第6話
平田 友也
一九九七年十月
一番鮮明に思い出せる古い記憶は、まるで深く底の見えない闇に捕らわれて身動きがとれず体が蝕まれていくような、そんな光景だ。執拗に迫るその闇はいくら振り切ろうとしてもしつこく纏わりついてくる。耳をつんざく怒号、理不尽な怒り、逃げられない暴力、それらが友也の日常のすべてだった。
「酒だ! とっとと酒持ってこい、このクソガキども!」
安普請なアパートに汚い怒鳴り声が反響する。また始まったと友也はひどく憂鬱な気持ちになった。重い足取りで年季の入った小ぶりな冷蔵庫の中で乱雑に並べられたワンカップを手に取り、友也は父、龍彦に渡そうとする。
「なんだその目は」
次の瞬間、友也は頬に強い痛みを感じ、気付くと彼の体は床に叩きつけられていた。体中に激しい痛みを感じる。龍彦は横たわる友也を上からギロリと睨みつけていた。
友也の視界の端では母、雅子の恐怖と憂苦と罪悪感が入り混じった表情が映りこむ。幼い兄弟たちも恐怖で震えながら、母の服の袖をつかんでいた。
どうしてこうなってしまったんだろう。
小学六年年までは裕福とはいかないまでも、家族仲睦まじく平凡に、生活にも特に支障なく暮らすことが出来ていた。
だが、その生活も脆弱な基盤の上で辛うじて成り立っていたことが、すぐに露見することになる。ありふれた日常が音を立てて崩れ始めたのは、昨年の秋、龍彦が会社からリストラ通告を受けてからだ。
龍彦は大手家電メーカーに勤めており、収入もそれなりに潤沢であった。雅子はパート勤めで、長男で小学六年生の友也、長女で小学四年生の夏菜子、次男で小学三年生の史也、三人の食べ盛りの子供たちと共に、さいたま市にある父の会社の社宅で生活を送っていた。
しかし、平成不況の煽りを受けて、龍彦は会社を強制的に去ることとなった。住処も古びたアパートに転居を余儀なくされた。
リストラ直後は龍彦も懸命に職安に通い、なんとか定職に就こうと試みたが、不況時の雇用情勢は簡単に復調の兆しを見せず、五十近い男の就職先はみんな無に近かった。
仕事が決まらない日々が一年を超えた頃、家庭では龍彦と雅子の言い合いが増えていった。さらにそのあたりから、龍彦が家から一歩も出ずに朝から酒を傾けて、日ごろの鬱憤を家族に当たり散らすようになった。
雅子が必死にパートで稼いだお金で酒を買い、世の中への文句を吐き散らかすと、母へ暴力を振るうようになった。昔の優しかった父のあまりの豹変ぶりに友也も夏菜子も史也も恐怖で恐れおののいた。満足にご飯も食べられない。生まれたつき心疾患を抱えている夏菜子の身体は誰よりも衰弱しているように見えた。
古びたアパートに響く怒声は確実に室外にまで響いているはずだが、誰もが龍彦からの報復を恐れているのか、平田家に関わろうとはしなかった。アパートの隣人である老夫婦が龍彦を見かけると怯えたように立ちすくんでいる様子を友也は見かけたことがあった。
誰も助けてくれない孤独と絶望。
こんな地獄いつまで続くんだ。俺たちが一体何をしたって言うんだ──。
雅子は現実逃避をするように目をつむり、両手を握って懸命に祈りを捧げていた。
雅子は献身なクリスチャンであった。そのため、この不遇な現実から逃れたい一心で神に救いの手を求めているように見えた。その姿に友也は憤りを覚える。
バカげている。神なんかいやしない。神がいるのなら、なぜ神は俺たちを助けない。なぜ見捨てる。結局信じられるのは自分しかいないんだ。俺が助けるんだ。俺が家族を守るんだ。俺が──。
その時だった。
「もうやめてよ!」友也の背後から幼い声が木霊した。振り向くと、涙を流しながら必死の形相で龍彦を睨みつける夏菜子がいた。
「父ちゃん、もうやめてよ、いい加減にして! なんで家族にこんなことできるの。ふざけないでよ。あんたなんか父ちゃんじゃない、あんたなんか……死んじまえば良いんだ‼」
「なん……だと?」
龍彦の虚ろな目が夏菜子を捉えた。彼の手にはかつて龍彦が愛用した埃まみれのゴルフクラブが握られている。フラつく足取りで夏菜子ににじり寄る。
「クソガキが舐めたこと言ってんじゃねえぞ!」
龍彦は激しい怒声とともに、ゴルフクラブを振りかざした。
俺が家族を守るんだ──‼︎
体が勝手に動いた。友也は軋む床の上で無造作に転がっていた日本酒の空ビンを手に取った。これは龍彦がいつだか飲み干したまま、放置していたものだ。
友也は空のビンを思い切り振りかぶると、龍彦の頭目掛けて勢いよく振り下ろした。
激しい衝撃音と共に、ビンが割れる音が重なる。瞬間赤い飛沫が宙を舞った。ゴルフクラブは龍彦の手から離れ床に落ち、大きな図体は膝から崩れ落ちて、大の字で突っ伏した。
空間は一瞬の静寂に包まれた。友也は粉々になったビンを持ちながらその場で立ちすくむ。沈黙を破ったのは、夏菜子だった。
「し、死んじゃったの?」
その言葉に友也は我に返った。
こ、殺してしまった……実の父を。
でも、家族を守るためだったんだ、しょうがなかった、正当防衛だ。
そうだ。そうに決まっている。
だとしても……殺す以外に止めることも出来たんじゃないか?
いや、そんな悠長なこと言っていたら夏菜子は殺られていた。
後悔と是認、不安と苦悶、様々な感情が友也を包み込む。
友也は頭を抱え込んで声にならない声をあげた。精神が肉体を啄み、その場に立っているのがやっとだった。昔一緒に遊んでくれて大好きだった父が脳裏を過り、罪悪感が体中を駆け巡る。
苦しい、苦しい、苦しい──。
その時、突然優しい温もりが友也を包み込んだ。
「大丈夫。大丈夫だよ、友也。あなたはなんにも悪くない。あなたは私たちを守ってくれたのよ。ありがとう」雅子は友也の震える体を優しく抱き留めた。徐々に友也を覆っていた闇が薄れていく。しかし、まだ晴れ切ることはない。
「母ちゃん、でも俺、人殺しになっちゃった。こんなこと許されるわけない」
「私が殺したことにすれば良いのよ。大丈夫。友也が気に止むことなんて何もないの。大丈夫」母の優しさが身体にじんわりと染み込んでくる。震えが徐々に引いていくのが分かった。
「母ちゃんあれ……」
史也の震える声がした。どこかを指さしている。友也は指さす方を見た。
友也は慄然とした。龍彦の身体は少しではあるが身悶えしており、微かに息も聞こえる。
死んでいなかった。最初に沸いた感情は殺していないという安堵であったが、それとほぼ同時に、恐怖が友也を襲う。
殺される──。
言葉にせずとも母も夏菜子も同じ気持ちだと思った。史也は怯えて体を強張らせている。
逃げないと、殺される──。
雅子はテーブルの上に無造作に置いてあった彼女の財布を手に取り、震える史也を抱きかかえた。友也は夏菜子の手を取って、四人は急いで夜の帳の中、アパートを飛び出した。
幹線道まで息を切らせながら走ると、雅子は手を大きく振り、タイミング良く現れてくれたタクシーを呼び止め、すぐさま乗り込み、四人を乗せたタクシーはすぐにその場を離れた。
「これからどこ行くの。母ちゃん……」
友也は今後の生活を案じて、曇った表情で母に尋ねた。
「一旦はおじいちゃん、おばあちゃんの所で身を寄せようと思うの。その後のことはまた後で考えましょう。大丈夫、きっとなんとかなるから」
友也は母が無理に作った笑顔を見て、いたたまれない気持ちになった。それと同時に母の偉大さが身に染みた。
「お兄ちゃん……」夏菜子が息を切らした声で言う。
「助けてくれて、ありがとうね」
友也は口元を緩ませた。
「当たり前だろ。お兄ちゃんなんだから。夏菜子は何にも心配すんな。家族は俺が絶対守る」友也は精一杯な笑顔を見せ、夏菜子の頭を撫でた。
ほどなくして夏菜子と史也はタクシーの中で深い眠りについた。彼女たちの寝顔を見ると、自分が家族を守る、という気持ちがより一層強くなった。
タクシーと電車を乗り継ぎ、雅子の実家がある土浦市に辿り着いた。時刻は深夜零時に差し掛かっていた。
祖父と祖母は急な来訪にも関わらず、とても心配してくれて、嫌な顔一つせず友也たち四人を匿ってくれた。久々の暖かい布団と静寂な夜に安堵感が友也たちを包み込む。翌朝、祖父母がふるまってくれた手料理は涙が出るほど美味しかった。
ようやく安息の地に辿り着くことは出来たが、まだ完全に安心しきるわけにはいかない。あの後、龍彦がどうなったのか、全く分からない不気味さと恐怖感がある。
また、実家というのは、逃げ込み先として、誰しもが最有力候補として真先に思いつく場所だろう。いつ現れるかもわからぬ龍彦の影に怯えながらの生活は友也たちの精神を蝕んでいくことは間違いなかった。
雅子は友也を連れて警察署へ行き、事の経緯をすべて説明した。
この日担当してくれた警察官によると、話が事実なのであれば、友也の行為はやむを得ないもので正当防衛にあたる可能性が非常に高いということだった。今後のことは埼玉県警と連絡を取り合い、詳しい状況を確認した上で、龍彦の家族への接見禁止令等を検討するとのことだった。
警察から新たに雅子へ連絡があったのはそれから二日後のことだった。龍彦が傷害罪で逮捕されたという。まさに急転直下の出来事だった。
来訪した警察官からは次のように伝えられた。
龍彦は意識を取り戻した後、家の中で暴れ狂い、その怒声は近所に住む者には一層の恐怖を与えた。
そして隣の部屋に住む北島という老夫婦宅のドアを何度も叩きつけ「俺のガキどもはどこだぁ‼」と怒鳴り声をあげていたという。完全に精神に異常をきたした者の行動だった。
そこで夫の北島和男は警察も予想外の行動に出た。自宅のドアを開け、龍彦と対峙した和男はこう言い放ったという。
「お前さんの家族がどこに行ったかは知らん。仮に知っていたとしても教えるわけがない。お前さんが散々子供や奥さんに暴行していたことはわかっている。こっちの部屋にもずっと聞こえていた。お前さんの怒鳴り声と暴行時の音声はしっかり録音させてもらった。先ほど警察にも連絡させてもらった。時機にこちらに来るだろう。もう諦めろ」
「てめぇ……殺してやる‼」
龍彦は憤激した様子で和男を睨みつけると、堅く拳を握り、和男の頬目掛けて殴りつけた。倒れ込む和男の腹にさらに数発蹴りを加える。妻の北島公子の悲鳴を聞いた地域住民が集まり、複数人で龍彦を抑え込み、後からやってきた警察官に現行犯逮捕されたということだった。
事の顛末を聞いた雅子の顔は青ざめ、血の気が引き、沈痛な面持ちになった。今後の詳細の手続きは後日警察署でさせてもらうこととし、夏菜子と史也を母の実家に預け、友也は雅子と共に、和男が入院するさいたま市内の病院に急いで向かった。
病院に辿り着き、和男が入院する病室では包帯を顔に巻いてベッドに横たわる和男と、その隣で看病する公子がいた。
「この度は本当に大変申し訳ございませんでした」
雅子は北島夫妻に深々と頭を下げた。
続いて友也も頭を下げる。考えてみれば北島夫妻は完全なとばっちりを受けたのだ。我々家族を恨んでいても全くおかしくない。友也は罵倒される覚悟だった。
和男はゆっくりと体を起こし、優しい笑みを浮かべた。
「いてて……。顔を、上げてください。平田さん、友也君。謝らなければいけないのはわしらの方だ。罰が当たったんだ」
「え……罰だなんて。北島さんご夫妻は何も関係のない被害者じゃないですか」
雅子が顔を上げて言う。
「いや、共犯のようなものだ。わしらは毎日あなたの旦那さんの怒鳴り声や激しい物音が聞こえていた。それなのにどこにも通報もせず。知らん顔をし続けていた。報復されるのが怖かったんだ。それでもせめていざという時のために毎日録音はし続けたんだがね。わしらがもしもっと早く警察や市役所に通報をしていたらあなた方はこんなにも酷い目にあわずに済んだかもしれない。本当に申し訳ない」
和男は重たい身体を持ち上げて深々と頭を下げた。公子もそれに続き立ち上がって頭を下げる。
「そんな……頭を上げてください」
「許してくださるのですか?」
「当たり前です。感謝しかありません」
「ありがとう」和男はそう言うと、友也を手招きした。友也は和男に近づくと、彼は友也の頭にポンと手を置いた。
「友也君、ずっとお母さんと妹弟たちを守ってきたんだろ? 強かったな。誰にでも出来ることじゃない。でも怖かったよな。もうこれで大丈夫だ。君はヒーローだ」
「俺がヒーロー……?」
「あぁそうだ。家族を守る立派で勇敢な頼れるヒーローだ」
友也の目から涙が溢れてくる。これまでの辛かった日々を思い返し、人目も憚らず声を上げて泣いた。
ようやく普通の暮らしが出来る、そう思った。
病院を出た二人は久々にさいたま市のアパートを訪れた。管理人から鍵を借り、玄関ドアを開けるとそこに広がる光景に友也は息を呑んだ。
住んでいた頃も龍彦のせいで荒れていた室内はその当時より遥に荒れ果てて見るも無残な状態であった。壁の所々に穴が空いており、龍彦が暴れ狂った光景が脳裏に浮かぶ。この場にいるだけで、気がおかしくなりそうだった。
必要最低限の荷物だけ持ち、友也と雅子は家を出た。もうこの地には戻ってこないだろう、友也は母の横顔を見て、そう悟った。
祖父母の家に戻り、みんなに事の経緯を説明した。誰もが安堵の表情を浮かべていた。後日、友也と雅子は土浦警察署に行き、龍彦の現在の状況等について説明を受けた。
龍彦は現在埼玉県警の留置所に収監されており、近日中に送検される予定だという。
初犯ではあるため、通常であれば執行猶予が付く事案であるが、和男が録音していた音声で彼が日常的に家族に暴言、暴力をふるっていたことが明らかになったため、再犯の危険性を鑑み実刑となる可能性が高いということだった。
友也の龍彦に対する行為もお咎めなしなしとなった。さらに龍彦には出所後に家族への接近禁止命令が出される運びとなり、これで出所後もある程度は龍彦の動向に警察が目を光らせてくれるはずだ。
今後、友也たち家族は祖父母の家を生活の拠点とさせてもらえることとなった。まずはこの忌まわしき平田という名前から脱却するために、市役所で離婚手続きを行い、友也は母方の姓である『南野』を名乗ることとなった。
龍彦の呪縛から解き放たれることにはなったが、これからの今後の生活について考えなければならない。
年金生活を送る祖父母に頼り切るわけにはいかず、雅子はハローワークで求人を見つけ介護の仕事についた。
編入手続きを経て土浦市の中学校に通い出した友也は家計を助けるため、朝夜の新聞配達のアルバイトを始めた。以前のような満ち足りた生活には戻れないけど、生きた心地がしなかったあの地獄のような日々からはようやく解放されたと、友也はそう思っていた。
しかし、現実はそんなに甘くなかった。
土浦市での生活が一か月を過ぎ、ようやく軌道に乗り始めたと思った頃、友也は学校の授業を終え新聞配達のアルバイトに向かおうと教室を出た時、他クラスの男子生徒数人に呼び止められた。
「南野、お前さぁ。犯罪者の息子らしいな」
「は?」友也はひどく動揺した。なぜこの男たちはそのことを知っているのか……。
「何言ってんだよ、そんなわけないだろ。なんの冗談なのさ」
動揺を表情に出さぬよう努めたが、自信がない。
「俺のお母さんに聞いたんだよ。お前の事だいぶ噂になっているぞ。お前だけでじゃなくてお前の兄弟もな」
「どういうことだよ」友也の眉に皺が寄る。
「俺の弟が土浦小学校の五年生なんだけどな、南野って妹いるだろ? お前の妹も学校で犯罪者の娘扱いされてたらしいぞ」
「なんだって?」友也は目を剝いた。
それを聞いた時、友也は居ても立ってもいられずアルバイト先ではなく、家に向かった。家では夏菜子が怒りに満ちた様子でソファに座っていた。夏菜子の隣で史也はひどく落ち込んでいる様子で座り込んでいた。
「ありえない、なんで私たちが犯罪者の子供ってレッテルを張られないといけないの。意味わからない! ほんとむかつく!」
友也は少し面食らった。夏菜子も史也同様、落ち込んでいるのかと思っていたが、むしろ怒りが爆発している様子だった。
「夏菜子……その……平気なのか?」友也は恐る恐る聞く。
「これが平気な訳ないでしょ! むかつき過ぎて相手の男子の頭引っぱたいたわよ。そしたら犯罪者の娘はやっぱり暴力女だーって言うのよ? もう腹が立ってしょうがないよ」
友也は夏菜子の奮然とした様子に妙な頼もしさを抱いた。兄の自分がこんなことでいちいち動揺していたらキリがない。もっと毅然として堂々と生きようと兄弟三人でそう誓った。
噂が広まってしまった原因は雅子であった。介護センターの同僚にぽろっと龍彦のことを話してしまったようで、その同僚には友也の同級生の男子生徒がおり、そこから見る見るうちに噂として広まってしまったようだった。
雅子は友也たちに必死に謝ってくれた。母に落ち度があったものの、こんなことでめげてはいけないと家族の結束がより強固なものになった気がした。
翌日以降、友也は学校で犯罪者の息子と陰口を叩かれることはあれど、意に返さず平然と生活することで、何のリアクションがないことが面白くなかったのか徐々に誹謗中傷される頻度は減っていった。
しかし、またもこの状況が一変することとなる。
数日後、友也が夜間の新聞配達をしていた時、偶然にも小道の先の暗がりで帰宅途中と思しき夏菜子を見かけた。夕日が傾き始めた頃だったので友人宅で遊んでいたのかと思い、声をかけようと近づいた時、近くには夏菜子の以外にも三人の友也よりも背丈の大きい男子生徒がいた。
「ちょっとやめてよ!」
夏菜子の悲痛な声を友也の耳が捉えた。男子生徒三人は無理やり夏菜子の腕や衣服を引っ張り、乱暴しようとしているのは明らかだった。
「うるせよ、少し黙れ、犯罪者の娘のくせに。ちょっとお前ら取り押さえろ!」
よく見ると男子生徒は友也と同じ中学の制服を着ていた。背丈を考えると自分より上の二学年か三学年かのように思える。だが、年上だろうと先輩だろうと関係なかった。友也は憤怒の情に覆われ、もはや自分自身の感情を制御出来る余地はなかった。
友也が我に返ると、自分の拳は血で真っ赤に染まっていた。男子生徒三人は地面に転がり苦悶の表情を浮かべている。事態に気付いた地域住民が警察に通報し、辺りは騒然となった。呆然と立ち尽くす友也は警察に取り押さえられ、パトカーの中に押し込まれた。
視界の端で泣いてこっちを見ている夏菜子が見える。
助けられてよかった。でも、自分はやっぱり犯罪者の血を引いているのかもしれない、ぼんやりとする意識の中、友也はそう思った。
警察署に連行された友也は、一連の行為について、夏菜子の証言のおかげもあり、暴行罪等の罪に問われることはなかった。
しかし、犯罪に問われなかったとはいえ、犯罪者の息子が暴力行為を行ったという行為自体は変わりない。この暴力沙汰が独り歩きし、噂が噂を呼び、学校内で友也は孤立した。周りの自分を見る目には恐怖と怯えの色が浮かんでいる。誰しもが友也を近づいてはいけない人、危険人物という認識を持っているようだった。
友也が殴りつけたのは同じ中学の三年生だったことがわかった。彼らは一カ月の停学処分を受けていたが、復帰後、怒りの矛先を友也に向け、さらに人数を増やし、暴力による報復が始まった。当初はそれでも友也は手を出さなかった。ムカつくという理由だけで手を出してはこいつらと同じ穴の貉になってしまう。
しかし、夏菜子は一連の行為がトラウマとなり精神を病んで、学校に通えなくなってしまった。それに連動してか持病である心臓病による発作も頻度を増しているかのようあった。雅子は自分のせいだと悔いていた。神に許しを請うような姿に友也は怒りを覚える。
「やめろよ母ちゃん。みっともない真似するなよ! 神なんかいないんだよ! 俺は一生神には祈らないからな‼」
家族の絆が跡形もなく壊れ落ちていく音が聞こえてくるようだった。ようやく当たり前の日常を送れるはずだったのに。
その後、頭の足りない獣たちに何度も執拗に付き纏われることに嫌気がさし、友也は一部考えを改めた。
わかったよ。そっちがその気なら、もう二度と俺たち家族に手を出そうと思わないように、一切の復讐心も芽生えないように、心も体も何もかも、俺がこの手でへし折ってやる。
友也は向かってくる上級生たちを一人残らず、叩きのめした。途中から許しを請うても手を緩めめず徹底的に恐怖心を植え付けた。
徐々に友也を狙う者たちはなりを顰めるようになった。しかし、今まで以上に誰も友也に近づかなくなり、彼の孤独は一層を増した。
学校では圧倒的な孤独と、非難、軽蔑の視線を浴び、家では献身的に家族を支えて、必死にアルバイトを続ける。
友也の精神と肉体は明らかに酷使され過ぎていた。アルバイト中に部活動に打ち込む生徒や友達同士公園や家で遊ぶ子供を見るたびに、どうしても思ってしまう。
なぜ俺だけこんなつらい思いをしないといけないんだ──。
どうして──。なんで──。
無念さに涙がこみ上がる。奥歯を噛み締め、新聞配達の自転車のペダルを必死に漕ぐ。しかし、友也の心と体は限界だった。友也は自転車を近くの公園に止め、ベンチに腰を下ろした。何も考えたくなかった。どこか知らない世界に逃げ出したかった。
その時、自分の足に何かがぶつかる感触がした。見ると足元にサッカーボールが転がっていた。
「あ、ごめん」
声のする方に顔を上げる。そこには小柄で華奢な体躯の同い年くらいの少年が立っていた。丸顔で見ようによっては中性的な顔立ちだ。可愛い系男子とでも言うのだろうか。
友也は少しハッとした。
はっきりと見えたわけではないが、少年はうっすらと涙を流しているように見えた。
一瞬二人の間に若干の静寂の間が訪れた。
たまらず少年は声を出す。
「あの……」
「あ」
友也は自分の足元にボールが留まっていることに気づいた。
彼はすぐにサッカーボールをつま先で蹴った。するとボールは転々と少年の元に転がる。
「ありがと」
少年は、少しだけ頬を緩ませると踵を返して、引き続き一人でサッカーボールを蹴り始めた。友也は目の前の少年の姿に見入ってしまっていた。
少年は先ほどの涙が嘘に思えるほど楽しそうにサッカーボールと戯れていた。まるでボールが友達だと言わんばかりの絵になる光景だった。
すると少年は友也の視線に気づき、友也の方に振り向いた。そして少年は足元のボールを優しく蹴り上げた。ボールは弧を描き友也の手元にぴったりと収まった。咄嗟にボールをキャッチした友也は驚きのあまり少年を見遣った。
「あのさ、練習相手がいないんだ。良ければ一緒にサッカーやらない?」
少年は優しい笑顔で友也に尋ねた。
突然のことに友也は若干言葉に詰まってしまった。
「え、でも……俺、サッカーなんてやってことないけど……」
「大丈夫。僕が教えるからさ。こっちおいでよ」
少年は友也を手招きした。
「あ、おう」
友也は導かれるように少年の元に足を運んだ。
少年の名前は折原涼太と言った。
母親の仕事の関係で先週この近くに転居してきたのだという。年齢は友也と同じ年で、校区は違い友也の通う中学校の隣の中学校に通っているようだ。
これまで住んでいた新潟県ではずっとサッカーをしており、ここ土浦ではまだ新チームに所属する予定はなかったようだったが、今日で気が変わったらしい。近々涼太の通う中学校のサッカー部に所属するつもりとのことだった。
友也と同じく母子家庭ということもあり、近しい境遇だからなのか、涼太と話しているととても自然体でいられて、現在自分が置かれている苦しい環境を忘れられるほど話が弾み、時間が経つのがあっという間に思えるほど楽しかった。
途中自分の笑顔がぎこちないことに気付いたが、すぐに自然な笑顔になっていった。心から笑えたのはいつぶりだろう。
少し涼太と一緒にボールを蹴りあっただけではあったが、誰かと一緒にスポーツをするという事自体、何年も前のことのように思える。
友也はサッカーのド素人であるが、テレビで何度か日本代表の試合は観たことがある。少し一緒にボールに触れただけで涼太がただのサッカー経験者の域にいる人材ではないことは明らかだった。友也の目には涼太の挙動一つ一つがまるでプロのサッカー選手と対峙しているように感じるほど巧みなボール捌きに見えた。
「涼太君ってめちゃめちゃサッカー上手いね」
「ありがとう。一応前にいた新潟県では県の代表には選ばれたことあるんだよ。ちょっとした自慢〜」
変に謙遜しないところが逆に好感を持てる。
県の代表とは……。友也は感嘆した。
「友也君こそサッカー上手いよ。とても初めてとは思えない」
「そうか? へへ」友也は照れ笑いを浮かべた。
「明日も僕ここで練習しているからさ、また来てよ。一緒にボール蹴ろう!」
友也は涼太の誘いに嬉しさのあまり顔を綻ばせたが、すぐに我に返った。
「でも……俺、新聞配達のアルバイトしてるからさ……今は勢いでさぼっちゃったから、ここにいるけど。ほんとは涼太君と一緒にサッカーしたいんだけどね……」
「そのアルバイト、いつ終わるの?」
「だいたい夕方頃には……」
「じゃあ待ってるよ。というか僕んちお母さん帰ってくるの遅いから、七時くらいまではここでサッカーしているし。多分部活始まっても、部活終わりにここでまだボール蹴ってると思うしさ。バイト終わったら来れない? あ、でも疲れちゃうか……」
「ほんとに? 行くよ! 絶対行く!」友也は食い気味に言った。
「やった! 約束だよ。待っているからね」
涼太が差し出した手に友也はきょとんとしてしまう。
「なに呆けてるの 握手だよ握手! 友達の証! 友也君は土浦に来て初めての友達だから」
「友達……」
友也は差し出された手をゆっくりと握りしめる。涼太の手のぬくもりが友也の冷え切った心を温めていった。
涼太とはその場で別れた。大幅に新聞配達が遅れてしまったことに関しては店長にこっぴどく怒られてしまったが、心は踊っていた。
家に帰ると「お兄ちゃんの笑顔久々に見た、何か良いことあったの?」と史也が聞いてきた。友也は史也の頭を撫でまわし「内緒だッ」とからかってみせた。
それから友也は学校とアルバイトを終えた後、公園で涼太とサッカーをしたり、その場で談笑することが日々の日課となった。とてもハードな生活スケジュールではあったが、涼太との交流は確実に友也の心を癒し、唯一の心休まる時間となっていた。
数日その生活を続けた後、公園のベンチで涼太は友也にこう告げた。
「友也、僕と一緒にサッカーやらない?」
「え、別にいつもこうやっているじゃんか」
「違うって。一緒にサッカーチームに入ろうってこと」
涼太は口を尖らせて言った。
「僕が所属してるうちの中学のサッカーチームに友也も一緒に入ろうよ。友也の中学校はサッカー部はなかったはずだから、隣の中学ではあるけどさ。これからも同じチームで一緒にやろうよ」
涼太の誘いに友也の胸ははしゃいだ。心の底から嬉しさが込み上げてきた。今すぐにでもやると返事をしたかった。でも……。
「誘ってくれてありがとう。でもうち貧乏で俺、毎日朝夜新聞配達してるし、部活やる時間もお金もないと思うから……」
俯き述べる友也を横目に涼太は顔をしかめた。
「僕ずっと思ってたんだけどさ、人の家庭の事情に部外者が口出しするもおかしいってのは重々承知の上なんだけど、それでもやっぱりおかしいよ。どうして友也が、まだ中学生でやりたいこともたくさんあるはずなのに、全部我慢して、家計のために身を粉にして働き詰めないといけないのさ。友也の自由はどうなるの。僕全然納得できない」
日が暮れてきて、空から注がれる光が微弱なってきていたが、うっすらと見える涼太は眉根を寄せて、目は潤って微かに濡れていた。
「友也はいろんなものを抱え込み過ぎなんだよ。僕たちまだ中学一年生なんだよ? まだまだ子供なんだよ? もっとわがままで良いんだよ。もっと自己中で良いんだよ」
「涼太には……わからないよ」
「なにが?」
「涼太には貧乏な奴の気持なんかわからないよ。涼太も母子家庭かもしれないけど、部活も何不自由なく出来てるんだろ。うちは俺含めて三人の子供がいる。それを母ちゃんの稼ぎだけで食っていくことは大変なんだ。自由なんかないんだ。俺が家族を守らないといけないんだ」
自分が心底情けなくなる。こんなの涼太の優しさを受け止められず、ただ自分の鬱憤を涼太に八つ当たりしているだけだ。せっかく出来た友達なのに……。
「そんなのわからないよ!」
涼太の思いがけない大声に友也はたじろいだ。
「友也がこれまでの人生でどれだけ辛い思いをしてきたか、どんな思いをしてきたかなんてわからない。僕も母子家庭だけど、僕一人を育てる分なら多分そこまで不自由していない。友也の気持ちは僕はわかるなんて綺麗事を言うつもり何てこれっぽっちもない。でも、わからないならせめて分かち合いたい。友也の辛さを僕も受け止めたい。辛かったら洗いざらい気持ちを打ち明けて良いんだよ。友也が良ければ話を聞かせてほしいんだ。僕たちもう友達だろ? 悩みは分かち合ってこそ、友達……違う?」
友也は虚を突かれたように固まった。今までこんな想いのこもった熱い気持ちを受け取ったことはなかった。涙が出そうなほど嬉しかった。でも……。
「怖いんだ」
「え……」
「せっかく出来た心許せる友達を失うのが怖いんだ。俺の話を聞いたらきっと涼太だって俺から離れて行くに決まってる。大切なつながりが出来たからこそ、失うのが怖いんだ。もうこれ以上傷付きたくないんだよ」友也は俯き悲痛に顔を歪めた。
すると友也は急に身体に温かみを感じた。視線を上げると、涼太が自分の身体を抱きしめ包み込んでくれていた。
「僕は何があっても友也を裏切らないよ。絶対に。大丈夫」
友也はこみ上げてくる涙を必死に腕で拭った。
友也はこれまでの経緯をすべて涼太に伝えた。涼太はただじっと頷きながら友也の声に耳を傾けていた。
一通り話を終えると、友也は涼太の顔を見ることができなかった。きっとドン引きしていることだろう。犯罪者の子供だと平気で人を殴る奴だと怖気を振るっているのかもしれない。
そう友也が思っていると、涼太が力強く友也の両肩を掴んだ。
「友也は何にも悪くない!」涼太の力強い眼差しが友也の目に刺さる。
「すべて友也の父親が悪いんじゃないか。それを犯罪者の息子だって? バカげてる。友也達だって被害者だ! それに妹を助けるために手を出したんだろ。その後だって、友也から手を出したことなんかないじゃないか。友也の何を恐れることがある。こんなにも家族思いで心優しい奴いないよ。友也は妹を守ったんだよ。友也は家族のヒーローだ。もっと誇っていいんだよ。それでも友也を傷つける奴がいるのなら──」
涼太がすっと友也に手を差し伸べる。
「僕が友也を必ず守る」
友也は奥歯を噛み締め、涼太の目を見据えた。
青臭いセリフでも涼太の言葉は友也の心に深く突き刺さった。
「どうして……」
「え?」
「どうしてこんな俺にそこまで優しくしてくれるんだ? 俺──」
「友達だから」
「え……」
「大切な友達だから。それ以上に理由って必要かな?」
友也は胸の奥底から熱いものが湧き上がるのを感じた。
みんな敵だと思ってた。誰もが自分を恐れて認めてくれないと思ってた。犯罪者の息子としてその十字架を背負わないといけないんだと思ってた。
でも、もし許されるのであれば──、俺は──。
「俺……涼太と一緒にサッカーがやりたい。普通の中学生らしく部活して友達と遊んで、勉強して、そんな風に生きたい。ありふれた日常を送りたい」
友也の目から大粒の涙が嗚咽とともにこぼれ落ちる。自分の心に根づく本心が初めて解放された瞬間だった。
「よし! そうと決まれば行こう!」涼太が勢いよく立ち上がった。
「行くってどこへ?」
「決まっているでしょ? 友也のお家。友也のお母さんに一緒にお願いしに行こう。僕もついていって良いよね?」
急な誘いに友也は呆気にとられながらも、こくんと頷き、二人は友也が住む家に向かった。家には祖父母含め家族全員がいた。友也が友人を家に連れてきたことはこれが初めてのことだったので、当初家族は驚きの表情を見せながらも涼太を歓迎してくれた。思いがけない息子の友人の来訪に気を良くした母はご飯を一緒に食べていくよう勧めた。涼太は少し遠慮気味だったが、断ることも非礼だと感じたのか、みんなで食卓を囲むことにした。
特に驚いたのは、あの一件以降、笑顔を見せていなかった夏菜子が涼太と話すにつれ、笑顔が垣間見れるようになったことだった。
涼太は家族から沢山質問攻めにあいながらも、嫌な顔一つせず礼儀正しい口調で、かつ茶目っ気たっぷりに冗談を交えながらたくさんの話をしてくれた。食卓にたくさんの笑顔と笑い声が溢れた。灰色だった世界がカラフルな色を帯びるように涼太は南野家を様々な色彩で彩ってくれた。
そんな中、涼太は意を決したような表情を見せ、雅子と向き合った。
「実は今日友也君のお母さんにお願いがあって来ました」
「あら、改まって、どうしたの?」雅子は口元に笑みを湛えたまま訊いた。
「どうか友也君が部活動をすることを許してほしいんです。もちろん友也君のアルバイトが南野家の家計を支えているのは重々承知です。でも僕は友也とサッカーがしたいんです。どうしても友也と一緒じゃないと嫌なんです。お願いします」
友也は深々と頭を下げた。友也もそれに続いて頭を下げる。
「母ちゃん、俺からもお願い。俺、涼太とサッカーがしたい。ようやく打ち込みたいと思えるものに出会えたんだ。もちろん朝の新聞配達はこれからも続ける。だから夜の分だけでもやめちゃ駄目かな。お願いします」
二人の青年の真っすぐな熱い思いに、和やかだった空気は瞬間的に張り詰めた。口火を切ったのは雅子だった。
「二人とも顔を上げて。涼太君も友也も」
二人が恐る恐る視線を上げると、雅子の微笑みが見えた。
「友也ごめんね。あなたには本当に無理をさせてしまっていたよね。中学生らしい生活を一切送らせてあげれず、父親の暴力で疲弊し、その後も学校とアルバイトという苦しい生活を強いさせて、家計を支えるために家族を守るためにずっと身を粉にしてくれた。そして友也のかけがえのない時間を、自由を、奪ってしまってた。本当にごめんね」
「母ちゃん……」
「友也、あなたはもう我慢しなくて良い。あなたは自分のために生きて良い。部活の件、もちろん思う存分やりなさい。家のことは気にしなくていいから」
「ありがとう、母ちゃん。でも実際家計は苦しいんだろ? 大丈夫なのか?」
「それなんだけど……実はずっとパートで働いていた介護の仕事なんだけどね、頑張りを認めてもらって来週から正職員にさせてもらえることになったの。裕福な暮らしとまではいかないけど、今までよりは生活に余裕は出るはずよ」
「ほんとう……に? じゃあ……」
「お金のことは気にしないで。あなたはアルバイトをやめてサッカーに打ち込みな!」
「友也やったね!」涼太の声が聞こえた。
友也は背を丸めて、ふるふると身体を震えた。
「友也……?」
「……とう」
「へ?」
「ありがとう、母ちゃん。ありがとう、涼太」
顔を上げた友也の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。
「ちょっと、お兄ちゃん! 汚いよ!」夏菜子が顔をしかめる。
「うるせぇ! 泣いてねぇ! これは汗だ! 顔中から汗が噴き出してんだ!」
「そんなネバついた汗見たことないけど……」史也がぼそっと呟く。
この日、南野家から笑い声が途絶えることはなかった。先の見えない暗闇から、ようやく一筋の光が差し込んだような気がした。
涼太が家に訪れたこの日を境に友也の生活環境はガラッと変わった。
雅子からは朝の新聞配達も辞めたらどうかと言われたが、友也はかぶりを振った。雅子が正職員になったとはいえ、まだまだ生活にゆとりがあるわけではない。友也にとってはサッカー部で活動できるだけで有難く、朝はこれまでどおり家計のために尽力したいと思っていたため、平日の朝は引き続き新聞配達のアルバイトを続けた。
驚いたのは、朝に新聞を自転車に積んでいると「友也!」と声をかけられたため、振り返ったら、そこに涼太の姿があったことだ。
「なにしてんだよ、涼太?」
「朝活!」
「は?」
「友也が自転車で配達している後を僕が走って付いていくことにしたのだ」
「なんで⁉︎」
「僕は朝のトレーニングになるし、友也的にも話し相手いた方が楽しいでしょ?」
あっけらかんとした様子の涼太に友也は口をぽかんと開けて佇んだ。中学校が違うから涼太とは基本的に部活でしか会わない。朝も涼太と話が出来るのは心底嬉しかった。でも素直に喜びを伝えることが気恥ずかしく、「仕事の邪魔はすんなよ~」と何とも思っていないふりをした。
その後、友也はバイト代で練習着やスパイク、サッカーボールを購入し、涼太と共に涼太の所属する土浦第二中学校サッカー部の練習グラウンドに向かった。
秋ごろの中途半端な時期の加入であったため新入部員は友也だけであった。涼太は一カ月前にすでに入部している。部員数は五十名ほどおり、結構な大所帯だと友也は思った。しかもほとんどが小学校時代サッカーをしてきた経験者ばかりだという。気後れしないように語調強く自己紹介をした。
涼太は既にチームメイトと打ち解けている雰囲気が醸されていた。涼太は積極的に自分をチームメイトの輪に連れ立ってくれたが、妙に距離を感じた。なんとなく自分の学校で感じているような疎外感、警戒、恐れを抱かれているように感じる。
チームメイトを良く見渡すと、見覚えのある顔を発見した。すぐに自分と同じ学校のクラスメイトだとわかった。これで合点がいった。もうすでに自分の暴力行為がこのチームにも浸透してしまっているのだ。ここでなら過去の自分と決別し。ようやく新たな一歩を踏み出せると思ったのに。自分の背負っている十字架の重さを改めて感じ、友也は苦虫を噛んだような表情を浮かべる。
気付くと涼太の姿が見えない。よく見ると奥の方で顧問の先生と何やら深刻そうに話し込んでいた。すると間もなく、練習途中であったが、部員全員が集められ緊急ミーティングが開かれることとなった。
顧問に促され、涼太が部員の目の前に立った。
「みんなさんに最初に伝えなきゃいけないことがありました。それは今日うちの部に加入した南野友也君の件についてです。僕が彼をこの部に招き入れましたが、もうすでに彼のことを知っている人がいるみたいですね。僕は断言します。彼はみんなさんが恐れるような人ではありません。みんなさんにはおかしな噂を盲目的に信じ、猜疑心で彼を見ないでほしい。彼から彼自身の口から彼の歩んできた人生を聞いて、それで判断してほしい。南野友也という自分がどういう人なのかを」
涼太は友也を見る。
「友也、勝手に話進めてごめん。でも僕はどうしても友也の誤解を解きたい。みんなの前に来てくれる?」
友也をゆっくりと立ち上がり、周りの目線を一気に感じながら涼太の横に並んだ。
そしてこれまでの経緯をすべて詳細に話した。さいたま市で父のDVに苦しんだこと。妹を助けるため父を殴り、ここ土浦まで逃げてきたこと。犯罪者の息子となじられ、妹を襲う上級生たちを殴りつけたこと。恨みを買った上級生たちに執拗に付き纏われ、やり返してしまったこと。
「俺は立派な男ではないかもしれません。犯罪者の息子なのは事実ですし、意趣返しに相手を殴ったのも本当です。でも涼太と出会ってそんな自分を変えたいって本気でそう思いました。俺と接するのは怖いかもしれない、嫌かもしれない。でももう二度と暴力で解決することはしないと誓います。なのでどうか俺をこのチームに入れてください。お願いします」友也はみんなの前で深々と頭を下げた。
部員たちの息を呑む様子が伺える。一時の静寂が空間を包み込んだ。するとパラパラと手を叩く音が聞こえてきた。徐々にその音は大きさを増していき大きな拍手となった。
「南野くん、ごめんね」一人の部員が徐に近づき話しかけてきた。クラスメイトの尾形光平だった。明らかに涙目になっていた。
「南野くんがそんな辛い思いをしていたのに、俺たちはそんなことも知らずに偏った噂だけを鵜呑みにして、怖がってみんなで君から距離を取ってた。ほんとごめん」
友也はかぶりを振る。言葉にならない感情が込み上げてくる。
すると尾形の後に続いて他の部員たちも駆け寄ってくる。みんな、彼と同じ気持ちのようだった。友也は熱い思いが込み上げてくる。思いが溢れ言葉になる。
「俺、ここにいて良いのかな」
「良いに決まっているよ」振り向くと監督の志水がいた。
「君の半生は事前に涼太から聞いていた。本当に辛い日々を送ってきたんだな。頑張ったな。ここが君の居場所だ。思う存分楽しみなさい」
「はい」そう言って友也はふと思う。
俺、最近泣いてばかりだな──。
初日の練習で友也はすぐに自分の武器に気づいた。それはチームメイトも目を見張るものだった。
それは圧倒的な足の速さとフィジカルの強さだった。昔から脚力には自信があったが、運動神経抜群の部員たちが軒を連ねる中、友也の足の速さはチーム随一だった。
さらに体の強さも一年生ながら三年生に引けをとらに強さを見せる。まだまだ成長期の段階でこの力強さは流石の志水監督も舌を巻いた。日々の新聞配達のアルバイトが友也の身体能力を底上げしたのは想像に固くない。
まだまだ素人の動きでボール捌きは経験者からしたら見るに耐えないレベルだが、それを補って余りある、身体能力に部員たちは喝采をあげた。その日の輪の中心には常に友也がいた。
ふと涼太を見るとまるで自分ごとのように「僕は知っていたけどね」と言わんばかりに誇らしげな顔をしていた。
涼太は一年生にして、既に三年生と一緒に練習をしており、レギュラーを張っていた。友也はまだ三軍。素人だから当然と言えば当然だが、早く涼太と肩を並べたいと思い、練習終了後も涼太に付き添ってもらい練習に没頭した。
周りの部員たちより遅いスタートを切ったのだから、他の人の三倍は練習をこなして行かないと到底涼太には追い付けない。友也は毎日練習に明け暮れる日々を過ごした。学校生活とアルバイトと部活動で以前の生活よりはるかに過酷さは増しているが、心は充実していた。
学校生活にも大きな変化があった。
友也のサッカーチームには尾形を始めとして土浦第一中学校の生徒も数人おり、彼らが休み時間等に積極的に友也に話しかけ出したことで、友也を見る周りの目が明らかに変わってきた。
後に尾形に聞いたことだが、彼が友也に話しかけるのを見たクラスメイトから「おい、あんな危ない奴と喋らない方が良いって」とけん制されたらしい。
その時、尾形は眉根を寄せて、周りが抱いている友也の噂を一蹴し、友也に変わって事実を力説してくれたようだった。そのおかげで友也は学校でも友人がどんどん増えていった。
休日は練習終わりに、涼太、友也それぞれの家を行き来し、家でも良く遊ぶようになった。涼太の母はやさしい笑顔が特徴的な小柄で可愛らしい女性だった。どことなく涼太に似ている気がした。これで某有名企業の役員なのだから驚きだ。彼女が作ってくれるお菓子はお店の味にも劣らないほど絶品だった。雅子には絶対に作れないだろうなぁと陰ながら思ってしまった。
涼太も定期的に友也の住む家に遊びに来た。普段寡黙な史也も涼太を慕っているように思えるほど、涼太との会話を楽しんでいるように感じる。何より驚いたのは夏菜子だ。夏菜子は涼太が初めて家に来て以降、体調はどんどん回復していき、登校も再開していた。いつもの口が達者で生意気な妹に戻りつつあった。そんな夏菜子は涼太と話す時、妙に顔が赤らんで女性らしい恥じらいの表情を見せるようになっていた。
「か、夏菜子、顔が赤いぞ。大丈夫か? まさかまた心臓の調子が悪いんじゃ──」
言葉の途中で夏菜子の鉄拳が友也の鳩尾にさく裂した。
「うっさい! ばか兄ちゃん‼︎」
「⁉︎」
「兄ちゃんちょっと!」
史也が友也を急いで手招きした。訳が分からぬまま、友也は史也の口元に耳を運ぶ。
「もうどんだけ鈍感なんだよ! お姉ちゃん涼太君のことが好きなんだよ。だから余計なことは言わない。わかった?」
青天の霹靂だった。まさかあの夏菜子が……。でも相手が涼太なら心から応援できる。友也は夏菜子の方を見た。
「夏菜子! お兄ちゃんはお前の恋を応援するぞ! がんばれよ!」
夏菜子の顔が一気に紅潮した。よく見ると眉間に皺が寄り、自分を睨み据えているのがわかった。隣にいる史也は頭を抱えてうなだれていた。
「だからぁ……余計なこと言うな‼」
夏菜子と史也の声が重なり、二人の拳が友也の頭に直撃した。
俺なんかまずいこと言ったっけ……?
「仲が良い兄弟だなぁ。羨ましい~」涼太は他人事のようにけらけらと笑っていた。
友也と涼太は二学年に進級した。所属するサッカーチームでは友也はめきめきと頭角を現し、多くの小学校からのサッカー経験者を押さえ、一軍入りを果たし、試合でもベンチ入りを果たし、勝負所で使われるスーパーサブ的なポジションを獲得した。友也のポジションは全線で点を取るフォワードというポジションだった。
友也の力が飛躍的に伸びたのは、ある日の居残り練習で涼太から言われた言葉が発端だった。
「友也って自分の武器ちゃんとわかってる?」涼太が尋ねた。
「足の速さとフィジカルの強さ? あと持ち前の明るさ?」
友也の戯けた答えに涼太は、くすりと笑いながらも、かぶりを振る。
「おばか。正解と言いたいけど、少し違う」
友也は顎に手を添えながら首を傾げた。
「いい? 確かに友也の足の速さと体の強さはチーム随一だ。でも友也くらい足が速くて体が強い選手は全国にはごまんといる」
涼太の言葉に友也は落胆してしまう。自分の唯一の武器と思っていたものは井の中の蛙で全国的に見れば平凡な力なのだと痛感する。
「でも、友也の本当の武器はそこじゃない。友也の本当の武器それは一瞬の爆発力だ」
「ば、爆発力?」なんだ……それ?
「サッカーで言う速さってのはいわゆる百メートル走の速さじゃない。五メートル走の速さなんだ。サッカーはそれの連続だとも言える」
友也はうんうんと頷くが、まだ完全に理解はしきれていない。
「友也は一瞬の爆発力が生む、瞬間的なスピードが異常なんだ。百メートル走の速さで友也に匹敵する選手はたくさんいると思うけど、五メートル走の速さで友也の右に出る者は全国を見渡しても早々いない。全国で戦ってきた僕が言うんだから間違いない」
ようやく理解が追い付いてくる。自分の知らない部分を涼太が炙り出してくれる。
「そしてその爆発力は何も走りだけじゃない。シュートにも同じことが言える」
「シュート……」友也が苦手としてるプレーだった。
「凄い勢いのあるシュートというはこのボールに足の力が加わる一瞬の爆発力がものを言う。もちろん技術的な面も大きいから爆発力だけで上手くいくほど簡単ではないけど、これを身に着けられれば、友也はこのチームのエースになれる。技術って言うのはいくらでも補えるけど、友也のそれは努力では補えない圧倒的な才能だ。僕のパスで友也を必ずエースにする。練習はしんどいと思うけど、ついてきてよね、相棒!」
「お、おう! もちろんだ!」友也は涼太の元へ駆け出した。
正直サッカーを始めてから、涼太の上手さを如実に感じ、徐々に距離を感じることが多々あった。涼太と同じ域に達することなんて自分には無理なんじゃないかと諦めの気持ちもなかったわけではない。
だが、同じ域に達することがすべてではない。サッカーにはそれぞれポジションがあってそれぞれに役割がある。その自分に適した役割を全うしてチームが必要しているピースの一部となれればそれで良いんだ。自分の武器を徹底的に磨き上げる。迷いは吹っ切れた。
友也は毎日、涼太のパスを受け続け、ゴールへひたすらシュートを打ち続けた。その成果はすぐに現れることとなった。
ある日の紅白戦で友也は涼太から受けたパスを、絶妙なタイミングの飛び出しと一瞬の加速で一気にディフェンダー陣を置き去りにし、ペナルティエリアの外から豪快なシュートをゴールへ叩き込んだ。
部員たちは驚愕していた。サッカーを始めて一年も経っていない男のプレーとは到底思えなかったからだろう。練習の度に毎回このプレーを引き出すにはまだまだ練習を要したが、日に日にプレーの精度は上がっていき、友也のプレーがまぐれではないことを部員たちに証明していった。
中学三年生になり、友也はチームのエースとして君臨するほどに成長を遂げた。成長期が重なり友也の身長は一八〇センチまで伸びたことでこれまで以上に圧倒的なパワーとスピードを武器にゴールを量産していった。折原涼太と南野友也の名はサッカーに携わる土浦市界隈では知る人ぞ知る有名選手となった。
全ての歯車が噛み合わさり、何もかも順調に進んでいるかのうように思えた。
しかし、突如その歯車から歪な音が発せられる。そんなことを思わせるような出来事が起きた。
翌日、県大会の決勝を控えていたある日の帰り道、人通りの少ない小道で、まるで待ち構えられていたように友也と涼太は突然十人ほどの男たちに囲まれた。男たちの目は獲物を見つけたかのようにぎらついており、風貌はならず者の様相を呈している。所謂ヤンキーと呼ばれる人種だろうと友也は思った。
よく見るとなんとなくどこかで見た覚えのある顔ぶれがちらほら見られる。記憶を遡っている間に男たちの一人が口を開いた。
「俺たちのこと忘れたわけではないよな? あ、南野よぉ」
声を聞くと何故だか苛立ちが募る。友也は再度男たちを見渡す。そして瞬時に合点がいった。どおりで苛立つわけだと思った。こいつらは夏菜子を当時路上で襲おうとした奴らだった。そしてその後、友也に報復しようとして返り討ちにあった奴もいた。
今更何しに来やがったんだ……。いつまで俺に付き纏う気だ……。
友也の顔が憤怒に歪む。
涼太が友也の異変に気付いたのか、友也を制するように手を友也の前に出した。その目は僕に任せてと言っているかのようだった。
「友也に何か御用ですか?」
「用があるから来てんだろうが! あぁ? てかお前誰だよ」
「僕は友也の友達です。彼は何も恨まれるようなことしていないと思いますが」
涼太は威圧されても凛とした態度を崩さない。
「っるっせんだよ!」男の一人が前に飛び出し涼太の頬を拳で殴りつけた。涼太は勢いよく地面に倒れこんでしまう。
「部外者は引っ込んでろ! バカが!」
「涼太!」友也は怒りで頭を沸騰させた。
「てめぇら、ふざけんじゃねぇよ。涼太は関係ねぇ。そっちがその気なら──」
友也は拳に力を込めた。感情を抑えるブレーキが壊れる音が聞こえた。
「友也! ダメだ!」涼太の声にふと友也は我に返った。
「暴力はダメだ。もうその道に進んじゃいけない。戻れなくなる」
涼太の切実に訴えかける目が友也の心を揺さぶる。
「でも……」
涼太の口から血が滴れ落ちていた。唇を噛んで必死に怒りを抑えこもうとする。
「僕なら大丈夫だから」なんとか笑顔を作る涼太を見て悔悟の情が込み上げる。無関係の涼太を巻き込んでしまった申し訳なさが心に沈殿していく。
「バカが‼︎ 勝手に手出してんじゃねぇ! 今日は喧嘩しにきたわけじゃねぇんだぞ‼︎」
「す、すいません……」
一人の大きい男が仲間を制している。こちらを一瞥すると前に歩を進めてきた。
「お前が南野ってやつか」低めで貫禄がある友也も知らない男だった。
「うちのバカが早とちりをしてすまなかった。今日は確認したいことがあったんだ」
「確認したいこと?」友也は彼の言う言葉が要領を得ず、つい聞き返してしまう。
「お前はこいつらをなんの理由も無しに、見境なく暴力を振るい、怪我を負わせた。それで間違いはないよな?」
「な……」友也と涼太は目を剥いた。
こいつは一体何を言っているんだと友也は思う。
ふと取り巻きの男たちを見ると、笑いを堪えようとしているのが見えた。
そうか、と思う。
こいつらは自分たちじゃ友也に勝てないから組織? のボスであろうこの人にねじ曲がった事実を伝え、他勢によって復讐しようとしているに違いない。
だが、あの頃からもうかれこれ二年が経つ。こいつらももう高校生になっているはずだ。しつこいなんてもんじゃない。寄生虫並の執着を見せる目の前の男たちに友也は渋面を作った。
「冗談じゃない。バカなこと言わないで下さい!」涼太が憤激した様子で叫ぶ。
「この人たちは友也の妹に乱暴をしようとした。彼は妹を守るために手を出したんだ! その後もしつこく付き纏う貴方達の売られた喧嘩を友也は買っただけだ!」
涼太は胸を上下に動かし呼吸を荒くして言った。
「こいつらが嘘をついているとでも?」
「当たり前です‼︎」
「本当なのか?」男は周囲の男達に訊いた。
「こいつらこの場を逃れようと苦し紛れに嘘をついているだけですよ。俺たちがそんな日卑怯なマネをするわけないじゃないですか」
手下のような男が媚びへつらったように言う。
友也ははらわたが煮え繰り返る思いだった。涼太がいなかったら我を失いまた昔の自分に戻るのは想像に難くなかった。友也の心のダムは決壊寸前だった。
すると突然涼太が頭を下げ、口を開いた。
「どんな理由があろうと友也が手を挙げたのは事実です。それは友達の僕からも謝ります。でももう友也は暴力はしないんです。サッカーという人生をかけて挑める目標も見つけて、これから大事な試合も控えているんです。だからもう友也に構わないでください。お願いします」涼太の謝意に友也は胸に熱いものが込み上がる。
「お、お願いします」そして友也も続けて頭を下げた。
「け、バカが。お前は昔、俺たちにした暴力をした報いでボコボコにされるんだよ。サッカーなんて玉けりをさせてやるかよ。もうすぐ試合なんだってなぁ。ならもう二度とボール蹴れないくらい痛めつけてやる」取り巻きの男がニヤついた口調で言う。
「そういうことだ。俺も組織のリーダーだから落とし前はつけさせてもらわないといけない。悪く思うなよ。まずは南野の友達、お前だ」
男は前に出てきた。近づくとより大きな体躯が目を引く。友也ならともかく涼太はひとたまりもない。
なぜ先に涼太なんだ──。涼太を守らなきゃ。
友也が男の前に立ちはだかろうとした時、涼太は軽く首を振った。
大丈夫──。
涼太がそう呟いた気がした。口元ではうっすら笑みを浮かべている。
「じゃあ行くぞ」
男はそう言うと涼太目掛けて拳を振り上げた。拳は涼太の腹に収まり、その瞬間涼太は地面に倒れ込んでしまう。
しかし、友也の目に映ったのは信じられない光景だった。友也の視角からは男の拳は涼太の腹に当たる寸前で止まっていたのだ。にも関わらず涼太は倒れ込み、男の取り巻きは歓声をあげる。
男は次に友也のところに寄ってきた。
「覚悟しろ」と声を発した後、友也の耳元でこう囁いた。
「やられたふりをしろ」
男は拳を振りかざし、涼太同様、友也の腹目掛けて拳を振り下ろした。そしてやはり涼太同様、拳は友也の腹の寸前で止まる。友也はつい固まってしまう。男は友也の耳元で「早く倒れたふりをしろ」と言ってきた。
友也は慌てて地面につんのめった。演技は苦手な方だがどうだろうか……。
「これで思い知ったか。もう二度と俺たちに楯突くな。わかったな」
二人は何も答えない。
「よし、俺たちも続くぞ。ボコボコにしてやる」
「みっともない真似するな!」男は取り巻きは一喝する。
「こいつらへの制裁はこれで十分だ。もう二度とこいつらに手を出すな。それは俺が許さん。もしまたこいつらに手を出そうもんなら……俺がお前らを殺すぞ」
男の鋭い剣幕に取り巻き達も押し黙るほかなかった。二人を残して、男たちは集団でゾロゾロとその場を後にした。男達が見えなくなったのを確認し、友也は顔を上げる。
「一体なんだったんだ」
友也は頭を掻きながら首を傾げて涼太に言う。
「さぁね。でも明らかに僕らを逃してくれたよね」
「涼太、顔の傷は大丈夫か」
「大丈夫だよ。ちょっと口の中切っただけだから」
「ごめん、俺が殴られるべきだったのに」
「ばか、そんなことな──っいてッ」ふいに涼太が悲痛な声をもらした。涼太は殴られた頬ではなく右足を押さえている。よく見ると右足首が赤く腫れあがっていた。
「涼太! その足──」
「たぶん殴られて倒れた時に足を捻ったんだ。今の今まで気づかないなんてどんだけ鈍いんだろうな」涼太は自身を嘲て笑ってみせた。
「ごめん、涼太。俺のせいで」
「くどいよ、友也。あのさ、前に僕が言った事覚えてる?」
「え」
「僕が友也を守るってそう言ったでしょ? この怪我は名誉の勲章みたいなもんだよ。だからこの件で謝るのはもうなし。わかった?」
「う、うん」友也はしゅんと俯く。
「って大層なこと言っても、あのリーダーっぽい男の人が僕たちを逃がしてくれなかったら、今頃ボコボコにやられてただろうから、説得力の欠片もないんだけどね。まぁこの程度の怪我で済んだのは運が良かったと思おう。なぁにただの捻挫だ。きっとすぐに治るよ」
「うん、ありがとう」
例え運良くこの程度に済んだのだとしても、涼太が自分を守ろうとしてくれたことには変わりがない。友也にとってそれが何よりも嬉しかった。涼太の大切さがこれまで以上に骨身にしみた。
「でも、明日の試合は無理だ」
「あ……」そうだった。
明日は全国大会出場をかけた大事な決勝戦を控えている。それなのに……。
「友也、君ならもう僕がいなくてもチームを勝たせられる。僕を全国へ連れて行って」
「涼太……」
「頼むよ、相棒」涼太は友也の目を見据えた。
涼太の迷いのない眼差しに、友也の心は決まった。
明日の試合は必ず勝つ。
「みんなこんな大事な時期に怪我して、ごめん。でも僕がいなくてもみんなの力があれば必ず勝てる。頼むよ」
翌日、涼太は松葉杖をついた状態で試合会場に現れた。全治一か月程度の診断のため、この試合に勝てれば全国大会には間に合う。チームキャンプテンである涼太の怪我はチームメイトに少なからず不安を与えたが、友也の鼓舞にみんな、目の色が変わった。涼太を全国大会に連れて行くという想いを胸に全員がピッチに向かった。
決勝の対戦相手は三年連続県大会優勝を遂げている都和中学校で、友也たち土浦第二中学校サッカー部がここ数年、一度も勝てたことがないチームだった。
試合開始のホイッスルが鳴り響く。序盤から相手優位で試合が進み、中々試合のリズムを掴めないもののなんとか失点をゼロに抑え、前半は終了した。カウンター主体の戦法で友也がなんとか二本シュートを放ったが、相手チームも友也を警戒し常にニ人のデフェンダーを友也につけ徹底的にマークしたため、友也自身満足のいくプレーが出来なかった。
ハーフタイムのベンチではみんな、息を整えることで必死だった。相手にペースを握られ後手後手に回っていたため、体力の消費が著しかった。普段は涼太が中盤でしっかりボールをキープしてくれるから、無駄に走らされることもなく比較的優位に試合を進められるがこの試合は全く逆だった。ここに来て涼太の凄さがより顕著に感じられた。でも涼太がいないから負けたなんて言われたくはない。その時、涼太が口を開いた。
「相手はみんな、技術が高くてボール支配率で勝負することは難しい。カウンター狙いの戦略は間違っていない」
みんなが涼太の言葉に集中する。
「光平、相手のプレッシャーはきついか?」
「もちろんきついけど、前を全く向けないほどではないよ」
尾形光平はボランチという中盤の底で相手の攻撃の芽を摘みつつ、攻撃のタクトを振るう重要なポジションだ。
「相手からボールを奪ったら無理にボールを繋げなくて良い、友也の飛び出しに意識を集中してくれ」
「わかった」
「それから友也」
「お、おう」
「友也の力はまだそんなもんじゃないでしょ? 確かに二人にマークつかれて思うように動けないのはそうだと思うけどさ。友也の本気のスピードには誰も追いつけない」
涼太は友也の肩に手を置く。「みんなを驚かせてきて、友也」
「任せろ!」
涼太の檄を受け、友也は自分の頬を両手で叩き鼓舞する。そして勢いよくピッチに出た。
後半が始まっても相変わらず相手のペースだった。しかし、尾形が相手からボールを奪い、友也に効果的なパスが少しずつ出始め、狙いの形が作れるようになってきた。
そんな時、相手チームのコーナーキックから頭で合わせられ、ついに均衡が崩れる。
一点ビハインドを追ってしまうが、それでも友也の集中力はどんどん研ぎ澄まされていった。時間は刻一刻と過ぎていき、残り時間五分を切る。相手チームにも疲れが見え始め、ミスが目立ち始めた。その瞬間を光平は見逃さなかった。ロストボールを手中に収め素早く前線に目をやる。友也は尾形と目が合った。それと同時に友也は足に力は加えた。
ここだ──。
友也の前線への飛び出しと同時に尾形の鋭いパスが前線に放たれた。球足の速いボールに誰もが足を止める。
このボールには誰も追いつけない。
しかし、友也は唇の片側を吊り上げる。
「ナイスパス! 光平!」
友也の圧倒的なスピードでどんどんボールとの距離が近づいていく。ゴールキーパーもたまらず前に出て先にボールを触って阻止とようとしてきた。しかし、キーパーの予測をも大きく上回る友也のスピードにより友也が先にボールに追いついく。友也はすぐさまキーパーをかわし、無人のゴールにボールを蹴りこんだ。
大きな歓声が上がる。ついに一対一。試合終了間際、同点に追いついた。そしてそのまま試合終了にホイッスルが鳴った。試合の結果はPK戦に委ねられることになった。ベンチに戻り部員全員で円陣を組み、士気を高める。勢いはこちらにある。絶対に勝つ。
最初のキッカーは友也だった。友也は確固たる決意のもとペナルティエリアに向かっていった。
試合終了のホイッスルが鳴り響いた。相手チームは歓声に沸いている。友也たちはそれを呆然と見つめていた。
負けた──。
友也が放ったシュートはゴールポストに弾かれてしまった。その後、両チームPKを外さず、結局友也のミスが尾を引き、土浦第二中学校サッカー部は準優勝。初の全国大会への出場権を逃してしまった。
友也はベンチに腰を下ろし、動けなくなってしまった。目から大粒の涙がこぼれ落ちてくる。悔しくて申し訳なくてたまらなかった。
「みんなごめん。俺のせいで……」
「何言ってんの、友也」尾形が友也の両頬をつねって見せる。
友也が顔を上げるとチームメイトたちはみんな一応に笑顔を見せ、晴れ晴れとした、やり切ったような表情だった。
「友也が点を取ってくれなかったらそもそもそこで負けていたんだ。もっと言うと涼太と友也がいなかったら、俺たちみたいな中堅クラスのチームで決勝に何て絶対来れていなかったんだ。俺たちはみんな感謝しかしていない。悔しい気持ちももちろんあるけど、この結果を誇りに思おうや」尾形が笑顔で言う。
友也はまたも涙で頬を濡らした。ただこれは悔しい涙じゃない。嬉しさの涙だった。
「友也」涼太が友也の隣に座って肩を組んだ。
「この借りは高校で返そうな」
「うん」
「なぁ友也」
「なに?」
「サッカー、楽しいでしょ?」
「……しい」
「ん?」
「死ぬほど、楽しい」
「良かった。俺たちのサッカーはこれで終わりじゃない。まだ始まったばかりだよ」
「うん」
友也は生まれて初めて自分は幸せ者かもしれない、そう思えた。
帰り支度をしていると、フェンス越しに見覚えのある大きな男が視界に入った。
「友也、あの人……」涼太も気付いたようだった。
「あぁ昨日のヤンキーの親玉だ」
昨日二人を逃してくれた体の大きい男が一人で試合会場に来ていた。目が合うと男は軽く会釈をし、こちらに近づいてきた。そして開口一番にこう告げた。
「昨日は本当にすまなかった」
男は昨日とは打って変わり、神妙な面持ちで陳謝した。
その姿に二人は面食らってしまう。
「えっと……昨日のあれは一体何だったんですか?」涼太が尋ねた。
「俺は南野のことをとんでもなく残忍かつ非情なゴロつきで、俺の仲間を傷つけた許してはおけない奴だと、そう思っていた。というか思い込まされていた」
「どういうことだ?」友也は眉を顰めた。
「謝罪と昨日の経緯の説明も兼ねて二人と話がしたくてここに来た。ここに来たら会えると思ったからさ。どこかの喫茶店にでも行かないか? もちろん俺の奢りだ」
「僕は良いですよ」涼太が言う。
「ちょっとッ」友也は涼太の肩を組み、男に背を向け口元を覆って小声で話す。
「おいおい、簡単について行って良いのかよ。罠かもしれねぇぞ。待ち伏せとかされてるかも」そう言う友也に対し、涼太はかぶりを振る。
「大丈夫だよ。この人そんなに悪い人じゃないと思う」
「思うって……」
「僕、人を見る目には自信あるから。そもそも昨日僕たちを逃してくれた張本人でしょ? きっと大丈夫だよ」
「涼太がそう言うなら……」
友也と涼太は男が行きつけだという喫茶店に各々の自転車で十分ほどかけて辿り着いた。
最近オープンばかりだというこの店はジャズの心地良いBGMが流れており、店内はヨーロッパの街並みを思わせる小洒落た雰囲気を醸し出していた。
男は大きな厳つ目の見かけにも関わらず、カフェモカというコーヒーの上に生クリームとチョコレートソースがかかった、女子高生が頼みそうな可愛らしい飲み物を頼んでいた。人は見かけによらないとはこのことだろうか。涼太と友也は烏龍茶を頼んだ。
男の名前は永森雄星。市内の高校に通う高校二年生だという。『SOIL BACKERS』というヤンキー集団の総長を務めているようだ。中学の時から所属しているらしい。
『SOIL』は英語で土? 『BACK』は裏? 浦?
土浦だから『SOIL BACKERS』?
ちょっとダサい気がするがそれは一旦置いておこう。
雄星はことの経緯を説明してくれた。
『SOIL BACKERS』は約百人ほどの構成員がおり、ある日一人の構成員がとあるお願いをしてきたのだという。それが南野友也を痛い目にあわせてほしいというものだった。
構成員は「一年以上前に、南野って野郎になんの理由もなく怪我を負わされ、仲間達も何人もが南野にやられました。こちらは何もしていないのにも関わらず。酷い野郎だと思いませんか? 自分たちでなんとかやり返したいけど南野はすこぶる強いんです。だから総長に懲らしめてほしいんです」というものだった。
仲間思いの雄星は仲間の仇だとして友也を張り、帰宅途中を狙おうと考えた。友也の中学校の場所は構成員から聞いてわかっていたため、居場所を突き止めることは難しくなかったようだ。構成員は集団でリンチしましょうよと提案してきたが、正々堂々がモットーの雄星はその案を一蹴し、「探すのは大勢でいいが、集団で襲うのは許さない。俺がサシで相手をする」と構成員をいなしたということだった。
話を聞いて、友也は奥歯を噛み締めた。そんな嘘で塗り固められたくだらない理由でいつまでも突き狙われたんじゃたまらない。
「それで、どうして僕らを庇ってくれたんですか?」涼太が雄星の目を見据えながら訊く。
「俺は人を見る目はあるんだ。南野の目を見て、まず疑問に思った。こんなヤンキー風情なことやっているとな、性根の腐ったクズみたいな野郎とよく絡むんだ。そういう野郎は決まってくすんで濁った目をしている。だがこいつの目はそうじゃなかった。真っ直ぐな嘘偽りのない澄んだ瞳だった。だからそこで俺は仲間達と自分自身を疑った。もしかしたら俺は気付かないうちに自分の仲間に嘘をつくような奴がいるはずはないと盲目的に信じちまっているせいで、仲間のことをわかりきれてないんじゃないかって」
一拍間を置いて雄星は続ける。
「改めて俺は周りにいる仲間達を見てみたよ。するとどうだ、どいつもこいつも濁りきった目をしていやがった。あの時は本当に自分にとことん嫌気が指したよ。ヤンキーたるもの、道を外すことはあれど、自分のすることに確固たる信念を持って、絶対嘘だけはつくなと、そう言い続けたつもりだったんだけどな。何一つ響いてなかったらしい」
「それで涼太の言うことを信じてくれたのか?」友也が訊く。
「最後に確信を抱いたのは、お前らがサッカーをしている。明日大事な試合がある。そう言っていただろう?」
「言いましたけど、それが何か?」
「サッカーをする奴に悪い奴はいない。それが俺の持論だ」
雄星は快活に笑ってみせた。
「なんですか、それ」涼太もつられて笑ってしまう。
「お前らの言っていることが正しいと確信した俺はすぐにその場から引き上げようとしたが、すぐに考え直した。ヤンキーってのはめんどくさい生き物で面子ってもんがあってな。あのまま俺が何もせず引き上げようとしたら、仲間たちはみんな不服に思っただろう。例え総長の俺にでもその場で食い下がるか、それか後日またお前らのことを狙おうとすると思った。だからこそ俺がお前らを倒し、この件はこれで全て終わりだと、そうした方がお前らが今後狙われずに済むと思った。お前らの迫真の演技、中々良かったぞ」
友也は目を瞬いた。確かに彼の言う通りだと思った。
二年近く前のことにも未だに未練たらしく付き纏うような奴らだ、例え総長の言うことだとしても、また別の方法で自分達に危害を加えようとしてくることは容易に想像できた。見かけによらない見事な機転に友也は脱帽した。
「でも、お前に怪我を負わせちまったのは完全に想定外だった。本当に申し訳ない。大事な試合があったと言うのに」
雄星は涼太に目を向けると沈痛な面持ちで頭を下げた。
「それはもう良いんですよ。むしろこれで済んだのは永森さん、あなたのおかげなんですから。ところで永森さん、サッカーが好きな奴に悪いやつはいないって言ってましたけど、どうしてそう思うんですか?」
「俺も小さい頃から今に至るまでずっとサッカーをやっている。これまで俺がサッカーを通じて出会ってきた奴に悪い奴は一人もいなかった」
「あんたもサッカーをやっているのか⁉︎」
友也は当惑し驚きの表情を浮かべる。
なんとなくサッカーとヤンキーが結びつかなかったからだ。
「あぁ、バリバリやってる。昨日は気付かなかったが、お前、折原涼太だろ。二つ下の代で言えば土浦、いや、茨城県内でもお前は有名人だからな。代は違えど同じ土浦ならお前のことを知っている奴は多いと思うぞ」
「知ってくださっているなんて、光栄だなぁ。ありがとうございます」
涼太は少し照れるように笑った。
「そもそも俺が試合会場にいたことだって不思議だろ? 昨日折原が大事な試合があるって言ってたから、それをヒントに明日中学大会の県大会決勝があるって知って、場所を調べて向かったんだ」
友也は確かにと思う。サッカーに精通している者でなければ、涼太の言った情報だけで、すぐに試合会場の場所まで調べることは難しいかもしれない。
「永森さん、あんたはどこでサッカーをしているんだ?」友也が聞いた。
「土浦第一高校だが?」
「土浦第一⁉︎」涼太が目を剥いて驚いた。
「お、おい、涼太。なんでそんなに驚いてんだ?」
「ばか。土浦第一って土浦で、いや、茨城県内でも有数の超進学校だぞ。めちゃめちゃ勉強しないと受からない。そして……僕の志望校でもある」
「え⁉︎」友也は驚愕し固まってしまう。驚くポイントが多すぎた。
まずヤンキーなのにそんな進学校に通っているこの永森という男への驚き。そしてそんな学校を涼太も志望校にしている点だ。
涼太はサッカー推薦で多くのサッカー強豪校から声がかかっているはずだった。友也も二つのサッカー強豪校から声がかけられていた。なんとなく進学はその二つのどちらかで出来れば涼太も同じところに来てほしいな漠然とそんな願望を抱いていた。
「涼太、お前、推薦は蹴るのか?」
「あぁ僕は受験する。サッカーで食べて行きたいって気持ちはあるけど、絶対にそうなれるかはわからない。将来のために勉強もしっかりやっておきたいんだ。もちろんサッカーを蔑ろにするつもりは毛頭ないけどね」
「そう……か。永森さんはどうして土浦第一に? というかそれならどうしてヤンキーに?」
「なんだ? 頭良い奴がヤンキーやっちゃダメなのか?」
「いや、そういうわけでは……」
だが、普通ではないと友也は思う。
「俺の夢は教師になることなんだ」
「教師⁉︎」これまた驚きだった。
「俺には憧れの先生がいてな。小学校の頃の担任なんだが、その先生が昔、暴走族の総長をやっててな。俺もこんな先生になりたいと思って、それならまず先生が過去にやっていた族の総長をやるべきだと思ってね。だから俺も総長になった。どうだ? 素晴らしい志だろ?」
友也と涼太は言葉を失って、二人して雄星をじっと見つめてしまった。そしてお互い顔を見合わすと、堪えきれず笑い声を上げた。
「な、何がそんなに可笑しいんだ⁉︎」
雄星は口を尖らせた。
「いや、ヤンキー先生に憧れたからってそれを理由にヤンキーになるやつなんていないでしょ。永森さん頭良すぎて一周回ってバカになちゃったの?」
友也は笑いながら言った。
「なんだとー⁉︎」
「まぁまぁ。友也も目上の人にそんなこと言わない」
涼太は笑いを抑えながらも二人を制した。
「ところで二人には、謝罪以外にも話があったんだ」
雄星が気を取り直して言った。
「なんです?」
「二人と一緒にサッカーがしたい。だからお前らも土浦第一に来てくれないかと、そうお願いをしに来たんだ」
「え」友也は言葉に詰まる。
「とてもありがたい話ですが、どうしてです?」涼太が訊いた。
「折原はうちの高校を志望校にしてみたいだから、結果オーライだったがな。お前の優れたサッカーセンスはすでに知っている。ただ南野のプレーは今日初めて見た。正直驚いた。技術はまだまだ磨き用があるが、高身長でかつ抜群の身体能力、爆発的なスピード、フォワードとしてとんでもない才能の持ち主だと感じた。
「うちの高校は進学校だが、最近ではスポーツにも力を入れている。まだまだ全国常連の高校の奴らには、一歩及んでいないが、お前らがいれば初の全国大会も夢じゃないと思った。俺は二年でキャプテンだ。ポジションはセンターバック。来年お前らがうちに入ってくれば、俺が守って折原のパスで繋ぎ、そして南野がゴールを決める。今日の試合を見て俺はそんな理想を抱いた。自分勝手な理想だとは思ってる。でも俺はどうしてもうちの高校を初の全国大会に導きたい。二人の力が必要なんだ。力を貸してほしい」
雄星は両手を膝に乗せ、深々と頭を垂れた。
友也は率直に嬉しかった。自分を必要としてくれることに心から喜びを感じる。
ただ、一つ大きな不安があった。
「とっても嬉しい……です。ただ俺、勉強が全くの苦手というわけではないけど、偏差値は六十前後だったはずで、受験勉強の期間だって半年くらいしない。合格出来るか不安で──」
友也はアルバイト朝の新聞配達のアルバイトをしながらも疲労を言い訳にせず、学校の授業はしっかり取り組んでいた。そのおかげで定期テスト等でもそこそこ良い点数を取っており、学年順位は前から数えた方が早いほどだった。しかし、県内有数の新学校となれば合格出来るかどうか自信はなかった。
「そこは心配いらん」
雄星は唇の端を吊り上げて笑った。
「俺は高校内でもテストでは上位の成績だ。それに教師志望でもある。俺が教える」
「永森さんが⁉︎」
「不満か?」
「不満どころか、申し訳ないっていうか」
「俺から誘ってるんだ、申し訳なく思うな。俺がお前の家庭教師になってやる」
「友也よかったじゃんか! 僕もまた友也と同じチームになれるならそんなに嬉しいことはない! また一緒にサッカーやろうよ!」
「う、うん。……よし、決めたよ。俺も土浦第一を受ける。永森さん、よろしくお願いします‼︎」
「へへ、任せろ」雄星は友也の肩を強く叩いた。
「ところで、涼太は合格できそうなのか?」
「僕? まぁテストで学年一位しか取ったことないからなぁ。だから多分大丈夫」
涼太は無邪気に笑った。
友也は目が点になった。そして、いつか必ずこいつの弱点見つけてやると密かに心に誓った。
「永森さん、俺の家庭教師をやってくれるのはとても嬉しいんだけど、それこそ永森さんも学校も部活も、その……ヤンキー集団での活動もあるんでしょ? 時間が中々取れないんじゃ?」
「そこも心配するな。部活が終わったら、すぐにお前の家に行くさ。同じ土浦だし、そうそう時間もかからん。あとヤンキーとしての活動はもうやめる。一応昔ヤンキーだったという箔はもうついたしな。それに俺はもうあいつらを信用できない。ただ、もし万が一あいつらが南野を狙うことがあれば俺が絶対に手を出させない。あいつらは俺の強さを知っている。だから手を出してこないはずだ」
次の日から、友也の勉強漬けの毎日が始まった。
部活を引退し、雅子に頼んで高校に入学するまではアルバイトは中止することにした。朝と夕方、雄星から教えてもらった勉強法を忠実に守った。夕方は毎日雄星が友也の家に来て家庭教師をしに来てくれた。たまに涼太も来て二人で雄星の教えを受けた。
涼太が家に来るたびに、夏菜子の表情が乙女のそれになっていることが、若干友也の集中力を削ぐ要因になっていたが、そこは誰にも打ち明けず胸に秘めることにした。
強面の雄星に当初友也の家族はビビリまくっていたが、日を重ねるごとに打ち解けていき、史也も雄星から勉強を教えてもらうようになった。
史也は将来、弁護士か医者になりたいのだという。
小さい頃からずっと友也や夏菜子に守ってもらったり、助けてもらったりしてばかりだったから、将来は弱者を守ってあげられるような弁護士や病気で弱っている人を助けられるような医者になりたい、というのがそれらの職業を志す理由だった。史也の姿勢に触発され、友也はさらに勉強に力を入れた。
血の滲むような努力を続け、友也は学力をどんどん上げて行った。当初担任の先生はたった半年で偏差値を十近く上げることは難しいと志望校の変更を促してきたが、友也は信念を貫き、先生たちが驚くような成長を遂げた。
ついに迎えた試験当日は緊張しつつもかなりリラックスしながら挑むことができた。試験終了後は達成感に満ち溢れていた。
そして合格発表当日、友也は涼太と雄星と共に、土浦第一高校の玄関前に張り出されている掲示板の目の前にたどり着いた。お互いの受験番号が顕示版に張り出されているのを確認すると三人は抱き合いながら喜びを分かち合った。なんとも形容し難い高揚感が友也を包み込んだ。
また涼太と、そして雄星くんとサッカーが出来る──。
この喜びは何よりも代え難いものだと友也は感じ、涼太と雄星に心から感謝した。
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