる見込みの少ない赤子のことではなく、まだ助かる見込みのある奥さんの命を必死に守り抜くことじゃないんですか?」
涼太は何も言い返すことが出来なかった。突きつけられた現実が腹の底に深く食い込んでいく。田中医師が言うように今は琴音が助かる最善の方法を取るしかない。涼太は握った拳にさらに力を加え、わかりましたと口にしようとした時、琴音は顔を上げて田中医師の目を真直ぐ見据えた。
「田中先生の言う事は最もだと思います」
「はい。では早速手術の日取りを──」
「ですが、私はこのお腹の子を諦めるつもりはありません」
「はい?」
「こ、琴音……」琴音の目は真剣そのものだった。迷いの色が一切ない強い眼差しだった。
「折原さん、話を聞いていましたか? あなたには選択の余地はないんです。死なないためには赤ちゃんを産むことを諦めるしかないんです」
「すぐに子宮を摘出したからといって、私の命が必ず助かるわけではないですよね?」
「それはそうですが……早急に摘出することで他の器官へのがんの転移を防ぐことは出来ます」
「ですが、この子はもう私にとって自分の命よりも大切なかけがえのない宝物なんです」
「おっしゃることはわかります。しかし、それ以外に方法がありま──」
「免疫療法でがんの進行を抑えます」
「免疫療法……?」涼太には聞いたことがない治療名だった。すると、「ふん」と田中医師が鼻で笑った。
「何を言うかと思えば……看護師だから多少知識はあるんでしょうが、免疫療法は未だ研究段階の治療方法です。さらに子宮頸がんに対し効果が証明されたものはないはずです。そんな治療でがんを取り切れるとは到底思えない」
「取り切る必要はありません。この子を産むことが出来る周期まで私の命を保ってくれさえすれば、それだけで良いんです」
「本気で言っているんですか? しかし、うちの病院では免疫療法は行っていませんよ」
「であれば、他の免疫療法可能な病院を探します。とにかく私はこの子の命を諦めることは絶対ありません。これで失礼します。涼ちゃん、行こう」
琴音は立ち上がって踵を返し、診察室のドアを開けた。涼太も「待って!」と言いながら慌てて琴音の後を付いて行く。
「ご主人」田中医師の言葉が聞こえ、涼太は振り返った。
「必ず後悔しますよ。赤子も奥様もどちらも失う選択だ」
「私は……妻の想いを信じます。失礼します」
涼太はそう言うと、診察室を後にして琴音の後を追った。
田中医師にはああ言ったものの涼太の心は揺れていた。赤ちゃんの命を諦めてでも琴音の治療に専念するべきなんじゃないかとその思いは消えそうになく、涼太の心に力強く根を張っていた。
琴音は病院のロビーにあるベンチに座っていた。涼太の姿を確認すると、無理に作った笑顔で手招きした。涼太は琴音の隣に腰を下ろした。
「ごめんね。大人気もなく飛び出しちゃって。私なんで病気なんかになっちゃったんだろ。ごめんね、涼ちゃん」
「そんな……一番辛いのは琴音じゃないか」
「涼ちゃんはまだ納得してないよね。私がさっき言ったこと」
「え……なんで……」
「顔に書いてるよ。涼ちゃんはわかりやすいからなぁ。あのね。私、涼ちゃんの家もそうだけど一人っ子だからさ、小さい頃から子供三人は欲しいって思ってたんだ。それで家族五人で仲良く笑顔溢れる騒がしい家庭を築くのが夢だったの。でも、もうその夢も叶えられないね、ごめん」
「琴音、俺……琴音には生きてほしい。子供がいなくたって構わない、一緒に二人で生きていこうよ。おじいちゃんおばあちゃんになって、しわくちゃになっても二人でずっと手を繋いで仲良く生きていこうよ。俺琴音がいない人生なんて嫌だよ」
涼太の目から涙が止めどなく零れ落ちる。必死の願いだった。琴音は涼太の頬にそっと手を添えた。
「涼ちゃんと二人きりでの人生。それも楽しそう」
「でしょ? だったら──」
「でもね、もう私のお腹の中には私たちの家族がいるの。まだまだ小さな灯のような命だけど、確かにここで生きているの。私はもうこの命の尊さを知ってしまった。私はもうこの子の母親なの。母親なら自分の命に代えても子供を守るのは当然でしょ? 私はこの子の生きる未来を諦めたくない。私は絶対になんとしでもこの子を産んでみせる。涼ちゃん、許して……我儘な嫁でごめんね」
琴音の母としての強い意志に、涼太はもうこれ以上何も言えなかった。涼太は涙ながらに頷いて、彼女はそっと抱きしめた。
病院での手続きを終えて、玄関を出る時、奈央と史也が二人を追ってきた。奈央は琴音の肩を力強く掴んだ。その目は赤く充血していた。
「どうして琴音……なんで、なんで……」奈央の手を琴音そっと包み込む。
「我儘な親友でごめんね、奈央。でももう決めたの。今日の検査結果が出る前から考えていたことだから」
奈央はその場に膝から崩れ落ち、床に雫が点々と落ちた。
「琴音さん!」史也の声だった。
「俺、大切な人の命を守りたいから医者になったのに……これじゃ……これじゃ何のために医者になったのかわかんないよ」
琴音は優しく微笑んだ。
「史也君。あなたにはこれからの人生、もっと沢山の大切な人が現れる。その人たちを守ってあげて。史也君ならきっと立派な医者になれるから」
琴音はそう言い残し、病院の外へ歩を進めた。涼太は打ちひしがれる二人に「ごめん」と言って琴音の後を追いかけた。
琴音はその後、免疫療法によるがん治療を行っている病院を探し、運よく茨城県内で見つけることができた。その病院は小さなクリニックで水戸市内にあり、琴音は仕事をしながら病院への通院を始めた。
免疫療法は、薬の摂取により人間が持つ免疫細胞ががん細胞を攻撃する力を保たせて、がんの進行を遅らせるというもの。基本的に出産時期というのは三七週から四一週くらいが胎児の生育上適切と言われているが、免疫療法でその週数までがんの進行を遅らせることは琴音の病状を勘案するとかなり難しく、最低でもなんとか二八週まで保たせなければ、死産の確率が高まるというのが医者の見解だった。
それでも琴音は諦めず、肺炎などの副作用とも戦いながら、お腹の赤ちゃんのために治療を継続し続けた。妊娠十五週くらいにはエコー写真でお腹の子が男の子だとわかった。琴音にそっくりな子が生まれたらいいなと涼太は思ったが、すぐに琴音のいない未来が頭をよぎり、暗澹たる気持ちとなった。
妊娠二六週を迎えた時、琴音は自宅で倒れ、霞ヶ浦総合病院に搬入された。緊急で検査を行い、涼太は診察室に入った。琴音の意識はまだ戻っていない。目の前に座る医師は以前担当だった田中医師ではなく、自分より少し年上くらいの若く顔立ちの整った医師だった。ネームプレートには平木と書かれていた。史也の姿はなかった。おそらく研修医として田中医師に付いて回っているからだろう。平木医師は渋面をつくっていた。
「詳しい検査結果はまだこれからですが、CTの画像を見るに、おそらくがんは大腸に転移しています。もしかすると他の臓器にも転移しているかもしれません」
「それって……つまり、どういうことですか……」
「奥様は……もういつ亡くなってもおかしくありません」
平木医師は無念に表情を歪ませた。
涼太は頭の中が真っ白になった。覚悟していたはずなのに、いざその言葉を聞くと、何も考えられなくなる。
琴音が……死ぬ?
頭がその事実を拒絶し、思考が一向に定まらない。気付けば涼太は放心状態でその場に立ち尽くしていた。
涼太は琴音の病室に向かった。下半身に鉛がくっ付いているかのように、足が前に進まない。目に見えない底なし沼に沈み込んでいくようだった。いっそのこと琴音と一緒に死んでしまいたい、そんな思いすらちらついていた。
病室で琴音は静かに目を閉じて横になっていた。涼太は琴音の手を両手で優しく包み込んだ。あふれ出てくる涙が琴音の腕に零れ落ちた。すると琴音の目が徐に開いた。「涼……ちゃん?」琴音の掠れた声が涼太の耳に届いた。
「琴音!」琴音は体を起き上げようとしたが涼太はそれを制止した。
「無理しちゃダメだ。目覚めたばっかりなんだから」
「ごめん……」
「なんか喉乾かないか? お腹も空いてたら売店で何か買ってくるけど──」
「涼ちゃん……私やっぱり死んじゃうのかな」
涼太は動きを止めて息を呑んだ。しかし、すぐに取り繕い無理やり笑顔を作った。「何言ってんだよ。ちょっと疲労で倒れただけなんだから、そんな縁起でもないこと言うなよ」
琴音は涼太の顔をじっと見つめて、唇を緩めた。
「ほんと涼ちゃんは嘘が下手くそだなぁ」
「え、嘘じゃないよ。なんで──」
「ありがとう、涼ちゃんの嘘は優しい嘘だね。でも体中が痛いの。きっとがんが至る所に転移している。そうでしょ? 自分の身体は自分が一番わかるものよ」
「ごめん……」
「半年前、赤ちゃんのためになら死ぬことなんて怖くないって本気で思っていた。でもやっぱりちょっと怖いな。この子とも涼ちゃんとも奈央とももう会えないなんて。怖いな……ずっと三人仲良く一緒にいたかったな。最後の最後にこんな弱くてダメな母親でごめんね。涼ちゃん」
琴音の涙が頬を伝って枕がにじむ。涼太は咄嗟に琴音を抱き寄せた。
「ダメなんかじゃない。琴音は弱くなんかない……琴音が頑張ったからこんなにお腹の子は大きくなったんじゃないか」
「い、いたいよ。涼ちゃん……」
「あ、ごめん」涼太は優しくそっと琴音から手を引いた。
「死ぬのは怖い。でもこの子の事は絶対に諦めないよ。病院の先生が言っていたギリギリ出産可能な二八週まであと二週間、私は絶対に死なない。なんとしでもこの子を守ってみせる」琴音は涼太を見つめた。
「涼ちゃん……この子のこと、お願いね。母親がいなくて寂しい思いをさせちゃうと思うけど、涼ちゃんが私の分までこの子に愛情をかけてあげて」
「うん。絶対に……約束する」
一緒に生きたい、一緒に育てたい、その気持ちが消えることなんてない。それでも涼太は思いを殺し、琴音に誓いをたてた。
「私、この子にきっと何もあげられずに死んじゃうと思う。だから私から最初で最後のプレゼントを贈りたい。名前……考えたんだ。訊いてくれる?」
「うん」
「この子の名前は……『翔』」
「翔……良い名前だ」
「へへへ。そうでしょ? 由来はね、力強く高く自由に羽ばたけるような子に、そして……困っている人がいたらすぐに駆け付けるような優しいヒーローになってほしい。そう言う意味を込めて……翔。この子の名前は、折原翔」
二週間後、琴音の容態は急変した。すぐに帝王切開の手術を行い、翔が生まれた。翔の体重は一五〇〇グラムしかなく、とても小さく、吹きかけると消えてしまいそうな灯のような命に思えた。
だが、琴音が命を懸けて守ったこの命の火を決して絶やしてはいけない。次は自分がこの子の、翔の命を守る番だ。涼太は琴音の手を強く握った。
「頑張ったな、琴音。翔を生んでくれてありがとう。俺が命に代えてもこの子を守るから。何があっても翔を立派に育てるから」
──約束だよ。涼ちゃん。愛している。
「え?」
琴音がうっすら笑っているように見えた。
そして彼女はそのまま目を覚ますことはなかった。
未熟児として生まれた翔はすぐに新生児集中治療室(NICU)に入った。琴音の葬儀を終えた後、当然悲しみは一切癒えぬまま、涼太は毎日病院に通い、ガラス越しの翔に会いに行った。助産師の奈央が翔の担当になってくれて、翔の成長を助けてくれた。親友を失い悲しみの渦中にいながらも涼太の前で奈央は弱音を見せず、翔と向き合ってくれた。きっと誰も見ていない所で人知れず沢山涙を流したのだろう。
そのおかげもあり未熟児であった健やかに成長していき、四か月後には元気で何の障害も残らず退院することが出来た。初めて翔を抱っこした時、涼太は涙が止まらなかった。
「生まれてくれてありがとう」
涼太は琴音が命の限り守り抜いた小さくも偉大な命を前にそう呟いた。
折原 翔
二〇二四年二月
「そんな……どうして……」
「翔、お母さんはお前のことをお腹にいる時から、生まれる前からこの世の誰よりも愛していたんだ。翔が生きていくことを何をよりも望んでいた。そのことはわかってほしい」
翔は肩を震わせながら、膝に置く拳にグッと力を加えた。涼太から聞いた話は翔にとってとても苦しいものだった。
琴音の病気、死はどうやっても避けられないもの、そう思っていたし、そう思いたかった。だが、現実はそうではなく、自分がこの世に生まれなければ、琴音は助かったかもしれないのだ。自分が琴音を殺した、そう解釈も出来る。
翔の中で自己に向けた憎悪がどんどん膨らんでいくのを感じた。こんなにも自分自身を憎く思ったことは初めてだった。
「翔……お母さんは──」
「僕さえ! ……僕さえ生まれなかったらお母さんは死なずに済んだ……」
「翔、それは違う‼︎」
「何が違うっていうのさ! 紛れもない事実じゃないか!」
「琴音は自分の命よりお前の生きる未来を選んだんだ。琴音が望んだことなんだ!」
「僕はそんなこと望んじゃいない!」
「おい、かけ──」
涼太はハッとし息を呑んだ。泣きながら目を赤く晴らす息子の姿を見たからだった。翔は勢いよく席を立ち、部屋に戻って強引に大きな音を立てながら扉を閉めた。
そして乱暴に椅子に座ると引き出しの中の『時を越えるノート』を取り出し開いた。ノートには琴音からの返事が来ていた。
『そう……。やっぱりそうだったんだ。ありがとね、翔。私を悲しませたくないって気持ち、すごい嬉しいよ。だからあまり自分を責めないで。私が同じ立場ならきっと翔と同じことをしていたと思うから。あのさ翔、もし知っていれば、私がどういう風に亡くなったのか教えてほしいんだ。なんていうか、心の準備をしておきたいの。自分のことだからなんとなく想像はつくんだけどね』
琴音からのメッセージを見た翔は、すぐに先ほど涼太から聞いたエピソードをありのままノートに綴った。もうこれ以上、琴音に嘘をつきたくなかった。
その数分後、すぐに琴音から返事があった。
『そっか……。なんかやっぱりなって思った。きっと私だけじゃなく母親ならみんな同じ決断をするんだと思う。子供の未来は親の希望だから。翔のために死ねたのなら私は嬉しい。ねぇ翔。お母さんがいなくて寂しい思いをさせてしまってると思う。でもね、あなたには前を向いて強く逞しく生きていってほしい。もしもお父さんが再婚して翔に妹や弟が出来た時はあなたがその子たちを守っていくのよ。翔ならきっと出来るから。お母さんは信じてる』
翔は琴音のメッセージを見た途端、体の内側が轟々と燃えたぎる感覚に陥った。表情が憤怒に歪んでいく。
「ふざけないでよ……」
心に芽生える思いが口からこぼれ出た。
『強く逞しく生きてほしい……だって? 本気で言っているの……? いい加減にしてよ! 僕がこの十年間どんな気持ちで生きてきたのかわかる⁉︎ どれだけ寂しい気持ち抱えて生きてきたのかわかる⁉︎ 僕はお母さんと当たり前に一緒にいる他の子たちが羨ましくて仕方がなかった。僕だって他の子達と同じように、お母さんがそばに居て欲しかった、遊んで欲しかった、手を繋いで歩きたかった、甘えたかった、褒めてもらいたかった、ダメなことをしたら叱って欲しかった、抱きしめて欲しかった! 僕は今までずっとそんな気持ちを持ち続けながら、我慢して自分の気持ちを押し殺して生きてきたんだよ⁉︎ それなのに強くなれなんて、ひど過ぎるよ……。僕は強くなんかないんだよ! 寂しくて辛くてどうしようもなく弱いんだよ! お母さんの命を奪ってまで生きたくなんてなかった。何勝手に死んでるんだよ! 余計な事しないでよ! 自分勝手過ぎるよ! 僕を生せてくれてありがとう、とでも言うと思った⁉︎ 残された子供の気持ちとか本気で想像したことあんのかよ! 自己犠牲の美学なのかなんなのか知らないけど、勝手に悦に浸ってるだけじゃん! 親だったら、子供のことを本気で考えているなら子供と一緒に生きていくことを一番に考えろよ! 勝手に死ぬな! ふざけんな‼︎』
翔は昂った感情を文字にしてノートに荒々しく書き殴ると、ノートを掴んで、思い切り投げて壁に叩きつけた。
翔は息も絶え絶えに、湧き上がる色んな感情が心を蝕んで、涙が止めどなく流れ続けた。
「翔⁉︎ 大丈夫か⁉︎」
物音が大きかったためか、涼太が様子を見に部屋のドアを開けた。
翔は涼太に荒れているところを見られてしまった、という衝動で彼の肩にぶつかりながら強引に部屋の外に出て、玄関から外に飛び出した。空は夕日のオレンジが徐々に紺色の色彩に変わり始めている頃だった。
翔は公園とは反対方向の道路をひたすら走り続けた。どこに向かっているわけでもない、ただじっとしてられなかった。心がボロボロで立ち止まってしまうと心が張り裂けてしまうとすら思った。
琴音に対して、感情任せにひどいことを言ってしまったという後悔を抱きつつも、書き殴った気持ちは翔にとって紛れもない本心だった。
映画やドラマでは母が自らの命を犠牲に子供を産むことは感動的な美談として語られ、子供は母の想いを胸に未来に歩き出すのが筋で、そうあるべきなのかもしれない。だけど、現実はそんな簡単に割り切れる話じゃない。子供を守るための自己犠牲が、世間ではそれが母としてあるべき姿なのかもしれないけれど、子供もそれを受け入れる強さが必要なのかもしれないけれど、それでも……寂しいものは寂しいし、辛いものは辛い。その感情に嘘をつき続け、自分を言い聞かせ自分自身を騙し続けるなんて、自分みたく弱い人間には出来っこない。
ただ、僕は……僕はお母さんと一緒にいたかった。
ただそれだけなのに。どうしてそんな些細な願いすらも叶えてくれないんだよ──。
「あれ? 翔?」
翔はハッとして足を止めた。目の前には美織と彼女の母がいた。
「どうしたの翔? なんだか目が赤いよ? もしかして……泣いてる?」
「うるさい!」
翔は咄嗟にそう言うと踵を返して逆方向に走り出した。
「ちょっと、翔待ちなさいよ!」
後ろで美織の声が聞こえたが、翔は脇目も振らず走った。
みっともない姿を見織に見られてしまった恥ずかしさで、逃げるように翔は走り続けた。
夕日はすでに山の稜線に隠れ、紺色の空が広がっている。翔は歩を進める度に、どんどん暗闇に囚われていくような感覚に陥っていった。現実の空の暗さではなく、心を覆う黒い影。
何も見えない──。何も聞こえない──。
襲ってくる孤独感。自分の周りにはもう誰もいないんじゃないかと思った。それでも良いと思う自分と必死に助けを求める自分が心の中で同居して、前者の自分が心を着実に支配しようとしている。助けを求める心の声がどんどん小さくなっていき徐々に聞こえなくなっていく。
辛い、苦しい、誰か、誰か……。
か細い声で力なく必死に救いを求める。心の中で響くその弱々しい声が消えかけに最後の力を振り絞り、声を上げた。
誰か……助けて──‼︎
ドン!
大きな衝撃と共に翔は後方に体が投げ出され、尻もちをついた。
「いってぇ!」
誰かの声が聞こえた。聞いたことのある懐かしい声が。
「何すんだよ翔! 急にぶつかってきやがって」
「大吾……なんでここに──」
翔の前には大吾がいた。そしてその場所は翔と大吾が出会った公園に面した道路だった。いつの間にかこんなところにまで戻ってきていたようだ。
「お前に用があってきたんだよ、なんか文句あるか?」
「僕はお前に用なんかない」
自分に用が? きっと碌なことじゃない……。
大吾の相変わらずの憎まれ口と自分の虫の居所が悪いことが相まって、ついきつい口調で突き放してしまう。本当はこんなこと言いたくないのに。
「なんだよその言い方は!」
大吾は翔の肩を押し、翔はバランスを崩して倒れこんでしまう。
「あ、ごめ──」
大吾が眉尻を下げて謝ろうとした。その瞬間に、翔はバッと起き上がって大吾の体に思い切りタックルをかました。大吾も咄嗟のことで体を仰け反らせる。
「何すんだよ!」翔の声が轟く。
「こっちのセリフだ!」大吾もそれに応戦する。
翔と大吾はそこから殴り合いの喧嘩に発展した。夜空の下で灯の光だけが二人を照らす。通行人がいなかったため小学生二人の殴り合いを制止する者は誰もいなかった。
「何泣いてやがる泣き虫野郎。そんなんだからサッカーだって長続きしなかったんじゃないのか」
「うるさい! 僕はお前と一緒にサッカーしたくなくなったからやめたんだ! それに弱虫とか言うな!」
「弱虫に弱虫って言って何がダメなんだ!」
「僕が弱いと……お母さんが心配する! 安心できない! だから僕は強くならないといけなんだ! お前なんかに僕の気持ちがわかってたまるか! もう僕に構うな! 一体何の用があってここに来たんだよ!」
翔は大声で叫んだ後、ふと自分が発した言葉に呆気に取られた。
強くならないといけない。それは翔がついさっき琴音に対して否定したばかりのものだったはずだ。それなのになぜ……。
「くそ、訳わかんないこと言うな! 俺がここに来たのは……お前に、お前に──」
わかってた。強くならないといけないこと。母に心配をかけないために強くなりたいと思ってたこと。自分は全てわかってた。理解していた。
けれども、わかってたってどうしようもないことだってある。母がいないことが寂しいこと、恋しいこと、切ないこと、苦しいこと。それを誰にも理解してもらえなかったことがどうしようもなく悲しかった。親友にさえもわかってもらえなかったことが悲しかった。だから、それを母にも大吾にもぶつけてしまった。
自分の心の奥底に秘めた気持ちを。誰かにわかって欲しかった──。
「ごめん……」
「……?」
大吾が力なく膝から崩れ落ちた。アスファルトにはポタポタと雫の跡が点々とついていく。予想だにしていなかった展開に翔は虚を衝かれ、思考が停止してしまう。
「大吾……?」
「俺……お前の気持ちなんにもわかってなかった。ひどいこと言ってごめん」
大吾の突然の謝罪に翔は当惑した。それをずっと望んでいたはずなのに、いざ言われると戸惑ってしまう。
「大吾……何かあったの?」
「……母ちゃんが倒れたんだ」
「え⁉︎」
翔は大吾と公園のベンチに移り、経緯を訊いた。
三日前、大吾が家で妹二人の面倒を見ている間、家の電話が鳴った。相手は大吾の母、美奈子の仕事先の上司で母が職場で倒れたという知らせだった。
単身赴任中の大吾の父、浩志も一緒に美奈子が運ばれた病院に駆けつけ、担当医から知らされたのは『くも膜下出血』という診断だった。
「くも膜下出血……」
翔も聞いたことのある病気だった。だが具体的にどんな病気かは知らなかった。
「俺はそんな病気聞いたこともなかったんだ。どれだけ深刻な病気なのかもわかんなくて……。でも、医者から聞いたら命に関わる病気だって……」
大吾は悲痛な表情を浮かべた。
「今、おばさんはどこにいるの? 手術とかは?」
「今は病院に入院中だよ。手術は二日前に成功した。でも……母ちゃんまだ目を覚まさないんだ!」
「そんな……」
「このまま目を覚まさない可能性もあるって……目を覚ましたとしても、後遺症が残ったり、脳梗塞って病気を併発したりするかもしれないって……」
「大吾……」翔は大吾へかける言葉が見つからなかった。
「俺さぁ、今まで口うるさい母ちゃんがあんまり好きじゃなくて煙たがっていたけど、いざ母ちゃんが死んじゃうかもしれないって思うと、怖くて悲しくてたまらないんだ。死んでほしくないんだ。こんなことになるまで気付かないなんてバカすぎる……。ごめん、翔。俺バカだから何にもわかってなくて翔にひどいこと言っちまった。母ちゃんがいなくなることがこんなに辛いことなんて知らなくて、母ちゃんいなくてラッキーだなんて最低なこと言っちまった。ごめん、翔、本当ごめん……」
大吾は顔をくしゃくしゃに歪ませて大粒の涙を流した。
そんな大吾を翔は咄嗟に抱きしめた。
「大吾、僕のことはもういいんだ。すごく辛くて悲しいよね。でも、大吾のお母さんはまだ死んじゃいない。生きている。病気と懸命に戦って生きている。まだ諦めちゃダメだ。大吾諦めちゃったらおばさんは何を信じて頑張れば良い? 誰が諦めたって大吾だけは諦めちゃダメだ。大丈夫きっと治る。おばさんが病気なんかに負けるわけない。信じよう。まずは僕たちに出来ることをやるんだ」
「俺に出来ることって……何かな?」
「一緒に考えよう。おばさんは大吾のサッカーを応援してくれているだろ? だったらまずはそのサッカーで結果を残すんだ。沢山試合で勝ち進んで全国の切符を掴んでおばさんに報告するんだ」
「そうだな、ありがとう、翔」
大吾は泣きながらもようやく笑顔を見せた。
「なぁ翔、お願いがある。チームに……戻って来てくれないか?」
「え……」
「俺やっぱり翔とサッカーがしたいんだ。翔のパスを受けて俺がゴールを決める。それが俺の喜びなんだ。お前がいないんじゃサッカーが楽しくない、お前がいないんじゃ俺はサッカーをやる意味がない。お前がいないと、うちのチームは全国には行けない。頼む。もう一度俺とサッカーをしてほしい。俺には翔が必要なんだ。頼む」
大吾は深く首を垂れた。
「大吾……」
予想だにしていなかった大吾の言葉に暗闇に捕らわれそうになっていた翔の心に優しい光が差し込む。
ずっとこの言葉を待っていた。ずっと待ち焦がれていた。
親友とまた一緒に笑い合える日を……。翔の頬を一筋の波が伝う。
「僕……戻って良いの?」
「当たり前だよ! この一年間みんな翔を待っていた。翔がチームを離れた理由が俺にあったことはわかっている。自分が悪いのにずっと意地張って謝れなくて、翔からサッカーを奪って、ごめん」
「僕も……ずっと大吾と仲直りして一緒にサッカーをしたかった。みんなとまたサッカーがしたかった。でも僕もずっと意地張って本当の気持ち言えなくて、ごめん。戻る。戻るよ。絶対に……。大吾、また僕の相棒になってくれる?」
「それは俺のセリフだよ。翔は俺の生涯の相棒なんだから」
「ありがとう……大吾」
「バカ翔とバカ大吾‼︎」
翔は突然の大声に体をびくんとさせたと同時に、体にドンッと重みが加わった。
誰かが飛んできて、翔と大吾の上に覆いかぶさったのだ。
「み、美織⁉︎」
「なんでいるんだよ! てか泣いてるし」
「それはあんたらも同じでしょ! 散々心配かけさせて、一年間も待ったこっちの気持ちも考えなさいよ!」
美織は涙を流しながら二人の頭をぼかすかと殴った。
美織は道で泣いた翔を見つけた時、心配になって後を追いかけたらしい。探すのに手間取ったが翔と大吾が話しているところを見て、ずっと公園の木の陰に隠れて聞いていたのだという。
「え、ストーカーじゃん」大吾が言った。それと同時に鉄拳が飛ぶ。「いてッ!」
「誰がストーカよ! あんたたちが深刻そうな話をしていたから行くに行けなかったの! てかそんなことより、大吾のお母さんが心配。妹ちゃんたちはどうしてるの?」
「父ちゃんが戻って来て見てくれている。仕事も家から通える場所に移ってくれたんだ」
「そうなんだ。そこは少し安心だね」
「うん。というかもうこんな夜になっちまってたんだな。今日のところは解散しよう。俺、絶対に諦めない。俺に出来ることはたかが知れているかもしれないけど、やれることは全部やってやるんだ。二人ともありがとう! またな!」
大吾は手を振りながら足早にその場を後にした。
「よかったね、仲直り出来て」美織が翔に言った。
「うん。本当に良かった」
「大吾のお母さん、前ショッピングモールで会った時も体調悪そうだったもんね。早く良くなってほしいな」
「大吾のお母さんは病気なんかに負けないよ」
「そうね。私にも何かできる事がないか考えてみるわ。じゃあまたね、翔」
「うん、気を付けてね。てか、送ろうか?」
「家すぐそこだから大丈夫だよ。ありがとう」
美織を見送った後、翔はふと涼太の言葉を思い出した。
『お父さんと同じように、この公園が翔と親友の大吾くんをまた結びつけてくれる』
翔は自然と口元に笑みが溢れた。
本当に涼太が言ったことと同じことが起きた。翔は公園の出ると振り返り、その公園に向かって深々と頭を下げた。ありがとう、そう心でつぶやいた。
家に戻る道中、翔の脳裏にある思いが駆け巡った。
大吾の母は病気を治すため、これから大変な治療が続く生活が始まる。
もし──僕のお母さんが母子ともに生きる道を見つけて、大吾のお母さんと同じく大変な治療を頑張って、そしてそれが叶って、過去が変わった時、この僕が生きる未来では何かが変わるのだろうか──。
その瞬間、翔ははっとした。
もしかしたらという期待と疑念が入り混じった感情が翔の中で渦巻いた。あり得ない話じゃない──。翔は急いで家に戻った。
「翔、どこ行っていたんだ⁉︎ 心配したぞ」
涼太は不安そうに翔に歩み寄った。
「翔さっきは悪かった。まだお前には話さない方が良かったのかもしれない」
「そんなことないよ!」
翔は父の目を真直ぐ見据えた。
「お父さん! もしかしたら三人で生きる未来がまだあるのかもしれない!」
「え? ど、どういうことだ?」
涼太は当惑した表情を浮かべる。
「あ……ごめん。今のは気にしないで」
翔はそう言うと足早に部屋に戻った。
ドアを背に翔は何を言っているんだか、と心の中でつぶやいた。
こんなことを言っても頭がおかしくなったと思われるだけだろう。
だが、翔は『ある可能性』を感じていた。
翔は先ほど壁に向かって放り投げた『時を越えるノート』を拾い、ペンを手に取った。
折原 琴音
二〇一三年二月
自分はなんて浅はかだったんだろう。
琴音は病室のベッドの上に座り込み、昨日行った手術の痛みが尾を引く中、彼女は後悔と自責の念に捕らわれていた。
親であれば自分の命を犠牲にしてでも子供を助けたい、その気持ちに嘘はない。でもそれが必ずしも子供にとって最良な選択とは限らない。そんなこと考えたこともなかった。
何が子供のためだ、何が母親だ。母親たるものこうあるべきと言う自分の理想像を押し付けて一番考えなくてはいけない翔の気持ちを一番ないがしろにしているのは自分じゃないか。
翔と一緒に生きる道、きっとそれは最も険しい荊の道。母子ともに命を失うかもしれない、翔に重度な障害が残るかもしれない。でも、よく考えたら自分は一番楽な道を選んだだけかもしれない。本当に翔のことを想うなら、翔がそれを望むなら──。
すると机に置いてあった、『時を越えるノート』が淡い光を放った。
翔の怒りのこもった文章への返事を琴音は未だに出来ないでいた。どんな返事をして良いのかわからなかったからだ。その上での翔からの追加のメッセージ。琴音は恐る恐るノートを開いた。
『お母さん、さっきはごめんね。言い過ぎた。お母さんの気持ちももちろんわかっている。僕が親でも自分の命を犠牲にしてでも子供の命を守るって第一にそう思うと思う。でも、僕はそれを望まない。お母さんがいないこの未来は僕が一番に望む世界じゃない。僕はお母さんと生きたいんだ。だから自分の命を犠牲になんてしないで。僕に多少のリスクがあっても大丈夫! 僕も一緒に戦うから。お母さんのお腹の中で一緒に病気と闘うから。二人で生きる道に進もう、過去を変えよう、お母さん』
翔がそれを望むなら──私は、翔と共に病気と戦い、一緒に生きる道を進む。
『翔、私が間違っていた。私は翔と──お腹にいるあなたと共に生きる道を探す。必ず一緒に生きて見せる。一緒に頑張ろう』
ペンを置き、琴音は一息付いてベットに横たわった。すると病室のドアが開き、涼太が顔を出してくれた。仕事終わりにここに寄ってくれたようだった。
「涼ちゃん」
「琴音、ごめん、起こしちゃたかな? 体調はどう?」
「起きてたから大丈夫だよ。傷は少し痛むけどすぐ治ると思うし。心配してくれてありがとう。ねぇ涼ちゃん、私、決めたよ」
「決めた?」
「私、例えどんな検査結果が出たとしても、この子と一緒に生きる道を選択する。二人が生きる未来を絶対に諦めない」
琴音の言葉を受け、涼太は琴音を強く抱きしめた。
「ありがとう琴音。どんな結果でも必ず一緒に探そう。この子と琴音が生きる未来を。必ずつかみ取ろう。俺たち家族の未来を」
私が死ぬ過去を変えれば、十一年後翔がいる未来で私が現れてくれるのか、それはわからない。それでも可能性が数パーセントでもあるなら、私は絶対に諦めない。
未来で待ってて、必ずそっちにいくから──。
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