第7話

櫻井 琴音


 二〇〇三年六月



「ちょっと休憩するか。トイレ行ってくるね」

 友也はさっと席を立ち、店の奥にあるトイレへ向かっていった。

 琴音は呆然と目の前にあるカフェオレの入ったカップを眺めていた。友也の話に聞き入ってしまいグラスの中身は全然減っていない。友也の壮絶な過去に琴音は今の自分の感情を形容できる言葉が浮かばなかった。自分はどんな表情で友也の話を聞いていたのだろうと不安になる。

 なんて壮絶で辛い幼少期を送って来たのだろう。それに比べて自分はどれだけ恵まれて、幸せな世界で暢気に人生を謳歌してきたのだろうと琴音は自身を嘲笑した。高校時代に奈央の取り巻きに囲まれたくらいで恐怖を抱いていた過去の自分が恥ずかしくなった。

「ごめんね、琴ちゃん」

 琴音が視線をあげると友也がトイレから戻って来ていた。申し訳なさそうに眉尻を下げている。

「いきなりこんな暗い話聞いて戸惑ったでしょ? やっぱり話すべきではなかったよね……ごめん。俺の事怖くなった?」

「そんなことないよ!」

 琴音はつい声を大きくしてしまった。友也は目を瞬いている。

「正直今の話を聞いて戸惑っていないと言ったら嘘になる。私が何を言ったとしても上っ面な言葉にしかならなくて友也君の慰めになる言葉になんて絶対ならないと思う。でも、怖くなんかない。友也君はずっと家族を守ってきたんだもん。友也君は誰よりも優しいよ。話してくれてありがとね」

「うぅ、俺、涙もろいんだから、やめてよ琴ちゃん」

 友也は潤んだ眼を手で隠しながら、恥ずかしそうにはにかんだ。琴音も自然と頬が緩んだ。

「涼太君もすごいね。友也君が涼太君をヒーローって言っていた意味がわかったよ」

「でしょ? あいつがいなかったら今の俺はいないんだ。涼太と出会わなかったら今頃自分はどんな生活を送っていたんだろうと思って、いつもぞっとするんだ。俺たちの絆は誰にも負けない自信がある。琴ちゃんと奈央ちゃんにだって負けないぞ」

「私たちだって負けないよ。というか絆は競い合うものじゃないでしょ」

「そりゃそうだね。こりゃ失敬」

「なにその言い方~」

 ふと琴音はとても自然な笑顔で友也と楽しい時間を過ごせていることに気付き、少し顔が赤らんだ。無理せず自然体で居られて、友也と過ごす時間は琴音にとって心安らぐひと時だと感じた。

 友也は涼太のことを話す時、まるで自分事のように本当に嬉しそうに話すことがとても印象的だった。絆という少々青臭いセリフだって平然と言えることが友也の良い所でもあると琴音は思った。

 喫茶店でお互いの話を始めてからかれこれ二時間近く経っていた。それでも琴音はまだ友也の話の続きを聞きたかった。二人が同じ高校それも、名門の土浦第一高校に入学しどんな日常を経て、この筑波大学に入ったのか興味があった。普段奔放に見えていた友也が実は秀才だったことにも驚きというか、とても意外だった。

「それにしても、土浦第一なんてすごいね。友也君頭良いんだ」

「へへ、すごいでしょ。みんな俺が土浦第一出身って言っても全然信じてくれないんだよ? ひどくない? まぁ涼太と雄星君と同じ学校でサッカーしたかったから、必死で勉強して運よく合格しただけだけどね」

 友也は照れくさそうに鼻を掻いた。

「永森さん? も面白い人だね。ヤンキーであり、サッカーマンであり、秀才であり」

「あ、琴ちゃんひどいな。雄星君は琴ちゃんも知っている人だよ」

「え、本当に?」

「まぁ俺の話の続きを聞けばその意味もわかるさ」

「え〜、今教えてくれないの?」

「うん、話には順序が肝心ですから」

 友也は悪ガキのように不敵に笑った。

「じゃあ早速高校時代のことも聞かせて。涼太君と友也君はどんな高校生活を送ってきたの?」琴音は笑顔で尋ねた。

「──あ、うん。もちろん良いよ」

 琴音は一瞬友也の表情が曇ったように見えた。中学卒業までの友也の人生はとてつもなく凄惨なものだった反面、その分、高校時代は明るい話題しかないのではないかと琴音は勝手な想像をしていた。

 だが、実際はそうではないのかもしれない。

 ただ、これ以上辛い話なんて果たしてあるのだろうか──。

「あの、ごめん。話たくないことあれば無理しなくていいんだよ?」

 琴音の問に友也はかぶりを振った

「そんなことない。琴ちゃんには俺という人間の事をちゃんと知っていてほしいんだ。元々高校時代の話もする予定だったし。もうだいぶ日も暮れて来たから、出来る限り掻い摘んで説明するね」

 友也はコーヒーを一口飲み、深呼吸してから話を再開してくれた。

 琴音にはそれはまるで彼が意を決したような素振りに見えた。




 

 南野 友也


 二〇〇〇年四月



 土浦第一高校に晴れて入学した友也と涼太は迷うことなくサッカー部に入部した。

 既に上級生達は涼太と友也のことは知っていた。なぜなら入学前にキャプテンである雄星の計らいで何度か練習に参加させてもらっていたからだ。だからこそ自然とチームの輪に溶け込むことが出来た。

 二人は一年生の時から試合のスターティングメンバーに名を連ね、ディフェンスの雄星、ミッドフィルダーの涼太、フォワードの友也という強固な縦ラインを形成した。友也はこれまで以上に練習に明け暮れ、チーム内でも確固たる地位を確立し、一年生にしてチームのエースとなるまで成長を遂げた。

 友也は高校でも朝の新聞配達は続けていた。サッカーに没頭しすぎるあまり、家族を蔑ろにはしたくなかった。夏菜子は先天性の心疾患があるため、定期的に通院を要する。近頃大きな発作はなく安定しているが、いつ何時病魔が彼女を襲うのかは誰にもわからない。毎月の治療だって安くはない。友也は夏菜子のためにもアルバイトを辞めようとはしなかった。

 この頃から友也の中で将来の目標が明確に定まってきていた。それは無論プロサッカー選手になることだった。自分がプロになって必ず家族を養う。その揺るぎない信念が友也の行動の原動力だった。

 ある日の練習終わり、友也、涼太、雄星の三人で帰宅している途中に何気ない会話の最中、涼太が突然口を開いた。

「友也に一つ報告があるんだ」

「なんだよ、改まって」

「なんていうか、その……俺さ……」

 涼太の一人称は高校に入学してか『僕』から『俺』に変わっていた。

「なんだよ、勿体ぶらずに言えよ」

「実は……夏菜子と付き合うことになった」

「え」

「ごめん。嫌……だよな。普通。友達が妹と付き合うなんて」

「……ない」

「え?」

 友也は涼太の肩を勢いよく掴んだ。

「嫌なんかじゃない! おめでとう‼︎」

「へ?」

 涼太はぽかんと呆気にとられた顔つきになっていた。予想外の返答だったようだ。

「怒らないのか?」

「ばか、怒るわけないだろ。二人がなんとなく良い感じなのは知っていたしさ。というか夏菜子が涼太に気があるのは知っていたけど、涼太にはその気があるのは知らなかった。だからこそ嬉しんだ。大好きな妹と大切な友の恋愛を応援出来ない奴がどこにいるってんだ。俺はめちゃめちゃ嬉しいぞ!」

 友也にとって、これは紛れもない本心だった。病気と酷い父親のせいでこれまでたくさん辛い思いをさせてきた妹には誰よりも幸せになってほしい。兄心としても妹を託せのは涼太しかしないと思っていた。

「よかったな涼太! もしかして初めての彼女か?」

 雄星が無邪気に尋ねる。

「はい」

 涼太は恥ずかしそうにこくんと頷く。

「良いねぇ、初々しくてこっちまで嬉しくなっちまうな。でもあれだな、もしこのまま二人が結婚したら、友也は涼太の義兄になるんだな」

 涼太は若干渋面を作った。

「なんだよぉ、不服なのか涼太」友也は口を尖らせた。

「いや、どっちかというと俺の方が兄な気がするんだけど」

「何ぃ。というかまだ結婚まで認めたわけじゃないからなぁ」

 口ではそう言いながらも、将来本当に涼太と夏菜子が結婚したら良いなとそう友也は思っていた。


 夏になり県大会の予選が始まった。ここで負けてしまうと三年生である雄星たちは引退する。雄星たち三年生とこれでお別れするわけにはいかない。

 友也は秘めたる想いを胸にピッチに立ち続け、ゴールを量産。涼太もアシスト記録を積み重ねていった。いつしか、土浦第一高校はサッカー名門校と並び称されるほど、県内でも注目を集め始めた。友也、涼太、雄星の三人は地元新聞に取り上げられるほどの活躍を見せていく。

 ある日の練習終わり、チームの副キャプテンである野中貴弘に友也と涼太は呼び止められた。

「雄星の件で少し、話がしたいんだけど、良いかな?」

 友也と涼太は貴弘についていき、部室の隣にあるベンチに三人並んで腰を掛けた。

 貴弘は誰にでも話しかけてくれて面倒見も良く、とても気さくな人であった。ポジションはゴールキーパー。優しい性格で情にも熱く部員から信頼はピカ一だ。

 雄星とは中学校の同級生で中学で同じサッカー部になって以降ずっと仲良くしているのだという。お互い何か惹かれ合うものがあったのだろうか。

「二人にはすごく感謝してるんだ」貴弘が神妙な顔つきでぽろっとこぼした。

「きゅ、急にどうしたんですか?」貴弘からの急な謝意に思わず友也は当惑した。

「雄星の事は昔からの付き合いだから良く知っているけど、ここ最近のあいつのあんなにも楽しそうな顔、俺は初めて見たよ」

「そうなんですか?」涼太が言う。

「俺たちの中学はサッカーが全然強くなくてさ、県予選を突破することすら絶対に叶わないような、負けることが当たり前のチームだった。それでも雄星はずっと言い続けていた。俺は絶対にチームを全国大会に連れて行くって。笑っちゃうだろ?」

「いや、そんなこと……」友也は言い澱んでしまう。

「良いんだって。友也はやさしい奴だな。でもさ、当時雄星はチームメイトから嘲笑の元だったんだ。なにせその弱小チームであいつが一番へたくそだったんだから」

「へたくそ? あの雄星君が?」

 涼太が少し眉尻を下げる。

「信じられない」

「雄星にもそんな時があったんだよ、口だけのでくの坊だと陰で言われていたのも知っている。友達がバカにされていることが俺はとにかく悔しかった。でも言い返せなかった。俺もあいつと同じくへたくそだったから。俺はいつだが、雄星に言ったんだ。

『もう諦めよう、雄星がバカにされることが俺は辛い』と。

 そしたらあいつはこう言ったんだ。

『俺が一番怖いのは可能性が一切なくなってしまうことだ。諦めなければどんなに無謀な挑戦でも可能性はゼロじゃない。でも諦めたらその時点で終わりだ。俺はそれが怖い。夢を叶えるだけの実力がないのであれば人の五倍は努力する、それでも足りなければ十倍努力する。ただそれだけだよ』って」

 貴弘は視線を上げ、過去の出来事を思い返すように目を細めた。

「普通そんな境遇であれば、心が折れて諦める。でも、雄星は言った言葉のとおり絶対に諦めなかった。全国へ行くと言い続け、誰よりも練習に明け暮れて、誰よりも必死に努力をし続けた。いつしか雄星の夢は俺の夢にもなっていたんだ。その努力のせいもあってか、雄星はどんどん頭角を現して良き、チームの中心選手になっていた。かつて雄星をバカにしていた奴らも気づけばあいつと同じ夢を追いかけていたんだ。そのおかげもあって万年負け続けていた俺たちのチームは俺たちが三年の時始めて県大会に出場することが出来たんだ。まぁ県大会では一回戦で負けちゃったんだけどさ。でもそこまで勝ち上がることが出来たのは紛れもなく、雄星のおかげだった」

「雄星君って昔から真っすぐな人だったんですね」涼太が言う。

「あぁ、規格外なほどの猪突猛進男だよ」

 貴弘は肩をすくめて笑った。

「だって聞いただろ? あいつがヤンキー集団の総長を一時期やっていた理由」

「えぇ、昔ヤンキーだった先生が恩師の方でその人みたいな先生になるためにヤンキーになったって」友也が言う。

「そんな逆説的な発想をする奴普通いるか? 別にその先生だってヤンキー時代に先生になろうとしていたわけじゃないだろうに」

「ほんと規格外な人ですね」

 涼太は頬を緩ませながら言った。

「全くだよ。あいつが地元の半グレ集団に入ったのは中学二年の頃だし、気付いたらその族の総長になってたし。どういうことって思ったよ。そんな簡単になれるもんなのかって。ヤンキーたちに崇拝されすぎでしょ。それでまた気付いたら去年脱退してたし。振り回される友達の身にもなれってよな」

 貴弘は憎み言を良いながらもケラケラと愉快に笑う。

「どうして雄星君はそこまで全国に拘ってるんですかね?」

 友也が疑問を口にする。

「なぁに大した理由があるわけではないさ。小学校の時にあいつがその元ヤンキー恩師が昔サッカーをやっていたっていうからって、初めて見た試合が高校サッカーの決勝、国立だったんだ。あいつはその試合で偉く感動したみたいでさ、俺もこの世界をこの景色を選手として味わいたい。そう思ったんだってさ」

「小学校から夢を追い続けてるんすね」友也が言う。

 十年近く同じ夢を諦めず追い続けることは簡単なことじゃないと思った。

「どこまでも真っ直ぐだろ? あいつの夢は小学校の頃から続いているんだ。俺もそれに感化されちまった。けど、あいつは真っ直ぐすぎてたまに周りが見えなくなる時がある。それを正すのが俺の役目だと思ってる」

 貴弘は話を戻した。

「この高校にお互い入学してからもさ、俺たちの挑戦は苦難の連続だった。うちのチームにサッカーの指導者がいないこと驚かなかった?」 

「すごく、驚きました」涼太が言う。

 貴弘が言う通り、土浦第一高校にはサッカー指導者がいなかった。正確には部活の顧問の先生はいたのだが、サッカーの経験は無いため普段練習にはあまり顔を出さない。やることと言えば試合の引率等をやる程度であった。

「指導者がいないチームと言うのは、キャプテンが監督業もやらないといけない。ただそれはとても難しいことなんだ。他校への練習試合の申込だってやらないといけない。けれど俺たちは高校生。まだまだ子供だ。出来ることには限界がある。当時俺たちが一年生の時、うちのサッカー部は練習だってだらけきっていて、秩序なんてまるでなかった。そんなチームが勝てるわけもなく、毎回一回戦負け。先輩たちは負けてもへらへら笑っていた。まぁうちは県内随一の進学校だ。勉強が本分で、部活は勉強の息抜きとしかみんな思っていなかったんだ。でもな……」

 貴弘は言葉を詰まらせるも続ける。

「雄星はそれでも言い続けた。俺がこのチームを必ず全国へ連れて行くって。ぶっちゃけ中学時代より状況は最悪だ。上級生たちは雄星の声に耳を一切貸さなかった。雄星は言っていた。

『先輩たちが本気になれないのは俺がへたくそだからだ。俺がもっとうまく成ればきっと俺の言う事に耳を貸してくれる』って。

 雄星は高校でもずっと居残り練習を続けた。それでも二つ上の上級生達は変わらなかった。結局一年の時は一勝も出来なかった」 

 貴弘は唇をぎゅっと噛んでいた。過去の歯がゆかった思いを回想しているのだと思った。

「全国に行きたければ、他のもっと強い強豪校に行けば良かったと思うかもしれないけど、俺たちにはそういうチームにスカウトされるだけの実力があったわけじゃないし、雄星は教職員、俺はメディカルトレーナーになるって夢がある。その夢のためにも勉強はちゃんとやりたかったんだ。

「風向きが変わり始めたのは去年だ。俺らの同級生たちが雄星のひたむきな姿に感化されて本気でサッカーに向き合い始めた。どうすれば強くなれるのか、どうした勝てるチームになるのか、それにはどういう練習が効果的なのか徹底的に話し合った。そんな俺たちを見て一つ上の当時の三年生たちも雄星の話に耳を傾け始めた。そして雄星は二年生にしてこのチームのキャプテンになった。それからチームの士気は雄星を中心にどんどん高まっていき、ついにはこの高校でも県大会出場を果たせるほどのチームにまで成長を遂げたんだ」

 友也は貴弘の話に圧倒された。雄星の凄さを改めて感じたからだ。どうすればそこまでのゆるぎない精神を保てるのだろうと感服の思いだった。

「でもな、全国大会への出場には届かなかった。県大会の一回戦で運悪く前回王者である水戸商業とあたって、六対〇とボコボコにやられちまったんだ。努力ではどうしようもならない壁を感じたよ。部員たちも落胆していた。どこか雄星を信じて頑張れば本当に全国大会へ行けるんじゃないかとそう思っていたから。現実はそう甘くなかった。

「常にポジティブに自分の信念を曲げなかった雄星だったけど、あの試合には堪えたみたいだった。そんな感じでチームに重たい空気が流れてた時、雄星は目の色を変えて、ある日、俺に言ってきたんだ。

「『すごい奴らにあった! もしかしたら来年うちの高校に入ってくれるかもしれない。来年なら狙えるかもしれない、全国を……』って。

「あんなに目を輝かせている雄星を見たのは久々だった。そして今年本当に君たちが入部してくれた。初めて君たちのプレーを見た時、俺は全身鳥肌が立った。雄星の言う通り、本当に全国にいけるかもしれないって」

 すると貴弘が突如頭を下げた。

「貴弘さん⁉︎」友也が言う。

「全国大会への出場は俺と雄星が昔からずっと思い続けていた悲願であり夢なんだ。その為には二人の力が必要だ。頼む、力を貸してくれ」

 貴弘の雄星にも負けない真っすぐな思いに友也の胸は震えた。絶対にこの人たちの力になりたいと、そう思った。

「貴弘君、俺が毎試合絶対に点決めます。南野友也に出来ないことなんてありません! 絶対に行きましょう。目指せ全国!」

「へへ。お前らしいな。あぁ、ありがとう」

 友也の言葉に貴弘の目は潤んでいた。

 練習の帰り道、涼太がこう言った。

「友也、俺この高校に来てよかった。来週の試合絶対に勝とうな」

「うん」

 友也も涼太と全く同じ気持ちだった。


 土浦第一は躍進を続け、幸先よく県大会出場を決めると、その後も快進撃を続けた。

 そしてついに県大会決勝という大舞台に辿り着いた。会場は霞ヶ浦総合公園。土浦市にあるサッカー場も完備する大きな総合公園だ。

 相手は昨年度の優勝校である水戸商業高校。部員数も百五十人程おり、土浦第一の三倍近い部員数を誇っている。過去、雄星と貴弘に苦渋を飲ませた因縁のチームだ。土浦第一はこれまで一度も勝てたことがない相手だった。

 土浦第一は試合開始直前、ベンチメンバー含め全員で円陣を組んだ。雄星がチームメイトを見渡す。

「相手は過去にプロ選手を輩出したこともあるほど、強いチームだ。昨年までの俺たちだったら決して勝てなかったと思う。でももう恐れる必要はない。俺たちだってこの一年で遥かに強くなった。諦めなければ必ず勝機は出てくる。だから自信をもって自分たちを信じて最期まで戦い抜こう──」雄星は一瞬間を置いた。

「みんな、これまで俺のわがままについて来てくれてありがとう。俺……」

「ばか、試合前に感極まる奴がいるか。それにみんな想いは同じだ。絶対に勝って全国に行く。お前の夢はもうみんなの夢なんだ。わかった?」貴弘が冷静に言う。

「おう」

 普段見せない雄星の感情を露わにする姿にみんな、自然と笑みが溢れる。

 そしてそれは決意へと形を変えていく。

「絶対勝つぞ!」

「おぉ!」

 雄星の力強い言葉にチームは一つになった。

 そして選手たちはそれぞれのポジションに散っていく。

「友也、涼太」雄星は二人を呼び止めた。隣には貴弘もいる。

「後ろは俺たちに任せろ。だから前は任せた。頼むぞ」

 雄星は拳を前に突き出した。友也と涼太もそれに呼応するように自分たちの拳を雄星の拳に合わせた。雄星と貴弘の悲願である全国大会への出場まであと一勝。友也はみなぎる闘志にあふれていた。

 ホイッスルと同時に試合が始まった。前半は水戸商業のペースで試合が進んだ。巧みな技術で土浦第一を翻弄したが、雄星の気迫の籠ったデフェンスにより決定的なチャンスは作らせなかった。

 試合が動いたのは後半十五分、涼太のロングシュートを相手ゴールキーパーが前に弾き、そのボールを友也が素早く押し込んで、土浦第一が先制点を奪った。歓喜に沸く土浦第一。

 しかし、この一点が相手に火をつけた。その後水戸商業の怒涛の攻撃が始まり、土浦第一は防戦一方になる。そして後半三十分と三十五分に立て続けに失点してしまう。

 さらに悲劇は続いた。雄星の足に相手選手のスパイクがのしかかり、雄星は倒れてしまう。足は赤く腫れあがり、骨にも異常があるように見えた。

「雄星! よせ! その足じゃ立つのもやっとだろ」

 貴弘の悲痛な声が響く。チームメイトが雄星の元に集まってくる。

「こんな怪我どうってことない」

「そんなわけないだろ!」

「大丈夫だって!」

 雄星の必死な叫びに一瞬あたりが静まり返った。

「ようやくここまでこれたんだ。あと一勝なんだ。やっとつかんだチャンスなんだ! 後悔したくない、頼む、このままやらせてくれ」

 雄星の思いを止めること等誰にもできなかった。それに雄星に変わる選手なんて誰もいない。それは誰もがわかっていた。

「友也」涼太が声をかける。

「俺が必ず最高のパスを出す。だから絶対決めてこいよ」

 涼太の真剣な眼差しが友也の胸を刺した。

「あぁ任せろ」

 試合が再開するも、防戦一方なのは変わらなかった。試合時間が残り五分を切った時、相手選手のシュートを貴弘が好セーブで弾く。こぼれ球を雄星がしっかり奪取し、前を向いた。そして中盤でボールを要求する涼太にパスを出した。

「雄星君、ナイス!」

「頼む涼太!」

 涼太は前を向こうとしたが、待ち構えていたように三人の選手に囲まれてしまう。しかし、次の瞬間涼太は三人を抜き去った。相手選手は何が起きたのか当惑の表情を見せていた。

 そして涼太が前を見た瞬間を友也は見逃さなかった。涼太の鋭いロングレンジのパスが絶妙なバックスピンにより友也の足元にぴたっと収まる。友也の前には二人のデフェンダ―が必死の形相で立ちふさがった。

 しかし、友也のドリブルは相手選手を一瞬で置き去りにする。そして土浦第一の選手たちの想いのこもった鋭いシュートが相手ゴールキーパーの指先をすり抜け、相手ゴールに突き刺さった。

 ピッチ上では歓喜と落胆が渦巻いた。まさに劇的な同点ゴールだった。

 試合終了ぎりぎりでついに追いつくことが出来、友也の周りにチームメイトが駆け寄る。もしかしたらその時すでにほんの少しの心のスキが生じていたのかもしれない。

残り時間は三分足らず。誰もがPK戦を予想していた。しかし……。

 それは一瞬の出来事だった。試合が終盤だったこともあり、土浦第一の選手たちはみんな疲労で足が止まっていた。相手チームのエースはその間をするするとドリブルで突破していく。

「気を抜くな‼︎」

 涼太の声がピッチで木霊した瞬間、選手たちは我に帰った。しかし、ボールは貴弘の横を横切り、ゴールに吸い込まれた。そして試合終了のホイッスルが鳴り響いた。


 水戸商業の選手たちが歓喜に沸く。

 そんな中、土浦第一の選手はみんな、その場を動けずにいた。呆然とその場で立ち尽くし、現実は受け止めきれなかった。 

 負け……た?

 ベンチに戻ってからも選手たちは俯き、項垂れ、誰も言葉を発せずにいた。

 現実をすぐに受け入れられなかった。

 そんな中、沈黙を破ったのは雄星だった。

「みんなごめん」

 聞いたこともないほど、弱々しい声だった

「俺が怪我をしたせいだ、そのせいで……ほんとごめん」

「そんなことないです!」

 友也は声を発した。

「俺が……俺がもっと点を取っていれば勝っていました…俺のせいです……」

「いや、俺です。俺がもっとボールをコントロールして試合を作れていれば……」

 涼太も続けて言う。

「誰のせいでもない」貴弘が言った。

「相手の方が一枚上手だった。ただそれだけだ。俺たちはやり切った。これまで全く歯が立たなかった相手にこれだけ善戦出来たんだ。すごいことだ。誇って良いことだ。胸を張って帰ろう」

 そう言う貴弘の声は震えていた。貴弘の足元にはポツポツと雨粒の跡のような模様がついていく。

「おかしいな。やりきった……はずなのに……。悔しくて、たまらない。もっと……もっとみんなとサッカーしたかったよ──」

 そこからは堰が切れたように選手たちはみんな、声を出して子供のように人目も憚らず泣きじゃくった。

 みんな声を枯らして泣いたせいか、三年生の先輩方はどこか清々しさすら感じるほど、精悍な顔つきに友也は見えた。土浦第一の選手たちはグラウンドの隅に集まり、ミーティングを始めるところだった。三年生の周りを囲むように下級生が並ぶ。そして雄星が口火を切った。

「あんな人前で泣きじゃくるところ見られたらもう何も恥ずかしいことなんかないな。デカい体で厳つい元ヤンキーなのに泣き虫っていうのも武勇伝にしとこうかな」

「そんなもん武勇伝じゃないだろー」

 チームメイトのツッコミに周囲は笑いに包まれる。

 とても心地の良い空気が流れていた。 

「正直まだめちゃめちゃ悔しいし、家に帰ったら今日のこと思い出してまた泣いてしまうと思う。でも、必死で死に物狂いでプレーしていた中でどこか心で思ったんだ。俺やっぱりサッカー好きだなって。大好きな仲間と同じ夢に向かって必死にがむしゃらにプレー出来たこの時間が俺にとって本当にかけがえのない時間だった」

 あたりからすすり泣く声が聞こえる。

 友也も迫り上がってくる熱い何かを必死に抑えた。

「俺は小さい頃からずっと全国大会を夢見てきた。周囲にバカにされながらも必死で。でも俺が欲しかったのは本当は一緒にバカな夢を追いかけられる仲間だったのかもしれない。そして俺の目の前にはその仲間たちがいる。みんな……。俺を世界一の幸せ者にしてくれてありがとう」

 本当はみんなまた大声で泣き叫びたかったことだろう。でも最後の門出は笑って終わりたい。その思いで肩を震わせながらも悲しみを咀嚼し、奥歯を噛み締め、我らがキャプテンを真っ直ぐに見据えた。

「俺たち三年生はこれで引退するけど、また新しい土浦第一を作っていってくれ。そして次期キャプテンと副キャプテンなんだが……。キャプテンを涼太、副キャプテンを友也、お前らにやってもらいたい」

「え」思わず友也は声が漏れた。

「とても光栄ですけど、僕たち来年、まだ二年生ですよ?」

 涼太が目を瞬きながら訊いた。

「俺だって二年生からチームキャプテンを任された。それに涼太がキャプテンをやることに異論なんて誰もないはずだ」みんなが一様に頷く。

「お前はいずれ日本代表に選ばれるほどの器だと思ってる。お前のその圧倒的なポテンシャルでチームを引っ張ってくれ」

「はい、わかりました!」涼太は力強く頷いた。

「そして友也」

「は、はい!」

「お前はお調子者で、おっちょこちょいだけど、いつだってチームを明るく笑顔に出来る。そして、これまで辛い経験をしてきたからこそ、誰よりも人の気持ちに寄り添うことが出来る。涼太がそしてチームメイトが辛い時、お前が助けてやるんだぞ。それにお前はポテンシャルだけで言えば涼太以上の力を秘めていると思っている。本気になればプロにだってなれるはずだ。これから頼むぞ」

「はい‼︎」雄星の言葉一つ一つが友也の胸に重く響く。期待されることの重圧と喜び、これらが織りなす感情を友也はしっかりと噛み締めた。

「ちなみに俺はまだ夢を諦めちゃいないからな」

 みんなが雄星の言葉に「え?」と驚く。次に口を開いたのは貴弘だった。

「俺と雄星は来年、筑波大学を志望してるんだ。そこでまたサッカーを続けて今度こそ夢を実現させる。でも筑波は毎年インカレに出場してるから、そこを目標にするのもなんか味気ないからさ。次の目標は……」

「全国制覇‼︎」雄星が声高らかに言った。

「俺のセリフ取るなよ、雄星」

「すまんすまん」雄星が続ける。

「みんな卒業後は各々の進路があると思う。みんなの中でもし同じく筑波大学を受験する人がいてくれたら、また一緒に夢を追いかけよう。待ってるからな!」

 雄星と貴弘はまた新たな夢に向けて歩き出そうとしている。友也は頼もしくも誇らし先輩方の背中をどこまで見ていたいと思った。


「お兄ちゃん! 涼太君!」

 帰り支度を終え、控室から出てきた時、背後から声がした。

 夏菜子だった。後ろには史也もいる。

「え、二人とも来てたのか?」

「へへ、会場が家から近かったからさ、お兄ちゃんに内緒で応援に来てたよ。まぁお兄ちゃんの応援というか涼太君の応援だけどね。試合は残念だったけど、二人とも最高にカッコ良かったよ」

「涼太は知ってたのか?」

「うん、てか友也が知らないことを知らなかった」

「なんだよそれ、水臭いなぁ」

「まぁ妹が応援に来てるってので緊張してミスられても困るしね。結果オーライってことで」涼太は笑顔でさらっと言う。

「性格悪いなぁ。てかお前こそ彼女が応援に来てて浮き足立ってミスとかしないのかよ」

「逆に力になるタイプです」

「言うなぁお前」

「何二人して盛り上がってんの」夏菜子が間に入ってきた。と同時にコホンコホンと夏菜子が咳き込んだ。

「夏菜子、大丈夫か?」涼太が心配そうに言う。

「うん、ちょっとむせただけ。気にしないで。そんなことよりお兄ちゃん、これからちょっと涼太君とデートだから、涼太君もらっていくね」夏菜子は無邪気な笑顔で言う。

「おいおい、初耳なんだけど」

「そんな遅くならずに家に連れて帰るから、心配するな、お兄ちゃん」

「お前がお兄ちゃんって言うな。別に涼太と一緒なら特に心配はしてないけどさ」

「じゃあ、そう言うことだから、史也、お兄ちゃんをよろしくね」

 そう言って、涼太と夏菜子は並んで歩いて行った。

「そこはお兄ちゃん、史也をよろしくね、だろ」

 友也はぽろっとこぼした。ただ、夏菜子が幸せそうなのは友也にとっても喜びだった。自然と笑顔が溢れる。

「お兄ちゃん、ちょっと良い?」史也が帰り道、友也に尋ねた。

「どうした?」

「大事な試合も近かったし、お兄ちゃんには余計な心配させたくなくて言ってなかったんだけどさ、お姉ちゃん、最近発作の頻度が増えてるんだ。薬の量も増えてる気がする。夜中お母さんが心配そうにお姉ちゃんとこそこそしゃべっていたのも気になってて……」

「それ、本当か?」

「うん」

 友也は涼太には詳しく夏菜子の病状について喋ったことはなかった。生まれつき持病を持っている、程度のことしか知らないはずだ。余計な心配はさせたくないし、きっと治療で良くなるとも信じている。夏菜子の性格的にも涼太には自身の病状についてあまり伝えていないだろうとも思った。余計な心配をかけたくないと言う性格は兄譲りだ。

 夏菜子は来年中学三年生になる。受験等で色々とストレスも溜まる時期だから病状の悪化に繋がらないでほしいと切に願った。そしてある意味そういう辛い時期に涼太というパートナーがいてくれて良かったのかもしれないと友也は思った。


 友也は二学年に進級した。涼太がキャプテン、友也が副キャプテンの新体制でサッカー部はスタートし、チームの雰囲気はとても良かった。これも雄星たちが作り出してくれた正の遺産なのかもしれない。雄星と貴弘は無事、筑波大学に入学した。二人の新たな挑戦が始まったんだなと思い、自分たちも負けていられないと士気を高めた。

 そんなある時、ビッグニュースが飛び込んできた。なんと涼太が十九歳以下のサッカー日本代表候補に選ばれたのだ。

 涼太はその代表選考も兼ねた合宿のため、会場である福島県のプロも利用する『Jヴィレッジ』に向かうことになった。合宿期間は一週間。そこで今後アジア選手権で戦う選手を選抜するのが目的だ。選出メンバーには現役のJリーガーや大学生達が軒を連ねる中、現役の高校生が抜擢されるのは異例のことだった。

 合宿を明日に控えた日に、涼太は友也の住む祖父母の家に来ていた。友也の家族は盛大に涼太を祝福していた。

「さすが涼太君ね。茨城県の期待の星だわ」

 雅子がまるで自分の息子の活躍を誉めたてるかの如く、涼太を称えた。

「ありがとうございます。まぐれかもしれないですけど、悔いのないようにしっかり頑張ってきます」

「ほんと自慢の彼氏だわ」夏菜子もえらくご機嫌だった。

「お姉ちゃんにはもったいないくらいの逸材だね」史也はニヤリとする。

「なんだとぉ、史也〜」夏菜子は史也の頭を軽く小突いた。

「でも俺が選ばれるのなら、お世辞抜きで友也も選ばれておかしくないくらい活躍していたと思うんだけどなぁ」

「何言ってんだよ。俺なんかまだまだだよ。でも俺もいずれ涼太と一緒に日の丸背負う気満々だから、先に世界ってのがどんなもんか体感しておいてくれな」

「おいおい、気が早いな。まだ代表の候補ってだけなんだから、まず代表メンバーに選ばれないと世界とも戦えないよ」

「お前なら絶対残れる。この俺が言うんだから間違いない!」

「まぁそうかもな」涼太は軽く微笑んだ。

「お兄ちゃんも涼太君に負けないで頑張ってよ。県の選抜なんかで満足しないでね」

「おう! あたりめぇよ」

 友也も茨城県の高校選抜メンバーに選ばれていた。しかし、友也自身そんなことで満足はしていなかった。

 涼太に関して、もちろん悔しい気持ちも全くないわけではない。でも涼太の実力は友也が一番理解していた。自分の力も昔から比べたら驚異的な成長を遂げている自覚があったが、まだ代表に選ばれるほどではないことも自覚していた。だからこそ涼太の代表候補入りは純粋に嬉しかったし、誇らしかった。

「夏菜子も頑張ってね。ごめん、こんな時にそばにいれなくて」涼太が申し訳ないように眉尻を下げ言う。

「あたしなら大丈夫だよ。むしろ涼太君にとってこんなにも大事な時に心配かけるようなことになって、そっちの方が申し訳ないよ」

 夏菜子はここ最近心臓病の容態が芳しくないため、三日間の検査入院を予定していた。丁度涼太の代表合宿の初日から入院となるため、涼太は夏菜子が入院中、病院へ顔を出すことはできない。

 さすがに隠せないと思い、夏菜子は涼太に心臓病の持病を持っていることをすでに伝えていた。

「合宿から戻ってきたら身体に無理がない範囲で退院祝いをしよう。どっか行きたい所ある?」

「退院祝い兼代表メンバー入り記念だよ、きっと。私温泉とか行きたいなぁ」

「温泉か、いいねぇ……」

 涼太がそこまで言ったところで、言葉を止めた。そして隣の男をちらっと一瞥する。

「お前ら、兄がいる前でそんなラブラブトークしやがって~。俺なんて彼女が出来たこともないのに……」友也はしゅんと肩を窄めた。

 そしてギンッとするどい視線を涼太と夏菜子に向ける。

「それに中学生の分際で温泉だと! 泊りは許さん! 不純異性交遊だ! どうしても行くなら俺も引率で付いていく!」

「え~! お兄ちゃんと一緒だと涼太君を独り占めできないじゃん! やだ!」

「嫌じゃない! というか母さんも止めないのかよ!」

「私はあなた達が楽しければそれで良いのよ」

 雅子はケタケタと景気良く笑った。

「ごめんごめん! 俺が悪かったよ友也。じゃあみんなで行こう、家族旅行にしよう。俺も母さん連れて行くから。な?」涼太が友也を嗜めるように言う。

「それなら良いけど……」

「もうシスコンバカ兄貴~。どんだけ妹好きなんだよ」

「誰がバカだ!」

「シスコンは否定しないのかよ」最後史也がぼそっとツッコミを入れて、食卓は笑いで包まれた。

 涼太と夏菜子の交際は友也としても大歓迎だが、泊りの旅行まではまだまだ認めるわけにはいかない。そう思うと友也はふと笑いが込み上げた。娘を嫁に出す父親の気持ちってこんな感じなのかなと少し感慨深い気持ちになった。

 翌日、涼太は『Jヴィレッジ』に向かうため、新幹線の駅に着いた。隣の県でもあるため、移動による疲れもなくプレーに集中出来るだろう。

 友也と夏菜子は駅まで涼太を見送りに来た。駅前の駐車場には雅子と史也が今年中古で購入した自動車に乗り二人を待っている。涼太を見送ったあと、夏菜子を病院に連れて行く予定だった。

「駅まで見送ってもらっちゃってなんか悪いな」

「夏菜子がどうしてもって言うからさ」

「だってしばらく会えないからさみしいじゃん」夏菜子は頬を膨らませて顔をしかめた。

「一週間経ったら、すぐ帰ってくるよ。帰ってきたらみんなで温泉。楽しみだな」

「あぁ、良い結果持って来いよ。お前ならなんも心配いらないと思ってるけどさ」

「あぁ任しといて。友也も早くこのステージに上って来いよ。俺の相棒はお前だけなんだからな」

「わかってる。すぐに追いつく」友也と涼太は右手でハイタッチした。

「夏菜子も検査がんばって」

「うん、お互いがんばろうね」

 涼太が新幹線に乗った後も窓越しに手を振り合い、動き出した新幹線はあっという間に見えなくなった。友也は改めて友の大いなる挑戦に心の中でエールを送った。

「涼太ならきっと代表入り出来る。俺も必ずあいつと肩を並べる選手になるんだ。だから夏菜子も治療がんばろうな」

「……」

「──夏菜子? ……⁉︎」返事がなかったため、友也は隣にいる夏菜子に顔を向けると、そこには悲痛な表情で駅のホームにうずくまる妹の姿が目に入った。

「か、夏菜子⁉︎ どうしたんだ⁉︎ 俺の声が聞こえるか⁉︎ 夏菜子‼︎ 夏菜子──」

 騒然とする駅のホームで友也は夏菜子を強く抱きしめることしかできなかった。騒ぎを聞きつけた駅員がすぐさま救急車を手配し、夏菜子は病院に緊急搬送された。

 診察室に連れて来られた友也、雅子、史也の三人はそこで医師の診断を聞いた。医師の診断によれば症状の名は急性心筋梗塞。これまでの発作はこれの前兆だったのかもしれないという。

 それから医師による病気に関する説明がされたが、友也の耳には入ってこなかった。ただただ無力感、虚無感そして黒々とした絶望が友也を蝕んでいた。

 後から医師の話をしっかり聞いていた史也から夏菜子はもう目を覚まさないかもしれないと言われた。雅子はその場で崩れ落ち床に額を押し付け、嗚咽を漏らしながら泣いた。

 史也は目を潤ませ血を出すほど唇を噛みながら、必死に夏菜子の病状を伝えてくれた。友也は感情をすべてどこかに置き忘れてしまったかのようにただただ無だった。頭が現実を受け入れようとせず、蓋をして、伝わる情報達をすべて追い払った。

 嘘だ──。

 何も考えられない。

 嘘だ──。

 何も考えたくない。

 そう、きっと夢だ。夢に違いない。だってあり得ないだろ? さっきまで普通に喋っていた夏菜子が、いつも元気いっぱいで生意気で可愛い妹の夏菜子が……死ぬ? そんなわけない。そんな……。

「お兄ちゃん‼︎」

 聞こえてくる声は史也の喉をつぶすほどの悲痛な声だった。

「嘘じゃないんだよ。夢じゃないんだよ。本当に……お姉ちゃんは……お姉ちゃんは死んじゃうかもしれないんだよ。現実から目を背けるなよ!」

 史也の悲痛な叫びで友也は一瞬我に返る。それと同時にまた絶望が覆いかぶさる。拭っても拭っても拭いきれないほどの漆黒が友也を蝕み続ける。


 そこからどれくらいの時間が経ったのだろう。

 友也は飲まず食わずで夏菜子が横になっているベッドの傍に置いてある来客用の椅子に座り続けていた。意識が朦朧としてくる。ここが現実なのかどうなのかすら曖昧だった。友也は昨夜憔悴しきっていた雅子を史也に預け、二人を家に帰していた。夏菜子は俺が見てるからと、そう言い残して。

 おぼろげで不明瞭な意識の中、椅子にもたれかかる友也の耳に、その声は確かに届いた。

「──お兄ちゃん?」

「……夏菜……子?」

「何寝ぼけてんの? 妹の顔忘れちゃった?」

 友也の目の前にはベッドに胡坐をかいて座り、いつものように生意気な笑顔を見せる夏菜子の姿があった。

「お前……無事だったのか? おい、母ちゃん! 史也! 起きろ! 夏菜子が目を覚ましたぞ!」友也は溢れんばかりの笑顔で声を出す。

「もうお兄ちゃんは本当におバカだね。お母さんと史也はお兄ちゃんが家に戻してくれたんでしょ?」

「あ、そうだった。ごめん。嬉しくてちょっと気が動転してるわ」

 友也は少し恥ずかしくなり、頭を掻いた。

「ふふ。その感じもお兄ちゃんらしくて私は好きだけどね。……あのね、お兄ちゃん。私、お別れを言いに来たの」夏菜子の急な言葉に友也の理解は追いつかない。

「……は? 今なんて……」

「私ね、お兄ちゃんには本当に感謝してるんだよ」

「ちょっと待てって。勝手に話を進めるなよ。なぁ今の冗談だよな? こんな時に悪い冗談やめろよ」

「良いから聞いてよ!」

 夏菜子の急な叫びに友也は虚を突かれたように固まってしまう。夏菜子はシーツを裾をぎゅっと握りしめていた。

「お願い、私には時間がないの。だから聞いて、お願い」

 夏菜子の切実に訴えかける目に友也は押し黙るしかなかった。

「埼玉にいる時はほんとに辛かったよね。毎日いつ殺されるんだろうってびくびくしながら生活しててさ、あの時お兄ちゃんが私を助けてくれなかったら、本当に殺されちゃってたと思う。こっちに移って来てからもさ、私たち犯罪者の子供って学校で罵倒されて、あの時も怖い人たちに襲われそうになったところをお兄ちゃんが助けてくれた。私が辛い時、困っている時、いつもお兄ちゃんが私を助けてくれた」

 淡々と夏菜子は過去の出来事を回想しながら友也に感謝の言葉を述べて言った。夏菜子の言葉一つ一つが友也の胸に染み込み、ゆっくりと浸透していく。

「私、こんな病気でもね、お母さんとお兄ちゃんと史也がいれば、笑っていられる、強く前向きに生きてられるってそう思ったの。私この家族が本当に大好き。ずっと一緒にいたかった」

「過去形で言うなよ……」

 友也が弱々しい声を漏らす。夏菜子は軽く俯き、少しだけ微笑んだ。

「それでもやっぱり男の人に襲われた時は落ちこんじゃってさ、学校に行けない日も続いちゃったけど、そんな時にお兄ちゃんが彼を家に連れて来てくれた。涼太君を」

 夏菜子が友也に見て優しく微笑んだ。

「一緒にお話することで、私の中にあった絡まった糸が少しずつほどけていくのを感じたの。初めての感覚だった。涼太君は私の初恋だった。

 お兄ちゃんには恥ずかしくて内緒にしてたけど、実は私が涼太君に猛アプローチをかけたの。私は病気で他の人より長くは生きられないかもしれない。だからカッコつけている暇はないって。人生で後悔しだけはしたくなかったから。

 涼太君ね、他に好きな人がいたの。でもさ、その人の名前もどこに住んでいるかも何も知らないんだって。ほんと何それって思ったよ。その人のことをずっと想っていて、こんなふしだらな気持ちで夏菜子と付き合うなんて失礼だよ。って最初は断られちゃった。ほんとなんて人を好きになってしまったんだろうって思った。

 でも、私何度も諦めずに告白市続けてさ、端から見たらストーカーだよね。でも諦めたことを後悔したくなくて、何度も。絶対私がその好きな人を忘れさせてあげるからって。そしたらね、『そんなにも想ってくれてるのが本当に嬉しい』そう言って、付き合ってくれた。

 私が涼太君のその好きな人を忘れさせることが出来たのかは正直わかんない。でも涼太君は私の人生を確実に素敵な色で彩ってくれた。恋する喜びを教えてくれた。本当に幸せだった。

 お兄ちゃんと涼太君は私の人生を救ってくれたヒーローだよ。ありがとう」

「夏菜子……」

 友也が視線を下に移すと夏菜子の身体が少しずつ薄く透明になっていた。

「夏菜子、お前……」

「もうすぐ時間みたいだね」

「いやだ、行くな、夏菜子。行かないで──」

「ねぇお兄ちゃん、私の最後のお願い聞いてくれる? 涼太君が合宿から帰ってくるまで私の事は伝えないでほしいの。涼太君のことだから私に何かあったら合宿なんてほっぽり出してこっちに来ちゃうかもしれないでしょ? お兄ちゃんと一緒でね、サッカーでプロになることは涼太君の昔からの夢なの。私のことでその夢の邪魔はしたくない」

「最後なんて言うなよ……」

 涙で視界が滲む。

 滲んだ視界の中でも夏菜子の身体はさらさらと宙に溶けていくのがわかる。

「涼太君はね、実は弱い人なの。誰よりも繊細でなんとか弱さを見せないように強がっているだけ。涼太君を支えられるのはお兄ちゃんしかいない。涼太君をよろしくね」

「夏菜子!」

「お兄ちゃん、わがままな妹でごめんね。ずっと大好きだよ。来世もまたお兄ちゃんの妹として生まれたいな。……またいつか必ず会おうね」

 友也は目の前で消えゆく夏菜子を力強く抱きしめる。しかし、友也の腕は空を切り、無情にも夏菜子の姿は跡形御なく消えてしまった。それと同時に温かい光が友也を包み込み、友也の意識は光に溶けていった。


 ぼんやりとした意識の中、ピーと無機質な機械音を友也の耳は捉えた。ゆっくりと瞼を開き、微睡ながらも視線を上げる。目の前には、病院のベッドで布団をかぶって横たわる夏菜子の姿があった。表情はどこかにこやかなように見える。カーテンの隙間から伸びる淡い朝日が夏菜子の顔を優しく照らしていた。

 そして次に友也の目が捉えたのは、夏菜子を繋ぐ心電図で真っすぐに伸びる緑色の線とゼロという数字だった。病室に医師と看護師が入室してくる。医師は夏菜子の脈を図り無念そうに首を振った。

「残念ですが……妹さんはお亡くなりになりました。すいませんがお母さまを呼んで頂いても良いですか?」


 翌日、翌々日に、夏菜子の通夜と葬儀は執り行われた。通夜には夏菜子の中学の友人が沢山来てくれて、みんな一様に大粒の涙を流して夏菜子との別れを惜しんでくれていた。友也は夏菜子が多くの友人に恵まれていたんだと改めて実感した。

 夏菜子との最後のお別れの日に涼太の姿はなかった。

 夏菜子が亡くなった日、友也は涼太の合宿先に衝動的に電話をかけた。電話先で数分待つと受話器口から涼太の声が聞こえてきた。

「友也? どうしたんだよ? さては寂しくなって俺の声聞きたくなかったか?」

 からかうような涼太の笑い声が聞こえてくる。友也は唇をぎゅっと噛み締めた。

「そんなウサギみたいな寂しがりっ子じゃねぇよ。そっちに様子が気になってさ、合宿はどんな感じ?」友也は必死に平静を装った。

「みんなレベルが高くて驚くよ。でもすごい楽しい。自分のサッカーが通用することも分かってきた。絶対最終メンバーに残ってみせるよ」

 涼太の活き活きとした声色が友也の心を締め付ける。すべてを話してしまいたいという衝動に駆られるが、寸前のところでぐっと自身の衝動を抑える。

「さすが涼太だな。まぁ俺は涼太の力は全国クラスだと信じていたけどな」

「ありがとう。引き続き頑張るよ。そっちはどうだ? 何か変わりはない? 夏菜子は無事退院出来た?」

「……」

「ん? 友也?」

「何も……変わりはないよ。夏菜子も元気だ。早くお前に会いたがっているよ」

「そうか。良かった。早く良い結果を夏菜子に伝えたいな。そのためにも頑張る! みんなで温泉も楽しみだな。うちの母さんもすごい楽しみにしてた」

「そうか。じゃあ楽しい旅行にするためにも、良い結果持って来いよ。ごめんな、夜に突然電話しちまって。また明日から頑張れよ」

「うん、ありがとう! めっちゃ元気出た! じゃあまたな」

「おう、じゃあな」

 電話を切ると同時に友也は胸の奥から溢れそうになっていた熱いものをせき止めることが出来ず、その場に崩れ落ち、歯を食いしばりながらボロボロと涙を流した。

「ごめん、涼太。ごめん……」

 本当はすべてを知らせたかった。すぐに悲しみを分かち合いたかった。

 明後日の葬儀は夏菜子との最後の別れの日だ。そこに立ち会わせないなんてそれほど無慈悲なことは無い。でも、夏菜子が友也に授けてくれた最後の願いを守らないわけにはいかなかった。これは友也にとって兄としての最後のプライド、意地だった。

 葬儀から三日後、涼太は土浦市に戻ってくる日を迎えた。友也は駅で涼太の到着を待った。心がつぶれそうだった。どんな顔して涼太に伝えれば良いのか友也はみんな目見当もつかなかった。

 駅のホームからエナメルバックを肩から下げた涼太が出てきた。涼太の顔は笑顔であふれていた。

「友也! 迎えに来てくれてありがとう! 俺、代表メンバーに選ばれたよ! 来月からのアジア選手権に出場できる!」

 涼太は友也に抱き着いた。

「やったな涼太。すごいじゃんか。もうプロ目前だな」

 必死に笑顔を作った友也だったが、自分でも顔が引きつっているのがわかった。ただ涼太はそれに気づく様子はない。

「早く夏菜子にも伝えたいな。退院して間もないし、さすがに迎えには来てないもんね。今から友也の家行っても良い?」

 いよいよ言い訳出来ないと思った。

 もう腹を決めないといけない。友也は奥歯が割れると思うほどぎゅっと噛み締める。

「夏菜子は……もういないんだ」

「ん? どっか遊びに行っているのか?」

「そうじゃない」

「どういうこと? てか友也なんか変じゃない? 具合でも悪いのか?」

「夏菜子はもう死んだんだ」か細い声が友也から漏れる。

「なんて? 良く聞こえな──」

「夏菜子は死んじまったんだ! もうこの世にいないんだよ!」

 友也の声が駅前に響き渡る。

「何言ってんの友也? そういう冗談は俺、嫌いだな。全然笑えないんだけど」

 涼太は怪訝に顔を歪ませる。

「冗談でこんなこと言わない。心臓発作で涼太を見送ったあとすぐに倒れたんだ。それでそのまま──」

「嘘だ。そんな……そんなわけない。だって一週間前までここで一緒にいたじゃないか。笑っていたじゃないか。それなのに……こんなこと……」

「涼太……」友也はかける言葉が見当たらなかった。

「友也……なんで、なんでそんな大事なことを──」

 涼太は顔を赤らませ友也に詰め寄り、グッと胸倉をつかんだ。

「どうしてすぐに俺に言わなかったんだ‼」

 涼太の憤怒に歪んだ表情に友也は気圧される。こんな友の顔を見るのは初めてだった。友也は涼太の肩を掴み、目を見据えて口を開いた。

「ごめん、でもこれは夏菜子の最後の願いだった! 夏菜子はお前がプロになる夢を心から応援していた。だから優しいお前のことなら合宿をほっぽり出してでも必ず駆けつけるから、私は涼太君の夢を邪魔したくないって、それが夏菜子の最後の願いだった。だから──」

「ふざけるなよ! そんなこと聞きたくない。あんまりじゃないか。夏菜子との最後別れにも立ち会わせてくれないなんて、そんなのあんまりだ……」

「涼太……」

「俺が夢中でサッカーを楽しんでいる時に夏菜子は心臓の痛みにもがいて苦しんで、まだまだやりたいこともたくさんあったはずなのに無念にこの世を去ったんだぞ。一番つらい時にそばにいてあげられなくて何が彼氏だよ」

 涼太の胸倉をつかむ力が弱まり、力なく腕が下に落ち、悲痛に表情を歪め、俯く。

「涼太、夏菜子は──」

 涼太は友也を手で制し、続きを言わせない。

「もう何も聞きたくない」

 そう言うと涼太は友也の目を見ず、その場に友也を置き去りにして歩みを進めた。友也は悲哀と憤怒に満ちた友の背中をただ見送ることしかできなかった。


 その日以降、涼太はグラウンドに姿を見せなくなった。後ほど顧問の先生から涼太が退部届を提出したと聞き、友也は愕然とし、思わず項垂れてしまった。

 学校でも涼太は友也を明らかに避けていた。十九歳以下の日本代表も辞退したとチームメイトの噂で聞いた。キャプテンである涼太がいないチームは友也が代わりにキャプテンを務めたが、どこかちぐはぐでまとまりに欠け、昨年県大会の決勝まで進んだチームである土浦第一はインターハイ県大会の予選で姿を消した。

 友也は三年生に進級し、引き続きチームのキャプテンを務めた。なんとかチームを立て直そうと奮起したが、友也の精神も未だぐらついたままで限界はとうに超えてしまっていた。それもそのはず、愛する妹の死と親友との決別、これらの事象が友也の心を深く蝕んでいるのは明白で、必死の思いで繫ぎ止めていた友也の心は崩壊寸前でいつ決壊してもおかしくなかった。

 そして三年生最後の大会も土浦第一は大きな戦績を上げることなく呆気なく負けてしまい、友也の高校最後の試合は幕を閉じることとなった。当然そこに涼太の姿はなかった。


 それから数日たったある日の夕方、友也はある場所へ向かった。明確な目的があったわけではない。ただなんとなくそこに行けば何かが変わるかもしれないと漠然とした思いがあった。

 友也が向かったその場所は彼が初めて涼太と出会った公園だった。公園に近づくと遠くの方でボールを蹴る音が聞こえてきた。それは遥か昔に聞いたような懐かしい響きだった。幾度となく聞いたこの音は友也が待ち焦がれたものだった。

 公園に辿り着いた友也は周囲を見渡す。そこで友也はボールに魔法をかけたように巧に操る涼太の横顔を見た。ボールと戯れているその顔は朗らかに微笑んでいるように見えた。

「よう、そこの若者」

 友也の問いかけに涼太は背筋をびくんとさせて振り向いた。

「友也……」

「ちょっと付き合ってくれよ。少しくらいいだろ?」

 友也と涼太は十メートルほどの距離で向かい合い、パス交換を始めた。

「なんか久々だな。こういうの」

「うん」

「試合結果聞いたか?」

「うん」

「あっけなく負けちまった。やっぱり俺はキャプテンなんて器じゃなかったわ」

「……」

「覚えてるか? 涼太。俺のサッカー人生はこの公園から始まったんだ。ここでお前に出会ってサッカーを教えてもらった。あの日お前に出会ってなかったら、俺どうなってたんだろうな。考えただけでぞっとするよ」

 涼太は何も発さない。俯きがちになりながらパスを続ける。

「なぁ涼太……どうしてサッカーやめちまったんだ? お前にとってサッカーはそんな簡単にやめれるようなもんだったのか?」

「俺はサッカーが……憎い」

「憎い?」

「俺がサッカーに夢中になっていたせいで夏菜子に最後の別れを言えなかった。言いたいことはたくさんあったのに、ありがとうもごめんねも。何も言えなかった」

「じゃあなんで今もその憎いサッカーをここでしてるんだ? 言ってること矛盾してるじゃねぇか。涼太さぁ無理にサッカー嫌いになろうとしてないか? それがせめてもの夏菜子への償いだとかそんなこと思っていないか?」

「……だったらなんなんだよ」

 友也はシュートを打つかの如く力強いボールを涼太の足元に蹴りこんで大きく息を吸い込んだ。

「ちゃんちゃらおかしいんだよ! このバカ野郎が!」

「なっ。誰がバカだ!」

 急な友也の怒号に涼太も慌てて反駁する。

「お前だ、バカ! 何度も言わすな! 悲劇の主人公みたいな面で可哀そうアピールしやがって! 今のお前は世界は自分中心に回っているとか思ってる自己中男にしか見えねぇよ!」

「なんだと。友也に俺の気持ちの何がわかる!」

「わかるわけねぇだろ、たこ! 人の気持ちなんて不器用極まりない男のこの俺にわかるもんか!」

「お前……一体さっきから何が言いたいんだよ!」

「俺だって悲しいんだよ! 唯一の妹が死んだんだぞ? 悲しくないわけねぇじゃねぇか! それをお前ばっかり悲しみやがって、彼氏がそんなに偉いのか!」

「俺だって夏菜子が大好きだった! 本気だった! お前は最後夏菜子とお別れが出来たんじゃないか! でも俺は出来なかった!」

「お別れ出来ようがなんだろうが悲しい気持ちは消えないんだよ! 気持ちの整理なんて数年足らずで出来るわけないだろ!」

「俺よりはマシだろ!」

「うるせぇ! てかそんな話したいんじゃねぇ!」

「じゃあお前は何が言いたいんだよ!」

「俺はお前のやってることが気に食わねぇ!」

「なんだと⁉︎」

「お前が本気で夏菜子を好きだった気持ちは本当だと思ってる。夏菜子のこと、お前に知らせなかったことは今でもその判断が正しかったのかわからねぇ。でもな、夏菜子が死ぬ間際まで涼太のことを想っていたのは事実だ! お前がサッカーが大好きで、プロになりたくてその気持ちを心から応援したいって、あいつはそう思ってた。それなのにお前はそのサッカーから逃げた。夏菜子の気持ちをないがしろにした! お前が一番夏菜子を裏切っているんじゃないのか⁉︎ あ⁉︎」

「それは……」

「お前の本当の気持ちはどうなんだ!」

「え……」

「夏菜子を失ってサッカーを憎んだのはそうなのかもしれないけど、今もずっとそうなのか? 自分に嘘をつき続けて、夏菜子の傍にいられなかった、悔しさ、無念さを、その行き場のない感情共を、大好きなはずのサッカーにぶつけてるだけじゃないのか? 自分の本当の気持ちと向き合えよ! 夏菜子を理由に逃げるな!」

「俺は……」

「言えよ! お前は一体どうしたいんだ!」

「俺は、俺は……サッカーが……したい」

「涼太……」

「俺はただせめて最期は夏菜子の傍にいたかったんだよ。でもサッカーは俺を夏菜子から引きはがした。だから憎い。でも……でもサッカーが好きなんだよ。嫌いになんかなれないんだよ」

「無理に嫌いになんかなる必要なんかないだろ。そんなこと夏菜子は望んじゃいないんだ。一人でなんでもかんでも抱え込みやがって。お前の相棒は俺だけなんじゃないのか。涼太!」

「友也……」

「俺はお前のおかげで絶望から抜け出せたし、サッカーとも出会えた。お前がいてくれたから成長できた。ここで逃げるなんて俺が許さない! 俺はお前がいないとダメなんだよ! 俺はお前のパスがないと輝けないんだよ! 俺を一人にすんじゃねぇよ! 俺のことを責任持って支えやがれ!」

 友也は涙目になりながら声高に叫んだ。

 その思わぬ叫びに涼太は面食らい、目を瞬かせた。だが内容を咀嚼すると、プッと思わず笑い声を上げた。

「何笑ってんだよ。こっちは真剣なのに」

「そこは普通。『俺がお前を支える』とかじゃないのかよ。なんだよ『俺のこと支えやがれ』って、。そんな主張、ドラマでも聞いたことないよ」

 快活に笑う涼太につられて友也も笑ってしまう。久しぶりに見る友の笑顔が心底嬉しかった。

 友也は涼太とベンチに並んで座った。空はもう常闇で雲が一切なく、星空がとても美しかった。

「友也にこんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、俺、好きな人がいてさ。実は最初の夏菜子からの告白には断りを入れてたんだ」

「夏菜子から聞いたよ。その好きな子の名前もどこにいるかも知らないんだってな。そんなんで普通好きになるか?」

「なんだよ、知ってるのかよ。まぁ普通に考えたらおかしいよね。俺もどうかと思うよ。でも、一目惚れってやつなのかな。昔小学校低学年くらいの時に、まだ父親が家にいて新潟で暮らしていた時にさ、初めてディズニーランドに行ったんだ。父親は仕事で忙しくて家族旅行なんて滅多にしたことがなかったら、子供ながらすごくウキウキして楽しかった思い出がある。そこで園内を歩いてる時に、目の前に何かのアニメキャラがプリントされたハンカチが落ちててさ、拾って前を見たら同じく家族三人で遊びに来ている人たちを見つけたから、すぐ駆けつけて『落としましたか?』って聞いてみたんだ。その時振り向いた女の子が俺と同い年くらいの子で『あ、これ私の! どうもありがとう!』って言って微笑んでくれた。その子の顔は今でも鮮明に思い出せる。その子のことが俺はずっと忘れられなかったんだ」

「……」

 友也はポカンと口を開けたまま硬直してしまった。

 開いた口が塞がらないとかこのことかと思った。

「もしかして引いた?」

「うん、若干。今時そんなピュアな恋あるんだな。今後その子と会える可能性ゼロに等しいじゃねぇか」

「だから言いたくなかったんだよ」

「まぁ涼太らしい気もするけど。で、どうして夏菜子と付き合う気になったんだ?」

「正直こんな謎過ぎる一途を貫く俺を好いてくれるのが申し訳なくて、告白を断ってたんだけど、それからも普通に夏菜子と友也の家で喋るようになって、最初は落ちこんでる夏菜子は少しでも励ますためって思ってたけど、いつか俺自身が夏菜子と喋るのが楽しみになっているのに気づいて、徐々に友也の家に行く理由が夏菜子に会うために変わっていったんだ」

「あ、なんか複雑な心境」

「妹に嫉妬すんなよ」

 涼太はケラケラと笑う。そして続けた。

「俺はどんどん夏菜子に惹かれていった、タイミング的に夏菜子がまた告白してくれて俺が承諾した形になったけど、本当は俺から告白するつもりだったんだ。たった一年間の交際期間だったかもしれないけど、夏菜子と過ごした日々は俺にとって本当にかけがえのないものだった。プロサッカー選手を目指すことも応援してくれて、俺にとびっきりの笑顔と勇気と愛されることの喜びを夏菜子はくれた。それなのに……。俺は夏菜子が一番悲しむことをした……! 一年以上、サッカーから逃げ続けた」

 涼太はポロポロと瞳から流れてくる涙を腕で必死に拭った。

「まだ遅くねぇよ、涼太」

「友也……?」

「まさかもうプロになること諦めたのか? 俺はまだ諦めていない。まだ諦めるには早い。涼太、俺は筑波大学を受験するつもりだ。まだ雄星君たちとの約束を果たせていないし、そこで俺は名を馳せる選手になってやるんだ。涼太、お前はどうする?」

「俺は……」

「さっきも言っただろう? 俺はお前がいないと輝けない。逆に俺がお前のパスをすべてゴールに繋げて、誰よりもお前を輝かせてやる。俺ともう一度サッカーをしよう」

 友也は涼太に手を差し伸べた。涼太はその手をじっと見つめ、力強く握り返した。

「ありがとう。俺、もう逃げない。一緒にプロを目指そう、友也」

「あぁ負けないぞ」

 涼太の瞳に迷いの色は浮かんでいなかった。心を決めたようだ。

 友也は腹の底から喜びと安堵感が溢れだしていた。

 辛く深い悲しみを経て、ようやく最愛の友と一緒に前に進める気がした。

「なんか、あの時と逆だね」涼太が言う。

「あの時?」

「四年前、俺がここで友也の手を取って、サッカーの世界にお前を引き入れた。その時と逆だなと思ってさ」

「そんなことあったっけ?」

「覚えてるくせに」

「へへ、忘れるわけないわな」

「俺たちはここから始まったんだ。だから、またここから再出発だ」

「うん」

「さぁ、そうと決まれば、やることは一つだな」

「何?」

「勉強!」

「‼」

「筑波大学一緒に行くんだろ? 受験失敗なんて許さないからな」

「しゃあない! いっちょやるか!」

 友也は決意新たに勢いよくベンチから立ち上がった。

 空には満点の星空と綺麗な三日月が浮かんでいた。まるで月が二人に微笑みかけているような、そんな気がした。


 元々勉強が出来ない二人ではなかったので、残り半年の高校生活を受験勉強に注ぎこみ、無事二人は現役で筑波大学に合格することが出来た。

 友也は涼太と共に合格したことをすぐに雄星と貴弘に連絡した。二人は盛大に喜んでくれた。

 そして入学前の三月に筑波大学の練習に参加させてくれた。筑波大学には全国各県から優れた選手が集まってきているためチーム内の競争もこれまでの学生生活とは比べ物にならないほどだと聞いていた。

 涼太は一年半近く戦線から離れていたためそのブランクを心配していたが、練習が開始した途端、友也のその危惧は取り越し苦労だとすぐにわかった。涼太のプレーは瞬く間にチームメイトを圧倒し、魅了し、上級生達含めてチーム内で誰よりも実力があることを証明した。友也も持ち前のスプリントをいかんなく発揮し、入学前にチームのエースが誰なのかを如実に示すことが出来た。

「二人ともさすがだな。以前にも増して上手くなってるじゃないか」

 雄星が顔を綻ばせて嬉しそうに言う。

「それにしても久しぶりだな。正直二人は高卒でプロ入りするんじゃないかと思ってたから、またこうして一緒にプレーできるなんて本当にうれしいよ」

 貴弘もとても嬉しそうだった。

 二人は来月三年生に進学する。どちらもチームでレギュラーに定着しており、来年度はまた三年生にも関わらずチームのキャプテン、副キャプテンを担うということだ。また高校一年生の時と同じく尊敬する二人が統べるチームで戦えることに友也の胸ははしゃいでいた。震えるほど嬉しかった。

 練習終わり、涼太はつい最近までサッカーから身を引いていた事実、その理由を雄星と貴弘に対し克明に説明した。友也はその様子を黙って見守った。

「そうか、そんなことが……」

 貴弘は沈痛な面持ちで話を聞いた。

「でももう吹っ切れました。色んな人に迷惑をかけてしまいましたが、今後は真摯にサッカーに向き合うつもりです」

「そんな簡単に割り切ることなんかできないだろうし、その必要はないさ。俺はお前らのようなな辛い思いを抱えたことは無いから、偉そうなこと言えないし、言うつもりもない。けどな、人は誰しもそんなに強くないんだ、だからこそ友と分かち合い、支え合うことが人には必要なんだと思う。人の弱さを知る人は他人に寄り添える人だ。だから涼太はこれから誰かが自分の同じような思いで傷付いた時、お前がその誰かを支えてあげるんだ。それが出来るのはお前しかいない、俺はそう思う」

「はい」

「結局偉そうなこと言ってるじゃんか」

 貴弘が頬を緩ませてツッコミを入れる。

「あ、すまん。つい……」

「いえ、とても有難い言葉です」

「友也も辛かったよな。よく乗り越えたな」

 貴弘が眉尻を下げて言った。

「あんまりくよくよしてたら夏菜子にどやされちゃうんでね。涼太としっかり前を向いて生きていきますよ」

「何かあったら俺たちに言え。何があっても俺たちは仲間だ」

 雄星の真っすぐな眼差しが友也の胸に刺さる。友也と涼太はその言葉をしっかり胸に刻み込み力強く頷いた。


 俺たちはめちゃくちゃ幸福な奴ではないと思う。でも世界一不幸でないことは確かだ。だって自分を支えてくれる、仲間だと思ってくる人がこんなにもいるのだから──。

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