第11話

折原 翔


 二〇二三年十二月



 翔はペンを置きふうと一息ついた。『時を越えるノート』はまた淡い光を放つ。

 改めて自分の過去を振り返るとまた切ない気持ちがぶり返してきた。今思うと大吾だって悪気があって言ったことではないのだろうと思う。けれども、当時はそう思う事が出来なかった。本当にショックだった。だから衝動的に自分は大吾と決別し距離を置いた。

 本当は仲直りしたい。けれども、大吾はこんな心の弱い自分をもう相棒とは見てくれないかもしれない、軽蔑しているかもしれない。そう思うと仲直りしようとする気持ちも折れてしまう。大吾にはもうそういう気持ちはないかもしれないから。

 大吾の本当の気持ちを知るのが怖い。翔は傷付きたくないという自分の心の弱さを呪った。大吾を前にするとどうしてもつれない態度を取ってしまう。翔がそうやって二の足を踏んでいることで、チームを離れて一年以上が経過してしまっていた。

 翔は琴音に将来病気で亡くなってしまうことを隠したいがために大吾との喧嘩の理由を苦し紛れに、真逆の性格過ぎて価値観も合わなくなって、喧嘩してばかりだったから一緒にいたくなくなったと伝えた。 

 だが、本当は逆だった。真逆な性格だからこそ自分にない物を持っている大吾に翔は惹かれていたのだから。

 その後、琴音から返事が来た。

『友達関係で合う合わないは良くあることだと思う。きっと翔と波長の合う良い仲間はまた必ず見つからるよ。でも、翔がサッカーが好きな気持ちが変わらないなら他のクラブチームに入るとかも考えたらどう? 翔に合うチームは必ずあると思うから』

 翔は琴音からの前向きな提案を受けて嘘をついたことが心苦しくなった。涼太からもクラブチームに入らないかと提案を受けたことはあるが、やんわりと断り続けてきた。理由はわかっている。自分は土浦ユナイテッドFCに戻ってまた大吾や和人君、夏樹君と一緒にサッカーがしたいそう思っているから、踏み切れないんだと。わかっているのに何も行動に移せない自分へのもどかしさに翔は心底恨めしかった。


 翌週、翔は友也の命日である十二月二十二日に涼太とお墓参りに行くことにした。もちろん涼太は自分が友也の事を知らないと思っているから、翔もその体を装って付いて行った。

 友也のお墓は琴音のお墓がある霊園と同じ区画にあった。翔は琴音のお墓を見て三か月前の出来事を思い出した。怪しい仮面をつけた英国紳士風のエリーと名乗る男のことを。

 あの日以降、あの男は姿を見せない。あれは夢だったのかと思うことがたまにあるが、実際エリーから授かった『時を越えるノート』で生前の琴音と会話が出来ている。その事実が翔を現実に引き戻す。

 あれこれ考えていると涼太の声が聞こえた。

「翔? 何立ち止まっているんだ? こっちだぞー」

「お父さん、ごめん。今行くね」

 翔は涼太の後を付いて行き、目的の場所に辿り着いた。お墓には南野家という文字が刻まれていた。そのお墓の前には先客がいた。眼鏡をかけた色白の男性、父よりも年は下のように見えた。その男性はこちらの気配に気づき振り向いた。

「涼太さん……」

「え、史也? 久しぶりだね」

 史也という名を聞いて、彼が母からの話で聞いた友也の弟だと翔はすぐに分かった。史也は父と一、二分世間話をしたあとお辞儀をして、翔の方をチラッと見た。翔にはその史也の顔はどこがもの悲しげなような後ろめたたさがあるような、そんな表情をに見えた。翔に向かって何か言おうと口を開いたが、躊躇してそのまま口を閉ざし、まるで逃げるように勇足でその場を後にした。

 翔は史也の振る舞いを怪訝に思いながらも、史也の背中を見つめながら彼に思いを馳せた。最愛の兄と姉を失い、どんな思いでここまで生きてきたのだろうと。そしてそれは涼太も同じだと思った。

 涼太は友也のお墓に向かい合い、手を合わせ、目を瞑っている。最愛の亡き友に対してどんな言葉を投げかけているのだろう。翔も涼太に倣い手を合わせた。あるかどうかはわからないけれど、せめて死後の世界では幸せに暮らして欲しいと願いを込めた。

 お参りを済ませて、お墓の前で帰り支度をしていた時、その場に大人の女性が現れた。彼女は翔から見てもとても美しいと感じるほどの女性であり、その瞬間、翔はすぐに彼女の正体がわかった気がした。

 この人は何年か前に琴音のお参りで会ったことがある。琴音との交換ノートでも出てきた、母の親友である奥薗奈央だと思った。涼太が奈央と何やら話をしている。二人とも笑顔を見せていた。話が終わったくらいで、奈央が何か思い詰めたように自分を見ているような気がした。

 彼女は翔に近づくと「またね、翔君」と若干声を詰まらせながら言った。翔もとっさに「は、はい」と返事をし、そのまま、翔と涼太はその場を後にした。

 翔は奈央の言った「またね」がなぜか妙に気になった。しかし、今後も琴音や友也のお墓参りでその都度顔を合わせることになるだろうし、きっとそういう意味の「またね」だろうと思い、それ以上深くは考えないことにした。

 家に戻ると翔は『時を越えるノート』に友也のお墓参りに行ったこと。奈央もお墓参りに来ていたことを書いて琴音に伝えた。無論涼太、琴音と三人でお墓参り行ったという体である。

 琴音からの返事は『十一年後の史也や奈央がどんな姿をしているのか見てみたいなぁ』というものだった。

 それを聞いて、翔は自身の心にまるで鉛が落とされたような重たい気持ちになる。それでも琴音に病気のことを告げる勇気がどうしても湧かなかった。

 小学校は冬休みに突入し、あっという間に正月を迎えた。三が日の真っ只中、美織から翔の持っている子ども携帯に連絡が来た。

「初売りに行きたいからちょっと買い物に付き合って」という内容だった。美織の両親は用事があって一緒に行けないのだという。翔は美織の行動力に脱帽した。小学生二人で親も連れず買い物に行くことなんて普通ではない気がしたからだ。

 念の為、涼太に美織と二人で買い物に行って良いか確認したが、「美織ちゃんしっかりしてるから良いんじゃない?」と気の抜けた返事が返ってきた。なんとも放任主義の親だと思った。

 美織は顔だけ見ればかなり可愛い子であるため、学年でもファンと言える生徒はちらほらいる。そのため、変に学校の生徒に二人でいるところを見られると茶化されたり妬まれたりして、幼馴染だからって言い訳することもめんどくさいので、一瞬断ろうかとも思ったが、美織の鉄拳制裁が脳裏を過り、メールの文面は「行くよ」となっていた。

 翔と美織の家から徒歩圏内にある昨年出来たばかりの大型ショッピングモールには大勢の人々がごった返していた。翔は美織の買い物に三時間付き添いへとへとになっていた。美織が買った服はほとんど翔が持っていた。妻の尻に敷かれている夫はこういう気持ちなのかと憐れむ気持ちになる。どうして女性はこんなにも長い時間買い物を続けられるのか翔は到底理解出来なかった。

 一旦翔はベンチに腰掛け、休憩しようと美織に声をかけた。美織は「だらしないなぁ、そこのお店で買い物してるからそこで待ってて」と言い残し、お洒落な服屋の中に消えていった。翔はふぅと一息ついてから、少し周囲を見渡してみた。先ほどまではあまり気にしていなかったが、周囲には母親と手をつなぎながら歩く子供の光景が至る所で見られる。

 翔はまた少し切ない気持ちになる。もしも自分にも母親がいたらこんな風に一緒に買い物をしたりしていたのだろうかと叶いもしない願いを想像してしまう。想像すればするだけむなしくなることはわかっているのに。

「ちょっと何しけた顔してるの、こんな可愛い子と買い物出来ているんだから、笑顔でいなさい」

「いてててて」

 買い物から戻ってきた美織が翔の耳を引っ張った。

「さぁまだまだ買い物行くわよ~」

「えぇまだ行くの?」

「文句ある?」

「ないです……」

「あれ? ねぇ翔、あそこにいる人、大吾のお母さんじゃない?」

「ん?」美織が指さす方向を見ると、確かに大吾の母、美奈子だと思った。大吾と喧嘩する前は良く大吾の家に行っていたが、最近は全く行っていないので一年以上会っていなかった。

 美織はすかさず彼女の元へ向かった。翔もついて行こうとしたが、大吾が近くにいるのではと思い、足を止めてしまう。周囲に大吾の姿がないことを確認してから美織を追いかけた。

「大吾ママこんにちは」

 美織は大吾の母に声をかけた。翔も続けてこんにちはと言う。

「あら、美織ちゃん、翔君。こんにちは。久しぶりね。ごめんね、今日大吾は来てないの。家で妹たちの面倒見てるわ」

 翔はほっと肩を撫でおろした。とりあえず大吾にばったりと出くわすことはなさそうだ。

「そうですか。ところで大吾ママ、どこか体調でも悪い? なんか顔色が良くないような……」

「あら、大丈夫よ。歳のせいでちょっ疲れやすくなっているのは事実だけどね。心配してくれてありがとうね。また二人ともうちにいらしてね。小春と小夏も二人と遊びたいって騒いでるから」

「私もまた妹ちゃんたちに会いたいのでお邪魔しますね」

「待ってるわ。じゃあまたね」

 大吾の母はそう言って、その場を辞した。

「どう思う?」美織が翔に訊いた。

「体調の事?」

「うん」

「言われてみたら確かに以前あった時よりは顔色悪いかなって思ったけど、考えすぎじゃない? 本人も大丈夫って言っているんだし」

「うーん、それなら良いんだけど」

 美織はこう見えて妙に鋭い所がある。翔はこの美織の言葉がどうも引っかかってしまい、一抹の不安を覚えた。とはいえ自分たちに出来ることは特にないだろうと思い、そこまで気にしないよう努めた。

 家に戻って翔は日々のルーティーンワークの如く『時を越えるノート』を開き、琴音からのメッセージが来ていたことを確認した。

『翔、再来週ね。今翔が住んでいるマンションに見学に行くの。今から楽しみッ。翔は住んでいてどう? 住みやすいかな?』





 折原 琴音


 二〇一三年二月

  


 琴音の目の前には今月着工したばかりの八階建てマンションがそびえ立っていた。辺りは閑静な住宅街でマンションの隣には大きな公園が広がっている。

「琴音、じゃあ行ってみようか」

「うん」

「じゃあ案内お願いします」

「はい、かしこまりました。こちらからどうぞ」

 不動産屋の男性社員の案内の元、琴音と涼太はマンションの中に足を踏み入れた。エレベーター前のロビーにはソファと机が置いてあり、応接室の様相を呈している。もちろんそこまで高級感があるわけではないものの新築マンションということもあり清潔感が漂っていた。

 時を遡ること一週間前、涼太が琴音にマンションのチラシを見せてきた。

「琴音、来週ここのマンションに見学に行かない?」

 涼太の目は輝いていた。

「マ、マンション?」

 急な提案に琴音はマグカップのコーヒーをこぼしそうになった。

「ほら、そろそろもっと広いところに引っ越そうって話していたでしょ? 実は俺ここのマンションさ、建設中から狙ってたんだ。間取りも将来子供二人とか生まれても対応できる広さだし。まぁ賃貸だからもっと子沢山になれば一戸建て購入とかも検討すれば良いし。どうかな?」

「う、うん。良いと思う。行こっか」

「やった〜! ありがとう!」

 琴音は改めてチラシに写っているマンションと記載された住所を確認した。

 以前『時を越えるノート』で翔から住んでいる場所を教えてもらっていた。その教えてもらった住所とチラシに書かれた住所は完全に同じだった。未来の翔と同じ場所にいられると思うと琴音は喜びが湧き上がってきて、胸がはしゃいだ。

 このマンションは完成前から既に入居予約が殺到しており、残りに三部屋しか残っていなかった。一階と五階と八階。涼太は迷っていたが、琴音は五階が良いと即答した。理由は無論、未来の翔が住んでいるのが五階だったからに他ならない。

 琴音と涼太は五階の部屋に足を踏み入れた。広々としたリビングに対面キッチン。角部屋のため日当たりも最高だった。よくこんなにも好条件の部屋が売れ残っていたものだと思う。涼太は不動産屋の案内を受けるまま、ハイテンションで説明を聞いていた。

 琴音は別行動を取り、とある部屋に入った。窓から隣接する公園が一望できる部屋。以前、翔が自分の部屋からは公園が見渡せるんだと言っていた。しかも、ノートに公園の遊具やベンチ、小山、砂場など、可愛らしい絵を描いて公園の特徴を教えてくれていた。琴音はここが翔が未来で過ごしている部屋だと確信した。

 ここで自分は涼太と翔の三人で暮らすんだ。琴音は未来に思いを巡らせた。

「琴音! こっちの部屋もすごいよ! こっちにおいでよ」

「はーい! 今行くね~」

 琴音は駆け足で部屋を出ようとした時、足がもつれてしまい、転んで床に手をつけた。

 その次の瞬間だった。琴音の目の前で突然眩い光が広がった。眩しさのあまり思わず彼女は目を細め、訳がわからず当惑する。思考が追いついてこない。一瞬夢かと思い、何度も指で目を擦ってみたが、夢ではなく明らかに自分の眼に広がる景色は現実のものだった。

 目の前の光はよく見ると扉くらいの大きさに留まっていた。しかし、電波の悪いテレビ映像のようにその光は不安定に形を歪ませている。琴音はまばゆい光に目を細めながら、光の中を覗き見ようとした。するとその光の中のずっと先の方に同じようにこちらを覗き見る少年の姿が見えた。光が眩しくて凝視が出来ない。それでもなんとか懸命に目を凝らす。そこにいる少年は初めて見る子だった。でも他人とは思えなかった。見れば見るほどその思いは確信に変わっていく。琴音は声を震わせながら言った。

「翔……翔なの?」

「お母さん⁉︎ 僕だよ翔だよ。おか──」

 次の瞬間、眩い光を放っていたその光の空間は一瞬にして消え去り、元の部屋の状態に戻った。

 琴音は唖然としその場から動くことが出来なかった。

 一体今のは何だったのか。あの少年は……翔? あの光は未来に繋がっていた? 

 なぜ突然現れたのか。そしてなぜ突然消えたのか。

 琴音は持っていた鞄から『時を越えるノート』を取り出した。琴音は普段このノートを肌身離さず持ち歩いている。このノートをこのマンションに持ってきたから今の現象が起きたのだろうか。

「おーい、琴音! 何してるの? 早くおいでよ」

 涼太が琴音を呼びに部屋にやってきた。

「あ、ごめん! 今行く! でもちょっと腰抜かしちゃって……手貸してくれない?」

「良い部屋過ぎて腰抜かしちゃった? ほらおいでよ」

「ありがとう」

 涼太は琴音を持ち上げ、居間に連れてくると、またお部屋探索を始めた。

 その後、琴音がまた光が出現した部屋に訪れても、例の光がまた現れることは無かった。

 琴音と涼太はその場でそのマンションを契約することにした。転居は来月早々にする予定だ。その日の帰り道、涼太が並んで歩く琴音にあることを訊いてきた。

「そういえば、先週受けた子宮頸がん検査の結果ってまだ出てないの?」

「そんな一週間くらいじゃまだ出ないよ。あと二週間くらいはかかるんじゃないかな」

「そういうもんか……まぁ大丈夫だとは思うんだけど、早く安心したくてさ」

「きっと大丈夫だよ。でも心配してくれてありがとね」

 先週、琴音は彼女の勤務先でもある霞ヶ浦総合病院で子宮頸がん検査を行った。一年前に受けた検査で、何も異常は見つからなかったため、琴音は受けなくても良いのではと思っていたが、涼太としては、もういつ妊娠してもおかしくないから、万が一に備えて出来ることはしておこうという考えだった。

 確かに一年前に検査結果が問題なかったとしても、それが今も同じなのかはわからない。琴音は涼太の気持ちがとても嬉しかった。ただ一方で自分は将来翔と涼太と三人で暮らしている事実を知っているから、検査結果はわかっているも同然だった。早く涼太を安心させたいからこそ、琴音は早く検査結果を知りたかった。

 家に戻ると、琴音は早速『時を越えるノート』にこのように綴った。

『あの光の先にいたのは翔だよね? あれどういうことだろう。私のことも見えた? 翔は何か知っている?』






 折原 翔

 

 二〇二四年二月



 学校から帰ってきた翔は椅子に座って机の上に『時を越えるノート』を置き、数日前の出来事を反芻した。

 あの時、翔はノートを捲りながら琴音とこれまでやり取りしていた内容をベッドの上で見返していた。そして翔がベッドから起き上がった時、翔はうっかり手が滑りノートを床に落としてしまった。その瞬間、例の光が現れたのだった。不安定に歪む光の先には綺麗な大人の女性が見えた。あれは写真で見たことがある琴音の姿そのものだった。

 一体どういうことなのか、同じ部屋にいることがあの光が出現するトリガーなのであればどうして途中で光は消えたのか? 時間制限があるのだろうか? このノートにはまだ自分達が知らない秘密があるのではないだろうか? 

 翔は考えを巡らせたが明確な答えは見つからなかった。すると部屋のドアをノックする音が聞こえた。ドアが開いて涼太が顔を覗かせた。

「翔、久々に父さんと公園でサッカーしないか? 今なら誰もグラウンド使っていないと思うけど、どう?」

 翔は自室の窓から公園を覗き見た。今の時刻は夕方十七時。確かにさっきまで遊んでいた子供たちの姿はもうなかった。

「わかった。ちょっと着替えるから少し待ってて」

 翔は動きやすい格好に着替えてから涼太とともに、マンションを出て公園に行った。

 二人は軽く準備運動をしてからパス交換を始める。その途中で徐に涼太が口を開いた。

「この前はごめんな」

「え? なんかあったっけ?」

 涼太が謝った理由を翔は思い出せなかった。

「ほら、前にお父さんが行った参観日の帰り道でさ、大吾君と美織ちゃんと会っただろ? その時、翔に大吾君とのことは時間が解決してくれるって言ったけど、あれだいぶ無責任な言葉だったなぁって、お父さん反省しているんだ」

「あぁー」

 翔は思い出した。確かにそんなことがあった。あの時は少しイラっとした記憶があるけど、涼太が自分を想っていってくれたことだとはわかっていたから、特に気に留めていなかった。涼太がずっと気にしていたのかと思うと何故か少し申し訳ない気持ちになる。

「全然良いよ。今の今まで忘れていたし」

「そうか。ありがとう。でもさ、お父さんも翔の気持ち少しわかるんだ。お父さんも昔、親友と大きな喧嘩をしてしばらく口を利かなかったことがある」

「この前、お墓参りをした友也さんのこと?」

「あぁそうだ。あの時は俺ももう二度とその親友とは仲直り出来ないと本気で思った。それでも結果的にはまた親友に戻れたんだ。二年間も掛かっちまったけどな」

「そう……」

「お父さんがこのマンションに住みたかった理由はさ、この公園にあるんだ」

「この公園?」

「この公園は俺が友也と出会い、そして仲直りが出来た場所。俺にとって特別な公園なんだ」

「そう……だったんだ」

「翔が大吾君と出会ったのもこの公園なんだろ? 別に何の根拠もないんだけどさ、この公園がまた翔と大吾君を結び付けてくれると、そう思えてならないんだ。お父さんがそうであったように」

 涼太はボールをふわっと浮かせるキックをして、翔の胸元にボールを飛ばし、翔はボールを手でキャッチした。

「男同士の友情ってのはそう簡単には壊れないもんだ。お父さんが保証する。だからきっと大丈夫だ、翔」

 涼太はにこっと笑顔を見せた。涼太の言葉は翔の胸に溶けた。また大吾や和人、夏樹達と同じユニフォームを着て、同じグラウンドに立っている自分を無意識に想像していた。

 家に戻った翔と涼太は夕食を終えて、翔はそのまま部屋に行った。そして机に閉まっていた『時を越えるノート』を取り出し、ページをめくると、琴音からメッセージが来ていた。

 何の気なしにそれを見ると、翔は慄然とし、心臓が大きく跳ねた。体中から汗が吹き出し、胸の底がザワザワと騒ぎ立てる。

 ノートにはこのように綴られていた。

『翔、私妊娠したよ。このお腹にあなたがいる。そう思うととても不思議でとても嬉しい。でもね……それと同時にお医者さんに言われたの。がんだって。ねぇ翔、本当のことを教えて。私はあなたの生きてる世界に本当にいるの?』





 折原 琴音

 

 二〇一三年二月



 霞ヶ浦総合病院の病室のベッドで、琴音は虚空を眺めていた。現実味を一切感じなかった。第三者として俯瞰で自分を見つめているかの如く心は浮遊し、虚無が心を支配する。

 隣では涼太が俯きながら項垂れている。数日前まで自分たちは喜びの渦中いたはずなのに一体どうしてこうなってしまったのだろう。

 八日前の朝方のこと、琴音は起床すると体の調子がどこかおかしいと感じた。今まで感じ事のないような違和感。体が若干重だるく下腹部がちくちくするような気がするが、疲れが溜まっているだけかもしれない。いつものように病院への出勤前に朝食の準備をしてインスタントコーヒーを口に入れた途端、猛烈な吐き気に襲われトイレに駆け込んだ。琴音はもしかしてと思う。これはよくテレビドラマなどでよく見る展開ではないかと。琴音はトイレに置いてあった妊娠検査キットを手に取り、検査を試みた。涼太が心配そうに声をかける。

「琴音、大丈夫か⁉︎」

 琴音はトイレのドアを開けて廊下に出た。

「琴音⁉︎」

「涼ちゃん、私妊娠したかも」


 二人は早速琴音の勤務先でもある霞ヶ浦総合病院の産婦人科を受診した。

 待合室で診察に呼ばれるのを待っていると、「琴音! 涼太君!」と自分と涼太を呼ぶ声が聞こえた。よく知っている大好きな声だった。

「奈央!」

 奈央がナース服を着た状態でこちらに寄ってきた。

 涼太も「よ!」と奈央に手を振る。

「今日は患者さんとして来院?」

 奈央が訊いてきた。琴音は奈央のナース服はいつ見ても似合うし可愛いと思った。

 琴音は霞ヶ浦総合病院の内科の看護師としで勤務しているのに対し、奈央は産婦人科で助産師として働いていた。互いに違う科でも友情は一切薄れていない。今でも頻繁に会う仲だ。

「うん。ちょっとね」琴音はお腹をこする仕草をすると「え、もしかして……」と奈央が少しだけ動揺する仕草を見せた。

「まだ、はっきりは決まっていないけど、多分妊娠していると思う」

「ほんと⁉︎ よかったね! 琴音、涼太君おめでとう! めでたいなぁ~」

 奈央は自分の事のように大袈裟な仕草で喜びを爆発させた。琴音はすぐさま口の前に人差し指を置いた。

「ちょっと奈央、声が大きいよ。まだ百%決まったわけじゃないんだから」

「ごめんごめん、嬉しくてつい声に出ちゃった」

 奈央は舌を出しながら顔の前で手を合わせた。

「涼太君も付き添い?」

「うん、もちろん。こんな状況じゃ仕事なんて手に付かないよ」

「それは言えている。というか丁度良いや。実は涼太君に会ってほしい人がいるんだ。多分ビックリすると思うよ。呼んでも良い?」

「え? 俺に会わせたい人?」涼太は驚いたように聞き返した。

 それを聞いて琴音は首を傾げた。

 奈央が涼太に誰を会わせようとしているのか全然わからなかった。そもそも涼太だけに紹介ということは、自分はすでに知っている人ということなのだろうか。

 琴音が考えを巡らせている間に、その人は目の前に現れた。その瞬間、琴音はすぐに合点がいった。奈央の言葉の意図がわかった。

 涼太はその人を見て、目を大きく見開き、驚愕の表情を浮かべていた。

「涼太さん。お久しぶりです」

「ふ、史也じゃないか! どうしてこんなところに? それにその恰好……」

「へへへ。驚きました? 僕、医者になったんです。といってもまだ研修医ですけどね」

「史也君。もしかして研修科変わったの?」琴音が訊く。

「えぇ。昨日から産婦人科でお世話になることとなりました。半年くらいの短い期間ですけどね。よろしくお願いします」

「ね? びっくりしたでしょ?」奈央がにやつきながら言った。

 涼太は驚きのあまり空いた口が塞がらない様子だった。だが、疑問に感じたのか、すぐに琴音に尋ねた。

「え、てか琴音はなんでそんな驚いていないの? もしかして知ってた?」

「ごめん、涼ちゃんに言ってなかったっけ? 史也君が去年の四月からうちの病院の研修医になったって」

「聞いてないよ! なんだよ〜そういう大事なことはちゃんと教えてくれよ〜」

 涼太はわざとらしく口を尖らせた。

「なんか琴音は涼太君に言っていない気がしたんだよね。それは琴音が悪いなぁ」

「うん、琴音さんが悪いね」

「うわ、四面楚歌。ふふっ。ごめんごめん」

 琴音は手のひらを合わせて、平謝りをした。

 そう。涼太には言い忘れていたが、去年の四月に史也が霞ヶ浦総合病院の研修医として配されることとなったのだ。四月に史也が琴音のところに挨拶に来てくれた時は、先ほどの涼太同様、彼女は声を出して驚いた。史也とは友也の葬式以来の再会であった。あれからもう八年の月日が流れていた。当時の史也は眼鏡姿の高校生であどけなさが残っていたが、今や立派な社会人で、しかも医者だ。たくさん頑張って、努力してここまでたどり着いたのだろう。

 久々に再会した史也はどこか自信に満ち溢れているような雰囲気をまとっていて、顔も凛々しくなっていた。さらに眼鏡ではなくコンタクトレンズに変えていて、心なしか生前の友也の姿と被ったことを覚えている。

「史也、なんか雰囲気変わった? なんか全体的に男らしくなったような気がする」

 涼太が訊いた。

「へへへ。僕は友也兄ちゃんと夏菜子姉ちゃんの弟ですよ? いつまでもなよなよしていられません。それに──」

「それに?」奈央が訊いた。

「涼太さんは初耳かもしれませんが、僕は昔、琴音さんに命を救ってもらいました。当時兄と姉を失い、自暴自棄になって自殺も本気で考えていた時、琴音さんが僕を止めてくれたんです。一緒に悲しんでくれたんです。僕はあの日に誓いました。もう悲しみにうちひしがれるのはやめよう。兄のように前を向いて生きていこうと。そして僕のような悲しみを抱える人が少しでも減るように、助けられるように医者になろうと思いました。姉は心臓病で亡くなりました。姉のような病気で亡くなる人を悲しむ遺族を少しでも減らせるように僕はこれからもっともっと頑張るつもりです」

「そうだったんだ。よく立ち直ったな。史也ならなれるよ。どんな病気も治せるみんなのヒーローにきっとなれる」涼太は微笑みながら言った。

「ありがとうございます」

 琴音は史也の気持ちが心底嬉しかった。自分のつたない言葉で彼に生きる希望を与えることが出来て、そして彼はこうしてこんなにも立派な志を持った医者になった。

 少しだけ自分が誇らしく思えた。

「折原さん、折原琴音さん。診察室にお入りください」

「あ、呼ばれたみたい。行ってくるね」琴音は涼太と共に診察室に向かった。

「琴音さん!」史也の声に琴音は振り返った。

「元気な赤ちゃん、産みましょう。僕も全力でサポートさせてもらいます」

「うん、ありがとう!」

 担当医師は田中という名の男性医師だった。眼鏡姿で少々強面、おそらく歳は四十代前半くらいだろう。あまり笑顔を見せない人だと思った。琴音は仕事で関わったことがない人だった。問診や尿検査をした後、エコーでお腹の中を確認する。映像には小さく黒いものが動いているように見えた。

「おめでとうございます。妊娠されていますよ」

 田中医師の顔は笑顔だった。この人、笑顔も出来るんだと失礼ながら思ってしまった。

「やったな! 琴音!」涼太は嬉しそうにはしゃいでいた。

「うん。よかった!」

 琴音も喜びをかみしめた。妊娠検査薬の結果から考えても妊娠しているだろうとは思っていたが、いざ実際に自分のお腹の中で動く命を目の当たりにすると体の内側から喜びが溢れだしてくる。

 ようやく翔に会える。そう思った。

 ふと横目で田中医師を見ると田中医師はもう仏頂面に戻っていた。本当に笑顔が苦手な人なんだなと琴音は思ったが、田中医師は別のカルテを机から取り出して、琴音と正対した。田中医師の唾を飲み込む音が聞こえた。

「折原さん、もう一つ大切なお知らせがあります」

「え、なんですか?」

 涼太は顔に笑顔を置き去りにしたままの表情をしていた。妊娠の喜びの余韻がまだ残っているかのようだった。

「先月されていた子宮頸がん検診の結果が出ました。折原さん、大変申し上げにくいのですが、折原さんは子宮頸がんを発症している可能性が極めて高いです。早急に詳しい検査をしていただきます」

「──え?」

 一度では聞き取れなかった。別に田中医師の声が小さいというわけではない。むしろはきはきとしていて聞き取りやすいくらいだ。だが、なぜか後半の言葉にまるで靄がかかっているかのように言葉が耳に入ってこなかった。頭が勝手にその言葉を拒絶しているかのように。

「がん……ですって……」

 涼太が狼狽した様子で言葉をこぼした。涼太の言葉で琴音もようやく自分ががんを患っている可能性があることを自覚した。

「治るんですよね? 妻も子供も助かるんですよね?」

 涼太は前のめりに田中医師へ懇願した。

「それを早急に確認するため、詳しい検査が必要なんです。明日検査を行いますので再度受診してください。わかりましたね?」

「はい……」

「詳しい検査方法はこれからご説明しますが、その前に。折原さん、検査が終わるまではまだ何もわかりません。落ち込むなと言うのは無理だと思いますが、まだ産めないと決まったわけではないですから。気を強く持ってください」

 その後の田中医師からの説明は主に涼太が聞いてくれた。涼太も精神状態が良好ではないことは明らかだが、自分よりかはまだ自我を保ってくれていた。

 診察室を出て、二人を待っていた奈央と史也は彼らの表情を見て顔色を一変させた。涼太は二人になんとか事情を説明してくれた。一時の沈黙が四人の中に流れたが、奈央は力強く琴音を抱きしめた。

「琴音……辛いよね。でもまだ何も決まってない。がんだって小さければ赤ちゃんを産んでから治すことだって出来る。きっと大丈夫。だから信じよう。ね?」

「うん……ありがとう」

「死なせませんよ。琴音さんも赤ちゃんも絶対に死なせません。一緒に頑張りましょう、琴音さん、涼太さん」

 奈央の暖かい言葉と史也の力強い言葉が琴音の心に響いた。

 大丈夫だよ、奈央、史也君。私は死なない。未来で翔が待っている。涼ちゃんと一緒に待っている。その事実が私を強くする。未来はきっと揺らがない。

 どんな病気でも私は負けない。絶対に負けないから──。


 琴音は家に戻ってから『時を越えるノート』を手に取った。

 翔に今日の出来事を伝えるべきか彼女は迷っていた。翔は未来で自分と涼太と一緒に生きていると言っていた。もしかしたら未来の自分は過去に病気だったことを翔に心配かけまいと彼に伝えていないのかもしれない。それなら、その未来の自分の判断を今の自分が蔑ろにしてはいけない。元気なままの母でいよう。

 琴音は翔に病気のことは伏せて別の話題をノートに綴った。妊娠のことも自分の子宮頸がんの状況がもっとちゃんとわかってから伝えることに決めた。

 心配する必要はないはずだ。

 だって、未来で私が翔と涼太と一緒にいるということは病気を治して、無事に翔を出産出来たってことなんだから──。


 翌日、琴音は涼太の付き添いのもと、病院で子宮頸がんの進行具合が詳しくわかるコルコスコピー検査という名称の検査を実施した。検査結果がわかるのは一週間後らしい。

 最終的には治ることがわかっているとはいえ、検査結果が出るまでのこの一週間は全く生きた心地がしなかった。場合によっては、辛く苦しい治療が待っているかもしれないのだ。それでも琴音と涼太は懸命にお互い通常通りの日常を過ごした。琴音は看護師として病院に出勤し、産婦人科の前を通る度に胸が軋む思いがした。

 そして迎えた一週間後、診察室の中には田中医師とその後ろに史也の姿があった。史也の指導医が田中医師ということらしい。史也の顔はなぜか苦悶に歪んでた。

 嫌な予感がした。

 その後、田中医師から告げられた言葉は案の定、琴音の希望を打ち砕くものだった。

「検査の結果、がんが想像以上に広がっていることがわかりました。もし初期のがんであれば出産後の治療でも問題ありませんでしたが、既にもう初期の段階ではありません。現段階ではまだがんの進行がどこまで進んでいるかの判断が出来ません。したがって、次は円錐切除という手術をさせていただく必要があります」

「円錐切除……」

 涼太が呟いた。聞き慣れない言葉だったのだろう。

「円錐切除というのは、子宮頸部を円錐形に切除して摘出する手術です。ただこれはあくまで検査のための手術です。円錐に切除したものを病理検査して、がんの進行具合を詳しく調べます。検査の結果次第ではまだ妊娠を継続させて分娩後に治療や手術が可能です」

「じゃあ……もし検査結果でもっとがんが進行していることがわかれば……」

 涼太がか細い声で言った。

「子宮の全摘出が必要になると思います。つまり、赤ちゃんは諦めた方が良い」

「そんな……」涼太は今にも泣きそうだった。

「とにかくまずは円錐切除をしてその結果を待ちましょう。話はそれからです。明日から入院してもらいます。手続きについては──」

 田中医師の無感情で事務的な言葉が琴音と涼太の心の侵食を加速させる。

 あれ、おかしいな? 私、死なないよね? 未来で生きているんだよね──?

「田中先生」琴音が田中医師の言葉を遮るように言った。

「なんですか?」

「子宮の入り口を切って、赤ちゃんは大丈夫なんですか?」

 琴音は訊いた。看護師とはいえ全ての医療知識に精通いているわけではない。

「確かに円錐切除により流産や早産といったリスクが上がります。他にも手術直後にはお腹の張りや破水なども心配ですし、出血量も増えます。しかし、治療にはがんの進行具合を詳細に確認する必要があります。リスクについてはご理解ください」

「手術は少し考えさせてもらっても良いですか?」

「は?」田中医師は顔を顰めた。

「正気ですか? お言葉ですが、あなたにこの手術を受けない選択肢はないんです。がんを治したくはないんですか?」

「私は自分の命より……この子の命を守る最善の選択をしたいんです」

 琴音は診察イスから立ち上がって、無理やり診察室から出た。

「待って琴音!」

 後ろから涼太の声が聞こえたが、琴音はそのまま歩き続けた。

 その途中、涼太が追いかけて琴音の肩を掴み、呼び止めた。琴音は立ち止まり、振り向くと、彼は泣きそうなほど表情を歪ませていた。

「待ってよ琴音。手術を受けたくない気持ちはわかる。赤ちゃんを危険に晒したくないのは俺だって同じだ。でもそれだと琴音の命が危ない。そんなの俺嫌だよ。手術を受けたからって赤ちゃんが絶対に助からないわけじゃない。俺は赤ちゃんの命も大切だけど、琴音の命も大切なんだ」

「でも……」

「琴音さん!」後から史也も追いかけてきた。

「涼太さんの言う通りです。あなたが死んでしまっては誰も報われないんです。円錐切除の結果次第では出産後に治療できる可能性だってある。母子二人を救う道を模索することを諦めるのはまだ早いです」

「戻ろう、琴音」

 琴音は悩んだ。悩み抜いた末に答えを出した。

「わかった、戻る。ごめんね」

「ありがとう。頑張って乗り越えよう。琴音」涼太は安堵の表情を浮かべた。

「では、こちらへ。田中先生が待っています」

 史也の案内で琴音と涼太は診察室に戻った。その道中で琴音は一つの懸念が浮かんでいた。

 十一年後の未来に私は本当に生きているのだろうか──。

 翔の隣に私は本当にいるのだろうか──。

 機嫌を損ねた田中医師を史也がなんとか宥め、琴音と涼太は田中医師から手術方法を詳しく聞き、その後入院の手続きを行った。入院は今日からで、手術は明日早々に行われる。その後、一週間の入院を経て、検査結果が出るのは手術終了から十日程度を要するとのことだった。

 病室は奈央の取り計らいで個室にしてもらえた。琴音は涼太が売店で飲み物を買って来てくれている間に、持参していた『時を越えるノート』を取り出して、翔へのメッセージを書いた。

 妊娠したこと。

 そして、本当に自分は十一年後の未来で生きているのか。翔に問いかけた。





 折原 翔

 

 二〇二四年二月



 琴音からのメッセージを目にしてから翔は激しい動悸に見舞われた。

 自分がつき続けていた嘘がついに琴音に感づかれてしまったと思った。ただ冷静に考えればこんな嘘ずっとつき続けられないことなんて誰が考えてもわかることだ。自分にがんの症状があるとわかれば、自分の将来の生存に疑問を抱かない人はいないだろう。

 翔は自分の愚かさを呪った。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。いつかは言わなければいけなかったはずなのに、打ち明けるのが怖くて、結局こんな最悪な形で嘘が露見することになるなんて。これで琴音を酷く傷つけたとなれば、どう考えても自分の責任だと思った。

 翔はもうこれ以上、嘘は付くことは出来ないと思い、奥歯を噛み締めた。

 そして琴音に真実を告げる決意をした。

『お母さん、ごめん。僕、嘘をついていた。僕の住む世界にお母さんはいないんだ。僕を産んでそのままがんで死んじゃったんだ。ずっと嘘ついていてごめん。どうしても言えなかった。お母さんを悲しませたくなかったんだ。ショック……だよね。本当にごめんなさい。ひどい息子でごめんなさい』

 翔はノートが淡い光を放ったことを確認すると、リビングにいる涼太の元に向かった。ずっと気になっていたけど、どうしても訊けなかったこと。訊くなら今しかない、もう目を背けちゃいけないと思った。

 父はダイニングテーブルでスポーツ新聞に目を通していた。その新聞には元サッカー日本代表の都鳥選手引退という見出しがでかでかと載っているのが見えた。

 だが、今そんなことはどうでも良い。

「お父さん、聞きたいことがあるんだ」

 涼太は新聞から翔に目を移した。

「ん? 聞きたいこと? なんだろ?」

「どうして……お母さんは死んでしまったのか。それを知りたいんだ」

「それは……翔も知っているだろ? がんっていう病気で死んでしまったんだ」

「もちろんそれは知っているよ。というかむしろ僕はそれしか知らない。もっと詳しく知りたいんだ。なんでお母さんは死なないといけなかったのか。だってがんは不治の病じゃないでしょ? お母さんはどういう治療をしたの? なんでがんを治せなかったの?」

「……どうしてそんなことを知りたがるんだ?」

「そんなの言うまでもないじゃないか。僕はお母さんが辿った人生をちゃんと逃げずに知っておきたいんだ。お母さんが病気だとわかって、何を感じ何を想い、どんな行動をしたのか、ずっと隣にいたお父さんなら知っているんでしょ?」

「……」

 涼太は明らかに動揺し、狼狽していた。涼太が何かを翔に隠しているのは明白だった。

「おとう──」

「わかった。──わかったよ、翔」

 涼太は翔の言葉を遮った。そして続ける。

「そこに座ってくれ」

 涼太は翔にダイニングテーブルに座るよう促した。翔は言われるがまま椅子に腰を下ろす。そして正面に涼太を見据えた。涼太の目はいつになく真剣そのものだった。

「この話はいつか翔がもっと大きくなって、分別のつくようになってから話すつもりだった。この話を聞いて幼い翔がどう思うか、お父さんには想像ができなかったから。でも翔はお父さんの知らない間に立派に成長してくれていたんだな。翔、先に行っておくけど、くれぐれも自分を責めず、母を責めず、この話を受け止めてほしい」

「うん、わかった」

 翔は背筋を伸ばし、太ももに置く握りこぶしに力を入れた。

「お母さんはな……翔を守るために亡くなったんだ」

 涼太は翔に十一年前に琴音がなぜ命を落とすことになったのか、そのすべてを教えてくれた。

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